坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

戦争と平和を考えるマンガ③~『ヴィンランド・サガ』1:『ヴィンランド・サガ』に見る「ラグナロク」

ヴィンランド・サガ』は話がまだ途中で、おそらくストーリーが中盤か、あるいは序盤から抜けきっていないと思われるため、今書けることはそれほど多くない。
ただ気にかかるのは、史実においてトルフィンはヴィンランドへの入植に失敗している。
ヴィンランド・サガ』は創作の部分を多く含みながらも、ラストはおそらく史実に忠実に展開するだろうと思っている。
しかしそのことが、即トルフィンの理想の破綻だとは限らない。そして今のところは、非暴力主義的なトルフィンの行動は成功を修めている。

ヴィンランド・サガ』全体に漂うのは、「ラグナロク」の匂いである。
時は11世紀初頭、古代ローマ帝国の栄華は遥か昔となり、ヴァイキングがヨーロッパ各地で戦争と略奪を繰り返している、そんな時代だった。
プロローグ、幼少編の後が「ブリテン編」なのも興味深い。
ブリテン島では民族の大移動が大陸より遅かった。
作中でイングランドを侵略しているのはデーン人だが、デーン人の侵略を受けているアングロ・サクソン人も元は侵略者だった。イングランドケルト人とローマ人の土地だったのだ。イングランドは蛮行に次ぐ蛮行にさらされていた。
アシェラッドはデーン人の父からは、奴隷の子として名前を与えられず、アシェラッド(灰まみれ)と呼ばれていた。しかし奴隷の母親は元はウェールズの王族で、アーサー王のモデルとなったルキウス・アルテリウス・カストゥスの子孫だった。アシェラッドは母からアルテリウスの名前を貰う。
アシェラッドはデーン人を憎み、母の同胞のローマン・ケルトアイデンティティを抱く。
アシェラッドは母から「アルテリウスがアヴァロンから帰ってきてケルト人を解放する」という話を聞かされて育つが、やがて現実に目覚める。自分は傭兵団の団長に過ぎず、戦争と略奪に明け暮れる毎日を過ごすしかない。アシェラッドは自らの主となるべき人物を求め、デンマークの王子クヌートを見出だす。

クヌートは、歴史上ではデンマークイングランドの他にノルウェーの王となり、北海帝国を打ち立てる人物である。
しかし作中では、クヌートは最初「王の顔じゃない」とアシェラッドに思われていた。
クヌートは兄ハロルドに何かあった時の控えとして育てられ、そのために王位継承の争いが起こり、陰謀が絶えなかった。
陰謀を嫌気したクヌートは気弱な青年に育つ。しかし父王スヴェンは、王位継承争いを避けるためにクヌートを見捨て、イングランド戦役で息子が死ぬことを望み、戦役で最も手強いトルケルと対峙させる。
アシェラッドはクヌートを甘やかす守役のラグナルを殺す。精神的な支えを失い、神が人を救わないこの世の無情さを知ったクヌートは、覇道に目覚め父王と対決し、神に頼らずにこの世に楽園を築こうとする。クヌートが打ち立てる北海帝国は、ローマ帝国の再現でもあった。
しかし覇道を突き進むほど、クヌートは自分が父と同じ道を歩いているのを思い知る。父と訣別し、父と違う道を歩もうとしたはずが、いつの間にか、

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となる。

クヌートのようなマキャベリストの対極にに位置するのが、トルケルを代表とする戦士達である。
トルケルのような人物は、『花の慶次』などなら爽やかなキャラとなっただろうが、『ヴィンランド・サガ』では少し違ってくる。

戦士達の生き様は、北欧神話の影響を受けている。
激しく戦って死んだ戦士の魂は、ヴァルキリー(戦乙女)にオーディンの館ヴァルハラに導かれ、そこで暮らす。ヴァルハラで戦士達は、昼は戦争の練習、夜は饗宴に明け暮れる。
戦士達は決して駆け引きを否定しない。駆け引きの否定は戦争、ひいては自分達の存在意義を否定するからである。
しかしクヌートのような暗殺に手を染める行為は否定する。暗殺もまた駆け引きのひとつなのだが、そこには重要な線引きがある。戦争があるかどうかである。
クヌートは多くの成果を戦争によらずに得ていく。
一方トルケルは、デンマークが強いからという理由で、戦争を続けるためにイングランドに寝返ったりする。
そのような在り方をクヌートは無意味と思い、「戦争に意味を与え」ようとする。そして暗殺を含めて合理的に征服事業を進めていく。
クヌートは、確かに戦争に意味を与えたのである。しかしトルケルは不満に思う。
それは一人の人間の都合で、人の運命が決まるべきではないと思うからである。
巨大な帝国を築くことは、確かに多くの人々に秩序をもたらす。しかしそのために暗殺された者は、秩序の恩恵に浴していない。だからトルケルの態度にも理はある。
「復讐」もまた、秩序を保つための重要な行為と思われていた。
家族を殺された者は、赤ん坊でも「復讐」の義務を負う。
「復讐」しなかった者は軽蔑される。「復讐」しなければ、人を殺した者がのうのうと生き延びるのを許すことになるからである。
当時の警察力を考えれば(現代の警察力が十分かどうかもかなり疑問だが)、「復讐」が秩序を担うというのは説得力のある話である。そして「復讐」の対象には、暗殺という手を用いたクヌートも含まれる。「復讐」の観点から見れば、クヌートは秩序の中にいないのである。

戦士達は決闘を好む。それは戦争である以上否定できなかった駆け引きの要素を究極まで削いだ戦いの形である。戦士達が本当は駆け引きを嫌っている証である。

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駆け引き嫌いが高じるとこのようになる。
だから、戦士達は矛盾を抱えている。
駆け引きを否定してはいけない。ならば戦争をし続けるしかない。となればトルケルのように、無意味に戦争を求め続けるしかない。しかしその戦争もクヌートのようなやり方で無くなってしまうと、

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死んじゃうwww。

北欧神話の原典である『エッダ』の成立は13世紀で、キリスト教の影響を受けていると思われる。
北欧神話は、ギリシャ神話と同じ多神教の世界観である。
一神教多神教の違いは、道徳観念の有無にある。
多神教でも近親婚のタブーなどの道徳観念はあるにはあるが、「人を殺してはいけない」とか「盗んではいけない」といった、社会秩序維持に必要な根本的な道徳観念ははほとんどない。多神教の神は、自由で横暴である。
その多神教北欧神話ギリシャ神話と違い「ラグナロク」があるのは、キリスト教の「最後の審判」を北欧神話なりに受容したのだろう。
ラグナロク」は世界の終わりであり、最高神オーディンフェンリルに喰われて死ぬ。
オーディンは「ラグナロク」に向けて、ヴァルキリーにヴァルハラに導かれたエインヘリャルとともに武力を鍛えていくのである。
そこにはオーディンの2つの姿がある。ひとつはキリスト教の道徳観念に対して、自分の節を曲げない姿で、信念のために破滅を厭わない姿である。
もうひとつは、自らを正しいとするために争いを止めることが出来ず、破滅に呑み込まれていく姿である。

