坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生②~主人公を傷つけるヒロインと距離感のあるヒロインたち

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日本型ファンタジーのヒロインについて考える時、私が思い出すのはこのマンガである。

小池田マヤ「不思議くんjam」の感想を書いてみた - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

では書いてなかったが、『不思議くんjam』ではヒロインが主人公のライバルと肉体関係を持ったことが最後に明かされる。

 このことがかなりの衝撃で、小池田ファンの間ではかなり話題になったようである。 

『不思議くんjam』は、早咲きながらも時代にシンクロした作品である。 


主人公に非処女の女性を当てる作品としては『アイアムアヒーロー』がある。

 序盤の鈴木の彼女の黒川徹子は、売れっ子漫画家の中田コロリの元カノである。男は非処女をそんなに問題にしないが、それでも元カレを知っているというのはきつい。 鈴木は徹子から中田のネームを見せられたり、中田を通じて他社を編集者を紹介してもらうように言われたりする。

 ヒロインの早狩比呂美も彼氏がいて、比呂美が感染してからも、彼氏の名前を呼んだりする。これでキスも経験なかったとは拍子抜けだが、『アイアムアヒーロー』はこの点、中盤まで主人公をいじめ抜いている。 

しかし他の日本型ファンタジーの作品を見ると、非処女は登場しない。 

日本型ファンタジーの主な特徴は、主人公とヒロインの距離感である。 『進撃』ではミカサが一方的にエレンを想い、エレンがミカサに恋愛感情を見せることがない。 

気になるのは、ミカサの頬の傷である。一時的なものかと思ったが、傷跡が残ってしまった。女性の顔に傷があるのは、見るだけで痛々しい。 

そしてミカサの傷はエレンがつけたものである。表に出さないが、ミカサの傷はエレンにも負い目になっているだろう。とすると主人公に非処女をあてがうのが日本型ファンタジーの目的ではなく、主人公を傷つけるのが目的だと解釈できる。もっとも主人公を傷つける場合、それが非処女として表現するのが一番可能性が高いのだが。


 『亜人』には、今のところ主人公のヒロインに当たる女性が登場していない。

もっとも『亜人』は今まで見た限りでは、ヒロインは主人公の妹である。犯罪者の息子ということで、主人公が差別した海斗に、主人公の妹が想いを寄せており、主人公の妹と海斗が結ばれ、主人公と海斗が和解する結末が容易されている。

 一方、戸崎は永井と同じ性格である。戸崎は下村泉と常に一緒にいるが、この二人にも恋愛関係はない。ちなみに下村泉は非処女である。

 つまり『亜人』では海斗と戸崎が主人公の分身であり、主人公の分身を見る限り、ヒロインは一応いる。この場合、主人公とヒロインが分散している。 


僕だけがいない街』はタイムスリップの話である。 何度もタイムスリップする内に歴史が変わっていく。

その過程で、主人公は元の時間軸にいるヒロインと出会うことを諦める。 

主人公は植物状態になり、回復してからヒロインと偶然出会う。しかしそれでも主人公は、ヒロインと関係を持とうとしない。もっとも最後にヒロインと再び出会ってハッピーエンドになっている。


 ヒロインの分散と言えばラブコメだが、『アイアムアヒーロー』はラブコメ的に見えるが、よく見ると一概にラブコメと言えないところがある。

 鈴木は小田つぐみとセックスをするが、「こんな状況じゃなきゃね」とつぐみに言われており、想いは鈴木の一方的なものになっている。 

つまり日本型ファンタジーでは、主人公とヒロインの間に距離感があり、恋愛が発展しにくい。そして稀に、主人公に非処女があてがわれるなど、主人公を傷つける処置が行われている。


 『まどかの決断は自己犠牲ではない』 で、「『まどかマギカ』男が消費するは魔法少女もの、戦闘美少女ものの最後のヒット作になるだろう」と私は延べたが、魔法少女もの、戦闘美少女ものの縮小は、日本型ファンタジーの発展と連動していると思う。そして結局、それが消費者のニーズである。 


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庵野の警告『シン・ゴジラ』

本当は『帰ってきたヒトラー』を観ようと思っていたが、もう上映が終わっていたので『シン・ゴジラ』を観た。

 観て良かった、と思った。

 巷では、不測の事態に対応出来ない日本の問題を扱った映画として話題になっている。 しかし、はてなブログでの感想は肝心のところが抜けている。


 総理大臣と閣僚がゴジラの光線によって死に、外遊していた里見農林水産大臣が総理臨時代理に就任する。 この見るからに無能そうな首相代行に、熱核攻撃でゴジラを退治するプランが国連安保理から押し付けられる。 

しかしゴジラの血液を凝固させるというヤシオリ作戦の実行の目時がたち、ゴジラを凍結させる。


 問題はその後である。里見臨時内閣は責任を取って総辞職する。しかし一体何の責任なのか? 

