坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

信長の戦い②~うつけの正体

信長の父の信秀の代に、織田家は三河安城城、大垣城に進出していた。しかし安城城は今川の手に渡り、大垣城も信長が家督を継いだ年に斎藤氏に戻った。
こうして、信長の勢力尾張国内に限定され、信長の戦争もほとんどが尾張国内で行われる。家督を継いだばかりで、世評の良くない信長として、妥当な行動である。

信長公記』によれば、信長が家督を継いで最初に戦ったのは山口左馬之助とその息子の九郎二郎である。山口の軍勢は千五百、織田勢は八百である。この時織田勢は「上槍を取られた」とある。
「上槍を取られた」とはどういうことか?私は古文献に詳しいものではないが、「上槍を取られた」という記述を『信長公記』以外に知らない。
「上槍を取られた」とは、敵方の槍を自分の槍で上から押さえつけたということである。
「上槍を取られた」側は、確かに消耗が激しいだろう。しかしこの合戦は、勝敗がついていない。捕虜になった兵や馬を交換しあって両軍とも引き上げている。倍近い兵力に対し、信長は善戦したといえる。「上槍を取られた」のは兵力差から見て当然と言えるし、上槍を取った側が真面目に戦っていないような印象を受ける。

村木の砦を攻めた時は、斎藤道三に兵を借りて、那古野城を守らせて出兵している。
この時の織田勢は「数知らず負傷者・死者が出て、目も当てられないありさま」だったとある。秋山駿もその著『信長』で述べているように、「自分の力の減少を賭けて闘っ」ている。

信長のエピソードとして「火起請」がある。
「火起請」とは古代からの裁判の手段で、焼いた鉄を握らせて、持てるか否かで有罪か無罪かを決めるものである。
このエピソードは信長が無神論者だという認識が崩れた2000年代頃から作家や研究者が取り上げ始めた。
領内で窃盗があり、真偽の判定のため火起請が行われたが、容疑者は鉄を取り落とした。しかし容疑者の仲間は容疑者をかばって成敗させまいとした。
そこで信長は自ら火起請を行い、焼いた鉄を持って三歩歩き、容疑者を成敗した。この容疑者は信長の乳母兄弟の池田恒興の家来である。
やると決めたら必ず実行し、自分に近い者にも容赦しないし、犠牲も厭わない。
信長は、ちんどん屋のようなスタイル以上に、この性格によって警戒され、「うつけ」と呼ばれたようである。
「上槍を取られた」と言われたのも、信長を警戒する世間がことさらに嘲笑してみせたのではないかと思う。

信長が清洲城を手に入れた後、信長は奇妙なことをしている。
信長は清洲城尾張守護の斯波氏に譲った。これは斯波氏を神輿にする信長にとって当然の選択だが、その後信長は隠居と称し、北の櫓に移った。
信長は何の隠居になったのか?
もちろん斯波氏の隠居でも、織田家の隠居でもない。
信長は清洲城主の隠居となったのである。
しかし隠居とは家のシステムでの立場なので、城主の隠居というのはあり得ない。だから信長の態度は常識から外れているのだが、この行為により、信長は前守護職であるかのような印象を世間に与えた。しかも詐称ではない。

の信長が家督を相続してから、尾張国内での暗殺事件が相次ぐ。
尾張守護の斯波義統、信長の叔父の織田信光、信長の弟の秀孝、秀俊が殺されている。
太田満明はその著『桶狭間の真実』で、一連の暗殺の首謀者を信長だと推測する。
しかしそう思うのもわかるが、私はこの推測に同意しない。
信長の弟がそれほど重要な人物だったとは、私には思えないのである。信長にとって危険だったのは、やはり同母弟の信行くらいだろう。
信長の父信秀は、尾張の外に進出することで尾張の旗頭となり、信秀の存在により尾張の秩序は維持されていた。
信秀の死後、信長の行動は尾張に限定された。これ自体は妥当な行動だが、尾張の人々の目も国内に向くことで、下剋上が急激に進行したのである。はたして信秀のくたびれ儲けだったのか、それとも信秀が潜在的下剋上を進行させていたと見るべきか。おそらく両方だろう。
津本陽は『下天は夢か』で、叔父の信光暗殺のみを信長が黒幕だとしている。信光は守護代清洲織田について信長と戦いながら、信長と通じて守護代を殺している。津本の推測が妥当だろう。

このような尾張の情勢で、弟の信行が謀反を起こし、信長は稲生で信行と戦う。
ここで奇跡的なことが起こる。信長が信行軍を一喝すると、信行の軍勢が崩れて逃げ出したのである。
これを秋山駿は信長の人格的威厳とし、ナポレオンに比肩するものだとする。
信長に人格的威厳があることは、否定しない。しかしそれが主な原因で、信行軍が崩れたのではない。
尾張国内では下剋上が進行したが、その実態は何者でもない者が、主筋の人物を殺していただけである。
この尾張の無秩序がピークに達した後、人々は秩序の回帰を望むようになった。その時信長は尾張の前守護に準ずる者であり、さらに美濃の潜在的領主である。実は信長は、尾張で最も権威のある人物だったのである。
鉄砲の三段射ちや鉄船などの信長の技術革新は、現在ではあらかた否定されている。信長が天下を取った資質として見るべきは、その政治力である。その政治力は時として極めて日本的で、時に日本の政治の在り方を知悉し抜いてそれを破壊する。信長の尾張での戦いには、その原形がある。

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