ラグナロク」は、争いを続けるために人が行き着く破滅であり、破滅に向かって進んでいるとわかっていながらそれを止められない心の闇である。
トルフィンとの決闘を望み、執拗に追ってくるガルムも、

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と、自ら破滅を望むようになる。

このように見れば、トルフィンの思想は確かに、クヌートやトルケルのアンチテーゼとして成立している。
問題は、トルフィンの思想で全てが解決できるかどうかである。トルフィン自身、「本当の戦士に剣はいらぬ」と言った父親が、剣を捨てきれずにいたことを疑問に思っている。
その答えは、まだ出ていない。

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忙しい部署に立場の弱い者を置くと仕事が集中する。

私は工場労働以外の経験をほとんど持っていないので、今回も工場での話になる。
連続稼働を行う部署がある。
連続稼働とは、機械に製品を投入すれば、一定の時間を経て製品に処理が施されて出てきて、またその機械に製品を投入する作業をいう。

パワハラ上司は無能である① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたのと同じ作業である。一定時間で必ず製品が出てくるので、作業者は時間内に出てきた製品を処理しなければならない。
投入する製品の量が増えれば、処理するのも大変になる。

そういう連続稼働の部署に、派遣社員のような立場の弱い者が配属されたとする。その場合、複数の人間の作業なら、立場の弱い者が多くの仕事をするように役割分担される。
最初は、それでも適正な作業分担だと言えるかもしれない。立場の弱い方は仕事量は多いが、最初は十分に仕事をこなせる配分になっている。そうでない方は仕事に余裕があることが多いが、その代わり全体を見る役目を受け持つ。
ところがパワハラ上司達は、立場の弱い者に次々と仕事を押し付けてくるのである。
自分の仕事を押し付けたり、他でやる仕事をこちらでやったりする。それは自分の評価を上げるためである。そうして立場の弱い者の仕事が益々増えていく。

パワハラ上司は、立場の弱い者が物を考えないように指導する。
仕事では様々なデータを採ることがあるが、そのデータが全部杜撰だったりする。
問題があっても報告しないように、パワハラ上司は指導していく。そのために聞かれたことに答えなかったりする。立場の弱い者が思考停止することを望んでいるのである。思考するようになったら、自分達が問題ある行為をしているのがばれるから。最初にデータを杜撰に採ったからパワハラ上司になったのか、パワハラの結果データが杜撰になったのか、鶏と卵がどちらが先かを論じるのに等しく、両者は一体になっている。

そんなパワハラ上司と立場の弱い者に周りがどう接していくかといえば、周りもまた、立場の弱い者に仕事を押し付けていくのである。この点、パワハラ上司を中心にその世界は回っている。
肉体作業は車の運転と同じで、認知、判断、動作の繰り返しである。どんな単純な仕事にも認知と判断はある。
車の運転なら、認知、判断、動作のスピードを無理に引き上げるのは事故の元である。しかしパワハラ上司は、この認知に判断、動作のスピードをどんどん引き上げていき、限界を超えさせる。そしてクレームになったり、人が潰れたり辞めさせたりする。
するとパワハラ上司はどうするかというと、反省しないのである。むしろさらに立場の弱い者の仕事量を増やしたりする。そうしている間、パワハラ上司は立場の弱い者に仕事を押し付けている間だけ、「失敗はあいつのせい」と思え、自分は無責任で済むのである。

しかし、会社の方針で生産量を増やした時に、パワハラ上司の問題は明るみに出る。会社が望んでいるのは、作業量の適正な配分であり、パワハラ上司はこの時障害になるのである
パワハラ上司にやり方を改めるように言っても、命令違反をして元のやり方で作業をしたりする。
そうして次第に、パワハラ上司の反逆心が明確になる。パワハラ上司はあの手この手で、改善されたやり方を元に戻そうとする。それは上位下達の組織論に反したやり方である。
それでもパワハラ上司はやり込められていく。部署異動になったり指示に服したりして、現場は正常化していく。

パワハラ上司は強面で仕事熱心なふりをして、生産面の向上では無能で、自分の責任を認められないヘタレである。
管理職の多くは、パワハラ上司の弊害に気付いており、パワハラ上司の弊害を無くすことが生産性の向上につながると考えている。

www.orangeitems.com

のような大幅な人事異動と早期退職は今は大手企業だけのものだが、そのうちこの波は中小企業にも広がっていくだろう。

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『春の呪い』の「近親婚的なもの」と「罪の時代」の終わり

立花夏美の家は普通の中流家庭だが、元々はは財閥の家系だった。
柊冬吾の柊家は相馬家の分家で、今なお財閥としての地位を保っている。そして立花家は相馬家の女系子孫だった。
このような設定になっているのは、こういう設定にしないと二人がくっつけないからである。
なお、政略結婚というのは、自由恋愛全盛の現代には流行らない。柊家にしても、政略結婚でなく家格の釣り合う相手を選んだという感じで、政略の臭いはないのだが、両家は遠縁ながらも血縁関係にあり、近親婚の臭いがする。

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説明が不充分だが、遠縁でも女系なら近親婚に当たらないという論理を語っているのである。
もっとも江戸時代に遡る血縁など近親婚とも言えないとも考えられるが、この微妙な血縁関係が『春の呪い』を理解するポイントである。この作品は恋愛でない結婚、いや恋愛や結婚に限らず、あらゆる自分で獲得していない関係を近親婚に近いものと捉えているのである。

春の呪い』を読んで真っ先に思ったことは、略奪愛ものにしても全く問題のない内容だということだった。それでもこの作品がヒットしたのは、このような設定でなければならない何かがあったからである。
それは序盤にも表れている。お見合いである以上、付き合いは結婚を前提としたものでなければならない。
だから二人とも、結婚をゴールインとして付き合いだしたはずである。妹と冬吾がデートした場所を巡る条件も結婚に至る過程だったはずだ。
それがいつの間にか、「妹とデートした場所を全て巡れば別れる」という話になっている。この矛盾も、冬吾が夏美に付きまとわれていると冬吾の親が言い振らしている話になってごまかされている。
最近の作品は作品内の論理的整合性が高く、『ドラゴンボール』のような予定外の長期シリーズ化をしない限り、矛盾による設定変更などはしない。
このような矛盾がある場合、明らかに意味がある。本当は結婚を前提に付き合っているのに二人が「別れなければいけない」と思っており、略奪愛の罪悪感が顕在せずに暗示化されているのである。