里見首相代行は、ただひとり残った閣僚だったというだけでなく、非常時に責任を取りたくない者達に押し付けられて首相代行になった背景がある。

 非常時に無能そうな人物に首相をやらせ、危機を過ぎれば辞めさせる。 日本がそういう国なのかと言われれば、根本的にはそうだが、私は今の与党は、もう少し気骨があると思っている。 しかし『シン・ゴジラ』は、従来の日本像を前面に押し出し、さらに主人公が 「政治家の責任は進退にある」 と述べ、従来の日本像を全面的にバックアップする。

 ゴジラが暴れたことについてどんな責任が、里見首相代行にあるというのか?

 この責任の取り方は、ただの感情の処理にすぎない。 何か問題が起これば、原因を究明せずに「責任を取れ!!」と喚き、辞めさせると満足する。そして原因を究明しないため、また同じことを繰り返す。桝添前都知事も同じ精神で辞任させられた。

 『進撃の巨人』『アイアムアヒーロー』『亜人』『僕だけがいない街』などの最近のストーリー作品は、どれも日本の在り方を根本から問い直す作品である。

庵野はこれらの作家達と意識を共有しない、いやむしろ逆行しているのか? と思ったら、違った。 最後の最後で、ゴジラの尻尾がクローズアップされる。

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ネットでは、尻尾が人の顔に見えるだの、歯のようなものができているだの、色々取り沙汰されている。

 映画では、私はよくわからなかった。というより、ゴジラの頭をクローズアップしたと思っていた。


 尻尾からゴジラの子供が生まれるのか? 

しかし本当の問題は、ゴジラではないのである。 熱核攻撃のカウントダウンは、58分46秒で止まっている。 仮にゴジラの子供が生まれても、大きさ次第では自衛隊の火力で駆除できるかもしれないが、そのような事態に対応する準備はできているのだろうか?対応マニュアルがなければ、カウントダウンが再開し、熱核攻撃を止められないかもしれない。


 米軍の爆撃を受けて、ゴジラは口から紫色の光線を出す。

 光線を出す時、ゴジラの顎が二つに割れる。背鰭からも光線を出して米軍機を撃墜し、さらに尻尾からも光線を出す。

 元々、ゴジラは白熱光を出す時に背鰭が光るので、背鰭からの光線はそのアレンジと解釈できる。しかし尻尾からの光線はやりすぎと思わなかったか? 

もちろんそれは過剰攻撃という意味ではなく、ゴジラのコンセプトからずれたという意味である。

これが庵野のアレンジなのは確かだが、無意味なアレンジかどうかは一度考えるべきだろう。

 庵野は顎が割れる化け物が好きな変態ではない。庵野ゴジラは「何をするかわからない奴」なのである。

 そもそも、米軍の爆撃を受けて、なぜゴジラが光線を吐くのだろうか?

 「ゴジラが光線を出すのは当り前」と思うなら間違いである。ゴジラは米軍に攻撃されるまで、光線を出せなかった。ゴジラは進化したのである。

 思えば、伏線は既に張られていた。 上陸出来ないと思われていたゴジラが上陸した。これだけなら両生類だが、両生類は二足歩行出来ない。しかしゴジラは二足歩行をした。

 「まるで進化だ」と矢口は言う。そしてゴジラは一個体で進化し、空を飛ぶ可能性も、無性生殖する可能性もあることが指摘され、それが安保理の熱核攻撃決定に繋がっている。

 ゴジラは環境の変化に対応するために劇的に進化し、その進化は予測出来ない。 ゴジラの凍結で満足することなく、ゴジラの細胞全てが完全に死滅するまで気を抜けないのである。


 ラストの尻尾のクローズアップは、完全に解釈自由なものとして、観客に提供されている。

 私の解釈は、「尻尾が頭になる」である。尻尾に頭が生じ、尻尾が胴体になり前足が生える。そして元の胴体が縮小すれば、大きさがほとんど変わらずにゴジラが復活する。その時ゴジラは、血液凝固剤への抗体を持っている。そうなれば、熱核攻撃しかない。 

ゴジラは予測不可能な災害であり、予測の不可能性によって被害が甚大になる危険がある場合、犠牲の大きさを顧みずに、予測不可能な災害を完全に消去することを最後の選択肢として持っていなければならない。

