坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生(21)~高野苺『orange』: 須和弘人はハイエナ

『orange』はウイキペディアで内容を読んで気になって映画を観たが腑に落ちず、マンガを読んだ。ウイキペディアは説明は充分かもしれないが頭の中に入ってこない。
映画について言えば、ヒロイン役の土屋太鳳は演技力はあるのかもしれないが「かける!」と呼ぶ度に声が裏返るのは初々しくも大変聞きづらく、感動のシーンでかかる音楽が同じでそれがひとつの映画に10回くらいあるのは非常にうざかった。要するに大した映画とはいえない。

原作の高野苺は、映画を観ないと決めたとTwitterで述べ、それが元で様々な憶測が飛び交った。
それは映画を観た後で知ったことだが、私が映画に求めていたものと関連していると思う。
それは映画を観ただけではわからなかった。しかし原作を読んで、映画に私が求めていたテーマがあるとわかった。

ヒロインの高宮菜穂が恋する成瀬翔は自殺する。私の苦手な話である。
しかし菜穂やその仲間が未来から過去に手紙を送り、翔を救う。そういうタイムスリップものである。
タイムスリップものだが、タイムスリップするのは手紙だけである。ここに『orange』の大きな特徴がある。
近年流行のパラレルワールド理論のおかげで、キャラクターの心理をより深く掘り下げることができるようになった。
キャラの掘り下げは『ドラゴンボール超』の「未来トランクス編」などでも行われているが、重要なのは、過去を改変してもそこで世界が分岐する平行世界論では、未来の人間の喪失感はそのまま残ることである。
手紙を送ったが、それで死んだ翔が生き返る訳でもなく、手紙が現在の自分達に届いたかも、現在で翔が救われたかもわからない。パラレルワールド理論では、人は失ったものは取り戻せないのである。

原作と映画の違い、それは原作が仲間5人がそれぞれ現在の自分に手紙を送るのに対し、映画では菜穂と須和弘人の二人しか手紙を送っていない点である。
映画は、これは翔を合わせた3人の問題だと言っているのである。原作は違う。原作は翔の自殺を5人の仲間が救うという、お決まりの友情ストーリーになっている。
映画はそれを否定している。なぜなら須和弘人はハイエナだからである。

略奪愛を、私は必ずしも否定はしない。そういう恋愛もありだと思っている。
だから略奪愛が否定されるのは、略奪した本人が後悔した時である。未来の須和は後悔し、手紙を受け取った現在の須和は菜穂に告白しないと決める。そしてこれが、『orange』がヒットした重要な要素なのである。
なぜ後悔が生まれるのか?その理由は恋愛、特に初恋の成就のしにくさにある。
女性は、男の不器用な対応に抵抗、反発することが多い。そして恋愛経験の浅い男ほど不器用である。だから相思相愛でも、恋愛スキルが両者とも低いと失敗することが多い。
恋愛は生物としての根本の感情に基づくので、それ自体は仕方のないことである。しかし恋愛に「社会」が絡まってきた時は話は別である。
恋愛スキルの浅い男に、「何でも相談しろよ」と言ってくる男がいる。そう言う男は、恋愛中の男を焦らせることばかり言う。失敗を狙っているのである。
僕だけがいない街』では、雛月加代に近づこうとする悟に周りが色々言うが、

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とケンヤが止め、悟はホッとする。恋愛相談の押し付けは大概邪魔なのである。止められずに周りの言うことを聞くと、

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往々にしてこうなる。いじめに合う架橋明日が通ると「鼻を摘まめ」といじめっ子に言われ、ヒロインの花籠咲は鼻を摘まむ。
プラチナエンド』は失恋が原因でいじめにあったのではないが、いじめが相思相愛の関係を引き裂くのはよくあることである。そう言えばトイアンナ氏も、初恋の相手がいじめにあったと言っていた。
相談を断っても、

私の擬装請負体験⑫ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

のVさんのように今度は邪魔してくる。もっともここに登場する女子Yは相当のツワモノで、関係しなかったのにセクハラだのストーカーだのと捏造されて訴えられた。
失恋した男がいじめに合う理由の多くは、女性が恋愛よりも世間体を重視するからである。恋愛のために身を張って男を守るということが、女性にはほとんどできない。守るどころか自分を守るために好きだった男を犠牲にすることさえする。
これも女性のさがである以上、言えることは2つである。例えさがであっても、男に恋愛以上の仕打ちを与えることは許されないこと、そして周囲がその女性のさがを利用するのは道徳に著しく反するということである。こんなに簡単に人を陥れることができる方法は他にないと言っていいから。

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と未来の菜穂は言うが、果たして本当だろうか?映画にはなかったセリフである。

私は平気だよ。傷つけたのは私の方だと思ってた。

 

と、大晦日に傷つけたからと言って菜穂を避ける翔に菜穂は言う。翔は大晦日に、祖母の具合が悪いのを気にしていて、早めに帰ろうとしたのを、菜穂が安易に「大丈夫」と言ったことに腹を立てた。翔は始業式の日に母親が自殺して、それを自分のせいだと思っていた。だから自分がいない時に祖母が死ぬことがあってはならないと思っていたのである。
恋愛の問題は、それが奥深いところにあり、直接的に触れることができない。だから何重にもカムフラージュがかけられている。しかしこの本質が恋愛自体でないなら、

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この場面だけ未来の菜穂にはならないだろう。
翔が救われた後、仲間でパラレルワールド理論に華を咲かせる。
そこで翔が「須和と菜穂が結婚してる未来もあるってことか?」
と言うと、

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翔は本命なのである。その翔との付き合いが、これでは浮気感覚である。「ちょっと遊んでくるね」と亭主に首輪をつけているような。「こっちだって過去の女と寄りを戻したいんじゃない!」と言いたくなってしまう。

本編以外に番外編の6巻はその後出版されたが、それは翔が救われない世界での菜穂と須和の物語である。
6巻では須和は翔に敵わないという想いを抱き続けるが、それが映画の影響かどうかはわからない。

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