言語というものは面白いもので、細胞に膨大な遺伝子の記録が詰まっているように、言語にも人の記憶が詰まっているようである。
たとえば山本七平はヘブライ語で聖書を研究することで、日本人とユダヤ人の違いを深く知り、日本人についての多数の論考を残した。
アイルランドの作家ジョイスは故郷のゲール語を用いず、英語で小説を書いた。それが『ユリシーズ』で、ヨーロッパの古典中の古典『オデュッセイア』を下敷きに、オデュッセウスの10数年の地中海の旅をダブリンでの一日の徘徊に、英雄オデュッセウスをしがない広告取りのレオポルド・ブルームに、オデュッセウスの息子テレマコスを作家志望の青年スティーブン・ディーダラスに、貞淑な妻ペネロペを浮気妻モリーに置き換え、駄洒落や引用をいっぱいにしたこの作品は、プルーストの『失われた時を求めて』と双璧を成す20世紀文学の代表作となったが、ジョイスの目的は英語を破壊することにあったという(もっともこれは『愛蘭土紀行』での司馬遼太郎の見解で、私自身は『ユリシーズ』を読んでいない)。
とにかく、ジョイスはゲール語で作品を書かなかった。司馬遼いわく「個人主義的でまとまりのない」アイルランド人の母国語で作品は書けないとのことだった。
私自身にも思い当たることがある。といっても私には日本語しか話せないのだが、代わりに方言がある。
方言もネイティブとは言い難く、私より訛りの強い同郷人はたくさんいる。しかしそのような訛りの強い同郷人を受け入れるということはなく、同じ方言の中で訛りの強い者をバカにしている。
つまり方言自体が村社会を形成していって、しかも年齢が若くなるほど方言は抜けていくので、排除の論理しかない方言は廃れる一方で歯止めがかからず、今の若者はきれいな標準語を話すという事態に陥っている。
地方には地方の特産品がある。
道の駅などで販売しているが、癖のある食べ物が多く、スナック菓子のようには簡単に受け付けられない。
いわば方言のように、同心円にある者に受け入れられる商品なのである。だから特産品は押し付けられている感が強い。販売業者は村興しの一貫として、自分達の商品を売ってるだけかもしれないが、「これがおらが村だ」というのを全面に出されるのはちょっと敷居が高い。
そんな中でも、山形には芋煮がある。
よくあるお吸い物に里芋が入っているだけといえばそれまでだが、口当たりが良くて受けやすいとは思う。しかし全国展開するほどの人気はない。
一方、山形は博多ラーメンが流行らない。出店しても数年で店を畳んでしまう。
コロナ禍により多数の飲食店が潰れ、私はこれから、山形で博多ラーメンの店が新しくできることに絶望している。
それまで馴染みのないものを受け入れるというのは、ライフスタイルを変えるということであり、人間関係を変えるということでもあったりする。
人は皆、ライフスタイルや人間関係を変えようとしない。そういう人間の行動の一貫で、山形には博多ラーメンが流行らない。
私は、方言で文章を書くのはずっと不可能だと思っていた。
三人称の文というのは距離をおいて物事を見る必要があって、方言は村社会的な排除の論理が強すぎて、感情を書くのにしか用いることができないのである。方言で三人称の文を書くことほどしっくりこないことはない。
ならば、と思ったのは、自分が受け入れてこなかったことを受け入れた時に、方言を使うのはどうだろうと考えた。
たとえば博多ラーメンを食べたことがない人、食べ慣れていない人が博多ラーメンを食べて、「ちょくちょく通ってみよう」と思ったとする。この気持ちを方言で表現するのである。
違ったものを受け入れた時だけではない。
たとえば会社でパワハラなどがあり、「パワハラは良くない」と言ったとする。そう言った時の気持ちを表現するのである。
パワハラと戦ったりすれば、それなりの反応が返ってくる。部署異動になることもあるかもしれない。
そういう時の気持ちも表現しよう。しかしネガティブな気持ちはなるべく出さない方がいいが、出すなら標準語で出そう。標準語は同心円にいない人も受け入れる言語なので、ネガティブ表現をしても大丈夫である。「左遷されたけど後悔してない」と思ったら、その気持ちを方言で話す。
つまり、方言にある同心円上の人だけ受け入れる言語意識に、新しい感情を上書きするのである。
方言を書いて表現するならSNSなどで、話すなら同じ方言の人と語ろう自分一人だけで方言の言語意識の感情を上書きしてもうまくいかない。できるだけ多くの人と、方言で感情を共有しよう。
もしそういう運動が広がれば、そのうち方言で三人称の文章を書く人も現れるかもしれない。もっとも私にはまだ不可能なことだが。
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