左派というのは革新で、理性のみ゙を求めているようだが、実際のところそうではない。
左派の自然好みは、左派の心の故郷であり左派の保守の表現である。
左派と自然と何の関係があるのかと思うが、元々左派は労働者の権利向上を目的とする人達である。だからこそ共産主義とも親和性があったのであって、本来自然愛好とは関係ない。そもそも共産主義は毛沢東ため大躍進政策のように、山に段々畑を作って土砂崩れで段々畑が流されて、生産量激減と自然破壊の双方を達成するようなことをしていた。
ともかく左派にとっても経済が発達するならその方が良く、この点で資本家と労働者階級は利害を共にしていた。元々ヨーロッパは自然を破壊して都市化する文化なのである。
ちなみに、右派=保守というのも厳密には違う。社会主義と親和性の高い保守もいる。
話を左派に戻せば、右派左派共に資本主義の発展については肯定的だったが、資本主義と科学文明の行き過ぎに対する警鐘から左派が自然を愛好するようになった。公害問題などが大きくクローズアップされると、都会の激しい生存競争に対して自然と共生し、時間が緩やかに流れる田舎が注目されるようになった訳だ。
これもステレオタイプなイメージ戦略で、田舎は都会以上に消耗する社会なのだが、都会で大学に行った学生が、ふるさとでもない田舎に就職して住み着くなんてのが革新な訳がなく、人間の保守志向でこういうところに現れたのであって、それが左派と結びつきやすい状況があったということだ。
このような流れから、自然愛好は地球環境問題として二酸化炭素排出規制にまで発展する。この流れの延長線上にグレタ・トゥーンベリなどがいるのだが、面白いのは、地球環境問題はグローバリズムとの接点が大きいことである。グローバリズムと言えば右かと思いきや、地球温暖化のような問題も取り込んでいるのである。「温室効果で問題が深刻化するより先に科学が発達して温暖化に対処できるようになる」という意見を取り入れて、カーボンニュートラルに反対する保守派の多くは反グローバリストである。
ここまで述べたら、この人物を出さない訳にはいかない。宮崎駿である。
『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』で自然の大切さをテーマにした宮崎の原風景は「世界名作劇場」である。『アルプスの少女ハイジ』で、ハイジがアルプスの大自然に感動して上着を脱いで駆け出す場面などを描いてきたため、宮崎はヨーロッパの自然の風景を良く作品に描くようになった。
その宮崎の自然観も次第に変容していって、『風の谷のナウシカ』では、自然は瘴気を吐き散らし、極相林となった後崩壊する腐海となる。『耳をすませば』では自然は都会に溶け込んだ多摩ニュータウンの風景となるが、自然観より先に宮崎の左派的世界観が崩壊する。
元々宮崎の世界観には妖怪はいなかったが、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』で妖怪を描くようになる。『ハウルの動く城』では反戦をテーマにしたが、『風立ちぬ』『君達はどう生きるか』ではもう反戦をテーマにできなくなっている。「護憲」vs「改憲」の軸では、宮崎はもう左ではなくなっている。
自然愛好についてだが、まああってもいいと思う。
何が右で何が左かなどはっきり決まってはいない。自然を愛好する右派がいてもいい。我々は右も左も関係なく、宮崎アニメの自然が好きである。カーボンニュートラルを批判するのもいいが、やり過ぎると宮崎の作った自然まで否定することになってしまう。自然に右も左もない。ただ時代の状況によって、それらに右左のレッテルが貼られるだけだ。
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