坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生(22)~『僕だけがいない街』2: 被害者と冤罪者の物語

僕だけがいない街』(以下『僕街』)で、藤沼悟は殺された母親を発見し、既に死体となった母親を介抱しようとするが母親が生き返ることはなく、悟が再上映(リバイバル)と呼ぶ時間の巻き戻しが起こる。
再上映の後、悟は犯人を追うことで犯人の罠に嵌まり、警察に容疑者と見なされる。悟が警察に捕まりそうになったところで、昭和63年へのタイムスリップという大きな再上映が起こる。
悟は昭和63年の北海道美琴町で、小学生の時に誘拐殺人事件で死んだ雛月加代を救う決心をする。しかし悟は、雛月の死を一日先伸ばしにできただけだった。雛月が死んで、悟は2006年に引き戻される。

悟は一度、雛月の信用を失うことをする。
短距離走で毎日練習を頑張っている相手のことを考えて、手を抜いてしまうのである。雛月には「精一杯走る」と言っていたが、手を抜いたことは雛月に見抜かれていた。
雛月を救出できなかった後、

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と、2006年に戻った悟は考える。
この考えは大事だが、これが雛月を救出できなかった重要な要因とすべきかといえば違うだろう。

雛月が死んだ後、悟の母は「悪い方に考えている内はいくら考えても駄目だべさ」と悟に言う。
これも大事なことである。問題は、この自己問答にどれだけ答えを出せば、雛月を救出できるかである。

『僕街』で興味深いのは、その人間描写の深さである。
悟が戻った2006で、ヒロインの片桐愛梨の家に火がつけられる。
悟は愛梨を救出しようとするが、煙による酸素不足で難渋する。
そこに「ちょっとウザい兄貴肌」のバイト先の店長が登場し、悟に手を貸す。店長は悟が容疑者になった時に、自分を頼って訪れた悟を警察に通報していた。
店長いい奴じゃん!と思うところだが、「もう愛梨君を巻き込むな。手柄は俺のもんだ」と悟に言う。
悟は「俺のことを喋らない」という意味だと解釈する。
しかし本当は、喋ってもらった方が悟に有利なのである。悟の放火の容疑がなくなるし、警察は母親殺しを悟と愛梨の共犯の可能性も考えている。放火は悟による愛梨の口封じと思われているから、共犯の線も消える。母親殺しに直接影響はしないが、逃亡中の悟が愛梨を救出しようとしたことは、容疑を相当に軽くする。
店長は愛梨に横恋慕しており、邪魔な悟を消したいと思っているのである。そういう時に相手を陥れながら、しばしばその行為を相手に恩を与えたと思わせようとする人がいる。そういう人がよく使う手が、

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こういうだめ押しである。

八代学についての描写も面白い。悟が「知らない女の子へのアプローチ」について訪ねると、

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スポーツが得意、料理が得意、公務員、資格、免許、語学、何でも武器にするんだ。相手がどれかに興味を持った時、警戒心は解ける

 

あまり感心するなよ。僕はストレートに感情を出すのが得意じゃないから、理論(ロジック)に頼っているだけだ

 

と八代は言う。
「この時はまだ気づいていなかった。この日のみんなの言葉や行動には、事件に関わる多くの『ヒント』が散りばめられていた事に」とあるが、この中には、八代逮捕に直接につながるヒントはない。
だからこれは、信用できない人物を示しているのである。
少なくとも八代のような人物は、リスクを侵してまで正義を実行することはほとんどない。信用できる人間は、

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悟のようにストレートに話す人間である。

冤罪で死刑囚となる白鳥潤の父親だが、これは悩んだ。

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「単純で気のいい『昭和のオヤジ』的なキャラクター」というが「竹を割ったような性格」がどれだけ腹黒く人を陥れてきたかは、護憲の歴史を見てみればわかるだろう。
「昭和のオヤジ」などとは言って欲しくなかったという思いが私にはあるのだが、『僕街』は2012年に連載が始まっている。
あの頃なら、「昭和のオヤジ」という言葉も肯定的に受け取られた。ほんの数年で、社会は変わった。そして『僕街』もまた、社会を変えた作品なのである。
「昭和のオヤジ」でなくとも言ったことを端から忘れていく気のいい奴はいるのである。
その白鳥潤の父親が、容疑者の一人だった。理由は、被害者の中西彩を知っていたからである。白鳥は父親から聞いて中西彩に接近するが、父親の方は言った端から忘れている。そして父親が犯人かもしれないと思っていた白鳥は、死刑判決を受け入れる。冤罪がどのように成立するかを、『僕街』は詳細に描いている。
悟は最初は白鳥と中西彩を引き離そうと思うが、それを止める。白鳥は中西彩に既に接触していて、誰かに見られていないとも限らない。

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そう言って、悟は走る。この悟の姿を見る度に、涙が出そうになる。

片桐愛梨の父親は農業組合の役員だったが、万引きの容疑で懲戒3ヶ月の停職を受け、組合を辞め離婚する。
愛梨は、父親を信じれば良かったと悔やむ。しかし、父親のポケットからチョコレートが出てきているのを、信じるのは難しいだろう。
だからこれは、冤罪者を信じる難しさを物語っている。
『僕街』は、表面的にみれば、よくある友情、絆の物語に見える。しかし一皮剥けば、主要人物は一度は大事な人間との関係が壊れた過去を持っているのがわかる。
ケンヤもまた、幼い時に友達に「宝物」を贈ったら、翌日それが砂場に捨てられていたという経験を持っている。以降ケンヤは他人に対して距離を持って接するようになる。
しかし悟が雛月に直線的に向かっていくのを見て悔しがる。

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悔しがって、悟という仲間を持ったことに誇りを持ち、悟の一番の協力者となる。
このように、『僕街』は人間関係の再構築が描かれていて、そこに被害者と冤罪者が入るようになっている。

雛月の死後、悟が2006年に戻るのは、悟が雛月を救うための答えを出すためである。
悟は母親が殺された事件を思い出す。母親を介抱したら再上映が起こり、犯人を追えば昭和63年にタイムスリップする。