夏美と春の両親は離婚しており、父親に再婚した相手と、離婚する前から付き合っていた。
基本的には不道徳な話である。しかし両親は互いの価値観を合わせたり譲歩したりすることができずに離婚した。
作中には、折り合いをつけるために必要な要素が提示されている。それが「気遣い」である。冬吾は夏美が書くものを必要としていると気付いてペンを渡し、夏美は冬吾の指が逆剥けているのに気付いて絆創膏を渡す。
こうした「気遣い」で生まれた関係性の先に「やりたいこと」があり、「自分らしい人生」がある。その反対にあるのが「近親婚的なもの」で、その正体は「自分らしく生きられない」ことである。
「大人になったら家を出て二人で暮らす」という夏美の春への想いも「近親婚的なもの」で、それは夏美が「春を好きなのは恋愛としてじゃないかと悩んだ」という台詞に表れている。
春はどうかといえば、「自分らしい人生」と「近親婚的なもの」の中間の位置にいる。冬吾への想いは本物であるが、それが与えられたもので、自分で獲得したものではないからである。
それは春の「二面性的な一面性」となって現れる。春は「自分が死んだら姉が冬吾と結婚するのではないか」と悩み、「死んだらお姉ちゃんだけを連れていこう」と思い、冬吾には「自分が死んでも幸せになって欲しい」と思い、「写真だけでいい」と、自分の棺に冬吾の写真を入れるように夏美に頼む。
しかし好きな相手の写真を自分の棺に入れるというのはかなり怖い行為で、それをされた相手は、自分の幸福を望まれているとは思わないだろう。
「死んだ人間にフラれるとは」と、「お姉ちゃんを連れていく」と書かれた春のSNSを読んだ夏美は思うが、これは逆で、むしろ「近親婚的なもの」への誘いである。夏美の罪悪感が、春が夏美の後ろに立っているように思わせるが、それが罪悪感と同時に「近親婚的なもの」への誘いとなっている。またその罪悪感は春への罪悪感そのものであると同時に、「近親婚的なもの」に背を向けることへの罪悪感でもある。

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夏美の立ち位置は、まだ春とそう変わらないところにいる。そして「自分で獲得したもの」を持たない春は、それが「本当の思い」であったとしても、「自分らしい人生」を送ることができず、どこまでも「近親婚的なもの」になる。それが春の「二面性的な一面性」の意味である。

この作品では、あらゆる血の繋がりが「近親婚的なもの」として表現されている。
夏美と別れた後、冬吾の母親は親戚の真由子と結婚させようと画策するが、真由子は冬吾の再従姉妹である。冬吾の母親が近親婚を本当は気にしていないことが、これで明らかになる。
真由子は冬吾を簡単に手に入れられると思っている。「近親婚的なもの」の持つ甘さである。
冬吾が家を出ると母親に告げると、「後悔するわよ」と母親は言う。
母親は、冬吾がすぐに音を上げて戻ってくると思っている。「近親婚的なもの」は、相手が自立できる可能性を最後まで考えない。
もっとも、作品では身内にも自立に協力する者がいることを示唆しているが、冬吾の兄達は作中に登場しないし、篤実は親戚だが、どういう親戚かは明らかになっていない。
「近親婚的なもの」は、親等が近いほど強まる傾向があり、油断できないことを示唆している。
夏美の継母は、父親に家を出ると話したら、「今後一切家から出してもらえなくなる」という。この父親も作中には声しか登場していない。
そして「お母さんがあなたを勘当します」と言って、二人は和解する。勘当が和解なのである。

では、道徳はどうなるのだろうか?
「人は死んだらどうなると思う?」
と言う冬吾に、「わからない」と夏美が答える。


…そうだわからない。わかっているのはただ居なくなるということだけだ。人が死ねばどうなるかなど死んでみなければわからない。俺もお前も、本当は呪われてなどいないのかもしれない

 

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つまりは「罪を背負って生きろ」ということである。状況対応はいくら積み重ねても道徳にはならない。状況対応を道徳にしては、被害者はいつまで経っても報われない。
ただし罪は、人が幸福になる権利を根本的に奪わない。罪悪を為した者とその被害者の折り合いが「罪を背負って生きる」ことである。作者がそれを言いたいためだけに、この作品を描いたと思えるような1コマである。

もっとも、「気遣い」だろうが状況対応だろうが、

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こういうのはいらない。これは19時に待ち合わせしているのだが、マナーとしても15分前到着が限度である。それなのに冬吾が先に来ているのを見て「遅れてすいません」という。どっちが先に着くか競っているだけなのである。

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と、冬吾も言っているが、1巻の待ち合わせの場面では「俺も今来たところだ」という。時間前に着いているのに謝るのは、現実ではあり得ないだろう。
前述のストーリーの矛盾と合わせて、私はこういうのを「非リアリズム的手法」と呼んでいる。
「非リアリズム的手法」とは何か?それは『キングダム』の王騎の顔であるwww。

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正面からより横顔の方がすごい…。
ストーリーに現実的でないものを挟み込みながら、消費者を真実に導いていく手法、それで「非リアリズム的手法」である。『春の呪い』の場合は、「気遣い」とは自分の身を磨り減らしてするものではないということである。

2016年までは「罪の時代」というべき時期で、『七つの大罪』に至るまで罪をテーマとする作品がヒットし続けていた。
この流れが、2017年を境に変わっていく。
小西明日翔の次回作『来世は他人がいい』で、染井吉乃は、深山霧島に「体を売ってこい」と言われる。
その後姿を消した吉乃が再び霧島の前に現れると、

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…皆さん思いましたね?思ったことは溜めずに口にしましょう。せーの、
JKが内臓売ってんじゃねー!!
ところが、この吉乃はただの女子高生ではない。

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普通の女子高生がなんでこんなに思い詰めてるの!?実際吉乃は中学の時から「梅田のホステス」とか「バツイチ子持ち」とか「美人だけど3日で飽きる顔」とか言われている。吉乃の表面でない中身は女子高生ではない。
『来世は他人がいい』の染井吉乃と深山霧島、『夢で見たあの子のために』の中條千里は、『進撃の巨人』1巻のエレンの破滅願望を遺伝子として持ちながら、高い行動力と強い精神エネルギーを持ち、最悪な状況でも生き残ったりする。
亜人』でもこのようなキャラが登場している。航空自衛隊入間基地を襲撃した佐藤達に新たに加わった仲間達、

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なんかフツーの方々で、選ぶ基準を間違えたかと思えば、

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フツーの方々が、戦士として有用なのである。「罪の時代」から、明らかに時代の流れが変わったのである。

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日本人は中国に従属する日を心待ちにしている。

橋下氏のツイートから。

 

