坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

私の恥ずかしい話③

全関東学生雄弁連盟、略して全関。関東の約20の大学の弁論サークルが加盟する学生組織が、私にとっての青春の場だった。
大学1年の時に、全関の5月全員総会に出席した時から、私は全関の虜になった。
その全関を運営する中央執行委員会、略して中執。激務をこなし加盟校に様々な企画を提供する中執に私は憧れ、中執に入りたいと思った。
私は1年の間、全関の企画のほとんどに出席し、またほとんどの弁論大会に顔を出した。そして念願の中執になった。
中執では週3、4日は会議とか企画とか、全関関係に時間を取られる。サークルと被らなければ、ほぼ一週間弁論関係の何かがあることになる。
我々の代の中執はよく頑張った。
東京都と組んで、学生議会という大企画をやって大成功を収めたが、中執含め参加者がみんな疲れてしまい、大企画は今後やらない、いうことになった。しかし我々の後の中執が学生議会をやりたがり、その度に加盟校と揉めるのを繰り返して、数年後には全関が解体してしまったのだがそれは別の話。
非常に疲れたが、非常に充実した中執の一年間を過ごし、その実績をもってサークルの代表、幹事長選挙に臨んだ。
結果当選したが、

で述べたように、後輩にクーデターを起こされそうになって、それ以来、私の心情は不安定になった。

中執の活動はとても忙しかった。
1年の頃には色々本を読んだりして勉強したが、中執の活動が忙しくなると、本を読む時間がなくなる。
勉強しなくなると、議論する内容も限られてくる。自分の大学の弁論サークルがどうあるべきだとか、全関がどうあるべきだとか、そういうことを全関仲間で話すようになっていった。
また、議論も強くなる。強くなれば、負けたくないと思う。負けないためには、自分の議論の範囲を限定すればいい。
つまり、進取の気持ちを失っていくのである。中執の1年間、十分に頑張ったし、ここいらで後輩に立てられて気分良くいきたいと思うようになっていた。中執の仕事が終わって、幹事長としてやること以外に、自分の方向性を見出すことができなかった。
というより、幹事長としての活動の方も無理をしていた。
有名な政治家を呼んで講演会を開いたりしていたが、後輩が動かないのを強引に企画を通してしまったので、私一人で企画のために動いている状態だった。
講演会当日、雨のせいもあって来場者は40人もいなかった。人数としては少ないと言っていい。
さらに今まで帝京大学雄弁会になかった春合宿や新歓合宿などもやって、それも一人で動き回ることになってしまったので本当に疲れた。そんな状態で、身を削るような議論はしたくなかった。
しかし、激しい議論を躊躇しない者もいたのである。

その者達を、A、B、Cとしよう。
後々全関が潰れるほどの学生議会でくたくたになっても、まだ議論での探求心を持ち続けている三人に、私は閉口していた。自然距離を置くようになっていた。
こうなると、「人間とは」とか「人格とは」などといったことを語り出すようになる。
こういう時にはずるい打算があって、「自分はいい人」で、「自分を攻撃する人は悪い人」という図式を作り出そうとしているのである。こうして、私は進歩のない、停滞した議論の空間を作り出そうとしていた。

三月総会の日。この日は合宿形式で、宿泊施設に泊まり込んで会議を行う。
私の後の代の中執がまた問題の学生議会を持ち出して、総会は紛糾していた。
当然私は学生議会に反対だった。しかし打算もあり、学生議会に反対していれば、自分が不利な状況に立たされることはないと思っていた。
しかし酒をしこたま飲んだところで、A、B、C三人に呼び出された。
「弛んでる」と散々なじられ、挙げ句川に飛び込まされた。
その後トイレに行って吐いた。10回吐いた。

ここから先は地獄で、3年の時、私はディベート委員会にも所属していたが、そこにはAとBも所属していた。
大学2年で急にディベートが強くなったので、ディベート委員会に興味があって入ったが、仲間の議論に全然ついていけなかった。ディベート委員会どころか、全国関に行くのも針のむしろだった。
そんな状態になっても、私は世間体を気にしていた。
世間体を気にして何を望んでいたかというと、東大総長杯に出たいということだった。
東大総長杯は弁論大会の最高峰で、主にベテランの弁論人が出場する大会だった。
東大総長杯に出たい。しかし弁論すべきネタがない。
大学生はアウトプットするネタに不足していて、努力しないと2年でネタが切れてしまうのである。
BもCも自分の限界を見極めて、3年では弁論大会に出場しないと明言する中で、停滞する私は自分の限界を認められなかった。
学祭の野外ステージで、その時思いついたネタでやれるんじゃないかと思って、それを元に原稿を書こうとした。
原稿といってもチャートである。東大総長杯は原稿の持ち込みが禁止されていて、紙1枚のチャートだけが許される。
しかしネタを掘り下げようと思っても、どんどん話がまとまらなくなっていった。
話がまとまらない中で、どうすればいいか私はわからなくなっていった。
そのまま東大総長杯の日を迎え、壇上に立ったが、途中でしゃべれなくなった。
「拙い弁論で申し訳ありません」
そういって壇上を降りた。無様だった。

4年になっても、私は全関に度々顔を出した。
後輩達は、私を元老のように扱った。しかし私は、本当に後輩達に尊敬されていると思えなかった。
面子を守るために全関に顔を出しているのに、顔を出す度に面子を潰されている気分だった。何のために顔を出しているかわからなかった。
留年してからの1年間は、全関には1、2回しか顔を出さなかった。

 

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