坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

幕末の群像①~対外戦争で革命を起こそうとした高杉晋作

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このブログで、今まで触れることはなかったがかつて私は、司馬遼太郎のファンだった。
今はそれほどでもない。『国盗り物語』や『竜馬がゆく』、『功名が辻』などは娯楽過ぎて読む気になれないし、『峠』などは本当に言うべきことが臥せられている気がする。結局司馬遼は『花神』と『世に棲む日々』をたまに読む程度である。
文章を書くのも、最初は司馬遼を真似して、このブログの最初の方の記事でも司馬遼の文章っぽさが残っていたが、今ではすっかり抜けてしまった。今では自分を、「司馬遼の不肖の弟子」と任じている。

司馬遼の作品に多く疑問を感じている今日この頃だが、『世に棲む日々』をよく読むのは、高杉晋作という人物の存在感によるところが大きいだろう。
晋作の存在感だけではない。
司馬遼は、高杉が「対外戦争によって革命を起こそうとした」と捉えている。


「(負けやせん)
と、この戦争好きは確信していた。日本人の人口は、侍階級だけでなく農工商を入れれば男女二千万人いる。そのうち戦闘に耐えうる人数は四百万人だろう。外国はいかに艦船をもっていても、遠い本国から十万人も陸兵を運べない。船一隻で運べる陸兵は二百人が限度で、たとえ百隻(それほどの船舶保有国はないが)もっていても、二万人運べるだけである。日本がいかに武器が旧式でも四百万人もいれば二万人をみな殺しにすることができる。

 

この点、司馬遼のインスピレーションが最大化されたかのようである。
2000年代の歴史研究は、研究自体は進歩したとしたとしても、想像力が欠けていた。
晋作のクーデターも、僅か30人の決起を「長州人の肝っ玉をご覧にいれます」の一言で「晋作も必ず成功すると思っていた訳ではない」と見た研究者がいたが、晋作のような百策ことごとく当たるような人物が、成功の見込みを感じないようなを行うはずがない。
晋作の直感力はクーデターの成功を鋭く見抜いていたのであり、2000年代の研究者は客観性の追求し過ぎて、想像力を持たなかったので、その研究成果の多くは小説に昇華しなかった。
他の作家も、「長州割拠論」がせいぜいで、「対外戦争によって革命を起こそうとした」とまではいかない。
現実そのようになっていない。対外戦争は4か国連合艦隊と長州の戦いや薩英戦争など散発的なものだけで、幕末の動乱は長州が破滅的な動きを続けながら、薩長同盟によって生き長らえたので、ほとんど長州が時勢の中心にあり、他藩は薩摩や会津などの数藩を除けば、幕末に動いた藩はほとんどない。
司馬遼の晋作に対する見方は間違っていない。
間違ったのは、晋作の方である。

晋作は、長州のテロリズムの元祖である。晋作の行動により、長州は一連の狂気の行動を取るに至る。
晋作のやったことといえば、京に上洛した将軍の行列に「いよう、征夷大将軍」と声をかけたとか、師の松陰の棺を担いで、将軍だけが通れる御成橋を渡ったとか、白昼堂々箱根の関所破りをしたなどである。
テロリズムの元祖でありながら、晋作と他のテロリストの違いは、晋作に暗さがないことである。有名な御殿山の英国公使館焼打ち事件にしても、建設途中の建物で英国人はいない。暗さがないのは、人が死んでいないからである。

長州は京で工作を行っていたが、その内容は、幕府に攘夷を迫ることである。
その工作は、久坂玄瑞を中心に行われていたようである。晋作はこの工作から距離を置いていた。
幕府に攘夷を迫り、攘夷をしなければ討幕の密勅を得て幕府を倒す。
これが策略ならば実に見事な策略である。
問題は、これが策略ですらなかったことである。

「黒船など日本刀で追い返せる」と言ったから、日本刀で黒船を追い返そうとし、「幕府を倒せ」と言ったから、朝敵となっても幕府を倒そうとしたのである。
日本人は幕末も太平洋戦争の時も、そして現在も、根本的に変わっていない。

晋作は教えようとしていたのである。戦略の大切さを。
幕府と外国を同時に敵にする必要はない。危機的状況を戦略的に判断し、機略で切り抜けていく。
それを晋作以外の何人かが理解して行動すれば、長州は戦略的な行動を取れるようになり、長州の戦略性が日本中に伝播すれば、「対外戦争によって革命を起こす」ことも可能である。しかしそうならなかった。
幕末に長州だけが暴走したのは、関ヶ原の恨みと、松下村塾生が藩を主導したことによる。
ほとんどの藩は、行動を起こすことすらなかった。それだけ徳川300年の泰平の影響は強かったのである。
「対外戦争革命論」は、若さからくる晋作のロマンティシズムである。

「長州割拠論」は、戦国大名のように独立して、周囲を睥睨することではない。
「対外戦争革命論」の起爆剤であり、「対外戦争革命論」の変わりとしての「長州割拠論」は、長州と幕府をほとんど道連れにする戦略である。
晋作はそれを実行し、それでいて、わずかに長州が勝つと見抜いていた。
やはり晋作は天才なのである。

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