実はこの少し前から、日本人の領土問題に関する意識が変化してきている。
それはこの記事から始まった。

www.yutorism.jp

私はその記事に

「戦争と平和を考えるマンガ」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

のリンクを貼ってやった。その記事こそが、かつて「東洋の小さな島国」と自国を呼んで自己を矮小化することで、世界との比較から逃避していた日本人への逆戻りを示すものだったからである。
そしてそれはアメリカを敵としてかつての戦争を継続しながらアジアを相手に争い、結果アメリカに負け続けるという「永続敗戦構造」から、「アメリカを敵とする」という意味では脱却したということである。
もっとも、「アメリカを敵としない」動きは、白井聡が「天皇の位置にアメリカがついた」と指摘したように、去年からあった流れである。
去年からさらに変化した流れとは、もはや「アメリカを敵とする」ことで自己の正当化、肥大精神を維持することができず、精神が肥大から矮小に転じたことである。
この矮小化の流れは、実行支配している尖閣諸島を除けば、領土問題から手を引き、相手国に譲歩してしまおうという風潮を生み出している。

reki.hatenablog.com

もまた、自己の矮小化によってランキング入りした記事だと私は思っている。
この精神が肥大から矮小に転じた現象をどう捉えるべきかについて、最終的な結論は私の中で出ていない。
これは、「絶対に戦争をしないことを前提にした領土交渉の難しさ」が問題を複雑にしている。「絶対に戦争をしないことを前提にした領土交渉」で、相手国が領土を返還する可能性はほとんど0だからである。
「ならば領土問題から手を引いた方がいいじゃないか」という者が現れるのは、「永続敗戦構造」が破綻した以上自然の流れとも言える。正直に吐露すれば、私も昔はこういう心境を持っていた。
しかしほとんど返還される見込みのない領土交渉をするのは、強靭な精神力によって領土の返還を未来に繋ぐことであり、それが寸土であっても、領土交渉を続けるのはその国の精神的活力を示すものである。
国内世論で「返せ」と盛り上がって、明日にも領土が返ってくるような気分に浸って現実を否認する「永続敗戦構造」は不健全だが、返ってこない領土問題からただ手を引いてしまうのが健全だとは言えない。
真に重要なのは肥大でも矮小でもなく等身大に自国を見ることだが、そのために必要なのが国家戦略である。
個々の領土問題に国家戦略があるかどうかではなく、国の根幹に国家戦略があるかどうかが重要である。
それがあれば、返ってくること可能性のほとんどない領土問題に固執してもよく、むしろ固執した方がいい。因みに

平和憲法のために竹島を失った!?「戦後」の終わり - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、竹島は日本が韓国にリボンをつけてプレゼントしたようなものなので、むしろ竹島を韓国領だと認めて方がいいとさえ思っている。
肥大から矮小への流れは、おそらく「永続敗戦構造」の破綻の必然の結果だが、この流れが国家戦略を産み出さなければ意味がない。
そして現状を見れば、肥大から矮小への流れは国家戦略を生み出していない。

橋下氏は、上記のツイートの他にも領土問題について言及したツイートがあったが、それは今は削除されているようである。内容は玉木雄一郎氏が竹島問題で韓国を非難した時に、「返ってこない領土問題で騒ぐのはもううんざりだ」という趣旨のものだった。
おそらく去年の夏くらいの頃だったろうか。当時私は、橋下氏が「永続敗戦構造」を攻撃するのが狙いだと見ていた。
そして上記のツイートを見て、つくづく橋下を偉大な人物だと思うしかなかった。
橋下氏は、「日本はシーレーンを中国に奪われるしかないんだ」と言っているのである。
今の日本人の顔は、中国に従属する日がくるのを心から待ち望んでいる者のそれである。
中国のシーレーン奪取の警戒を呼び掛ける時期など、とっくに過ぎ去っている。
私は中国のシーレーン狙いを警戒するように呼び掛けていたが、実に甘かった。
今の日本はシーレーンについて完全に投げている。
右翼は尖閣で問題が起こった時に騒ぎ、一帯一路を警戒すれば事足りるとしている。一帯一路など、中国における対日本のメイン戦略であるはずがない。
中国のシーレーン戦略を封じ込めるには東南アジア諸国との連携が必要だが、韓国とも仲良くできない日本が東南アジア諸国と軍事的に連携できるはずがない。
それなのに左派は日本人の韓国嫌いを非難すれば事足りるとし、中には「中国は絶対に日本に攻めてこない」と言って、露骨にシーレーンから目を背けようとするブロガーも現れる始末。中国が攻めてこないなど当たり前である。
そんな記事をランキング入りさせたのも、そのブロガーよりも「これはちょっとな」というふりをしながら、シーレーンから目を背けられることを喜んだ者逹の問題である。
韓国にしても、仲良くしようとしてもケンカしても関係が変わらないことは今までで証明済みである。問題は韓国に何があるのかを見極めることであり、それが韓国が統一国家でないことのコンプレックスだと知ることである。
それはこのブログで何度も述べたが、日本人はこの真実を否認する。理由は韓国と手を結びたくなく、シーレーンを中国に奪われたくは中国に従属したいからである。
韓国や中国についての記事でも未だにブクマのひとつももらってないがひとつやふたつの拡散があったところで何の意味もない。
私より、橋下氏の方がはるかに賢明だった。今の日本人には、中国に従属したい姿をそのまま見つめさせるのがもっとも効果的なのである。

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ドラゴンボールを考える⑫~「身勝手の極意」の正体

『DB超』のマンガ版の「未来トランクス編」も、アニメと同じで、トランクスに「未来を救えなかった」という屈託は感じられない。マイといちゃついてるトランクスを見て、「やーめた」と言う。

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と子供マイが言うのに対して子供トランクスが、

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と繰り返して言うのは、トランクスが「シリアスな世界観の中にいる」と思っていないからである。
さらに悟飯が「トランクスが未来を救った」と勘違いすると、現代に留まることが決まっていたのに「2、3日後に帰る」と言い出し、

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このトランクスはダメです。

このトランクスは、「未来を救うかどうか」より「未来を救えなかった自分」を気にしている。

青髪のトランクスにしたのは、おそらくこのダメなトランクスにするためだろう。
原作のトランクスはとにかく生真面目な青年で、現代では「お客さん」で終わったが、未来はきちんと救った。
しかし、現代のトランクスと環境の違いがあるとはいえ、性格が違い過ぎるのである。現代トランクスは、もっと根がちゃらんぽらんに見える。
青髪のトランクスは、環境のために真面目にならざるを得ないとはいえ、根がちゃらんぽらんな現代トランクスの性格を反映させたのだろう。それに合わせて、現代トランクスの髪もマンガでは青髪になっている。
未来に向かう(帰るではない)トランクスに、ベジータはアニメの爽やかな別れと違って、「トレーニングを怠るな、もっと強くなれ」と言っている。内心、トランクスに不満だったのだろう。

「宇宙サバイバル編」で、最初に消滅した第9宇宙の天使は、第9宇宙の消滅後、

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感じ悪っっ!!

