坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

見えない世相②~ネガティブな誠実さ

見えない世相①~核を攻めない人々 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

以来、1年2ヶ月ぶりのシリーズ再開である。
このシリーズが長期に止まったのは別件により書く余裕がなかったからだが、あまりに長く期間が空いたため、今回はあまり詳細に分析せず、外観的に述べることにしたい。

世相が見えない点について、私の感想は1年前と変わっていない。
ネット右翼は2年前に比べてずいぶんおとなしくなったし、「自画自賛症候群」と言われた問題も一服感がある。
一時、あるいは今もあるのかもしれないが、「ポエム化」と呼ばれる現象が問題になったが、私はあまり大きな問題ではないと思っている。
世の中は常にどこか不健全なもので、説得力に自信のない者がポエムな文章を書くだけのことにすぎない。各自がばらばらに書いていることがポエムな文章になっているだけなら、それほど大きな問題ではない。
大きな問題とは、それがひとつの言葉になって、集団で連呼されていることである。それが2年前まで言われていた「絆」だった。
東日本大震災以来、被災地への支援の意味で唱えられていた「絆」は、2014年を境にしてほぼ消えた。
その理由は被災地への支援が充足したからではなく、被災地とそれ以外の地域をつなぐ意味の「絆」がそれ以上の意味を持っており、その「絆」がある事件により断ち切られたからである。その事件とは、特に従軍慰安婦を巡る左派と右派の対立であり、「絆」とは対立のない、争いのない社会をさす言葉だった。
2014年を境に「絆」という言葉が消え、熊本大地震があっても復活していない。これは「絆」という言葉が、表面的な対立のなさを強調する言葉であり、対立が表面化したら使えない言葉であることを意味している。最近もこんな記事があった。

www.nubatamanon.com

そして「絆」が消えた現在、社会を表す言葉、現象を見かけない。
本、映画、音楽全ての分野で、何がヒットしているかわからない。例外は『進撃の巨人』などの一部のヒット作だが、これは今までのブーム、ヒット作とは大部違う。何が違うかは、そのうち書くつもりである。

個人的なことをひとつ。
古代史ブームもなくなった。
私は2000年代、関裕二を中心に古代史関連の本を読んでいたが、それだけに感じられるのが、古代日本が朝鮮半島とかかわりがあるとわかってきた頃から、古代史ブームが終息していったように思えることである。私はサブブログで、古代の天皇新羅からきたとする説で記事を書いているが、古代の天皇朝鮮半島からきたとなると知的好奇心を失うのなら、古代史ブームが終息するのも無理ないだろう。

今回記事を書くに当たって、今の若者が今でもおとうさんを尊敬しているのか、新入社員が今でも最初の会社で一生働きたいと思っているのか興味があった。
それで「一生ひとつの会社で働きたい」で検索すると、2013年以降「一生ひとつの会社で働きたい」というアンケートはとっていないことがわかった。

あなたは今の会社に一生勤めようと思いますか? 公益財団法人日本生産性本部「2012年度 新入社員 秋の意識調査」から | 社労士発 ビジネス成功論

この記事では、入社時に「一生ひとつの会社で働きたい」
が60%だったのが、秋には30%以下に下がっている
そして「一生ひとつの会社で働きたい」は、2012から2013年を境に、「年功序列型の賃金体系と昇格制度を希望」に変わり、秋のアンケートは「条件の良い会社があれば、さっさと転職する方が得だ」に変わっている。

モバイルサイトプレビュー

の、「新入社員のタイプはドローン型」から見ていくとそれがわかる。
これは、今の若者が「一生ひとつの会社で働きたい」、と思っていない証拠ではない。ただ、誰かが従来の価値観のブレを危惧し、アンケート内容の変更していることを表している。これはよくない。そのうち別に記事にしよう。

尊敬する人ランキング!偉人・歴史上の人物vs両親・恩師?

では、2016年の高校生対象のアンケートでは、「特になし」が一位になっている。二番目以下が「父」から「母」に変わっているが、正直これだけでは、大きな変化があると断定することはできない。高校生対象で見ることが、日本人全体の変化につながるかも、慎重に見る必要があるだろう。

選挙の投票率は、年々下がっている。
しかしこの傾向を見て思うことは、投票率が下がりながらも、「政治に無関心」という声が聞こえなくなっていることである。
昔はいた。そして昔は、今より投票率が高かった。つまり昔の人は、「政治に無関心」と言いながら投票に行き、今の人は投票に行かないが、「政治に無関心」とは言わない。つまり昔の人は投票に行っても不誠実であり、今の人は投票に行かなくても誠実である。
私はこれを、「ネガティブな誠実さ」と呼んでいる。
「微妙」「俺的」などの、曖昧な表現や自分を主語から外す表現も使わなくなった。今の人は表現において逃げなくなった。ただその逃げない精神がベクトルを持っていない状態が、「見えない世相」を生み出していると思われる。
「見えない世相」を「見える世相」に変えるには、個々人がベクトルを持ち「ネガ」を「ポジ」に変えることだが、今のまま個々人が、自分の中の変化を待つのもひとつの手ではないかと思う。
人は動かなくてはならなくても動けない時がある。私にもそういう時期はあった。
動けず、座り込んでいる時に、自分の中で何が変わってきているのかを見つめることも大事である。1年座り込もうが3年座り込もうが、座り込んでいた人は、1年前、3年前とは同じ人ではないのである。

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