坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

ロシア遠征からナポレオンを見る

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1812年、ナポレオンはロシア遠征を起こした。

 ナポレオンが集めた大陸軍は691500人。歴史上、これだけの規模の軍勢を集めた例は他にない。

 ロシアに進攻した大陸軍は、一路モスクワを目指す。

 途中、戦闘はほとんど行われなかった。 8月に入って、両軍はようやくスモレンスクで会戦したが、大陸軍は強行軍とロシアの焦土戦術により、15万まで減っていた。

 勝利したナポレオンはさらに前進し、9月にボロジノで再びロシア軍と会戦。この時の大陸軍は13万程度である。

 この後モスクワに入城したが、この時の兵力は11万である。 

以上、読者もご存じのことで、この後モスクワが焼かれ、退却行でのロシア軍の追撃で、大陸軍が壊滅したことも説明するまでもない。

 私の疑問は、モスクワ入城時に6分の1まで大陸軍が減っているのに、ナポレオンは途中で引き返そうと思わなかったのかという点である。

 疑問といっても若い頃の疑問で、昔はロシア遠征はナポレオンの失策だというのが主流だった。

 今もこれが通説であることに変わりはないが、最近は歴史を語る人が極端に減っており、ナポレオンの話をする人もいないので、通説に対する私の感覚が鈍っている。

そして今では、ロシア遠征を失策だとは思っていない。 


そもそも遠征の目標がなぜモスクワなのかという疑問がある。 

大学受験の経験のある人のために断っておくが、この疑問を呈したのは私ではなく、予備校講師の参考書である。 

それはともかく、ロシアの首都はサンクトペテルブルグであり、サンクトペテルブルグなら行軍距離も短く、大陸軍は物資不足に悩まされることなく、短期決戦で講和という、ナポレオンの得意のパターンに持っていける。

 目標がサンクトペテルブルグでなかった理由はすぐに分かる。

 バルト海に面したサンクトペテルブルグを包囲すれば、イギリス海軍が救援にきて、大陸軍は艦砲射撃を受けることになる。当時世界最強のイギリス海軍に対処する術はナポレオンにはない。だから第一目標を捨てて、第二目標を選んだのであろう。

 問題は、第二目標に目標の意味があるかどうかである。モスクワ陥落が講和、降服、征服に繋がらなければ、第二目標の意味がない。

 この疑問に答えてくれたのが佐藤優氏と亀山郁夫の対談『ロシア闇と魂の国家』である。

(亀山)ロシアはアジアではなく、ヨーロッパだ、というアイデンティティを保証する一種のシンボル都市ですね。ロシアという言葉につよく拘泥したときに往々にして見失われがちなのが、巨大なペテルブルグ文化ですよ。なにしろ、ロシア文化の最良といえる部分を築き上げてきたのは、ペテルブルグが八十パーセントといっても過言ではないからです。

 

(亀山)1917年のロシア革命以来、ロシア第二の首都に甘んじたペテルブルグの心と体は完全に「疲労」にむしばまれていたと思いますね。形式を嫌い、荒々しい欲望に身をゆだねるモスクワの野放図で、由々しいエネルギーを遠目に、つねに背筋を伸ばしてきたのがペテルブルグだと思います。でも、その疲労というのは、大帝(ピョートル1世)の遺言(ヨーロッパへの窓)を果たすため、あえて「ロシア的なもの」に背を向けてきたこの街の宿命でもあったはずです。詩人ブロツキーは、「秩序の理念」とその精神を定義づけてみせたけれども、かりにペテルブルグという「鉄のコルセット」がなければ、現代のロシア文化なんて、それこそ締まりがない体を世界に曝すだけだったと思う。ペテルブルグの理性、ペテルブルグの良心は、もっともっと評価されてしかるべきだと思います。

 

(佐藤)ぼくの付き合う相手は、ほとんどがモスクワのインテリでしたが、彼/彼女らと付き合ううちに、モスクワが閉ざされたひとつの小世界を構成しているということが、皮膚感覚としてわかるようになりました。そうすると外部の世界に出て行くという意欲がなくなるのです。

 

(佐藤)ロシア人の意識では、人工の都ペテルブルグに対してモスクワは古都なのです。この辺の復古主義的心情をうまく利用して、レーニンたちはソ連の首都をペテルブルグではなくモスクワに定めました。「モスクワは第三のローマである」というスラヴ派の主張を密輸入したのです。

 

ペテルブルグを陥落してモスクワが首都になれば、ロシアはアジア的、土俗的な精神に回帰してしまうのである。 

ならばモスクワを落とせばどうなるか。モスクワを落とし、周辺、シベリアを征服すれば、中央アジアシベリア少数民族が反乱を起こし、ロシアはアジアから分断される。ロシアにはよりヨーロッパに近い地域が残り、ヨーロッパのみに目を向けた国家になる。 

首都がモスクワから分離されていた、この時代だからこそ立てられる戦略である。

ナポレオンが69万という大軍を集めたのも、ここに理由がある。おそらく遠征は、成功しても2年はかかっただろう。

そして69万の軍勢のほとんどが命を落とすことは、ナポレオンの計算に入っていた。6分の1まで兵力が減りながら、ナポレオンがモスクワまで進めたのは、この計算があったからである。 

これでロシアを分裂させることが本当にできたかといえば、まだ可能性は低いかもしれない。

それでも言えるのは、現代でもヨーロッパの潜在的脅威であり続けるロシアを弱体化させる歴史上最高の戦略を、ナポレオンが立案、実行したことである。


 ロベスピエールにできなくて、ナポレオンにできたことは、革命の輸出である。

 フランス革命により誕生した国民軍が対仏大同盟に勝利しても、他国で革命は起こらなかった。

しかしナポレオンは、各国の王を自分の近親、部下に変えることで、革命を輸出できたのである。

 この点、ナポレオンは皇帝になっても、あくまで革命の側の人間であり、ナポレオンがハプスブルグ家と姻戚関係になっても、各国はナポレオンに対する見方を変えることはなかった。 

革命はナポレオンの政権奪取で終わったのではなく、ナポレオンの没落によって終わったのである。

ナポレオンが皇帝であろうとなかろうと、革命をヨーロッパ各国が認めるはずがなかった。


 ロシア遠征の引き金になった大陸封鎖にしても、無茶なことは確かだが、他に手はなかった。

 当時イギリス海軍が世界中のフランス植民地を手中に納めていた。

イギリスに取られるよりはと、ルイジアナを二束三文でアメリカに売っても、全ての植民地を失う危険は避けられなかった。


 外交においては、勢力均衡派のタレーランの方が実力が上に見られ、あるいはそうかもしれないが、ナポレオンとタレーランでは立場が違う。

ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げられないが、タレーランは革命が終わっても栄達できた。


 エジプト遠征で、ナポレオン軍は艦隊をイギリス海軍に焼き払われ、孤立無縁となっていた。

ナポレオンは全ての兵士を捨ててフランスに帰還し、クーデターを起こして皇帝になった。エジプトに残されたフランス軍は降服した。

 ナポレオンはエジプトで死ぬべきだったと、かつては思っていた。 今でもその気持ちを完全に捨てた訳ではないが、見方が変わってきたのは、ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げていないことが分かってきてからである。 

エジプト遠征でペストが流行した時、罹患の危険がありながらも、傷病兵を見舞った。 

思えば、ナポレオンの人生の選択には、リスクとリターンが同じくらいあった。 ナポレオンはわずかに、リターンよりリスクの方が多いと判断して、その選択をし続けた。

そのような生き方を貫いた者への、賞賛の気持ちだけは抑えることができない。 


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