に消滅した第10宇宙のクスちゃんの反応。

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第9宇宙の天使が印象悪いのもあって「クスちゃんマジ天使」とか言われてるけど、みんな人良すぎない?このコため息ついただけだよ?ちなみにクスちゃん一番人気だけど、兄弟の中で一番年上だよ?

他の天使は消滅時にしゃべらない。

第6宇宙のヴァドスシャンパの消滅を嘆きながら第7宇宙の席に移動www。

そして第11宇宙と対決する直前の第3宇宙が消滅する時、それまでピコピコいってただけの破壊神モスコ様が中から出てきて、

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出てきたかと思ったら竹を割ったような御仁で。そして消滅後の天使の反応は、

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第3宇宙の天使にとって、破壊神が顔を出してしゃべるのは良くないことらしい。
天使は破壊神に仕えているようで、破壊神は時々天使に行動を制約される。宇宙と共に破壊神が消滅しても、天使は消滅しない。なぜなら天使は「あちら側から来たガイドのようなもの」だから。
そしてこの印象の悪い天使達が、「身勝手の極意」を使え、破壊神は完全には使えない。それが『DB超』の世界観であり、「身勝手の極意」を理解する鍵である。

「力の大会」で、悟空はとうとうジレンと対峙する。
悟空は超サイヤ人ブルー×20倍界王拳で戦うが、ジレンには全く歯が立たない。
そこで切り札の元気玉を使うが、ジレンはそれを受け止め、弾き返してしまう。

元気玉に呑まれた悟空は、そのまま死んだと思われた。
ところが元気玉によって空いた大きなクレーターの中心から、悟空が立ち上がる。この時、悟空の様子が一変している。

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体が勝手に反応し、どんな攻撃も避けることができる技、「身勝手の極意」への覚醒である。
ここで「身勝手」のテーマソングというべき『究極の聖戦』が流れる。
歌っているのは串田アキラという人で、どういう人かわからなかったので調べてみたら、『宇宙刑事ギャバン』の主題歌を歌っている人で、結構な大御所である。
悟空はジレンと互角に戦うが、悟空の「身勝手」の効力が切れ、ジレンに弾かれる。
「この熱気…それがお前の限界だ」とジレンは言う。「身勝手」の効力が切れた悟空は、体力を著しく消耗していた。
その後フリーザに気を分けてもらい、

体力を回復しながら戦う悟空。www

この悟空の体力の回復の仕方が実にうまい。
第6宇宙のカリフラと、

戦隊ものにはまってる奴らを倒すために女ブロリーになったケール

相手に、回復でなくテンションが上がる形で動きが良くなっていき、一時的に超サイヤ人3にまでなるが、「やっぱ体力が十分じゃねえ」と言って一段階戻る。
それ後赤ゴッドで二人を圧倒するが、ポタラ合体したケフラに負けそうになる。そこで再び「身勝手が発動。
悟空有利と思われたが、重大な問題が発覚する。悟空の「身勝手」は、攻撃の際に考えてしまうので、十分な攻撃にならないというのである。
https://youtu.be/YvHvDS7VIm0
『究極の聖戦』の歌詞が全部入ってるのがこれだけだったみたいなんで張ったけど、「意味は無いさ戦うだけ」って「聖戦」で言う言葉かよ?
http://j-lyric.net/artist/a00111c/l0450de.html
他にも「身体ボロボロどこで止めりゃいいの?」とか「残酷な宿命を嗤え」とか、まー「残酷な宿命」なのは違い無いけど、極めつけは「やがて自我が無になるまで」である。
仏教には「無我の境地」があるとか、「そんなものは無い」という意見もあったりするが、それはともかく、「自我が無になる」ってのは死ぬってことじゃないの?って思ってしまう。
ともかくこの時は、攻撃力の弱さをゼロ距離のかめはめ波で克服してケフラを倒す。

その後の第7宇宙は、各宇宙との総当たりという感じで、体力を減らしながら戦い、ラストに第11宇宙と対決する。
しかし相変わらずジレンには攻撃が通じない。
「消えた宇宙を復活させられない」と自分を追い詰めたベジータが、ここで殻を破る。「身勝手」を会得する道を捨て、自分なりの進化を遂げたのである。

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超サイヤ人ブルーより青が強調され、瞳がとてもきれいで、


笑っちゃうくらいwww。

ベジータは目が濁ってるくらいが丁度いいんだよwww。
このベジータの進化は、ノブレス・オブリージュの表現であり、「身勝手」との対比である。
しかしこの進化も、ジレンを超えるものではなかった。
ベジータは僅かに残った自分の気を悟空に与えて脱落、立てないほどに消耗していた悟空は立ち上がってブルーに変身、ジレンと戦う。
その変身もすぐに解け、絶対絶命となった悟空の脳裡を仲間の姿がよぎり、三度「身勝手」が発動する。なおこの後何度か『究極の聖戦』がかかるが、「身勝手」中は全てインストゥルメンタルである。
しかし攻撃力が弱いという欠点は克服されていない。ケフラを倒した、「身勝手」で避けてのゼロ距離かめはめ波もジレンには通じなかった。
悟空の「身勝手」も駄目か、とみんなが思ったところで、ウイスが、

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なんかわかったようなわからんようなwww。
武舞台は既にバラバラで、ところどころに島が点在する状態。ジレンは悟空を島ごと攻撃する作戦に出る。攻撃は避けられても、そのうち島が無くなってしまう。
しかし悟空はただ避けるのではなく、拳圧でジレンの攻撃を防いでいく。悟空の攻撃がジレンのそれを押し返すようになっていき、ついに悟空の一撃がジレンに届く。
焦ったジレンは渾身の一撃を放とうとするが、それも悟空に封じられてしまう。

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「身勝手の極意〈兆〉」から〈極〉への移行である。
この構図といい、悟空の体力の回復の仕方といい、どうしても『聖〇士〇矢』(なぜか伏せ字www)を思い出す。
しかしだからダメなのではない。以前書いたように、体力の回復はずっと自然だし、この背中合わせの構図もそうである。
ジレンはよく相手に背中を見せるが、それは相手を戦闘不能にしてからである。
また悟空も「身勝手」で体が勝手に反応してくれるから、どこを向いていても問題ない。しかしこう『聖〇士〇矢』を想起させられると、「俺の方がずっと上手く描ける」と鳥山が言っているようだwww。

ジレンには過去のトラウマがあった。
悪党に親を殺され、師に就いて修行したがその師も殺され、仲間を作りその悪党と戦おうとしたが、悪党の強さに、、仲間はジレンを裏切って逃げてしまった。以来、ジレンは仲間を信じず、己一人を頼りとして強くなった。
しかし自分より強い者が現れたことでジレンのトラウマが目覚め、そのトラウマがジレンの真の力を呼び覚ます。
そんなジレンに対して亀仙人は、

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と悟空を評す。クリリンも、

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「そんな魅力が悟空にある」という。友情vs人間不信の構図である。
このあたりを見ると、友情を全面に押し出す『キン〇マン』(なぜか伏せ字www)を思い出す。
もちろん『DB超』は、『キン〇マン』よりずっと上手く描けている。悟空はただ一撃もらっただけで、『キン〇マン』のように友情で全てを解決してしまうようなものにもなっていない。
しかし友情は美徳であっても道徳ではないのである。
友情はただそこにあるものを「美しい」と思うだけである。しかし友情を道徳にしてしまうと人間不信=不道徳になる『キン〇マン』に限らず、友情を絶対化して人間不信を不道徳にしてしまうのが、主に80年代以降の日本のサブカルの潮流だった。

勝負ではなく精神的に追い詰められたジレンは、第11宇宙のメンバーがいる観客席を攻撃、悟空がそれを防ぐ。
仲間を攻撃するジレンに悟空が激怒。ジレンを後一歩で倒せるところまで追い込む。ところが、

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フリーザ!?

