小池田マヤの『しのぶもちずり』は労作である。
傑作ではない。しかしこの作品は、作家の使命感がある。
それは「主人公にならない人間を主人公にする」というものである。
創作とは既成のものを打ち破るものであり、そうである以上紋切り型の作品を作る作家でも、既成のものを打ち破るのは半ば義務のようなものであり、それをしない場合、たとえ紋切り型の作品がヒットしていても、暮夜密かに作家を悔やませるものである。
『家政婦さんシリーズ』では、全体を通じての主人公は家政婦の小田切里だが、各シリーズごとの主人公がいて、(大抵は依頼主)『しのぶもちずり』の主人公は依頼主の信夫十忍(しのぶとしのぶ)である。
信夫は営業マンで、メンヘラである。
営業の仕事ほど、自分の仕事の意味が分からずに悩む仕事はない。それが「主人公にならない人間を主人公にする」作品とする第一の理由である。
営業の仕事で神経を磨り減らし、周りにはしっかりしている人のように見えても、何かに頼りたいと思ったり、人と関わるのが苦痛で身を捩ったりする。信夫はそれで離婚した。
離婚してもしっかりして見えるし、営業マンらしく物腰が丁寧なので、信夫はもてる(男にも)。
それで家政婦とのトラブルがあり、嫌気が差した信夫が家政婦派遣に提示した条件は「依頼主と顔を合わせないこと」だった。
『家政婦さんシリーズ』の醍醐味は、依頼主の理不尽な要望に里が答えて、なおも依頼主を満足させていくところにあるが、このシリーズでも、里は顔を合わせずに、信夫の満足のいくサービスを提供していく。
結局顔を合わせた二人は恋仲になるが、里は信夫のメンヘラに付き合い切れなくなる。
メンヘラは周囲を疲れさせ、人が離れていく。
これは信夫が営業の仕事をする限り、宿命のようなものである。
そしてこれが信夫が本来主人公になれない第二の理由である。人が幸福になるのに人とのつながりが必要なら、信夫は永遠に幸福になれない。
ハッピーエンドを迎えられない信夫は、普通は主人公になれないのである。
しかし信夫は幸福にはなれないが、誇りがある。誇りが幸福に変えられるものだとは思わないが、幸福の代わりに誇りを持って信夫は生きていく。
信夫は多くの幸福になれない人々の代表である。
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