坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

2010年代を決定づけた作品~『八日目の蟬』

f:id:sakamotoakirax:20150117222143j:plain最初に読んだ時は、涙が止まらなかった。
しかし、その後に沸き上がる違和感。涙など流す必要はない。涙を流す作品でなくとも、私は真実を見たいのだ。
最初の数ページと、ラストの数ページを読めばわかる。この小説は構成が破綻している。

最初の数ページで、この小説のテーマがわかる。誘拐された赤ん坊にとって、精神的に繋がれる母親は誰かが、この小説のテーマである。
誘拐された赤ん坊、秋山恵理菜が成長して採る行動で、恵理菜にとっての真の母親がわかる。恵理菜は、妻子ある男と不倫関係になり、男の子供を妊娠する。
この行動は夫に浮気をされた、実の母親の影響によるものではない。恵理菜を誘拐した、野々宮希和子の性格を受け継いだ結果である。
そして、恵理菜自身が、実の母親より希和子に心情を寄せている。しかし、ラストで恵理菜はこう言うのである。
「私は世界一悪い女にさらわれたのだ。私が家を好きになれないのは、父と母が私に背を向けるのは、すべてあの女のせいだと思えば、少しだけ気持ちが楽になった。楽でいるために私はあの女を憎んだ。あの女の存在を私たち家族のなかにひっぱりこんだ」
子供の自分をここまで痛め付ける必要はないだろう。これは子供の自分に不必要な倫理観を要求する、不自然な成長である。

恵理菜にとって、精神的に繋がれる母親は希和子である。
その恵理菜は妊娠して、子供を産む決意をする。
ここまではいい。しかしこの後、恵理菜は急速に大人になる。
誘拐事件により崩壊した家庭、無責任な父、家事を放棄した母に理解を示していく。
母親になるのだから、強くなるのはいい。しかしまだ19歳で、人への理解が急速に深まるのは不自然である。元々大人びた性格というわけでもないから、なおさらである。
そして小豆島に向かう途中の岡山で、恵理菜は希和子とすれ違う。希和子の方は恵理菜に、かつて自分が育てた幼児の面影を見たが、恵理菜は気づかなかった。
岡山から小豆島に向かうフェリーで、恵理菜は実家で子供を育てる決心をする。
一方の希和子の描写で、
「海は陽射しを受けて、海面をちかちかと瞬かせている。茶化すみたいに、認めるみたいに、なぐさめるみたいに、許すみたいに、海面で光は踊っている」
という言葉で、物語は結ばれる。
一見、将来の恵理菜との再会が約束されているようである。しかし文章がうまいので騙されそうだが、「茶化すみたいに」の言葉に、わずかに作者の本音が垣間見えるようである。あるいは作者の罪悪感とでも言うべきか。
将来の再会の約束をするくらいなら、互いを認めた上での再会をさせて、物語を終わらせればいい。そうしなければ、物語は終わらない。
しかし作者は「許すみたいに」と言うのである。希和子は罪人のまま、許されないまま、恵理菜の真の母である。作者が希和子に思い入れを持っていないとは思わないが、作者は希和子が恵理菜の真の母であることを認めなかった。

90年代に日本の個人主義は最高潮に達し、大なり小なり、個人主義に関わる様々な事件が起こった。
個人主義を批判する者は、集団主義をもって個人主義を批判した。
2000年代とは、個人主義から集団主義への移行期だと、
私は思っている。この2000年代の半ばに、『八日目の蟬』は世に出た。時代の流れに沿う形で、『八日目の蟬』はヒットしたが、勢い余って、2010年代の少なくとも一部を形成した観さえある。
すなわち、自分の真の願望を封印することで集団に溶け込む形の集団主義の形成に、この作品は貢献したのである。