と俺も思っちゃったwww。悟空の体力が限界に達し、「身勝手〈極〉」が解けたのである。
ここで17号とフリーザが活躍。二人が戦っている間に僅かに体力を回復した悟空(それでも速い)が戦線復帰するが、ここでフリーザがごねる。

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フリーザが自分を生き返らせることの念押しを始めたのである。そんなフリーザに悟空は、

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「それはおめえが一番よくわかってるはずだ」と悟空。
悟空とフリーザってそういう関係だっけ?と思うがそれはともかく、フリーザが納得すると『究極の聖戦』が、しかもインストゥルメンタルでない方が流れる。


『究極の聖戦』は「身勝手」のテーマソングじゃないの!?

悟空とフリーザが共闘し、ジレンと3人で仲良く場外、17号が武舞台に残り、第7宇宙の優勝が決定。
17号は消滅した宇宙を復活させるように神龍に願いを言う。
実はそう言わなければ、優勝した宇宙も消滅させるつもりだったと全王。ちょっとそれ都合良すぎない?それじゃ苦労して優勝した意味全くないし、不条理を試練とする意味もないし、

「消滅した宇宙を復活させる可能性はあるが、それはハッピーエンドじゃない」と言った俺の立場がねえじゃねえか!!

フリーザはそそくさと地獄に帰ろうとするが、ウイスが「フリーザさんもハッピーになったらどうですか」と言ってフリーザを生き返らせてしまう。
これで悟空の約束ははたされた、じゃない。
悟空の約束は「地球のドラゴンボールフリーザを生き返らせる」である。しかしフリーザは一度地球のドラゴンボールで生き返っているので、地球のドラゴンボールでは生き返れない。
ならばナメック星のドラゴンボールでいい。何を使ってフリーザを生き返らせるかは問題じゃないといえばその通りである。しかしナメック星のドラゴンボールは使わなかった。
ウイスは悟空とフリーザの約束のためにフリーザを生き返らせたのではない。悟空と無関係に、自分の意志でフリーザを生き返らせた。
つまり悟空は、フリーザを生き返らせるために何もしなかったのである。

フリーザは騙されたんです。

あ、ちなみに「悟空が生き返らせた』って映画でベジータが言ってたけど間違いです。生き返らせたのはウイスです。

ここで思い出すのは、EDの『悪の天使と正義の悪魔』である。
「未来トランクス編」の後から入ったEDで「宇宙サバイバル編」にも少しかかっている。具体的には悟空vsトッポ戦までである。
https://youtu.be/MfPXEZTzc6Y
こんなEDだっけ?
確か真ん中あたりでウイスヴァドスが頭を抱えて飛び立っていって、最後に悟空も飛んでいく、つまり「天使の仮面被った悪魔達」の直前でウイスヴァドスが現れ、「世界が君を待ってるんだよ」で悟空が飛び立っていく、そういうEDだったと思うんだけど。

もうひとつ、いやもう二つ、ひとつはマンガの「未来トランクス編」での悟空ブラックの超サイヤ人ロゼのことである。
「死にかけから復活するとパワーアップする」というサイヤ人の性質を利用してブラックは超サイヤ人ロゼになったというが、これはおかしい。なぜなら悟空とベジータは限界まで鍛えており、死にかけ→復活→パワーアップはできないとトランクスも言い、ベジータも死にかけから復活してパワーアップしていないからである。ならば限界まで鍛えた悟空の体を乗っ取ったブラックもパワーアップしないはずだ。
実際には、死にかけから復活する度にザマスの精神と悟空の肉体が一体化していき、サイヤ人の性質はその媒介でしかないことがわかる。つまりブラックの体はサイヤ人のそれでなくザマスのものになっていくのである。そして「神が超サイヤ人ゴッドを超えると薄紅色になる」と言う。
もうひとつは、アニメの「未来トランクス編」の超サイヤ人ロゼである。

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とブラックはナルシズム全開で、ロゼが何なのかについての説明は一切無し。
実はこの前にブラックは「時のはざま」に吸い寄せられて現代に行き、悟空と一戦している。そして悟空の動きがブラックの体に浸透していき、ロゼに覚醒する。
マンガと逆に、ブラックに悟空に近づいてロゼになったのである。
ブラック版「身勝手」と言ってもいい。

「身勝手の極意」の正体、それは「大衆」である。それも「衆愚」そのものと言っていい。
「衆愚」そのものというのは、その核となる人間の特徴による。
よく「脊髄反射」のように議論する人がいる。
その人は反論するまでのスピードが非常に速いが、反論しているうちに矛盾だらけになる。
矛盾だらけだが、反論を受ける側は相手の反応についていけなくて議論に負けてしまう。
こういう人は大抵愚論を述べているのだが、大衆の意見は大概こういう愚論を述べる方に靡く。
それは確かに全ての反論に返しているが、矛盾だらけではしょうがない。
破壊神とは、そういう「大衆」の要望に答えるリーダーのことである。
こういうリーダーの存在は、人によってはかなり横暴で、その横暴さが強権タイプのリーダーのように見せる。
しかし破壊神は、「身勝手」を完全に使いこなせないのである。それは「責任」があるからである。天使は完全に無責任だから消滅しなかった。それが「あちら側から来たガイドのようなもの」という意味である。しかし「責任」を持たなければ上には立てない。だから破壊神に仕えている。

「力の大会」が終わり、ジレンはトッポに、「あいつはまた会いたいと言った。だが過去に囚われて生きてきた俺には、誰かと繋がりを持つことなどできない」という。
「ジレン、お前はそんな臆病な奴だったのか?あの時お前は俺達のために立ち上がった」