 ヤシオリ作戦は、本来選択肢の中のひとつだった。しかしヤシオリ作戦は、熱核攻撃の選択肢との潜在的な対立を含んでおり、熱核攻撃の選択肢の消去を目指すものだった。

だからゴジラが凍結したことで、熱核攻撃の選択肢が消去されたものとして満足した。 「政治家の責任は進退」というのは、この詰めの甘さを強調、いや象徴する言葉なのだと、私は捉えている。


 表面的なストーリーの裏に何が隠されているかを探るのは、ストーリー作品の楽しみ方のひとつである。

 しかし、ゴジラの排出する放射能半減期が2週間ほどで、3年くらいで影響のないレベルになるとして観客を安心させ、エンディングで歴代ゴジラシリーズの音楽を流して、観客をすっかりレトロな気分にさせて帰らせるのは、庵野も少したちが悪いと思う。

 ラストについての私の解釈が庵野の主張なら、よほど知られたくない本音なのだろう。 


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『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生①

『進撃』16巻で、囚われたエレンは自分の持っている巨人の力「座標」が、レイス王家の者でない自分が持っていても「世界の記憶」を引き継ぐことができないことを知る。
「世界の記憶」を継承した者は、その記憶を人類に広めることができるが、それをした者はいない。初代レイス王の思想を継承したからだ。レイス家が「座標」の力を継承すれば、巨人を滅ぼすこともできる。だからその思想は、人類が巨人に滅ぼされるのが正しいという思想に、結果的になる。
レイス王は、ヒストリアを巨人にし、エレンの「座標」と「世界の記憶」を食わせようとする。
真実の重さに、エレンは愕然とし、ヒストリアに自分を食うように求める。
しかしヒストリアは巨人化する薬品を床に叩きつけ、父であるレイス王を投げ飛ばし、エレンを鎖から解き放とうとする。

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うるさいバカ!!泣き虫!!黙れ!!巨人を駆逐するって!?誰がそんな面倒なことやるもんか!!むしろ人類なんか嫌いだ!!巨人に滅ぼされたらいいんだ!!つまり私は人類の的わかる!?最低最悪の超悪い子!!

 

惚れたぜヒストリア!!

画像と被ったけど、ここは繰り返しても強調したいところ♪

『進撃』のテーマである個人主義は、ヒストリアによって頂点に達する。その勢いは人類を滅ぼしかねない域となり、個人主義者である各人がそれぞれの思惑により行動することで、結果的に人類が救済される構成になっている。
進撃の巨人を考える①』で、ヒストリアを真のヒロインと述べた由縁である。

ヒストリアは、

まどかの決断は自己犠牲ではない - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた、まどかやナウシカと同型のキャラである。
この三人は、世界の重要な運命を決める役割を担う点で共通する。「世界の運命を決めるヒロイン」である。
ならば、ヒストリアに対するエレンは何か。
エレンは、『アイアムアヒーロー』の鈴木英雄と同じダメヒーローである。
日本のアニメ、マンガは、『ナウシカ』『まどか』と、男のヒーローに比べて決断の困難な問題をヒロインに委ねる作品を二つも輩出した。そして『進撃』だけでなく、『アイアムアヒーロー』の早狩比呂美もまた、「世界の運命を決めるヒロイン」である。『アイアムアヒーロー』のZQNは、やがて融合して「巣」になる。「巣」には意思決定を行う「女王蜂」を必要とする。比呂美もまた「女王蜂」であり、英雄が重要な決断を比呂美に押し付けた結果、比呂美は「巣」に連れ去られる。男が決断を女性に押し付けたために、ダメヒーローが生まれたのである。
エレンがダメヒーローというのは、ひどいと思うだろうか?
確かににエレンは、鈴木英雄のように臆病だったり優柔不断だったりはしない。
しかし命令違反をしなくなったエレンは、その意思力で人を引っ張ったりしないし、自分に自信のない発言もしている。
「俺を食ってくれ!!」
と、泣いてヒストリアに頼んだ後のエレンは、自分が「死に急ぎ野郎」であることを否定する。
「死に急ぎ野郎」のエレンは、人を導いたが、それを否定したエレンは、人の後についていく。
やはりエレンはキャラが変わったのであり、潜在的にダメヒーローの要素を持っていると言える。少なくとも20巻まではそうである。
アイアムアヒーロー』は、決断をヒロインに押し付けたダメヒーローが、ヒロインを救い、男が決断の役割を担い、「ダメ」でないヒーローになる物語である。だからエレンも、ヒロインに変わって決断を担っていくのだろう。

