『ドラゴンボール』(以下『DB』の原作では、チャオズやギニュー特戦隊のグルドなど、超能力を使うキャラが度々登場する。
ところが、『DB』原作では、超能力は添え物なのである。戦いに決定的な影響を与えない。
ストーリー上もバトルにおいても、超能力は必要がないのだが、それでも超能力がバトルで使われるのは、その方がゴージャスな雰囲気をストーリーに与えるからである。この手法は主に『西遊記』で用いられていて、『西遊記』を読んだことがある人は、悟空と牛魔王の変身合戦を思い出してみるといいだろう。
『西遊記』の悟空と牛魔王の華やかな変身合戦を読まされ、しかも戦いに決定的な影響がないと、バトルに「ゆとり」さえ感じてしまう。「ゆとり」が「サイヤ人編」以前の『DB』を貫く一番の特徴だった。
ファンタジー作家の多くは、超能力や魔法でガチのバトルをさせてしまうが、元々超能力や魔法にはリアリティがないので、超能力や魔法のガチバトルにもリアリティがない。
ところが鳥山の天才的なところは、超能力でゴージャスさを出すのと逆の手法を編み出したことである。
「未来トランクス編」でザマスがワープゾーンを作り、悟空とベジータを攻撃したり、「宇宙一の戦士編」で武器を生成する術を持つガスに悟空が翻弄されたりする。
別に面白くはない。ただ超能力はリアリティがないために、肉弾と気功波というリアリティのある攻撃では対抗できず、絶望的な印象を読者に与えるのである。
マンガ版『ドラゴンボール超(以下DB超)』の「銀河パトロール編」で、星喰いのモロを悟空が「身勝手の極意・極」で追い詰めると、悟空は銀河パトロールのマークが入った胴着を破り捨て、「ここからは地球人として戦わせてくれ」と言う。その言葉を聞いて「悪い予感がするぞ」とビルスが言う。
DBで定番の、悟空が「また戦いてえ」と言って敵を逃がすパターンの再来じゃないかということである。実際この後全宇宙が危難に襲われるのだが、はたしてこの時の悟空の行動は正しかったのか?
マンガ版『DB超』を通読すると、「未来トランクス編」のラストがアニメ版と違っている。
アニメ版はザマスが宇宙そのものになって、悟空が全王を呼び出して宇宙ごとザマスを滅ぼすのに対し、マンガ版では合体ザマスがバラバラになっても増殖して復活するというバッドエンドで、全王が宇宙ごとザマスを滅ぼすというオチがアニメ版と同じだった。
このようにアニメとマンガで結末が違うのが理由がわからなくて、単に違うストーリーにしたかっただけかと思ったが、最近読み返して、こんなに早くから伏線を張っていたんだと気づいて苦笑した。
つまりマンガとアニメでは、似たようなストーリーに見えて世界線が違うのである。世界線が違うということは、マンガ版『DB』にはザマスが宇宙と一体化するという事態が起こっていないということである。だからモロが地球と一体化して爆発し宇宙ごと吹き飛ばすという事態は想定できないということである。
「身勝手の極意」は神の技であり、肉体を鍛えない限り使いこなせない。モロは天使のメルスの力を吸収して「身勝手の極意」を使ったが、星を吸収して強くなり、修行をしたことがないモロには、「身勝手の極意」は使いこなせなかった。悟空はそれがわかっていたから、トドメを刺す前にモロと話しても大丈夫だと思った。またウイスもそれを認めていた。
しかしその後ウイスが「モロに勝ちたいなら今すぐトドメをさしなさい」と警告したこと、またビルスの先のセリフから、前例がないからといって危険がないということではない。だからここでのメッセージは、「敵にトドメを刺すのを躊躇するな」ということである。
で述べたように、ベジータの「我儘の極意」は攻撃力に制限がない。
一方悟空の「身勝手の極意」だが、気で巨大な自分を作ったり、「研ぎ澄まされた身勝手の極意は体が勝手に強度を上げる」とウイスに言われたりして、とにかくその強さが強調されている。しかし実は、アニメ版はともかく、マンガ版で「身勝手の極意により攻撃力が上がった」とは一度も言われてないのである。
しかも一度だけ、悟空が不意打ちのかめはめ波をジレンに喰らわせた時、「相手の隙をつく攻撃など、真の強さではない」とジレンに言われてしまっている。「身勝手の極意」によって、悟空の攻撃力は上がっていないのである。「身勝手の極意」はあくまで回避、防御のための技である。
これは攻撃の主体が悟空からベジータに変わったということであり、悟空のように正義のヒーローであり続けた者が戦うのではなく、ベジータのように罪を犯し、罪の意識に悩む者が戦うべきであることを示している。
ガスとの戦いの合間に、かつて悟空の父バーダックがガスと戦った音声記録を聞いた悟空とベジータは、サイヤ人の誇りに目覚める。
「死ぬかどうかの戦いの時に、勝つこと以外を考えているバカがいるか?」とバーダックは言う。
『東京喰種』でも、旧多二福とカネキの戦いで、「あなたそういうの好きでしょ?戦うリユウがあ〜みたいな」と旧多が言うのに「興味ないです」とカネキが言って「真面目〜!」と旧多が驚く。戦う理由を考えないのが真面目だというのである。目の前に戦うべき敵がいるのに、そこで戦う理由を探し、見つからないと十分に戦えないのは不真面目なのである。
「民族の誇りとは、その罪を償うことでも、仇への復讐をすることでもない。自分の本質を受け入れて信念を貫くことじゃ。それはどの民族でも同じなんじゃ」とナメック人のモナイトが言う。しかしこれは民族のことではなく個人のことを言っている。
「自分の本質」とは、今の自分が何かということである。過去でも未来の自分でもない。
贖罪というのは、人が過去の罪の意識から逃れるためにするための儀式であって、人によっては全く必要ないし、贖罪の程度も人によって違う。今なんらかの正義のために戦うことと、過去の罪は無関係のことである。
ならば悟空は戦わないのかといえば、そんなことはない。
「宇宙サバイバル編」と「銀河パトロール編」で、悟空は「身勝手の極意・極」でジレン、モロを倒すのに主要な活躍をした。
宇宙の危機ではない悪とはベジータが戦い、宇宙の危機の時にこそ悟空が重要な働きをする。これはそういうメッセージなのである。
日本の王道のように見えて、世界に通じるヒットコンテンツを、私は三つ言うことができる。宮本茂の『スーパーマリオ』や『『ゼルダの伝説』シリーズ。サザンオールスターズの楽曲、そして『ドラゴンボール』である。
この三つのヒットコンテンツは、日本で生まれながら、非日本的な要素がより強いために世界でヒットした。
根性論が嫌いな鳥山は、それぞれのキャラが自分の適性にあった無理のない成長をする姿を描いた。そのゆったりとした成長の時代が終わってインフレの時代になると、卓越した画力と様々な工夫でリアリティを保ちながらハイパーインフレを実現した。
伝統的価値観に縛られない鳥山は、正義のために信じられる感情は、仲間の死による怒りだけだった。だから悟空は怒りで超サイヤ人になった。それが現在のテーマ性の強い『DB超』でない、ヒットコンテンツとしての『DB』だった。
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