エマニュエル・トッドの『問題は英国ではない、EUなのだ』で、ヨーロッパでは宗教心が失われたと述べている。
それが単に人が教会に行かないということなのか、神を信じていないということなのかが今一わからないが、興味深い話ではあった。
最初のキリスト教の崩壊は18世紀の半ばにパリ盆地を中心に起こり、フランス革命が起こった。
第二は1870年から1930年の間で、イギリス、ドイツ、スカンジナビア半島全域で、その結果ナチス政権が成立した。
第三が1960年代から1990年、あるいは2000年頃にかけてフランスのブルターニュ、中央山岳地帯、アルプス、ベルギー、オランダ南部、アイルランド、ポーランド、スペイン北部、ドイツのバイエルンなどで起こったという。
この第三のキリスト教の崩壊がイスラム教徒の迫害に繋がっているというのがトッドの主張だが、では日本ではどうなのだろうと私は考えた。
私の考え方に、「今流行っていないものは何か」を考えるというのがある。 例えば、今流行っていないのは「上から目線」という言葉である。
この言葉は2000年代から2010年代前半までに流行し、以後使われなくなった。
理由は、役割を終えたからだと、私は思っている。
この言葉が流行する以前、目上に対しては物が言いにくかった。 どんなに正論を唱えても、「目上に対してそんな言い方はないだろう」と言われてしまえば、言葉が続かなくなる。
「上から目線」は、良い意味にも悪い意味にも使われたが、根本的な役割は、対話における上下関係を無くしてしまうことにあった。
だから、現代の日本人は、対話において目上を全く恐れていない。言おうと思えば、どんなことでも言える。
以上は脱線だが、今流行っていないもののひとつに占いがある。 私の記憶する限りでは、流行した占いはスピリチュアルあたりが最後である。
苫米地英人も、占いは宗教だと言っている。ならば占いの衰退は、宗教の衰退だともとれる。
もっとも、日本での宗教の衰退が、ヨーロッパの宗教の崩壊と同一ととれるかどうか。
なぜなら、日本の占いの衰退は、社会への信頼と繋がっているからである。
占いの結果が良かろうと悪かろうと、「いつかは幸福になれる」と信じているから、人は占いをするのである。
だから占いをしないのは、自分達を幸福にしてくれるはずの社会を信じていないのである。
話は変わるが、2010年代の音楽をずっと不作だと思っていた私にも、最近いいと思える曲が耳に入るようになってきた。
星野源の『恋』やRADWIMPSの『前前前世』などである。 90年代を最高峰とする私にとってはまだイマイチの感はあるが、それでも聞ける。
そんな中で注目したのが『スパークル』である。曲自体は緩やかなバラードだが、それでいてイントロのピアノが実に力強い。 そして、歌詞がいい。 これほどいい歌詞を解説するのも野暮だが、一部抜粋してやってみよう。
まだこの世界は 僕を飼い慣らしてたいみたいだ 望み通りいいだろう 美しくもがくよ
自分が世界に飼い慣らされてるというのは使い古された表現だが、今の時代では逆に新鮮である。
ついに時は来た 昨日までは序章の序章で 飛ばし読みでいいから ここからが僕だよ 経験と知識と カビの生えかかった勇気を持って いまだかつてないスピードで 君の元へダイブを
「カビの生えかかった勇気」というのは、従来なら「錆び付いた」などと表現されていただろう。それでは足りないという想いが感じられる。
運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を 伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする 時計の針が二人を 横目に見ながら進む そんな世界を二人で 一生いや何章でも 生き抜いていこう
「運命」や「未来」という言葉が、恋愛にとって邪魔なのである。
「時計の針が二人を横目に見ながら進む。そんな世界を二人で」 というのは、周囲がその恋愛を快く思っていないということであり、二人は幸福な未来を描けていない。
二人にとって恋愛は人生ではなく物語であり、いつか終わりが来るものである。
現代ほど自由恋愛が認められている時代はないというのに、何が二人を邪魔しているというのだろう。
それは「運命」や「未来」を説く者であり、そのために二人は疲弊し、勇気にも「カビが生えかか」っている。
そんな勇気を奮い起こして、「いまだかつてないスピード」だから、二人は「未来」が信じられないのである。
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