坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本人は論理的になったのか?

私はまだ50前だが、私が若い頃に読んだ本などを読み返してみると、文章の書き方が随分変わってきているのがわかる。
司馬遼太郎の『夏草の賦』を読んでみたが、非論理的とまでは言えないかもしれないが、それに近いものを感じることが増えたのである。
『夏草の賦』は長曽我部元親の物語である。元親の初陣は長浜合戦である。合戦の前に、元親は家老に槍の使い方と大将の軍の中でどこに位置するべきかを聴く。そして家老に言われた通りにし、敵の四分の一の戦力で勝利する。
ところが、少し後のところに、元親が初陣の際、乱戦の中でぼんやり空を見上げていたと書いてあるのである。司馬遼は元親をそういう空想癖のある人物として描いているが、4倍の兵力のある相手にそんな余裕はないだろう。
『夏草の賦』や『国盗り物語』は合戦描写がふわっとしていることが多いが、その理由は昭和の作品だからである。ガダルカナル戦やインパール作戦のように、飢餓にあえぎながら苦しい戦いを続けてしかも敗北した記憶が生々しい時代で、少ない兵力で奮闘して勝利するという場面の描写は敗戦の記憶を呼び覚ましてしまうため、作家達も避けていたのである。最近の『キングダム』に代表されるような、苦しくて犠牲の多い戦いが連続する作品群と比較すると、戦争を知らない我々と戦争を知る者に向けた作品の違いが見えてくる。つまり司馬遼の初期作品で合戦描写がふわっとしている場合、その裏には苦しい戦いの連続だったという歴史の真実があるということである。

また『夏草の賦』には「江戸時代の慣用文句を借りれば、玉のようなというべきであろう」という文があるが、 「江戸時代の慣用文句」と言わなければ、 「玉のような(赤ちゃん)」という言葉も、この作品が書かれた時代にはしっくりとこなかったことがわかる。
ところが、私が今読むと、「江戸時代の慣用文句」と説明されてもしっくりこないのである。赤ちゃんは丸っこいが、だからといって赤ちゃんが玉で生まれてくる訳ではない。ちゃんと手足がある。
基本的に、日本人全体の論理力は上がっていると思う。比喩とは本来非論理なものだが、論理力が高すぎると、比喩が受け付けられなくなる。
また違った考え方もある。論理力以前に、我々日本人の文化的な結びつきが極端に弱くなり、そのために比喩や慣用句などを受け付けることができず、論理以外に頼ることができなくなっているという考え方である。そのため我々は過去と切り離され、個々人が文化的な背景を持たずに孤立している状態に置かれている。
個々人が孤立しているというと、現状に反しているように思うかもしれない。コロナはオミクロン株により随分弱毒化したが、未だに日本人はマスクを外せずにいる。この集団現象は日本人が個人より集団を重視する傾向として表れているが、真実はより個人が文化的背景を持たなくなったために、集団に依存することで自分のアイデンティティを維持するという逆説的な現象なのである。ボカロなどの曲にたまに「孤独だ」というフレーズがあったりするが、客観的には孤独ではなく、こういう歌詞に共鳴する人も実際は人に囲まれた生活を送っている。しかし人と交わりながら、やはりその価値観の共有に充足することができず、集団の中で孤独を感じてしまうのである。
この日本人の過去から切り離された文化的背景の欠落は、護憲の衰退により顕著になった。ウクライナでの戦争でも、護憲派はなんらかの正しさがあるのではなく、非常に迷惑な存在と思われるようになった。私から見れば護憲派復権の機会はあるのだが、護憲派はそのチャンスを完全に掴み損ねている。
そのチャンスとは何かというと話し合う脱線するのだが、一言でいえば『敗戦後論』のように平和憲法を選び直すことである。つまり日本が自衛隊や米軍に守られながら平和を唱えるのではなく、個々人が本当の非暴力主義者になることである。
話を戻せば、ここ1、2年の間に、歴史に護憲派の衰退という大きな断絶ができたということだ。私は歴史は断続的に進むのが理想であって、連続的に進むのは望ましいあり方ではないと思っている。断続的とはつまり政治的社会的に修整や変更を重ねながら歴史は積み上げていくべきであり、修整や変更のない連続的な歴史は結局は大きな断絶を生み、人々のよって立つ場所を奪ってしまうことになる。敗戦という事件でさえ、表向きは断絶に見えても、真実は連続であり、300万人の戦没者への無反省が隠蔽されていた。
つまり戦後だけでなく、戦前から連続したものがここにきて大きな断層を作ったということである。このため私は困っている。私は徹底した文系の人間で、理系の話は頭が痛いのだが、文系とは文化の集積の上に成立するので、過去と切り離された日本人に受けないのである。一部政府の文系軽視の政策によるという批判もあるが、政府が文系の学問に金を注ぎ込んだところで、学閥の既得権益のための学問に金が注ぎ込まれるだけになり、ネットが普及した現在、日本人の文化的な背骨になるほどの学問は生み出せないだろう。つまり批判に耐えないということであり、金を注ぎ込むだけ無駄だということである。
もういくつか、例を挙げよう。名作ゲーム『ドルアーガの塔」にバランスという、天秤型のドット絵のアイテムがある。フロア24で手に入るアイテムで、フロア26にあるハイパーガントレットというアイテムを手に入れるために必須のアイテムだが、昔は「ハイパーガントレットの真偽を見分ける」というような説明がされてあった。
「真偽を見分ける」とはどういうことだろうと思うが、真相は26階のアイテムを手に入れても、バランスがないとハイパーガントレットのドット絵が表示されるだけでアイテムの効果が発揮されず、バランスを取っているとアイテムの効果が発揮されるというシステムになっているのである。
しかしこのように説明してしまうと、かつての名作の持つ神秘性も薄れてしまう。昔はこういうちょっとした虚仮威しが多くあった。また子供の頃、兄に異次元に行ったという兄の友人の話を聞かされたことがある。その話の締めくくりに、兄は「(その友人は)また異次元に行こうと思っているが、何月何日に行くと帰ってこれなくなる」と言った。
「帰ってこれなくなる」とはどういうことだろうと、子供の頃は恐怖心と共に考え混んだものだが、今は単なる虚仮威しで、異次元に行ったなんて嘘だと思っている。しかしこういう虚仮威しは、人間の文化的背景が充実していてこそ通用するのであって、文化的背景がないと論理にしか頼らなくなり通用しなくなる。
しかし多くの人間は、論理ではなく感情や習慣に基づいて行動を行う。論理に基づかないのでその行動に正しさを感じられない。こうして人はアイデンティティを喪失していく。
もし現在、オカルトが全く流行らないとすれば、それは日本人に文化的な背骨がなくなり、論理にしか頼れなくなっているからである。