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昭和63年へのタイムスリップを再上映と捉えなかったのは、悟の直感の正しさである。
しかし悟は気づいていない。なぜ再上映が起こるのか、誰の意思で再上映が起こっているのかを。
悟が犯人を追ったのは、正義の遂行、それもリスクを負っての正義の遂行のためである。それが生還の難しい母親の介抱よりも正しいのである。
そして昭和63年で、悟は雛月を一人にしないことから始める。人を一人にしないことが、正義の遂行につながるのである。

2006年に戻った悟は、愛梨の後を追ってきた警官に逮捕される。
「俺がアイリに与えたかったものを与えるんだ」と悟は考える。そして「君を信じて良かった」と言う。
その時、悟は真犯人の眼を見る。そして思い出すのである。

日本型ファンタジーの誕生⑱~『僕だけがいない街』1:これは不幸な人々の物語 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、かつて自分が真犯人の手から人を守ったことを。自分に人を守る力があるという自信、それが雛月や他の被害者と守り抜くのにもっとも必要なものであり、それを悟は愛梨を信じ抜くこと、つまり冤罪者を信じ抜くことによって得る。そしてもう一度、悟は昭和63年に戻る。

悟は「人を一人にしない」仕組みを構築し、それを大きくしていく。
しかし悟には焦りがある。「人を一人にしない」仕組みにより、真犯人は事件を起こせなくなるのではないかと。真犯人を捕まえるのが真のラストなら、これではラストにたどり着けない。
一方悟は「確信めいた予感」を感じている。悟はそれを「俺が踏み込んでいる証拠」と捉える。
この直感は正しかった。事件を起こせない仕組みを作ると、真犯人がその者の前に現れるのである。
悟は車ごと冬の湖に飛び込まされ、13年間の植物状態と2年間の昏睡状態に陥る。

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左派系永続敗戦構造の崩壊~玉城デニー氏の当選

沖縄県知事選で、玉城デニー氏が当選した。
これで翁長前知事以来の沖縄基地運動が継続されることになる。
翁長前知事が亡くなって、沖縄県辺野古の埋め立て承認撤回に踏み切ったことで、故・翁長前知事の弔い合戦のムードが高まったことが玉城氏勝利の大きな要因である。
しかし思うのは、辺野古埋め立て承認撤回という簡単な方法を、なぜ故・翁長氏はやらなかったのかということである。このことは、選挙後もずっと引っ掛かっていた。

県知事選の間、「沖縄が中国になる」という随分な中傷が飛び交っていた。
根も葉もないとはこのことだが、私は相当な悪意があってのこととはいえ、そう言わせるだけの隙は玉城氏にあったと思っている。
故・翁長氏は明確な県外移転派で、「沖縄は中継基地で充分」という主張を堅持していた。
右翼はこれに「沖縄に基地は必要」という、右翼の十八番の噛み合わない議論で応酬していたが、やがて反応しなくなった。
それどころか、本土人基地問題を無視するようになった。ネットでも、「沖縄」で基地問題が検索にヒットすることが全く無くなった。
これは日本社会で極めて異例なことである。
日本社会は孤立している者ならどれだけ酷い問題でも放置することが多いが、ある程度まとまった集団に対しては、これまでどのような問題でも問題として扱ってきた。
今まで、ある程度の集団を形成していて無視されているのは派遣と沖縄だけである。しかし派遣はそもそも自ら訴えたりしていない。
沖縄はそうではない。訴えているのに無視されていたのである。
玉城氏は「普天間でも辺野古でもない」と主張しているが、ならば県外移転かというとそうも言っていない。
ならば他の選択肢は何かというと、それは日米安保破棄による米軍の全面撤退である。もっとも玉城氏はそこまで言及していない。ただ日米安保破棄という左派的な姿勢をとる可能性を匂わせたことが、沖縄県民の意識に火をつけ勝利に導き、右翼には隙を見せたと写ったのである。

そもそもなぜ左派の集団的自衛権を否定するという、砂川判決を無視し、不可能な解釈をして日米安保破棄に持っていこうとするのかといえば、これは左翼版の「永続敗戦構造」なのである。
左派が自衛隊廃止より日米安保破棄を優先する理由が、「米軍が国内にいたら武装解除できない」というものなら、それは平和主義の力を信じない自己矛盾に過ぎない。
結局左派は武力を信じているのであり、また米軍の力も信じている。
右派が過去の戦争で「アメリカに負けていない」としてアジア諸国と敵対し、アメリカに負け続けるのが右派の「永続敗戦構造」なら、左派の「永続敗戦構造」は平和主義を信じるとしながら武力放棄を避けるために日米安保破棄を唱え、永遠にアメリカへの従属から逃れられない精神構造である。
左派と右派は一方が本音、一方が自己欺瞞を担当する。
沖縄基地問題の場合、右派が沖縄を犠牲にし続けるという本音を担当し、左派が「沖縄を見捨てない」という自己欺瞞を担当することで、永遠に沖縄を見捨てている。
しかし真の問題は、この「永遠敗戦構造」が本土だけでなく、沖縄にもあることである。むしろその精神構造は、本土より強固だと言っていい。

「このような事態の背景には、沖縄でさえ若者ほど保守化(右傾化)しており、彼らが簡単に自公政権の仕掛けるプロパガンダに乗せられてしまうという現実がある。投票率さえ上がれば期日前投票で動員された組織票を覆せるような状況ではないのだ。そしてその根本的な原因は、沖縄国際大学佐藤学教授が指摘するように、沖縄の若者たちが沖縄の歴史を知らないことだ。」
id:Vergil2010

vergil.hateblo.jp

で述べる。しかし申し訳ないが、沖縄県民へのこの良心的な姿勢は、全く沖縄県民のためにならないと私は思っている。
沖縄県民は沖縄の歴史を知りすぎるほどに知っている。
沖縄に首里城があるのを知っていれば、沖縄がかつて琉球王国という独立国だったことはすぐにわかるし、沖縄戦の悲惨さも、家族から聞いている者は多いはずである。
沖縄の若者は歴史を知らないふりをしているのである。
沖縄県民の本音中の本音は、自分の見えるところに従属の象徴である基地が無ければいいということにある。
沖縄は本土に差別されているが、その現実を見たくないのである。見たくないから日米安保破棄に論理を飛躍させて、本土を批判せず、基地は永久に無くならない。後は普天間の人は基地が辺野古に行けばいいと思い、辺野古の人は基地が普天間に留まっていればいいと思う。