ヒーローがヒロインに変わって決断を担うと言っても、男女同権の時代に、男尊女卑を説いているわけではない。
あくまでストーリー作品の思考、神話的思考であり、現実のそのままの反映ではない。
現実は、男が女に決断を押し付けているという単純なものではなく、様々な形体があるだろう。
しかし神話的思考が日本人の無意識である限り、決断という形でなくとも、男が女性を不当に扱っているという意識があるのだろう。この問題については、別の機会にしよう。

『進撃』と『アイアムアヒーロー』は同じ2009年に連載がスタートし、相互補完的な関係にある。
『進撃』『アイアムアヒーロー』『まどか』にはいくつかの共通点がある。怪物が一種類なこと。怪物が醜く、頭が悪そうで、基本的に相互理解不能なこと。活動範囲が狭いことなどである。
怪物が一種類なのはどういう意味か?
神話学者ジョセフ・キャンベル『神話の力』の中でこう述べている。


神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、という可能性を人に気づかせるんです。自分は完全で、十分に強く、太陽の光を世界にもたらす力を持っているのかもしれない。怪物を退治することは、暗闇のものを倒すことです。神話はあなたの心の奥のどこかであなたをとらえるのです。

 


心理学的には、龍は自分を自我に縛りつけているという事実そのものです。私たちは自分の龍という檻に囚われている。精神病医の課題は、その龍を破壊して、あなたがより広い諸関係の場へと出ていくことができるようにすることです。究極的には、龍はあなたの内面にいる。あなたを抑えつけているあなたの自我がそれなんです。」

 

龍が自分を抑えつける自我で、怪物が暗闇のものだということは、怪物が自分以外の他者である以前に、自分の中の闇を指すと考えるべきなのだろう。
次に、香山リカは『ぷちナショナリズム症候群』で、日本人の精神の「分離」を問題としている。
「分離」の例として、香山リカは昼は女子大生、夜は風俗で働く女性を挙げている。「風俗で働くことをどう思うか」と尋ねた時、その女性は「自分とは関係ないから」と答えていた。
この「分離」を、「日本バンザイ」という軽い「ぷちナショナリズム」と絡めて、香山リカは問題にしたのだが、
魔女、巨人。ZQNといった一種類の怪物は、「分離」に対して」「統合」が始まっている暗示である。つまり一種類の怪物は自分の闇であり、怪物が頭が悪そうで、相互理解不能なのは、その闇が理解すべき対象ではなく、打倒すべき対象だからである。私はかねてから、西洋のファンタジーを模倣した日本のファンタジーで、怪物が普通に人間と話し、しばしば相互理解をするのが不満だった。それはファンタジーの善悪の戦いという重要なテーマを低めるものだからである。
主人公たちの行動範囲の狭さも同様である。
『進撃』の狭さは説明するまでもない。
『まどか』は、美滝原という街だけが舞台である。
アイアムアヒーロー』は、ZQNのパニックが世界規模で起こっていながら、主人公達は安全な場所を探すとか、人を集めるという現実的な選択肢を採らず、ZQNが大量にいると想定される、自分達が住んでいた東京方面に向かう。
行動範囲の狭さは、セカイ系の影響、またはループもののような出口の無さともとれるが、私はここに「統合」を感じている。つまりファンタジー自体が心の旅であり、ファンタジーの世界の広さ自体が、「分離」の要素を含んでいるのである。
エレンの「座標」や、早狩比呂美の「半感染」による能力は、闇の力である。つまり善と悪の戦いではなく、闇と闇の戦いであり、自らのまた闇とするところが、これらの作品の凄みである。そしてこれらの作品は、人間=怪物という図式を持ち、闇と闇の戦いであるだけ、戦いがリアルで凄惨である。

「世界の運命を決めるヒロイン」「ダメヒーロー」「一種類の怪物」「怪物との相互理解不能」「怪物=人間」「行動範囲の狭さ」
これらの要素のある作品を、私は西洋型のファンタジーと比較して、日本型ファンタジーと規定している。
知る限りでは、これらの要素を全て持っているのは、『進撃』と『アイアムアヒーロー』のみである。『まどか』は「ダメヒーロー」の要素がないだけだが、日本型ファンタジーが、男が本来の力を取り戻す物語である以上、魔法少女ものに分類すべきだろう。
もちろんこれらの要素を全て含む必要はない。『亜人』は「世界の運命を決めるヒロイン」がいないが、私は日本型ファンタジーに分類している。つまり頭脳明晰な永井圭もダメヒーローである。
日本型ファンタジーは、以上3つだが、亜流もある。高野苺の『orange』、三部けいの『僕だけがいない街』である。
日本型ファンタジーの主人公がダメヒーローなのは、入り口がどこかの問題にすぎない。
日本型ファンタジーとその亜流の作品は、読者を世界型ファンタジーと同等、あるいはそれ以上の高みに連れていく。