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とトッポ。


トッポとジレンも騙されたんです。

なお、マンガの「身勝手」は、アニメとは全く違うものである。
「宇宙サバイバル編」が終わっていないため、詳細は語れないが、二つ言えることは、アニメのような熱気を発していないこと、そしてマンガの「身勝手」は東洋の武術に影響を与えている「禅」の思想の体現だということである。
それは熱気とは逆の、非常に楽な精神である。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のサトリとキコリの話もまた同じものである。

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山口真帆の事件を無視する「統合型」フェミニスト達

NGT48の山口真帆が暴行を受けた事件について、はてなで記事を書いたブロガーは、おおざっぱに見た限りでは、元々アイドルファンが多いようだった。
私は事件が明るみに出た当初、フェミニストがこの事件についてどう反応するかを見てみた。
3~4日分見てみたが、はてなの思いつく限りのフェミニストのブロガーで、山口真帆の件をツイートしたのは一人だけ、それもコメント無しのリツイートひとつだけだった。(個人批判目的ではないので、名前は出さない)
セクハラ騒動では必ず口を出すフェミニストも、グループ内での確執やいじめが原因とみると口をつぐむ。セクハラよりいじめを維持しようという方が重要らしい。今のままでは、山口真帆は芸能界から追放されてしまうかもしれない。

2017年くらいまでのリベラルの大隆盛の中心にいたのはフェミニズムだったのは間違いない。
リベラルの中心がフェミニズムである理由は簡単で、そもそもフェミニズムはマイノリティではないからである。世の中の半分が女性なのだから。そしてフェミニズムから派生して、リベラルが台頭してきたのである。
そのことはLGBTが台頭した理由でもある。女性は男と比べて、同性愛への生理的な抵抗がはるかに低いのである。また発達障害への理解が拡がったのも、発達障害をカミングアウトしたのがほとんど女性であることが大きい。男はやはり、発達障害をカミングアウトするには大きな壁があるのだろう。
リベラルの台頭により、いじめ、パワハラブラック企業が非難され、はてなでも被害者を取り上げての救いの手が伸べられた。そうして救いの手が伸べられた被害者がブロガーとして著名になるということもしばしばあった。
そうして救われた被害者は、社会全体の被害者の内の氷山の一角に過ぎない。しかしそれでも救済には違いなかった。

それが、2016あたりを境にして変わっていく。
被害者の救済は次第に行われなくなり、社会派のブロガーの地位は固定化していくようになる。最後に救済されたのはハルオサンだろう。
そして去年のキズナアイ騒動からLOFTの件で、非難の槍玉に挙げられたのはむしろフェミニズムの方である。
このようになったのは、フェミニズムを中心とするリベラルが本当にリベラルな社会を作ろうとしていたのではなく、「救済される者」と「救済されない者」の分別を行い、それによって社会を現状維持する機能を果たしていたからである。
リベラルによる「救済される者」と「救済されない者」の分別には、著しい特徴がある。
それは、より大きく、強く罪悪感を感じる問題を取り上げていかないことである。労働問題を扱う人は、偽装請負のギの字も語らない。
それは、偽装請負が小さな問題だからではなく、犯罪であり、非常に大きな問題だからである。だからこそ私は

偽装請負は日本型経営を殺戮装置に変えた - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた。
同様に、沖縄米軍基地問題も語らない。たまに出てくれば、沖縄独立論や集団的自衛権違憲論など、むしろ沖縄米軍基地の県外移転から話を逸らすための議論ばかりである。つまり日本にとってより大きな問題で、より日本の本質に迫る問題ほど、リベラルは語らないのである。
そして「社会を現状維持する」と述べたが、被害者は被害者を守るあらゆる規範が適用されなかったから被害者なのであり、被害者にとっては無秩序と同じである。「救済される者」と「救済されない者」の分別による社会の現状維持を、秩序として肯定するのは許されることではない。

リベラルは本来、「救済される者」と「救済されない者」を分けたりしない。
だから「救済されない者」にも、リベラルは浸透していく。それを不味いと思ったから、リベラルは「救済される者」を救済しなくなった。それが階層の固定化に繋がり、そしてリベラルな視点でフェミニズムが非難されるようになった。非難の根拠に「ダブルスタンダード」である。フェミニズムがリベラルの中心にいた証である。

mochi-mochi.hateblo.jp

にあるように、フェミニズムには「統合型」と「分離型」があり、有名なフェミニストは皆「統合型」である。
フェミニストが「統合型」なのは、「分離型」に属する女性を救済する気がなく、むしろ従属させてヒエラルキー構造を維持するためである。
そのためにキズナアイ騒動のように「性的」なものを排除しようとし、女が男になろうとする。個人差があるのをあえて承知で言うが、「統合型」のフェミニストは根本的に女性性を否定している。
「分離型」のフェミニストを従属させた後で、「統合型」のフェミニストが目指すのは男の去勢である。
「統合型」のフェミニストは「性的」なものを徹底して排除しようとするが、男が「性的」なものに反応するのは当然のことである。その当然を否定されて、男にどんな成長があるというのか?
去勢されて成長を阻害された男達は、「男尊女卑」という形で反動化する。「統合型」のフェミニストは反動化した男と戦うふりをしながら、ヒエラルキー構造を維持する。つまり本当は、男に従属しているのである。

私は今までのフェミニズム、リベラルの活動に一定の敬意を持っている。
しかしフェミニズムを中心としたリベラルの在り方は限界に来ており、また今までのリベラルは私を救済するものではない。今後相当の混乱と変革が予想され、その混乱が落ち着いた時には、フェミニズムはその中心から外れていると思っている。
ネットでたまたま見かけたものを紹介しよう。

peing.net

何度も読み返した結果、私は「彼女が意見を参考にしたりして影響を受けたフェミニズムの人がセクハラ行為に及んでいる」と判断しても曲解には当たらないと判断した。
私の判断が真実かどうかはわからない。しかし証拠はなくても、自分を否定する行為、つまりフェミニストが反フェミニスト的な行動を取る者は現れていると思っている。「救済される者」と「救済されない者」を分けられなくなった結果、フェミニスト、リベラルが自分を救済しなくなっているのである。

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日本型ファンタジーの誕生(25)~『僕だけがいない街』3:父殺し

意識が戻った後、藤沼悟は記憶を失っていた。
記憶を失ったのは、悟が冬の沼に飛び込まされた恐怖と、挫折感を表している。
悟は、母親が悟の記憶が甦らなくていいと思っているのを察して、「無理に思い出すことはないんじゃないか」と思う。しかし大人になった雛月加代の絵を描いてみて愕然とする。
「自分にこんな絵が描けるわけがない」と思う。そして再び、悟は記憶を取り戻そうとする。
雛月が帰った後、悟と話して悟の成長を実感した母親は、悟に事件のファイルを渡す。
「自分の子が何事かに興味を持ったなら、応援するのが親ってもんだべさ」と母親は言うが、元の時間軸では、母親は悟に事件の記憶を忘れさせようとした。変えたのは悟である。

リハビリに励む中で、悟は片桐愛梨に出会い、一瞬、記憶が甦りそうになるが、悟は昏倒し、再び約1年の昏睡状態となる。
そして、眠りから醒めた悟は思う。

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悟は再び猛リハビリをして、奇跡の回復力を見せる。
僕だけがいない街」とは、悟が八代学に嵌められ、13年間の植物状態と2年間の昏睡状態になった時間である。そして悟の回復を皆が待ち望み、信じ続けた、悟にとって誇らしい時間である。
しかしそれでも、「僕だけがいない街」と呼ぶのは寂しい。なぜこの時間を、そんな風に呼ぶのか?