このように考えると、故・翁長氏がなぜ辺野古埋め立て承認撤回に踏み切らなかったかが見えてくる。
翁長氏は政府相手に基地問題で訴訟を起こしたが、勝訴するための法的根拠に乏しかった。
しかし辺野古埋め立て承認撤回をすれば、法廷で充分戦えたのである。それをしなかったのは、辺野古に基地が来なければ、辺野古の住民は普天間に基地が残ればいいと思い、沖縄が一丸となって県外移転を主張することができなくなってしまう。
翁長氏は負けるとわかって訴訟を起こした。その結果、本土の人々が沖縄を差別する構図が明確になり、本土の人々は沖縄基地問題を語らず、無視を決め込んだのである。
そしてこれが名護市長選での稲嶺前市長の敗北につながった。沖縄の地域政党オール沖縄」は野党とのつながりが強く、県外移転の足を引っ張っている。

【沖縄県知事選】玉城デニー氏、出馬表明を29日に再び延期 「オール沖縄」に不協和音 - 産経ニュース

だから辺野古埋め立て承認撤回は一歩前進、二歩後退の観がある。
ならば県外移転を唱えない玉城氏は左派寄りなのか?

故・翁長氏を見れば、元々が自民出身の保守政治家である。
玉城氏を見る上で欠かせないのは、翁長氏から後継と目されていたことである。
そして玉城氏は、民主党自由党にいた人物である。民主党が革新かといえば、元々自民も混ざった寄合い所帯である。
このように見れば、玉城は保守系の政治家と言える。小沢一郎氏とのつながりも理解できるのである。
今後玉城氏は、左派系の人気を集めながらも日米安保破棄=永続敗戦構造から脱していくと思われる。左派寄りに見えるのは、いわばガソリンを入れたようなものである。
そして、玉城氏は出馬表明に当たって野党の腹を叩いていたが、県外移転を目指す政治家が表向きでもそれを伏せ、野党寄りの姿勢を見せれば、野党はそれを断れないのである。野党の建前は「沖縄を見捨てない」だから。こうして、沖縄から左派の永続敗戦構造が崩壊していくことになる。

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日本型ファンタジーの誕生(21)~高野苺『orange』: 須和弘人はハイエナ

『orange』はウイキペディアで内容を読んで気になって映画を観たが腑に落ちず、マンガを読んだ。ウイキペディアは説明は充分かもしれないが頭の中に入ってこない。
映画について言えば、ヒロイン役の土屋太鳳は演技力はあるのかもしれないが「かける!」と呼ぶ度に声が裏返るのは初々しくも大変聞きづらく、感動のシーンでかかる音楽が同じでそれがひとつの映画に10回くらいあるのは非常にうざかった。要するに大した映画とはいえない。

原作の高野苺は、映画を観ないと決めたとTwitterで述べ、それが元で様々な憶測が飛び交った。
それは映画を観た後で知ったことだが、私が映画に求めていたものと関連していると思う。
それは映画を観ただけではわからなかった。しかし原作を読んで、映画に私が求めていたテーマがあるとわかった。

ヒロインの高宮菜穂が恋する成瀬翔は自殺する。私の苦手な話である。
しかし菜穂やその仲間が未来から過去に手紙を送り、翔を救う。そういうタイムスリップものである。
タイムスリップものだが、タイムスリップするのは手紙だけである。ここに『orange』の大きな特徴がある。
近年流行のパラレルワールド理論のおかげで、キャラクターの心理をより深く掘り下げることができるようになった。
キャラの掘り下げは『ドラゴンボール超』の「未来トランクス編」などでも行われているが、重要なのは、過去を改変してもそこで世界が分岐する平行世界論では、未来の人間の喪失感はそのまま残ることである。
手紙を送ったが、それで死んだ翔が生き返る訳でもなく、手紙が現在の自分達に届いたかも、現在で翔が救われたかもわからない。パラレルワールド理論では、人は失ったものは取り戻せないのである。

原作と映画の違い、それは原作が仲間5人がそれぞれ現在の自分に手紙を送るのに対し、映画では菜穂と須和弘人の二人しか手紙を送っていない点である。
映画は、これは翔を合わせた3人の問題だと言っているのである。原作は違う。原作は翔の自殺を5人の仲間が救うという、お決まりの友情ストーリーになっている。
映画はそれを否定している。なぜなら須和弘人はハイエナだからである。

略奪愛を、私は必ずしも否定はしない。そういう恋愛もありだと思っている。
だから略奪愛が否定されるのは、略奪した本人が後悔した時である。未来の須和は後悔し、手紙を受け取った現在の須和は菜穂に告白しないと決める。そしてこれが、『orange』がヒットした重要な要素なのである。
なぜ後悔が生まれるのか?その理由は恋愛、特に初恋の成就のしにくさにある。
女性は、男の不器用な対応に抵抗、反発することが多い。そして恋愛経験の浅い男ほど不器用である。だから相思相愛でも、恋愛スキルが両者とも低いと失敗することが多い。
恋愛は生物としての根本の感情に基づくので、それ自体は仕方のないことである。しかし恋愛に「社会」が絡まってきた時は話は別である。
恋愛スキルの浅い男に、「何でも相談しろよ」と言ってくる男がいる。そう言う男は、恋愛中の男を焦らせることばかり言う。失敗を狙っているのである。
僕だけがいない街』では、雛月加代に近づこうとする悟に周りが色々言うが、

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とケンヤが止め、悟はホッとする。恋愛相談の押し付けは大概邪魔なのである。止められずに周りの言うことを聞くと、

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往々にしてこうなる。いじめに合う架橋明日が通ると「鼻を摘まめ」といじめっ子に言われ、ヒロインの花籠咲は鼻を摘まむ。
プラチナエンド』は失恋が原因でいじめにあったのではないが、いじめが相思相愛の関係を引き裂くのはよくあることである。そう言えばトイアンナ氏も、初恋の相手がいじめにあったと言っていた。
相談を断っても、

