『僕だけがいない街』(以下『僕街』)で、藤沼悟は殺された母親を発見し、既に死体となった母親を介抱しようとするが母親が生き返ることはなく、悟が再上映(リバイバル)と呼ぶ時間の巻き戻しが起こる。
再上映の後、悟は犯人を追うことで犯人の罠に嵌まり、警察に容疑者と見なされる。悟が警察に捕まりそうになったところで、昭和63年へのタイムスリップという大きな再上映が起こる。
悟は昭和63年の北海道美琴町で、小学生の時に誘拐殺人事件で死んだ雛月加代を救う決心をする。しかし悟は、雛月の死を一日先伸ばしにできただけだった。雛月が死んで、悟は2006年に引き戻される。
悟は一度、雛月の信用を失うことをする。
短距離走で毎日練習を頑張っている相手のことを考えて、手を抜いてしまうのである。雛月には「精一杯走る」と言っていたが、手を抜いたことは雛月に見抜かれていた。
雛月を救出できなかった後、
この考えは大事だが、これが雛月を救出できなかった重要な要因とすべきかといえば違うだろう。
雛月が死んだ後、悟の母は「悪い方に考えている内はいくら考えても駄目だべさ」と悟に言う。
これも大事なことである。問題は、この自己問答にどれだけ答えを出せば、雛月を救出できるかである。
『僕街』で興味深いのは、その人間描写の深さである。
悟が戻った2006で、ヒロインの片桐愛梨の家に火がつけられる。
悟は愛梨を救出しようとするが、煙による酸素不足で難渋する。
そこに「ちょっとウザい兄貴肌」のバイト先の店長が登場し、悟に手を貸す。店長は悟が容疑者になった時に、自分を頼って訪れた悟を警察に通報していた。
店長いい奴じゃん!と思うところだが、「もう愛梨君を巻き込むな。手柄は俺のもんだ」と悟に言う。
悟は「俺のことを喋らない」という意味だと解釈する。
しかし本当は、喋ってもらった方が悟に有利なのである。悟の放火の容疑がなくなるし、警察は母親殺しを悟と愛梨の共犯の可能性も考えている。放火は悟による愛梨の口封じと思われているから、共犯の線も消える。母親殺しに直接影響はしないが、逃亡中の悟が愛梨を救出しようとしたことは、容疑を相当に軽くする。
店長は愛梨に横恋慕しており、邪魔な悟を消したいと思っているのである。そういう時に相手を陥れながら、しばしばその行為を相手に恩を与えたと思わせようとする人がいる。そういう人がよく使う手が、
八代学についての描写も面白い。悟が「知らない女の子へのアプローチ」について訪ねると、
スポーツが得意、料理が得意、公務員、資格、免許、語学、何でも武器にするんだ。相手がどれかに興味を持った時、警戒心は解ける
あまり感心するなよ。僕はストレートに感情を出すのが得意じゃないから、理論(ロジック)に頼っているだけだ
と八代は言う。
「この時はまだ気づいていなかった。この日のみんなの言葉や行動には、事件に関わる多くの『ヒント』が散りばめられていた事に」とあるが、この中には、八代逮捕に直接につながるヒントはない。
だからこれは、信用できない人物を示しているのである。
少なくとも八代のような人物は、リスクを侵してまで正義を実行することはほとんどない。信用できる人間は、悟のようにストレートに話す人間である。
冤罪で死刑囚となる白鳥潤の父親だが、これは悩んだ。
「単純で気のいい『昭和のオヤジ』的なキャラクター」というが「竹を割ったような性格」がどれだけ腹黒く人を陥れてきたかは、護憲の歴史を見てみればわかるだろう。「昭和のオヤジ」などとは言って欲しくなかったという思いが私にはあるのだが、『僕街』は2012年に連載が始まっている。
あの頃なら、「昭和のオヤジ」という言葉も肯定的に受け取られた。ほんの数年で、社会は変わった。そして『僕街』もまた、社会を変えた作品なのである。
「昭和のオヤジ」でなくとも言ったことを端から忘れていく気のいい奴はいるのである。
その白鳥潤の父親が、容疑者の一人だった。理由は、被害者の中西彩を知っていたからである。白鳥は父親から聞いて中西彩に接近するが、父親の方は言った端から忘れている。そして父親が犯人かもしれないと思っていた白鳥は、死刑判決を受け入れる。冤罪がどのように成立するかを、『僕街』は詳細に描いている。
悟は最初は白鳥と中西彩を引き離そうと思うが、それを止める。白鳥は中西彩に既に接触していて、誰かに見られていないとも限らない。そう言って、悟は走る。この悟の姿を見る度に、涙が出そうになる。
片桐愛梨の父親は農業組合の役員だったが、万引きの容疑で懲戒3ヶ月の停職を受け、組合を辞め離婚する。
愛梨は、父親を信じれば良かったと悔やむ。しかし、父親のポケットからチョコレートが出てきているのを、信じるのは難しいだろう。
だからこれは、冤罪者を信じる難しさを物語っている。
『僕街』は、表面的にみれば、よくある友情、絆の物語に見える。しかし一皮剥けば、主要人物は一度は大事な人間との関係が壊れた過去を持っているのがわかる。
ケンヤもまた、幼い時に友達に「宝物」を贈ったら、翌日それが砂場に捨てられていたという経験を持っている。以降ケンヤは他人に対して距離を持って接するようになる。
しかし悟が雛月に直線的に向かっていくのを見て悔しがる。
このように、『僕街』は人間関係の再構築が描かれていて、そこに被害者と冤罪者が入るようになっている。
雛月の死後、悟が2006年に戻るのは、悟が雛月を救うための答えを出すためである。
悟は母親が殺された事件を思い出す。母親を介抱したら再上映が起こり、犯人を追えば昭和63年にタイムスリップする。
しかし悟は気づいていない。なぜ再上映が起こるのか、誰の意思で再上映が起こっているのかを。
悟が犯人を追ったのは、正義の遂行、それもリスクを負っての正義の遂行のためである。それが生還の難しい母親の介抱よりも正しいのである。
そして昭和63年で、悟は雛月を一人にしないことから始める。人を一人にしないことが、正義の遂行につながるのである。
2006年に戻った悟は、愛梨の後を追ってきた警官に逮捕される。
「俺がアイリに与えたかったものを与えるんだ」と悟は考える。そして「君を信じて良かった」と言う。
その時、悟は真犯人の眼を見る。そして思い出すのである。
日本型ファンタジーの誕生⑱~『僕だけがいない街』1:これは不幸な人々の物語 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べたように、かつて自分が真犯人の手から人を守ったことを。自分に人を守る力があるという自信、それが雛月や他の被害者と守り抜くのにもっとも必要なものであり、それを悟は愛梨を信じ抜くこと、つまり冤罪者を信じ抜くことによって得る。そしてもう一度、悟は昭和63年に戻る。悟は「人を一人にしない」仕組みを構築し、それを大きくしていく。
しかし悟には焦りがある。「人を一人にしない」仕組みにより、真犯人は事件を起こせなくなるのではないかと。真犯人を捕まえるのが真のラストなら、これではラストにたどり着けない。
一方悟は「確信めいた予感」を感じている。悟はそれを「俺が踏み込んでいる証拠」と捉える。
この直感は正しかった。事件を起こせない仕組みを作ると、真犯人がその者の前に現れるのである。
悟は車ごと冬の湖に飛び込まされ、13年間の植物状態と2年間の昏睡状態に陥る。
古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。