坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

大いに迷い、大いに妄想すべし

人間は早く自分がどう生きるべきかを決め、目的に向けて無駄なく考え、動き、困難からはなるべく早く抜け出し、不幸を少なくする。それが人生の幸福かと思えば、そうでもないらしい。

ラジャ・マハラジャの冒険あとがき|坂本晶の「後悔するべからず」

でも書いたが、この小説は中学生の時にインスピレーションを得たのが最初だが、この時は小説にならなかった。インスピレーションが小説を書かせるというのは何割かは嘘で、書きたい衝動があっても、その人の中に蓄積されたものがないと小説にならないものらしい。
もう10年ほど、小説のインスピレーションを得ていないが、その理由もわかっている。
人生に迷いがないのである。迷いがないと小説のネタができてこない。小説の書き方は人それぞれだと思うが、私は苦しみと迷いが凝縮して小説に昇華するようで、迷いがない限りインスピレーションとは無縁の人生を送りそうである。
私の本の『水瓶座の女』に、『惣右衛門の死』という短編が収録されているが、それも19歳の時に落合信彦の本にあったかっこいい男という本を読んで、そこに登場した男は酒はワイルドターキーしか飲まない男で、癌で死ぬ時に麻酔を止めて「イクより気持ちいいぜ」と言って死んだ男だが、19歳の私には何がかっこいいのかよくわからなくて、死の床でだらだらとしゃべる男しかイメージできなかったwww。

前に勤めていた会社で、棚卸しの時、一切の作業をしてはいけなかった。その時初めて、仕事で作業をしてはいけない時があるというのを知った。
それまでは、常に細かく動いて、少しでも成果を上げるのが仕事だと思っていた。仕事中は何かしていないと不安だった。しかし何かしていないと不安だという思いに駆られて仕事をすることにも限界があって、動かないことで仕事がよく見えるとわかった。

前の会社の上司はパワハラ上司だったが、他の班の仕事には手をつけなかった。それが私の仕事のスタイルになった。
他人のいろんなものが合わさって、私ができている。

迷いの多い人生が迷いのない人生に変わっていくのは、個人の意志でそうするより、迷っていられなくなる時だと思う。特に不遇の人生を歩むと、迷いがなくなる。聖アウグスティヌスは若い時に肉欲に溺れていて、改悛してキリスト教徒になったが、その生活を続けられるのに自らの意志でやめられる者は稀である(もっともウィキペディアを見る限り、聖アウグスティヌスは普通の家庭生活を営んでいたようにしか見えないのだが)。
迷っている特には、いろんなことを妄想した。福岡でキャバ嬢に入れ込み、大阪に転勤になっている間に上司がそのキャバ嬢とできてしまった時は、「俺が身を引いた方がいいのか?」と、初めて恋愛対象の意志を尊重する気持ちが芽生えたが、そうするとそのキャバ嬢と一緒に暮らす妄想をして、そのキャバ嬢にDVする妄想をしたりする。
派遣会社を不当に解雇されて、裁判すると息巻いて、派遣会社を不当性を必死に親に訴えた時は、親は反論せずに、私が疲れるのを待つ持久戦を採った。「このままじゃ俺は親に殺される!」と思ったものだが、私が持久戦に疲れて精神がボロボロになった時に、親が得意先でのバイトを紹介してきた時は、「俺は戦ったことが認められた」と妄想に走ったりした。
他にも酒池肉林の妄想などwww、人間人間山ほど妄想する。結局そんな妄想、または理想に手が届かない時は手が届かないと悟って、その上の何をするかが決まって、妄想は止まる。「人事を尽くして天命を待つ」という心境になる訳だ。
妄想している間は心は矛盾に満ちていて、叶わないことばかり考える。
小説なんかも妄想の産物で、ドストエフスキーは女房を放ったらかしにして愛人と旅行に出かけて博打に興じ、ホテルで食事を止められながら『罪と罰』を書いた。小説の内容が人格を伴っていることなどほとんどない。大いに迷い、大いに妄想すべし。実にはならなくても何かにはなる。