現在、散文は意図して非論理的に書かれない限り論理的に書かれている。
一方、ボカロなどの曲は矛盾だらけである。その理由はむしろ矛盾の中に、というより矛盾そのものが人々の本音だからだろう。
ボカロはサブカルである(と少なくとも私はそう分類している)。そのサブカルの中に、日本語の再生または創生というべきものがある。『東京喰種』の赫子という言葉を見た時、「子」を「コ」と読まず「ネ」と読んだところに、日本語を再生することで自分のアイデンティティを取り戻す試みを感じたのである。他にも「そうして」を「然うして」など、長年本に親しんだ私さえも知らない漢字の読みを当てたり、「死」を「タヒ」と、「タ」と「ヒ」を会わせて表現したりと、自分のアイデンティティを作り上げようという精神をひしひしと感じることができる。むしろ必死に足掻いているという感じである。
また家族や組織の上下関係に基づいて、社会を再生しようという動きもわずかに存在するのを私は知っている。そのような動きには、私は可能な限り合わせるということしかしないつもりである。人間には大抵、フィクションは必要である。現在日本社会はは今までの個を持たない社会から、個人主義の確立という非常に長い過程の中にあるのだが、フィクションを破壊して真実を剥き出しにしても人心は荒廃するだけである。そのような行為は犯罪の増加や経済の停滞につながり、少なくともむやみにフィクションの破壊に務めるべきではない。
しかしこのようなフィクションですら、現状の延命にしかならず、いずれフィクションが崩壊するのは避けられない。フィクションの裏には真実が内包されているのであり、フィクションが真実に取って代わることはない。そのように考えると、私はフィクションを普及しようとする保守派を傍観しながらも、本気でフィクションを樹立しようという気にはなれない。

英語に堪能な人に是非聞いてみたいのだが、英語の多くは論理的に書かれているのだろうか?私もかじる程度には英語の勉強はしたのだが、時々訳してしっくりこない時がある。その場合、慣用句的なものが文章に含まれていたのではないかと思っている。
英文の例は思い出せないが、エマニュエル・トッドの本に(もちろん日本語訳)「イギリスには常にウインストン・チャーチルボリス・ジョンソンがいます」と書いてあり、ビンとこなかったのを覚えている。世界の方向を決めるような優れた政治家がいるという意味だろうが。
つまり、当たり前のことだが、どの国の言語も文化的背景の上に成立しているのである。
結局は「何かいいことをした」という経験、それが小さなものであっても持続しなくても、「小さな物語」を積み上げることで、人は自分のアイデンティティを作り上げていくのだろう。個人主義といっても、それは個人が孤立しているのではなく、他者との関係で多くは形成されるものである。人との関係で「良いことをした」と思えることを少しでも増やすことである。
そういう「小さな物語」の積み重ねが文化的な背骨になり、歴史と自分をつなぎ、荒廃した人心を和らげ社会を安定させていく。そうすれば非論理的なもの、慣用句や故事、虚仮威し的なオカルトまで復活する。人類が滅びるストーリー『2012」も、ノストラダムスを大予言を通過した我々は影響を受けなかったが、アメリカ人は人類が滅びると大騒ぎした。私はただ冬至の日を区切りにマヤの暦が終わっていただけだと思うのだが。そのオカルト騒ぎもまた、アメリカの文化的と背骨が安定していたからである。
日本で大きな拒絶反応を示したオウム事件だって、文化的なバックボーンがしっかりしていたから起こったのである。


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