私の擬装請負体験⑫ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

のVさんのように今度は邪魔してくる。もっともここに登場する女子Yは相当のツワモノで、関係しなかったのにセクハラだのストーカーだのと捏造されて訴えられた。
失恋した男がいじめに合う理由の多くは、女性が恋愛よりも世間体を重視するからである。恋愛のために身を張って男を守るということが、女性にはほとんどできない。守るどころか自分を守るために好きだった男を犠牲にすることさえする。
これも女性のさがである以上、言えることは2つである。例えさがであっても、男に恋愛以上の仕打ちを与えることは許されないこと、そして周囲がその女性のさがを利用するのは道徳に著しく反するということである。こんなに簡単に人を陥れることができる方法は他にないと言っていいから。

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と未来の菜穂は言うが、果たして本当だろうか?映画にはなかったセリフである。

私は平気だよ。傷つけたのは私の方だと思ってた。

 

と、大晦日に傷つけたからと言って菜穂を避ける翔に菜穂は言う。翔は大晦日に、祖母の具合が悪いのを気にしていて、早めに帰ろうとしたのを、菜穂が安易に「大丈夫」と言ったことに腹を立てた。翔は始業式の日に母親が自殺して、それを自分のせいだと思っていた。だから自分がいない時に祖母が死ぬことがあってはならないと思っていたのである。
恋愛の問題は、それが奥深いところにあり、直接的に触れることができない。だから何重にもカムフラージュがかけられている。しかしこの本質が恋愛自体でないなら、

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この場面だけ未来の菜穂にはならないだろう。
翔が救われた後、仲間でパラレルワールド理論に華を咲かせる。
そこで翔が「須和と菜穂が結婚してる未来もあるってことか?」
と言うと、

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翔は本命なのである。その翔との付き合いが、これでは浮気感覚である。「ちょっと遊んでくるね」と亭主に首輪をつけているような。「こっちだって過去の女と寄りを戻したいんじゃない!」と言いたくなってしまう。

本編以外に番外編の6巻はその後出版されたが、それは翔が救われない世界での菜穂と須和の物語である。
6巻では須和は翔に敵わないという想いを抱き続けるが、それが映画の影響かどうかはわからない。

古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。

偽装請負は日本型経営を殺戮装置に変えた

かつてリベラルを「パワハラ上司、ブラック企業にとどめをさせない程度のリベラル」だと私は言ったが、リベラルがパワハラ上司、ブラック企業にとどめをさせなかったのは、パワハラ上司が元来の「権威ある上司」であり、ブラック企業が元来の「日本型経営」の姿だからである。
リベラルは「権威ある上司」からパワハラ上司を、「日本型経営」からブラック企業を分離して批判した。
それ自体は戦略としては妥当なものである。だから問題は、「分離」が戦略ですらなかったことである。
パワハラ上司が「権威ある上司」、ブラック企業が「日本型経営」と同一だとわかってくると、リベラルはパワハラブラック企業の問題について口をつぐむようになった。今やパワハラは、スポーツ業界限定のものである。そして何故か、そのスポーツ界のパワハラすらはてなでは話題にならない。

年功序列、終身雇用の日本型経営は、パワハラの正当性を担保するためのものだった。それは暴力的だったが、その暴力に耐える限り、雇用は保証されていた。
しかし偽装請負は、日本型経営をただの殺戮装置に変えた。
偽装請負では、本来派遣先が証明すべき解雇理由を明示せずに口頭で派遣社員を解雇した。そして解雇と伝えながら、「自己都合の退社」と書類に書かせるという詐術を使い続けた。

偽装請負 - Wikipedia

には偽装請負が 盛んだった2000年代から今に至るまで、「請負には労働基準法が適用されない」と書かれているが、これは間違いである。
偽装請負に関する報道は、労働安全衛生法違反などによる集団訴訟に限定されていたが、これは氷山の一角であり、偽装請負の本質からはほど遠いものである。
偽装請負のもっとも重要な犯罪は、派遣社員にまともな解雇理由を告げずにリストラしたことである。
この犯罪は日本中で実施され、見事に隠蔽された。
労働局は偽装請負の証拠がある限り、おそらく調査と処分は適切に行っていたと思っている。
その理由は、偽装請負が話題になっている以上、問題が派遣のリストラに及んだ場合、労働局が対応していなかったでは済まされないからである。
しかし労働局は、調査結果を派遣労働者に教えようとはしなかった。情報公開法の運用の仕方を通報した派遣労働者に伝えず、「調査結果をお伝えすることも、調査をしたかどうかもお伝えすることはできません」と説明した。これは「この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」とする情報公開法第一条違反である。もっとも情報公開法の運用の隠蔽は労働局だけではない。全ての官公庁が行っていることである。
情報公開法に1999年に公布されており、私も知らない法律ではなかった。しかし私も当時、公務員に法律の正しい運用を教えられないとは思わなかった
こうして通報者に調査内容が知らされることはほとんどなかった。偽装請負はリストラ目的と労働安全衛生法違反目的のものに分離され、前者は隠蔽されたのである。

偽装請負の後、音楽ではYUKIの『嬉しくって抱き合うよ』やいきものがかりの『ありがとう』のような、恋愛より友情や家族愛を歌う曲がヒットする傾向が続いた。一貫してラブソングが主流だった日本では極めて異例のことである。この流れは東日本大震災により「絆」というワードに発展し、右翼の台頭により国論が二分されて国民が分裂するまで続く。
私がスマホを通じて日常的にネットにつながるようになったのは2013年からで、それ以前のネットのことはわからない。
しかしネットにつながるようになって驚いたのは、そこにあったリベラルの大流行である。
パワハラブラック企業についての記事が溢れ、発達障害が広く受け入れられるようになった。働き方改革が叫ばれ、明日にも毎日定時で帰り、有給も自由に取れる社会が実現するかのようだった。
一方、保守にこの傾向に批判だったが、彼らを特徴付けていたのはケインズ政策重視の態度である。
通貨供給量の増加による景気上昇論を、どの保守派も唱えていた。
しかし保守派の主張を見ていくと、次第におかしいと思うようになっていく。
ケインズ政策では景気が保証されるのだから、景気上昇を利用して社会福祉を充実させていけばいい。しかし彼らはいつまでたってもそれを言わない。
それどころか「将来年金制度は崩壊する」などと平然と言ったりする。あろうことか「甘いことを言ってるんじゃない」という口振りで福祉について否定的な発言をしたりする。ケインズ政策を万能薬であるかのように語りながらである。ケインズ政策は年金制度の維持のためにやるのではなかったのか?

