坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

何この偏向情報?www

何で俺の記事ってこんなに連動するの? - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、id:Vergil2010さんの記事を「中国は日本を侵略しない」という意味に解釈したら本当にそういう意味だったwww。

vergil.hateblo.jp

https://megalodon.jp/2019-0211-0316-38/vergil.hateblo.jp/entry/2019/01/17/221315span 俺の記事って本当に連動してたんだ!だったらなんで弁護士と税務署の不正を糾弾してくんないんだろ?www。しかも中国のシーレーン狙いを完全に無視しての炎上狙いwww。

で、この記事。

vergil.hateblo.jp

この記事の「SPA!」に書いた小林よしのり氏のマンガが批判されているので見てきた。
内容は、手塚治虫の『シュマリ』から始まる。
『シュマリ』は、手塚の初期構想ではアイヌと日本人の混血のシュマリが、日本に対してレジスタンスを起こすというものだった。しかしアイヌ協会が「そのようなことを書かないように』とクレームを付け、構想は二転三転、結局シュマリは日本の元士族で、シュマリというアイヌ名と衣装がアイヌらしさを出しているだけ、アイヌにはもちろん好意的だがレジスタンスとは全く縁のないものになってしまった。
そういう「表現の自由」を侵す批判を小林氏は問題としている。
しかし、「表現の自由」への批判に批判を返したりすると、「差別!」と批判を受けるのが日本の現実である。
こうなるのは、社会的表現と文化的表現、学術的表現を混同しているからである。私はリベラルの差別批判は社会的表現に限定されるべきで、文化的表現、学術的表現はリベラルの差別批判の対象外だと思っている。
そしてこれを混同しているから、しばしばリベラルはリバタリアンから社会的差別を不当だとする批判を招いている。そしてそれは小林氏においても同様である。

小林氏は「アイヌ人は日本人との混血が進み、純粋なアイヌ人は存在しない。さらにアイヌの言語や文化はほとんど死滅しており、アイヌという民族は存在せず、アイヌ系日本人が存在する」というある学者の説を引用し、それを持論にしている。
セルビアクロアチアの血で血を洗う戦争を見れば、そんなことは言えないだろう。
私は民族のアイデンティティは、「私は~民族だ」と思うことだと思っており、言語や文化、混血の度合いは問題にしない。よってこの学説は却下する。
アイヌ民族は存在しない」と外から決めつける小林氏の言動は差別である。そして香山リカから「アイヌは存在しない」と言ったことを批判され、「アイヌはいないとは言っていない」と反論するのは卑怯である。しかし私の先週の『ゴーマニズム宣言』での小林氏への批判はこれだけである。
そもそもなぜ手塚の『シュマリ』がアイヌ協会からレジスタンスの話を書けなくなるほどの圧力を受けたのか?
その理由は沖縄県民がしばしば「琉球王国なんてあったの?」、「沖縄戦なんてあったの?」と嘘をつくのと同じである。
沖縄県民もアイヌ人も、自分達の民族の歴史や文化があったことから目を背けているのを「知らなかった」で済ませば、民族として抵抗しなくて済むと思っているからである。つまり真実、隷属を望んでいるのである。
こう言うと「アイヌ人はいない」という説に傾きそうだが、この隷属心は「抵抗しているふり」をすることで維持されているため、隷属心に充たされていても「アイヌ人はいる」と考えるべきである。
そして真実隷属心に充たされているから、手塚が本当のレジスタンスを書こうとしたのに対し圧力を書けたのである。そしてレジスタンスの芽を潰しておいて、「自分達には民族としてのアイデンティティがある」と自分にも、世間にも嘘をつくのである。

似たような構造は、日本中の至るところにある。
小林氏は手塚の『シュマリ』は本来の構想はアイヌレジスタンスだったと説き、「言論の自由を批判する者こそが真の差別者だ」と論じた。これは正しい。
しかし小林氏は、アイヌ協会がなぜ手塚に圧力をかけたのかを論じなかった。それはおそらく、小林氏がアイヌ協会の隷属心を見抜いていたからだろう。
リバタリアンは「表現の自由」を全面に出して社会的表現に差別表現を入れていこうとする。
対してリベラルは差別表現に全面的に反対し、文化的表現、学術的表現の言論の自由を封殺する。Vergil2010さんの記事も区分けをしていない、それどころか『ゴーマニズム宣言』で『シュマリ』を書いたことさえ、この記事には書かれていない。小林氏が僅かに骨抜きにした問題をさらに大幅に骨抜きにし、「マスコミやネットにさえめったにない偏向情報」と化している。正直、小林の方がはるかに誠実である。
そして社会的、文化的、学術的表現を区分けしないことで、リベラルもリバタリアンも、本当は共犯関係を築いている。この共犯関係によって行われるのがダブルスタンダードである。

明石市長のパワハラ発言をリベラルが擁護したのもダブルスタンダードで、ダブルスタンダードはより大きな問題に対してなされる傾向がある。安倍首相のモリ・カケ問題も問題が大きかったから、左派は批判するふりをして見逃した。安倍政権の支持率も下がっているが、野党が支持されているということもない。左派、リベラルは社会を前進させるふりをして、結局現状維持を望んでいる。
もっとも、違う流れも出ている。先のLOFTの件での

amamako.hateblo.jp

などである。
記事には概ね賛成だが、「向き合わなければならない」というのは言い過ぎの感がある。文化的表現はあくまで感性に訴えるもので、人に義務を求めるものではない。
その点、

yuhka-uno.hatenablog.com

は成功している。文化的表現を擁護する方法は感性に訴えることである。論理展開も感性に訴えていくテクニックを、多くの人が学ぶべきだろう。

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