今後、「『進撃の巨人』を考える」シリーズは、「日本型ファンタジーの誕生」に統合する。今後の展開としては、

①どのようにして日本型ファンタジーが生まれたか。

②日本型ファンタジーはどのように展開、発展するのか。

の二つである。①からやるとまどろっこしいので、両方交互に進めるつもりである。もっとも他に書きたいこともあるので、終わるのに何年かかるかわからないが。

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『NANA』は日本人の人間関係を変えた。

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私はこのマンガを見た時、「現実にこんな頭のいい奴らはいない」と思った。
別にタクミやヤスのような、格別に頭のいいキャラだけではなく、ハチやノブといったアホキャラさえ、私の知ってる人よりずっと頭がいいと思ったのだ。
もちろんそれは連載当時、単行本を買って読んでいた時のことであり、今もそう思っているわけではない。

NANA』の欠点は、ストーリーが見えづらいことである。
その理由のひとつはタイトルのせいで、二人のナナの物語で、二人のナナが早期に同居することから、ストーリー無用の同居生活が続くと読者に思わせている。
その印象が強烈なのは、二人の主人公が同じ名前だからである。
それが中盤、ハチの妊娠、タクミとの婚約で、二人の同居生活が終わると、読者としては裏切られた感じになる。
ここで二人のナナの気持ちが徐々にすれ違って行くのだが、ラストが大崎ナナの失踪(未完のため、失踪するところまでは描かれていない)、そして二人のナナの再会であるのが随分と遠く、表面的に良好な二人のナナの関係、またカタストロフィに向かうまでの伏線が複雑過ぎるため、話が見えづらいのである。
これが私の読解力の問題かと言われれば、あるいはそうかもしれない。複雑なストーリーから直感で構成を読み取り、感動した読者もいて、それが大ヒットに繋がったのかもしれないが、私の見る限り、『NANA』のヒットの理由はもうひとつある。

NANA』のキャラがみんな頭がいいと冒頭で言ったのは、全てのキャラが相手のことを考えて行動しているところである。


信じてた人に裏切られたショックってそー簡単に消せるものじゃないし……だからもしかしたらノブも新しい彼女が出来たとしても、同じように辛い想いを引きずるんじゃないかな

 


あたしはタクミを選んだけど、ノブを本気で好きだった事も嘘じゃなかったって……ちゃんと話して分かってもらう事があたしにできる唯一のつぐないかもしれないよ……でもそれって結局自己満足?よけい傷つける?どう思う?淳ちゃん…

 

ハチのノブへの心配は杞憂、というよりほとんど話にならなくて終わるのだが、成功、不成功は問題ではない。相手にとって何が一番幸せなのかをひたすら考えていく、その姿勢が現実の人間よりも頭が良く見えたのだ。
人と衝突する時もそうで、登場人物達は人をからかう時もあるが、相手が怒ると「ごめん」と頭を下げる。

NANA』を『めぞん一刻』と比較してみるといい。
一刻館の住人は、試験勉強で追い込みをかけている五代の部屋に上がり込んで宴会を始める。
「気が散って勉強できん!!」
と五代が言えば、「人のせいにして」と言い返す、なんとも迷惑な住人達である。
彼らの迷惑の基準は、自分達にある。人が「迷惑」と言っても、自分達が「大したことない」と判断すれば、その基準を相手に押し付ける。
五代は音無響子と結婚した後も、一刻館に住み続ける。「変人揃い」と言われた一刻館の住人達は、結局は平均的な日本人像だった。
NANA』の価値基準は自分にあり、冗談も相手への干渉であり、相手が受け入れなければ引き下がる。
そして『NANA』以降、『めぞん一刻』のような自分の価値基準を押し付けるキャラは消えたか、あるいはなんらかの悪人として描かれるようになった。
NANA』連載当時、日本人がそのような人達だったということはないが、若干でも『NANA』の登場人物達のように振る舞い、また『NANA』の登場人物達を多くの人が理想型にしていたのである。この点、『NANA』は日本人の人付き合いを根本的に変えたのである。