日本の場合、左派と右派は一体で、どちらかが本音を担当し、どちらかが自己欺瞞を担当している。
右派の福祉斬り捨て論は日本人の本音の代弁である。それではなぜケインズ政策を主張するのか?その理由は「働いている間は生きられるようにしてやる」ということである。働いてなくなった者は「働かざる者食うべからず」で切り捨てるつもりでいる。
しかし保守派の論を聞いてわかってきたことは、ケインズ政策は景気を約束しても富を約束しないことである。通貨供給量の増加による円安で、所得の多い少ないにかかわらず日本人全体の生活レベルが下がっていく。つまり保守派は、自分達の地位を守るためにケインズ政策を唱えているのではない。
保守派は、低所得者、非正規、特に派遣の地位、所得を上昇させないためにケインズ政策を主張しているのである。非正規、派遣の地位改善は、主に正社員で構成される中間層以上の階層の非正規への対応が間違っていたことを表し、保守派はそれを認めたくないのである。
「世界では正規、非正規という分け方をしない」ということを、以前らくからちゃ氏が言っていたが、ならばなんと言っているかは述べていなかった。
答えはおそらく、「正社員と契約社員」だろう。つまり間接雇用はほとんどないのであり、ほとんどの雇用は直接雇用なのである。
日本社会では、派遣を固定するために非正規という言葉を使っているが、契約社員も直接雇用のため、不安定ながらも待遇はそれほど悪くない。
ここで「パワハラ上司」と「権威ある上司」を「分離」したのとは逆の詐術が用いられている。直接雇用の非正規は、問題がないとは言わないが、その問題は派遣よりはるかに小さい。
派遣は地位上昇の機会がほとんど与えられないのである。その理由は派遣が派遣に留まっているのは何らかの理由がある、つまり「無能だから」ということにしたいからであり、派遣が地位上昇することは彼らが無能でなかったことになり、それまでの正社員の派遣への態度は間違っていたことになるからである。
差別はおそらくその多くが差別する側の罪悪感から発する。これは私には検証不可能だが、おそらく古今東西の原則である。
そして保守派がケインズ政策を主張するのは、働ける間だけ派遣の問題を凍結しておきたいからである。この主張の馬鹿げたところは、派遣が年齢的に働けなくなったら、年金、福祉の問題への直面は避けられないことである。要するに問題の先送りに過ぎず、しかもその間、自分達の生活レベルも下げようとしている。破滅的な思考パターンに保守派は陥っている。思考に長期的展望も整合性もないので、

日本の右翼を牛耳る外国人勢 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、中国がシーレーンを取りにきたらケインズ政策が実行不可能になるのを指摘されるまで気づかなかったりする。
リベラルは偽装請負の問題から、「パワハラ」、「ブラック企業」、発達障害を「分離」して「いい人アピール」をした。また社会福祉の充実を唱えるリベラルもいた。しかし社会福祉の充実を唱えるのは、彼らが偽装請負の被害者に報いる気がないのを自覚しない間だけだった。「いい人アピール」は、もっとも被害を受けた者に報いることは絶対にないのである。彼らリベラルが偽装請負の被害者に報いる気がないと自覚するたびに、彼らは福祉の話をしなくなっていった。
このブログでは、派遣社員が問題を主張しない「死にたがり」だと何度も主張した。
派遣社員が「死にたがり」なのは、偽装請負のために不当にリストラされた者を笑ったからである。
リストラされた派遣社員を笑うことで、自分が正社員に近い者だと思い、結果一生派遣なのを受け入れることになった。リストラされた者を差別する以外に、自分に価値がないと自分で思っているから。こういう者を『東京喰種』ではいい言葉で言っている。「カラッポな人間」だと。
こうしてリーマンショック以降、日本社会は派遣に報いない方向に舵をきり、高齢化という点で世界の最先端を切りながら、年金政策では世界でもっとも遅れているという怪現象を生み出した。

リーマンショックを避けて2011年に派遣に戻った後、今に至るまで、職場で私の経歴を聞く者は一人もいない。

私の擬装請負体験⑲ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、ブクマが2つしか付かなかったのは、私にとって印象深かった。何度か述べたが、「私の偽装請負体験」は評判の悪いシリーズで、シリーズを始める前は月1500ほどあったPVが、終わる頃には月900まで下がっていた。派遣の営業担当が正社員の名を騙って派遣の首を切るのは、よほど日常的だったのだろう。
今の派遣でも紆余曲折があったが、年を追うごとにパワハラの要素がなくなっていった。
それは労働局を通じて、労働災害を減らすために間接的にコントロールされているのが、会社の説明を聞いていてわかった。派遣会社は登録制のため、労働局は派遣会社を簡単に把握できるのである。しかしそれは派遣の地位上昇のためではない。派遣社員を追い詰めて、条件闘争に踏み切らせないためである。
偽装請負は、日本人の心に深い負い目を残した。精神的な負い目という点では、戦前の日本人の同胞を死に追いやった後ろめたさから逃れるために形成された平和主義に匹敵し、しかも戦後生まれが直接に同胞を死に追いやった経験を持っていないのに対し、偽装請負は最近のことのため、その負い目はより大きいと言える。そして偽装請負が、護憲と並んであらゆる思考停止を生み出している。
偽装請負の被害者に報い、派遣の地位上昇、待遇改善に努めない限り、日本人はこの思考停止から脱却することはできない。

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日本型ファンタジーの誕生⑳~二人だけの世界を描き、ラストを描けないラブコメ

2年ほど前、週間少年サンデーのラブコメの紹介記事がいくつかはてなのランキングに載ることがあって、ラブコメブームのようになっていた。
私もその流れに沿って少し読んでみたが、年齢的にラブコメが受け付けないことがわかって、継続的には読んでいない。 だからつまみ食い程度での感想を述べていく。
からかい上手の高木さん』は「からかい上手」というからどんなにエグい話かと思ったが、読んでみたら全然エグくなかったのでやめたwwwエグいどころかむしろほのぼのとしてたwww
天野めぐみはすきだらけ』はちょいちょい見せるエロがうざい。
古見さんにコミュ症です』は何だこんなエロもないもの…新鮮www
エロでないラブコメの方がいいなんて、私も十分に今の時代の人間である。

