坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「表現の不自由展・その後」で示すべきだった「行政の寛容」とは?

長らく放置していた「表現の不自由展・その後」について。
まず、根本的な間違いがひとつある。それは「行政の中立性」を維持するのは政治家や行政官僚であって、キュレーターに過ぎない津田大介氏に「行政の中立性」についての責任はないということである。
この点に私は最初から気付いていたが、維新支持者ということでダブルスタンダードを使わせて頂いた。
左派の敗因のひとつは、津田氏に「行政の中立性」についての責任はない点について、十分に擁護しなかったことにある。
この点に、左派と右派の共犯関係を見ることができる。津田氏はスケープゴートにされた訳だが、左派もまた、スケープゴートが存在することを望んだ。それが津田氏を擁護する声の弱さになった。
もっとも左派にすれば「表現の自由の問題だから、津田氏の『行政の中立性』を問う必要はない」と思うだろう。しかし本当にそうか?

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 

この憲法第二十一条を以て左派は自らの主張の根拠とするが、「表現の不自由展・その後」は行政が展示を中止しただけで、行政が関与しないところでの展示は認めているので、検閲には当たらない。
この点、左派はまともに答えていない。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

などは百田尚樹氏の講演会がノーチェックなのを批判しているが、だから「表現の不自由展・その後」もいいというのではない。何が「行政の中立性」にかからない「表現の自由」で、何が「政治的表現」なのかである。

president.jp

によれば、大阪市は何がヘイトかを事前に認定することはできず、事後的に対応するしかないとして、区民ホールなどでの政治集会を禁止していないという。その代わり事後的に対応するそうである。
「ヘイト」と「政治的表現」では若干のずれがあるが、この点は右派の主張が二重になっているせいでもある。しかしこの記事では、「ヘイト」と「政治的表現」の区別をせずに述べていく。区別しなくても、結論には辿り着ける。

こういう維新の対応を、近代的でないと言うことはできない。
それでも違和感を持つのは、「行政ってもっと寛容であるべきじゃね?」と思うからである。
この感情が果して近代的なのか前近代的なのか。
元々行政と芸術の関係は、貴族が芸術家のパトロンだったことに始まる。近代以降は革命により貴族から没収した美術品を市民のために展示したのが行政の美術への関わりの始まりで、貴族の役割を行政が単に引き継いだと言えなくもない。真に文化、芸術に寛容で、「行政の中立性」が守られるための思想を、我々は全く持っていない。白紙状態である。

それでは「行政の中立性」についての法的根拠は何かと思い、憲法を見ていくと、


第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

これしか思い当たらない。この「公共の福祉のため」が「行政の中立性」の根拠である。
これは憲法の問題である。「表現の自由」が何かという問題と、「公共の福祉のため」が何故「行政の中立性」に通じるのかが全て曖昧なままになっている。

そもそも、「全く政治的、社会的意味のない芸術、文化的表現」が存在し得るのか?あるいは「これは政治的意味が20%しかないから問題ない」、「半分以上は文化的表現だから問題ない」という議論が可能なのか?
否である。芸術、文化作品として呈示されたもの全ては「100%政治、社会的」であり、「100%芸術、文化的」である。
芸術、文化的と見なせないのは、演説や講演、散文などである。散文ももちろん小説は例外であり、芸術、文化作品に言及した講演や評論も部分的に芸術、文化表現と見なし得る。この基準をクリアすれば、「政治的」、「ヘイト」とどれだけ批判されようと、「行政の中立性」を持ち出して展示を中止したりはしない。これが新しい「行政の寛容」である。

しかし、「表現の不自由展・その後」は、「行政の寛容」に一足飛びに飛び着けないことを明らかにしたのである。
そもそも「慰安婦像」のどこが「表現の不自由」なのか?
どこででも表現できるじゃないか。「あいちトリエンナーレ」では1ヶ月半ほど展示中止になり、その後再展示され、補助金が出なくなり、右翼が座り込みで抗議しただけである。
従軍慰安婦も戦争でレイプされた女性も、戦前の遊女も皆犠牲者である。現代の風俗嬢やAV女優だって、必ずしも本人の意思でそうなったとは言えない。そういう者は皆同じ犠牲者である。
ただ炎上を嫌っただけか?そうでないとしたら、左派の真意は従軍慰安婦を、戦争でレイプされた女性や戦前の遊女、風俗嬢やAV女優と一線を画したいと思っているからである。

私の従軍慰安婦についての立場は、『帝国の慰安婦』と同じである。旧日本軍による慰安婦の強制連行はなかった。しかし国家的責任は免れないとする立場である。
国家が関わる以上、戦前の遊女やAV女優を従軍慰安婦と同列にするには議論を必要とする。しかし日本のように慰安婦制度がなかった国の軍隊では、戦争中のレイプの割合が高かったことは歴史が証明している。その戦争でレイプされた女性とも一線を画したいのだとすれば、それは「旧日本軍が朝鮮で慰安婦を強制連行した」としたいから、それが「不自由」だと言う原因ではないか?

旧日本軍が慰安婦を強制連行したという事実は一件もない。証言は全て否定された。
それでも「強制連行」に固執するのは、旧日本軍がそれだけ「悪」であり、対する国民は無実でむしろ被害者で、罪のない「善人」としたいからである。
敗戦により、日本人は戦争の罪を認めざるを得なかった。
その時、実は日本人は、自分達にも戦争に加担した罪があると思っていた。
大政翼賛会治安維持法が国民を縛っていたという見方は、「罪の意識」から見た場合、必ずしも正しくない。
総力戦という極限状態で、どうするのが正しいのかを考えた日本人は、戦争を批判する者を「非国民」と攻撃したのである。それは次第に過激になり、「物資がない」という当たり前の批判でも「非国民」というようになった。そして戦争を止められなくなった。批判が出来なかろうが、批判して聞いてくれるところが無かろうが、その閉鎖空間は自分達のせいだとわかっていたのである。だから全て軍隊、そして天皇のせいにしたいのである。
戦時中に生きていた者が多く死んだ今、なお旧日本軍、天皇のせいにしたいのは、左派が戦前の日本人の精神を見事に引き継いでいるからで、そんな自分を変えたくないからである。だから「表現の不自由展・その後」を擁護すれば、転じて日の丸、君が代を批判するということをやらかす。日の丸、君が代は国家、国旗であり、文化表現である。これでは「100%政治的」で、「100%文化的」という見方などできる訳がない。その結果、津田大介氏をスケープゴートに差し出さざるを得なかった。
そして、「軍隊。天皇が悪い」から、「旧日本軍も国も全て悪くない」までの距離は非常に近いのである。だから左派と右派は、180度反転したように見えて、実は近距離を移動したに過ぎない。つまり左派こそは右翼を育てていたことになる。
現状では、右翼が日本を制圧して、慰安婦像を「ヘイト」扱いするだけである。だから憲法十二条は「公共の福祉のため」ではなく、「公共の福祉、または文化の発展のため」と改正して、日本人の無謬性の追及を根絶するための土台にするべきである。

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