坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「反論しないで別のことを言う」人達



 

立憲民主党が「新型コロナウイルス検査拡充法案」を衆議院に提出した。新型インフルエンザ特別措置法の改正にも協力すると表明。
「桜」の話を収めて目の前にある危機に前向きに対処していく姿勢。さすがは枝野さん、機を見るに敏である。

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実のところ、自分の意見を否定するような情報を提供されると、私たちはまったく新しい反論を思いつき、さらに頑なになることもある。これを「ブーメラン効果」という

 

このようなことは、多くの人が経験していることだと思う。
この記事に書いてあることは、紹介している本の内容の35%くらいだと言っているが、私が書くことがこの本に書いてあることかはわからない。
私が問題にしたいのは、「反論しないで別のことを言う」人達のことである。
世の中には「反論が反論になっていない」人達がいて、反論ではなく相手の人格批判で返す人などもこのカテゴリーに含まれる。その場合、論理の上では「反論していない」ことになるのだが、本人の脳内では「反論した」こととして処理されている。だからこういう性格はなかなか治らない。
「反論しないで別のことを言う」人達は、精神構造は「反論が反論になっていない」人達に近いが、若干の違いは「反論できない」と脳内処理された上で「別のこと」を言うことで自尊心を維持していることである。このように言えばわかると思うが、「反論しないで別のことを言う」人達は「反論が反論になっていない」人達よりもプライドが傷つき安い。個人差はあるだろうが、全体的に「反論が反論になっていない」人達よりも傷つき安いのは明らかである。
理由はもちろん、「反論しないで別のことを言う」人達は「反論できない」ことをいちいち認めているからで、その分脳内が論理的に整理されている。そして論理的である分、「反論できない」論点の脳内で淘汰されるスピードが「反論が反論になっていない」人達より速い。「反論できない」論点の換わりに別のもので自己を補完しないと自我が崩壊する危険性が高いのである。
ここまで言わなくてもわかる人はわかると思うが、「反論が反論になっていない」人達というのは日本では大抵右翼である。そして「反論しないで別のことを言う」人達とは左派のことである。
右翼が非論理的なのは、元々プライドが低いからである。そして性格がなかなか治らないといっても少しずつ変化している。いつの間にか自主憲法を表立って唱える右翼はほとんどいなくなっているように、彼らの主張も変わってきている。右翼には「気分」としか表現できないようなものが未だに色濃く残っているが、これも時間をかけて

日本型ファンタジーの誕生(32)~『夢で見たあの子のために』が見せる「近未来像」の姿とは? - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、多くはヤンキーに変質していくと思う。それでも右翼は残るが、それも

保守とは何か~アメリカの奴隷解放宣言から考える - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように本人達は反動的でありながらも、ずるくも革新が行う「善行」を自らのアイデンティティに取り込んで、見せかけよりも軟化した者がほとんどになると思う。
問題は左派である。右翼のプライドが低いのは、大抵の右翼は社会において何らかの不遇感を抱えているからである。右翼がしばしば貧困層を本人達の「努力不足」と批判するのは、自分達の不遇感の裏返しである。つまり右翼はステータスは様々でも、自分達こそが恵まれていないと感じている。
左派はそうはいかない。
左派もステータスは様々だが、彼らの社会での満足度や自己肯定感は右翼よりも高い。その理由は彼らが今まで「理性的」だと評価されてきたからである。

定言命法に達しなかった日本人 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、フェミニストを核とするリベラルは偽装請負からのミスリードを狙ったものだが、また護憲派の装飾であり、隠れ蓑でもあるという一面もあった。つまりそれだけ、護憲派は衰えていたのである。それが

リベラルの「先祖返り」、「ツイッター化」と政党の「多極化」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように護憲派へ先祖返りして、リベラルは衰退気味となる。
しかし元々弱っていた護憲派に戻って何になるだろう?
リベラル全盛の時代は、多くの人がヒューマンな発言をすることで、社会の闇に次々と光を当てていった。その光輝く輪の中にいる人々は、自分達にこそ正義があり、社会を変える原動力だと思っていたはずである。
右翼はこうはいかない。彼らは声高に正義を主張しながらも、心のどこかで拗ねている。その拗ねがいつまでも続くからこそ、右翼は同じことを繰り返すことができる。
しかし左派は、正義を主張するほどにその正義が「真実」を多く含んでいるからこそ、自分達の正しさに疑いを挟む余地がなくなっていく。その意識は思い出として記憶に残るようになっていく。
その思い出は自分が最も輝いていた時期の少なくともひとつであり、そういう思い出は、辛い時期にしばしば自分を支えてくれるものである。
しかしそれだけに、左派の人々は思い出に逆行する行為ができないでいる。リベラル全盛時代の自分達がヒューマンだからこそ、アンチヒューマンな行為はできないということだ。それをしたら、現在が悪夢に変わる。
現在の左派の先祖返りは、護憲に何か新しい正しさを見出だしたからではなく、リベラリズムを維持できなくなったからである。それだけ左派は、本来隠蔽していた多くの反動を抱えていた。
だから本当は、その反動を全面に出す必要が生じているのだが、それができない。その反動を自分の精神の中心に据えて生きていくには、相当の「意識改革」が必要で、その「意識改革」の行き着く先は著しい知性の劣化である。

このように、左派は袋小路に嵌まっているが、はてなの「反論しないで別のことを言う」人達がしばしばやるのが、批判された人をランキング上位に押し上げることである。
もちろんそんなことには何の意味もない。批判された人を神輿に担いでも、その人は永遠に「反論しない」。ここに矛盾があり、「反論しないで別のことを言う」人達にとって神輿はその人達のアイデンティティのために重要な存在だが、その神輿はやはり「反論しない」ため、最終的に神輿を担いだ人達のアイデンティティに傷をつける結果に終わる。
ここにボトムアップトップダウンの二つの意思決定手段のうち、日本の意思決定手段がほとんどボトムアップであることが明らかになる。ボトムアップ一辺倒は、神輿を担いだ人達に最終的に負担を強いてしまうということである。
神輿はただの神輿であるべきではなく、「あなた達は間違っている」と状況に応じて言えるリーダーであるべきだった。
私はリベラル全盛の時代の問題点を指摘したが、同時に日本の良き時代のひとつと捉え、その遺産を失わないように働きかけていくつもりである。
またこうも言える。偽装請負という戦後日本の最大の集団犯罪をリベラリズムによって隠蔽したのは、日本が法治国家としての道を歩むための素地を本来持っていないことを意味している。
法治国家として未成熟なら、それなりのライフスタイルや思想を持たなければならないのだが、偽装請負リベラリズムで隠蔽するというのは悪手の中の悪手である。進むだけ進んでもうこれ以上先に行けないのに、引き返すこともできないようになってしまっている。神輿達の先見性のないことよ。

ところで俺、池田信夫にブロックされてたwww。

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