しかしこうして見ると、ラブコメも随分変わったなと思う。
ブコメでは昔は三角関係は基本といってよく、三角関係、四角関係も男に都合のいいものが多い。 ハプニングでキスしちゃったとかおっぱいさわっちゃったとか女風呂に飛び込んじゃってドッカーンとかwww
最近は違う。男と女二人の関係を徹底的に描いている。二人の関係以外の脇役がストーリーに絡んでくることがあまりない。
例外はある。『ゆらぎ荘の幽奈さん』の冬空コガラシである。冬空コガラシの女性キャラとの絡みは、昔のラブコメのパターンが踏襲されている。
しかしまた、冬空コガラシにも昔のラブコメとの決定的な違いがあるのである。冬空コガラシは「ただのひとびと」ではないのである。 冬空コガラシは「モテる男」いや「モテるべき男」として描かれているのである。
それも一夫多妻的なものではない。 元々のラブコメも本来は一夫多妻を目指すものではなく、「モテたい願望」の延長線上にあり、本命はあくまで一人だった。ただ脱線、つまり本命でない女性とくっついてしまう過程が時としてあり、そこに「モテたい願望」が一夫多妻に転化するきらいはあった。そしてそれを「優柔不断」という言葉でごまかしていたのである。
昨今のラブコメは「モテるべき男」と「ただのひとびと」を分けたのである。冬空コガラシはは男らしく優柔不断でないから「モテるべき男」なのであり、「ただのひとびと」は脇目を降らずに一人の女性を見続ける。近年の恋愛観念の反映がそこにある。

しかし最近のラブコメを見てて思うのは、終わりが見えないことである。
昔のラブコメには二人が結ばれることでストーリーが完結するというパターンが踏襲されており、二人が結ばれるという予感を読みながら感じることができた。
しかし最近のラブコメは、『からかい上手の高木さん』の連載中に『からかい上手の元高木さん』の連載が始まったように、二人が結ばれるというラストシーンを描けないのではないかと思えてくるのである。
もちろん読者は二人が結ばれる予感を感じて読んでいるのだが、作者達は読者に予感を感じさせるのに精一杯で、二人が結ばれるラストが描けず、結果ほとんどが一話完結のストーリーが延々と続いていく。つかそれストーリー作るの大変じゃね⁉️
現状の二人が結ばれる予感を感じさせるだけのストーリーから脱却し、二人が結ばれるラストを描けるようになるのだろうか? その答えはラブコメ以外の作品にある。

僕だけがいない街』の作者の三部けいは暗示の名人といっていい。
『僕街』の次回作の『夢で見たあの子のために』で、双子の兄の復讐のために危ない橋を渡り続ける中條千里を、ヒロインの恵南が非難する。

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そのために今出来る事を積み重ねて、ちょっとずつでもその姿に近づこうとしてる。その先にあたしが思う未来の姿がある。その未来のために生きたいんだよ。

 

また、別のところではこう言っている。

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その瞬間思ってる事は、「報告したいってことなんだ。生い立ちがどうだろうと、今の環境が良かろうが悪かろうが、本当は母さんに、あたしが踏ん張ってこうして立ってる所を見せたいんだよ。母さんにはもう見せる事は出来ないけど、あたしは子供達に見せなくちゃいけない。誰にも恥じる事の無い生き方をしている自分を。千里は…「誰かに見せたい自分」はある?今の自分が恥ずかしいと思わない?

 

恵南の母は、殺人犯の夫のために周囲から迫害を受け、それを苦にして自殺している。
千里の母も、虐待する父親を止めることができない母親で、両親とも子供への関心が薄かった。二人とも、死んだ親に会いたいと思っているようには見えない。
だからこれは、「親になる」という意味なのである。子供の頃の自分が居て欲しいと思う親に自分がなる。そういう自分を「誰かに見せたい」のである。そしてその「誰か」は自分にとって大事な存在であり、世間ではない。
昨今ではイクメンなど、理想とする親の形が少しずつ作られている。しかしそこにまだ手が届いていないか、自分の理想をより高く、または広く取る必要があるのにそのことに気づかないため、終わりの見えるラブコメが描けないのである。

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過小評価

先日、諸橋哲郎弁護士の懲戒請求に対する、日弁連の議決書が届いた。
「本件異議の申出の理由は、要するに、前記認定と判断は誤りであり、同弁護士会の決定には不服であるというにある。
当部会が審査した結果、同議決書の認定と判断に誤りはなく、同弁護士会の決定は相当である。
よって、本件異議の申出は理由がないので棄却することを相当とし、主文のとおり議決する。」
日弁連のやることなど、所詮この程度である。

『未来のミライ』は幼児虐待!?(ネタバレあり) - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、途中にあるレビューは『Godzilla決戦機動増殖都市』は『テラフォーマーズ』との関連から目を背けている。
もちろん『決戦機動増殖都市』は傑作というほどではないことには同意する。
私のブログでは作品の中にどんな暗示かあるかを重視して書いているが、もちろん単純に面白いかどうかも重要で、『決戦機動増殖都市』は暗示のための記号を並べるのに精一杯という感じがある。もっとも尺が短すぎるという感もあるが、三部作ということを考えれば、あるいは詰め込み過ぎなのかもしれない。
だから面白くないという意見は結構だが、それに乗じて不当に低く評価する動きがあり、それが思考停止につながっている。

過小評価は、主に職場で発揮される。
職場で働く人がある人に被害を受け、被害者がそのことを訴えると、職場の人々はしきりに加害者を擁護するのである。「本当はいい人なんだよ」などと言って。そして被害を過小評価していく。
それでも被害を訴える人に待っているのは、ちょっとした失敗を過大に取り上げられる職場いじめである。この職場いじめで生き残れる人はほとんどいない。最近は少し変わってきたとしても、かつての日本の職場は、パワハラを受けたらほぼ100%生き残れなかった。
加害者の被害の過小評価と、被害者の失敗の過大評価は対になっている。そして職場を追われた被害者には、「会社を辞めてばかりいる」というマイナス評価がつく。このようにして職場に定着しない者を否定することで、かつての終身雇用による日本型経営は成り立っていた。日本型経営の本質は、被害者の被害に報いないことにあったのである。
こちらの画像を見て頂こう。