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雛月加代が児相に保護された時、「悟がとった勇気ある行動の結末が、『悲劇でいいハズがないだろう?」という八代の言葉で、悟はこう思う。
この場面は一瞬、悟が八代を父親のように思った場面である。
悟は八代を父親のように思っていたのか?
この作品で、悟が八代を父親のように思うのはこの一コマのみである。まだこのコマを悟が八代を父親だと思っていると解釈する必要はない。しかし、

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悟もまた雛月加代のように、自分のいる街からいなくなってしまいたいと思っていたと考えるべきだろう。「僕だけがいない街」というのは、単純に誇らしい意味では決してない。

八代は悟が眼を覚ましたのを知り、高揚する。


「死」に抗う事は出来ないのだと、その時は思ったからだ。では「死」とは何だ?「肉体が滅ぶ」事か?「否」、「死んだも同然」などという言葉を時々耳にする。その意味は何だ?「肉体的、精神的に満たされない状態」のことだ。そう…つまり、

 

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と思い、「生」を感じるために「僕のためにある他者の死」を求める八代は、「他者の死に抗う者」として現れた悟に強い刺激を受け、執着する。そして悟をかつて飼っていたハムスターの名前「スパイス」と呼ぶ。その「スパイス」も、八代が果実酒用の大ビンで溺れさせようとしたハムスターで、仲間が溺死した体の上を走ることで「死に抗」っていた光景を見て八代がペットにしたものである。
悟の母親が、悟が「眠ってしまった」こと、そして眠りから覚めたことによる喪失感と感動を表している場面だと思ったら、八代の心情を表しているとわかってぞっとする場面がある。悟の母親にしろ八代にしろ、想いの強さという点では同じなのである。
主治医の北村は、感情をあらわにすることがない。
このキャラの存在意義は、八代と対比させることにある。

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表に出さなくても、北村には愛がある。八代の悟への「想い」がどれほど強かろうと、八代の「想い」は愛ではない。

八代が市議会議員の西園学になっていることを知り、市のイベントに必ず八代が現れると読んだ悟は、八代のトラップを見抜き、八代と対面する。
悟は、八代の犯罪を止める原動力として必要だった言葉、「心の中に空いた穴を埋めたい」を、小学校の卒業式の日に八代から聞いた言葉だと明かす。


先生には15分のアドバンテージ、僕は18年のアドバンテージでやっと五分だよ。信じてくれる?

 

と言って八代が「信じる」というと、悟は笑う。

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しかし悟が「もう終わりにしない?」と言うと、

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悟…僕は「悪」か…?世間の物差しではそうだ。だがそれは「理性」という言い訳の殻を破ろうとせず、自分の本当の欲望を隠している者が、自分を「善」であると肯定する為の物差しだ。君の命懸けの行動力は賞賛に値する。正に君も物差しの外側の人間だ。僕達は似た者同士なんだ。

 

と言って、吊り橋に火をつける。
「何も無いよ、無いんだ」という八代の言葉は、前の悟の言葉とも、後の八代の言葉とも繋がっていない。
八代は、悟の変わりに否定したのである。悟が八代を追い掛けて、八代と同じになろうとするのを。

かつて

『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

にダメヒーローを日本型ファンタジーの要素のひとつと述べたが藤沼悟は、このダメヒーローに該当しなかった。
悟の悩みは多くの人が持つ平均的なもので、バイト先では正社員より仕事ができると思われ、「リバイバル」のおかげとはいえ、行動力は極めて高く、判断力にやや難があっても、その判断力も平均以上である。どこもダメヒーローと言えない。
しかしだからこそ、タイトルが『僕だけがいない街』なのである。
主人公は、読者が自己投影できる存在でなければならず、そして『進撃の巨人』1巻のエレンのように、それはしばしば破滅への衝動となって現れる。
ところが、悟は「他者の死に抗う者」として危険を犯すが、その本質には強い生命力がある。本来、悟の行動の延長線に八代はいない。だから無理矢理悟と八代を同一化させようとしていると見ていい。
しかし、悟と八代が似ていなくもない。
それは、悟が小さい時に好きだったテレビ番組『戦え!ワンダーガイ』の主人公に現れている。
『戦え!ワンダーガイ』の主人公は、戦い続けることで孤立し、妻や子供からも離れていく。
悟が行動することで、悟を中心に強い絆が生まれていくが、実際は戦うことで孤立していくことを、『戦え!ワンダーガイ』は表している。
破滅のためでなく、正しいことのために行動しても、周囲から孤立し、嵌められて命を危険に晒すのは、自分から破滅に向かうのと非常に似ているのである。
とにかく、悟が八代を父親と思い同一化しようとしたのを、八代が否定して、「父殺し」が成立する。

八代が逮捕された後、悟はマンガ家として成功する。
さらに裁判での八代の証言により、八代が悟を殺そうとした後、八代が少女を殺していないことが判明する。悟は八代の中の「兄」を殺すことに成功していたのである。
そして「リバイバル」の記憶は徐々に薄れていく。
ここに、従来のタイムスリップものと『僕だけがいない街』の違いがある。

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とケンヤが言い、「ドライ過ぎるよ」と悟が言うが、ケンヤの言うことが真実かもしれないのである。
悟が雛月の絵を上手く描いたのも、自分の可能性を信じる部分が描いたのかもしれないし、八代を追い詰めたのも、八代の行動パターンを夢の中でイメージし続けていた結果かもしれない。
悟が「眠ってしまった」状態の時、母親は「時間の中に閉じ込められているみたいだ」と言う。その閉じ込められた中で、悟は大きく成長していたのである。
しかしこの成長は、その前に成功に向けた大きな努力をした者でなければ得ることはできないものである。

「お前には損な役割をさせてしまった」というケンヤに、

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と悟は答える。
この心境に、私はまだなれない。ただこういう心境があるのを知っているだけである。

そして悟は、片桐愛梨と再会する。
一度は会おうとして、危険に巻き込むのを恐れて声をかけなかった愛梨とである。
ストーリー作品の中では、大業を成し遂げた者が理想の女性を得る。
リバイバル」の記憶が薄れた、つまり成功を実感し、失敗の経験に囚われない人格を形成し始めた悟は、ようやく愛梨との恋愛を始められるのである。

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