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二個だけ

kutabirehateko.hateblo.jp

に対して。
コメント載せろと言ったのは、そっちが質問したのに載せなかったから。そういうのは印象操作と思われても仕方ない。
承認制は否定しないが、注意しないと印象操作と思われるし、いちいち言い訳するくらいならコメント欄をなくした方がいい。そして印象操作したと思っている。
俺が陥れられているとは少しも思っていない。あんたも分かってるはず。時間稼ぎやめて。

くたびれはてこはたちが悪い。

ある記事についてブクマとコメント欄で議論していたが、「そっちのブログで書いて」と言われたので、遠慮なく。 

まず引っ掛かったのはコレ

kutabirehateko.hateblo.jp

はてこはここで、元エントリーと後続エントリーの内容について語っているが、問題は、

わたしが驚いたのは後続のエントリーがその価値観を追認し、自分たちの世界での理想に達することができない人たちに理解をしめすべきだとしたこと、そこに共感の声が集まったことだ。

 

と述べたことである。


こっちが驚くわ!!

「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という話だとしたら、わたしはこれにとても同意できない。

 

と書いているが、「後続のエントリーがその価値観を追認」「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という解釈はいったいどこからきたのか。

 そこでこんなブクマをつけた。

sakamotoakirax 元エントリーと後続エントリーのリンクを貼るべき。見る限り、後続エントリーはけっして上流の価値観を追認していない。

 

するとはてこからIDコールがあった。

kutabirehateko id:sakamotoakirax 階層とか高い低いって何?収入?育ち?社会的ステイタス?そういうものを雑に括って人間性と紐づけたり、脱するべきだという見解には到底共感できないわ、ってお話よ。

 

そこで今度はコメント欄に書いた。

坂本晶 (id:sakamotoakirax) コメントありがとうございます。はてこさんの趣旨に、後続エントリーは反しておらず、むしろ合致しているというのが私の意見です。

 

はてこのコメント欄は承認制になっている。これはすぐに承認された。 続いてはてこのコメント。

くたびれ はてこ (id:kutabirehateko) id:sakamotoakirax 残念だけど、それは趣旨が伝わってないってことだわ。 わたしは彼女達がいうところの底辺の人生を、必ずしも抜け出すべき悲劇だとは思わないから、抜け出せたら幸運で抜け出せなかった人は努力が足りないとか不運だとか思わないの。 あなたは?

 

確かに後続エントリーは趣旨が明確に伝わるとは限らない内容である。そこで、

坂本晶 (id:sakamotoakirax) 底辺を抜け出す必要がないというのは同感です。しかしいじめ、差別は良くない。後続エントリーの主張がそれだと私は思うのですが、趣旨が伝わらなかったのは仕方がないでしょう。

 

と書いた。しかし一日経っても、コメントは載らなかった。そこで、

あとお前ふざけんな三個目のコメントもちゃんと載せろ。

 

とブクマに書き足した。当然である。向こうが質問してきたからコメントを書いたのだから。

 しかしはてこはさらに新たな記事で後続エントリーに言及してきた。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

私立中学へ進学することで周囲と自分を差別化し、自分を囲む無理解な子供らを、それを擁護する教師を、自分があとにした故郷の人々を、ひとくくりに底辺と断定し、そこにとどまることを「抜け出られない」と気の毒がるのはおかしい。「底辺!底辺!自分はその階層を上がった!」と連呼する大人の女性には大丈夫ですかといいたい。

 


はあ…

そこでこんなブクマを。

しつこいね。俺のコメントを載せずにまたこの話を繰り返すのか。

 

すると、

kutabirehateko id:sakamotoakirax 気になる話題をそのまま1ヶ月くらい書くのはいつものこと。カーストすごいなと思ったわ。まだ書くかも。で、コメント?なんのこと? 64 clicks1 RT

 

IDコールが。 しかも本日19時の時点で64クリック!?


なにコレwww

で、私はブクマの文を変えた。

sakamotoakirax これであんたが故意に人を陥れていることがはっきりした。ならこっちにも考えがある。

 

で、今書いてるわけ。 この後やっと、『弱者、下流、底辺…』の方に載らなかったコメントが載った。

くたびれ はてこ (id:kutabirehateko) id:sakamotoakirax いま気がついたわ。コメント承認のタイミングはプロフィールにある通りなので、書きたいことはご自分のブログにどうぞ。 あのエントリー自体が差別の再生産だと書いてるの。伝わらないのね。

 