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新潟県南魚沼市浦佐駅にある田中角栄像で、銅像に屋根がついている。
最近では、なぜ屋根がついているのか語られなくなったが、数年前には「銅像に屋根がつくほど角栄は偉かった」と、ネットの至るところに書かれていたのである。
断っておくが、私は角栄の全てを語ることはできなくとも、私なりに角栄を評価しているつもりである。特に『列島改造論』により、日本に均衡発展をもたらしたのは高く評価できる。
しかし角栄金権政治の、そして

田中角栄、バブル、そして憲法 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたようにバブルの象徴なのである。
バブル景気でさえ、私は角栄一人の責任だとは思っていない。角栄を必要としたのは、護憲を否定しなかった日本人である。
だからこそ、バブルの象徴の角栄銅像に屋根をつけて、「それほど偉かった」ということはできないだろう。
角栄に限らず、問題のある人は放っておくとどんどん高い評価をつけられる傾向というのが日本にはある。私の経験として、加害者の擁護者達が加害者を「人格者」にまで祭り上げたのを見たことがある。加害者を含めた「問題のある人」を祭り上げる日本人の尊大さは、謙虚を美徳とする日本人の性向と対になっている。

他にもこういうのがある。



 

これには笑ってしまった。
しかも突っかかったのは、橋下氏と名誉毀損で争っている岩上安身氏である。
岩上氏も下手なところに突っ込んだものだ。
もっとも維新も言ったことで実行していないこともあるかもしれないし、何を実行して何を実行していないかは私の知るところではない。
だからこういう想像もできる。維新にはいくつかの有言不実行なところがあり、それに突っ込んでいたら、本当に実行しているところに裏を取らずに突っ込んだんじゃないかと。そして維新は反維新派をピンポイントで狙って反撃したとも考えられる。始めから罠だったということである。
議員報酬の2割を寄付するというのは結構大変なことで、実践がないのに言えることではない。だから私なら、まず裏を取ってから批判するかどうかを決める。
もっともこんな難しい話ではなく、単に何でも批判してたら引っ掛かったということ考えられる。私の中では2つの可能性が同じくらいの割合であるが、いずれにせよ岩上氏のようなタイプに言えるのは、維新が生き残りをかけてどれだけ戦略を練っているかを考えていないことである。そして考えを中々改められない。考えが変わらないのは、相手を過小評価する思考に安住しているからである。だから日本では戦略性が育たない。
もっとも維新も、関空咲洲庁舎の件でもめているがこれについてはそのうち語ることにしよう。

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日本型ファンタジーの誕生⑲~『アイアムアヒーロー』3:「クルス」と「巣」の意味

アイアムアヒーロー』では「クルス」と呼ばれる人々が登場する。
「クルス」は元々固有名詞だったが、「クルス」と同種のキャラが多数登場することで、特定の人々を指す言葉になった。
「クルス」は大抵ブリーフ一枚の姿で、超人的な身体能力を持つ。
「クルス」は多くが自宅警備員であり、精神的に引きこもりがちな鈴木英雄と共通点を持つ。ならば鈴木は「クルス」なのか?という疑問が生じてくる。
ブリーフ姿でない鈴木は「クルス」でないと言えるが、それにしても鈴木が「クルス」と紙一重の存在なのは否めない。
この「クルス」が何者なのかが、この作品を理解する鍵である。

「クルス」を理解するために、まず「女王蜂」の早狩比呂美の理解が必要である。
感染後、比呂美には全ての人間、ZQNがぬいぐるみに見えている。
ZQNと格闘した時、相手の顎を引きちぎればそれがスポンジに見え、比呂美の意識の中で皿洗いを始め、実際にはZQNの頭に引きちぎった顎を擦りつけている。

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ZQNの腕を引きちぎれば、「手術しなきゃ」と言って、ZQNの肋骨を引き裂く。比呂美は自分の加害行為を正しく理解しておらず、無自覚である。
御殿場アウトレットモールで頭に釘を撃たれてから、比呂美の意識は外界と遮断される。
目が覚めた時には、比呂美は背が伸びて鈴木と同じくらいになっていた。そして人間の常識を超えた怪力を出したり、ZQNと交信したりするようになる。
背が伸びたり、パワーアップしたりするのは成長の暗示だが、比呂美の場合は違う。精神的に成長しないまま、大人の体になったので。

16巻に、イタリアのルッカでの話がある。
ZQNパニックの中で、1人の少女が親とはぐれて泣いている。
少女は非感染者のようだが、手で引っ張っているのはぬいぐるみのようで、早狩比呂美が感染後に夢の中で見たぬいぐるみと同じである。
少女は男に声をかけられて、搭のてっぺんに避難する。そこからはZQNが集合した「巣」が見える。
「巣」について、避難者の一人が仮説を提示する。ZQN騒ぎは宇宙人の侵略によるもので、インフラに被害を与えずに地球の支配者を移行するためのものだと。そして「巣」から新しい文明が生まれると。
しかしその宇宙人は数が少なくて、文明を維持できない。そこで地球人を使ってハイブリットな宇宙人を作ろうとしている。その新しい宇宙人を生み出すのが「女王蜂」だと。そして自分達は、「女王蜂」の世話係として存在していると。
非感染者と思われていた人々は、実は全員ZQNだった。僅かに脳に残った意識が、自分を人間だと思わせていただけだった。そしてZQN達は、日本語とイタリア語などの言語の違いがあっても意志疎通ができている。男の考えでは、「女王蜂」の世話係だけが、わずかに人間性を残せるのだという。
ZQN達が少女を連れていこうとしたところで、それまで「パニーニ」としか言わなかった男がナイフで突っかかっていき、日本人観光客の首を切り落とす。コートの下はブリーフ一枚。「クルス」である。

