矢沢あいの『NANA』を特徴づけているのは、登場キャラの自由さの他に、登場キャラの孤児率の高さにある。
大崎ナナは母親は4歳の時に蒸発し、父親は全くわからない。祖母は15歳の時に死んでいる。
本城蓮(レン)は捨て子、高木泰士(ヤス)は両親を交通事故で亡くしている。
岡崎真一(シン)は、家族がスウェーデンに転勤した時期に生まれた。母親が現地人と不倫をしてシンが生まれたようである。母親はシンが生まれてまもなく自殺し、父親はシンを邪険に扱った。
『NANA』の孤児率の高さは、日本の現状を反映していない。なのになぜ孤児が多く登場するのだろう? それは、父親から見ていくとわかる。
大崎ナナの父親に擬せられているのは都筑源一郎である。
ナナの祖母の愛人で、ナナを気にかけていたが、ナナは都筑が祖母の愛人であることさえ知らない。ナナは父親を意識することなく成長した。
シンの場合、父親は本当の意味でシンの扶養義務がない。シンもまた、父親を意識する必要がない。
一ノ瀬巧は孤児ではなく、父親がいる。巧は父親に反発しているが、巧の父親はアル中で、家に金を入れていない。
生活力のない父親は、乗り越えるべき対象とはならない。
登場キャラが自由に生きる『NANA』と逆に、個人を犠牲にして家族、集団に回帰する同時代の作品が『八日目の蟬』である。このことは
2010年代を決定づけた作品~『八日目の蟬』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べたが、恵理菜の家庭も父親の不倫により崩壊し、父親は家庭の中で居場所がない。
2000年代、個人の自由を求めるにしろ、集団への回帰をテーマにするにしろ、家庭内の社会の象徴である父親の存在は希薄化、または存在しないものにしなければ描けなかった。
人々がどれだけ『父親を尊敬する』と言っても、潜在的に父親の地位は低下していたのである。
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