「いま気がついたわ」 って嘘つけ。自分から質問したんだから、謝罪のひとつもあってしかるべきだ。

 さて、知らない人は後続エントリーとは何なのかと思うだろう。

toianna.hatenablog.com

知る限り、この記事以外には思い当たらない。異論があるならどーぞ。 内容は説明しない。読んで欲しい。

かくして生存者バイアスに乗っ取られた私を救ってくれたのは、皮肉にも数年後にやってきた自分の精神疾患だった。当時の私は男へ貢いだ挙句5股をかけられ、精神がミンチ肉のように千切れていた。

 

当時の自分はまるで、あの時のいじめっ子そのものだった。思いやる力も、現状分析も愛情とお金がなくては無理だった。精神的に追い詰められすぎると誰しもこうなるのか。そう気づいてから、同級生への恨みが減っていた。

 

これのどこが差別に繋がるのか?

 トイアンナ氏は、差別する者も差別しない者も変わらないと言っているのだ。ここには上からの見下しなどない。

 見下しているのは、差別を捨てきれなかった自分の祖母とトイアンナ氏をだぶらせて憐れんだふりをしようとしたはてこの方である。本当は自分が下なのに。

 はてこはトイアンナ氏の趣旨がわからないほどバカではない。だからはてこの二つの記事は、純粋な悪意である。

 そろそろトイアンナ氏の記事のリンク貼ったら?

 あとはてこ、あんたの読者辞めたけど、ときどき見に行くからよろしくな。


 はてこから何かきてたけど、取り敢えず後回しにする。

ロシア遠征からナポレオンを見る

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1812年、ナポレオンはロシア遠征を起こした。

 ナポレオンが集めた大陸軍は691500人。歴史上、これだけの規模の軍勢を集めた例は他にない。

 ロシアに進攻した大陸軍は、一路モスクワを目指す。

 途中、戦闘はほとんど行われなかった。 8月に入って、両軍はようやくスモレンスクで会戦したが、大陸軍は強行軍とロシアの焦土戦術により、15万まで減っていた。

 勝利したナポレオンはさらに前進し、9月にボロジノで再びロシア軍と会戦。この時の大陸軍は13万程度である。

 この後モスクワに入城したが、この時の兵力は11万である。 

以上、読者もご存じのことで、この後モスクワが焼かれ、退却行でのロシア軍の追撃で、大陸軍が壊滅したことも説明するまでもない。

 私の疑問は、モスクワ入城時に6分の1まで大陸軍が減っているのに、ナポレオンは途中で引き返そうと思わなかったのかという点である。

 疑問といっても若い頃の疑問で、昔はロシア遠征はナポレオンの失策だというのが主流だった。

 今もこれが通説であることに変わりはないが、最近は歴史を語る人が極端に減っており、ナポレオンの話をする人もいないので、通説に対する私の感覚が鈍っている。

そして今では、ロシア遠征を失策だとは思っていない。 


そもそも遠征の目標がなぜモスクワなのかという疑問がある。 

大学受験の経験のある人のために断っておくが、この疑問を呈したのは私ではなく、予備校講師の参考書である。 

それはともかく、ロシアの首都はサンクトペテルブルグであり、サンクトペテルブルグなら行軍距離も短く、大陸軍は物資不足に悩まされることなく、短期決戦で講和という、ナポレオンの得意のパターンに持っていける。

 目標がサンクトペテルブルグでなかった理由はすぐに分かる。

 バルト海に面したサンクトペテルブルグを包囲すれば、イギリス海軍が救援にきて、大陸軍は艦砲射撃を受けることになる。当時世界最強のイギリス海軍に対処する術はナポレオンにはない。だから第一目標を捨てて、第二目標を選んだのであろう。

 問題は、第二目標に目標の意味があるかどうかである。モスクワ陥落が講和、降服、征服に繋がらなければ、第二目標の意味がない。

 この疑問に答えてくれたのが佐藤優氏と亀山郁夫の対談『ロシア闇と魂の国家』である。

(亀山)ロシアはアジアではなく、ヨーロッパだ、というアイデンティティを保証する一種のシンボル都市ですね。ロシアという言葉につよく拘泥したときに往々にして見失われがちなのが、巨大なペテルブルグ文化ですよ。なにしろ、ロシア文化の最良といえる部分を築き上げてきたのは、ペテルブルグが八十パーセントといっても過言ではないからです。

 