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他のZQNはそれぞれの言語で意志疎通ができるのに、「クルス」だけは言葉が全ての言語に変換されている。
「変種か?」と、仮説を話した男が言う。「なぜこんな奴がいるのかわからない、我々を創った者は、なぜ欠陥品も創ったのか」とも。
男は仮説を話した男の肉を噛みちぎって食い、ZQN達から少女を救出する。
ZQNの肉を喰ったり、異常さがありながらも、ヒーローの登場を思わせる場面である。しかし、少女に「どこに行くの?」と聞かれると、「ママのところだよ」と「クルス」は答える。結局他のZQNとすることは変わらない。
仮説を提示した男の話は、読者をミスリードしているように見えて、ZQNパニックが何を意味するかを考える材料を提示している。

スペイン・バルセロナでは、頭と足だけになったZQNが街を徘徊している。
ルッカ同様、人間の姿はもう見られない。
バルセロナの建築物を模したZQNが街を清掃しており、街は非常に清潔な状態を保っている。CO2を排出することもない。世界にとって、人間とZQNのどちらが有益かわからなくなるような話である。
ZQNは歩きながら考えている。ZQNには三種類のタイプがいる。一つは感染を拡大する人間型ZQN、もう一つは街を清掃するZQNに代表される建設型ZQN、そして人間もZQNも構わず攻撃する攻撃型ZQN。頭と足だけのZQNは、攻撃型ZQNを「存在理由の意味不明な」、「敵対しているように行動」を取り、「対立する別の種族」ではないかと考えている。
建設途中のサグラダ・ファミリアを完成させるように、「巣」が覆い被さっている。
頭と足だけのZQNがそこにいくと、巨大な子宮のようなものがあり、子宮の中に生命のようなものが見えている。
それを見て、「新しい生命を創り出しているのか?」とZQNは言うがその途端に生命らしきものは溶けて消滅してしまう。
「生と死を繰り返しているのか?」と考えるZQNに、「生と死に意味はない」と答える者がいる。上半身はスーツで、下半身はブリーフ一枚の「クルス」で、顔はサルバドール・ダリに激似である。

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「あなたは人間か?」と尋ねるZQNに、「その質問も意味ないな」と答える。
ZQNは「クルス」に、ZQNパニックを地球外生命体の侵略と考えるか」と尋ねると、「地球の内も外もわけること自体ナンセンス」と否定する。「自分の中で生と死を繰り返し出口が見えない」とZQNが言うと、「生と死の輪廻からの離脱」と「クルス」。「それは不死ということか?」と言うZQNに、「生命の輪の中にいる限り理解するのは難しいだろう」と言う。

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「ZQN…『ゾンビ、あるいはそうではない』だろ」
と「クルス」は言う。
このダリ似の「クルス」は、怪物=人間から「怪物でない人間」になった者である。
「クルス」の言葉の意味は、「ラザロの復活」と同じである。「ラザロの復活」は、肉体に対する精神の不滅を示すものである。だから肉体の保持のために精神を殺してはならない。精神を殺した者は、生きながら死んでいるのと同じであり、その姿がZQNという形で示される。だから「生と死に意味はない」と言い、「生命の輪の中にいる限り理解するのは難しい」と言うのである。それが生のあるべき姿である。あるべき生が時に命を捨てさせるのは、全ての普遍的な思想は奴隷根性を否定するからである。
そして「怪物でない人間」になる道は、自分と他者を区別しないことである。
しかし『アイアムアヒーロー』で、人間はZQNになりたくないから戦ってきたはずである。それなのに自分がZQNと同じだと思うことが、「怪物でない人間」になる道なのである。
その理由は、戦っているという点ではZQNも人間も同じであり、客観的な相違を見つけるのは不可能である。だからZQNになりたくないと思って戦うほど、自分とZQNが同じだと認めざるを得なくなる。むしろ違いを強調するほど、人間はZQNに近づいていく。
頭と足だけのZQNは、この後木になり、バルセロナの街を見守ることになる。
ZQNが頭と足だけなのは、戦いを放棄したからである。そして攻撃型ZQNを「存在理由の意味不明」、「敵対しているように」、「対立する別の種族」として差別している。これは非暴力主義とも違う。非暴力主義は暴力を否定しても戦っているのである。戦いを単に否定したZQNが木になったのは、ZQNが人間になれなかったからである。

「クルス」は、「クイーン・ビー」と対をなす学校の王「ジョック」になりかわったものである。
これが『アイアムアヒーロー』のユニークな点で、自宅警備員に象徴される「クルス」の本質は「絶望した者」である。それは「クルス」の「絶望が希望に変わるという言葉に現れている。
だからこの作品のテーマには反逆、革命があるのだが、そう単純でないのは、単なる価値逆転では本質が変えられないことも示されているからである。

日本型ファンタジーになった『GODZILLA 決戦機動増殖都市』(ネタバレあり) - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、「巣」は「個にして全、全にして個」という『ナウシカ』の王蟲の発展型である。全てが一体になったように装いながら、その中には差別があり、差別の隠蔽のために一体感を演出している。

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「すぐに『個』が解体されて『全』にとけこむ人もいるし『個』のまま孤立して『全』の底に沈んでいく人もいる」
という「巣」の「名も無き集積脳」の説明も苦しい言い訳で、集合しない「個」を排除している現実を隠そうとしている。

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この「巣」の正体は「和の精神」である。
表向きは「全てが一体」で、本質がスクールカーストである「巣」は、表面を綺麗にしても何も産まない。だから子宮の中の生命は消えたのである。
「和の精神」では、本来意志疎通が不可能な状況で人々が同調していく。だから言葉の違う者同士で意志疎通ができる。
しかし「クルス」はそれができない。だから言葉を全ての言語に変換して語る。そして「クルス」は「巣」支配しても、「巣」と集合できない。「クルス」は「クルス」としか集合できない。

鈴木英雄が早狩比呂美を救出できなかったのは、最後に「クルス」に味方したからである。
「クルス」に味方したことで、鈴木が「クルス」に近い存在なのは間違いない。しかし鈴木が「クルス」にならなかったのは、心を閉ざしているからである。鈴木はヒーローになれなかったが、ヒーローになれる要素はそこにあった。

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