(亀山)1917年のロシア革命以来、ロシア第二の首都に甘んじたペテルブルグの心と体は完全に「疲労」にむしばまれていたと思いますね。形式を嫌い、荒々しい欲望に身をゆだねるモスクワの野放図で、由々しいエネルギーを遠目に、つねに背筋を伸ばしてきたのがペテルブルグだと思います。でも、その疲労というのは、大帝(ピョートル1世)の遺言(ヨーロッパへの窓)を果たすため、あえて「ロシア的なもの」に背を向けてきたこの街の宿命でもあったはずです。詩人ブロツキーは、「秩序の理念」とその精神を定義づけてみせたけれども、かりにペテルブルグという「鉄のコルセット」がなければ、現代のロシア文化なんて、それこそ締まりがない体を世界に曝すだけだったと思う。ペテルブルグの理性、ペテルブルグの良心は、もっともっと評価されてしかるべきだと思います。

 

(佐藤)ぼくの付き合う相手は、ほとんどがモスクワのインテリでしたが、彼/彼女らと付き合ううちに、モスクワが閉ざされたひとつの小世界を構成しているということが、皮膚感覚としてわかるようになりました。そうすると外部の世界に出て行くという意欲がなくなるのです。

 

(佐藤)ロシア人の意識では、人工の都ペテルブルグに対してモスクワは古都なのです。この辺の復古主義的心情をうまく利用して、レーニンたちはソ連の首都をペテルブルグではなくモスクワに定めました。「モスクワは第三のローマである」というスラヴ派の主張を密輸入したのです。

 

ペテルブルグを陥落してモスクワが首都になれば、ロシアはアジア的、土俗的な精神に回帰してしまうのである。 

ならばモスクワを落とせばどうなるか。モスクワを落とし、周辺、シベリアを征服すれば、中央アジアシベリア少数民族が反乱を起こし、ロシアはアジアから分断される。ロシアにはよりヨーロッパに近い地域が残り、ヨーロッパのみに目を向けた国家になる。 

首都がモスクワから分離されていた、この時代だからこそ立てられる戦略である。

ナポレオンが69万という大軍を集めたのも、ここに理由がある。おそらく遠征は、成功しても2年はかかっただろう。

そして69万の軍勢のほとんどが命を落とすことは、ナポレオンの計算に入っていた。6分の1まで兵力が減りながら、ナポレオンがモスクワまで進めたのは、この計算があったからである。 

これでロシアを分裂させることが本当にできたかといえば、まだ可能性は低いかもしれない。

それでも言えるのは、現代でもヨーロッパの潜在的脅威であり続けるロシアを弱体化させる歴史上最高の戦略を、ナポレオンが立案、実行したことである。


 ロベスピエールにできなくて、ナポレオンにできたことは、革命の輸出である。

 フランス革命により誕生した国民軍が対仏大同盟に勝利しても、他国で革命は起こらなかった。

しかしナポレオンは、各国の王を自分の近親、部下に変えることで、革命を輸出できたのである。

 この点、ナポレオンは皇帝になっても、あくまで革命の側の人間であり、ナポレオンがハプスブルグ家と姻戚関係になっても、各国はナポレオンに対する見方を変えることはなかった。 

革命はナポレオンの政権奪取で終わったのではなく、ナポレオンの没落によって終わったのである。

ナポレオンが皇帝であろうとなかろうと、革命をヨーロッパ各国が認めるはずがなかった。


 ロシア遠征の引き金になった大陸封鎖にしても、無茶なことは確かだが、他に手はなかった。

 当時イギリス海軍が世界中のフランス植民地を手中に納めていた。

イギリスに取られるよりはと、ルイジアナを二束三文でアメリカに売っても、全ての植民地を失う危険は避けられなかった。


 外交においては、勢力均衡派のタレーランの方が実力が上に見られ、あるいはそうかもしれないが、ナポレオンとタレーランでは立場が違う。

ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げられないが、タレーランは革命が終わっても栄達できた。


 エジプト遠征で、ナポレオン軍は艦隊をイギリス海軍に焼き払われ、孤立無縁となっていた。

ナポレオンは全ての兵士を捨ててフランスに帰還し、クーデターを起こして皇帝になった。エジプトに残されたフランス軍は降服した。

 ナポレオンはエジプトで死ぬべきだったと、かつては思っていた。 今でもその気持ちを完全に捨てた訳ではないが、見方が変わってきたのは、ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げていないことが分かってきてからである。 

エジプト遠征でペストが流行した時、罹患の危険がありながらも、傷病兵を見舞った。 

思えば、ナポレオンの人生の選択には、リスクとリターンが同じくらいあった。 ナポレオンはわずかに、リターンよりリスクの方が多いと判断して、その選択をし続けた。

そのような生き方を貫いた者への、賞賛の気持ちだけは抑えることができない。 


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