坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

豊臣秀吉の小田原征伐

天正18年(1590年)豊臣秀吉は21万という大軍で小田原城を包囲した。北条の領土である関東をあらかた平らげた上での包囲である。
小田原城は難攻不落の名城で、その外郭は八幡山から海側に至るまで、小田原の町を総延長9キロメートルの土塁と空堀で囲んでいた。北条氏の小田原城は近世城郭ではなかったが、小田原城の総構は秀吉の大坂城を凌いでいた。
秀吉は小田原城を囲むと、豊臣軍の陣に遊女を招き、兵士には遊女遊びを許可し、大名には妻子を呼び寄せることを許可し、千利休本阿弥光悦本因坊算砂といった文化人も呼び寄せ、連日のように茶会や箱根の温泉巡りなど、物見遊山を始めた。
北条勢は包囲される前は籠城か野戦かで意見が分かれ、降服するにしてもどのルートを選ぶかで揉め、いくら議論をしても結論が出ないことを「小田原評定」と言うようになったが実際、籠城後も度々打って出てみたらどうだっただろう。
私は、何度か奇襲が成功したと思う。なぜなら豊臣軍の軍規は弛んでいたから。
別に秀吉を批判してそう言うのではなくて、秀吉は軍規が弛むリスクを侵して、あえて上も下も陣中で遊ばせていたのである。
秀吉のいくさの特徴は殺気が少ないことだが、この小田原の陣は特に殺気が少ない。
秀吉に殺気が少ないから弱いのではなく、秀吉は充分に強いのだが、秀吉はその殺気の少なさによりしばしば戦況を有利に運んだ。すなわち敵を進んで降服させ、また敵を味方につけてきたのである。
兵法にも「気を外す」というのがあり、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも殺気がないことでむしろ危難を逃れる場面があるが、人間殺気のない者は意外と攻撃しにくいものだったりする。
小田原勢が城門を開いて夜討ち、朝駆けなどの奇襲を行えば、豊臣方はそのたびに多数の死傷者を出しただろう。
しかしそのたびに、豊臣勢の兵士はけろりとして遊廓に通い、酒を飲み博奕をし、大名は家族連れで物見遊山を楽しんだだろう。そのたびに北条軍は、自分達が何を相手にしているのかわからなくなっていっただろう。

秀吉は小田原城を包囲する一方で、石垣山に城を築き、建築中は樹木で見えないようにし、出来上がったら木を伐採して小田原方に城の全容を見せつけた。世にいう石垣山の一夜城である。
この石垣山の一夜城により、北条は戦意を喪失して降服したという。
しかしその前の段階で、北条は他の城をことごとく落とされ(例外として成田氏の忍城は落ちていなかった)、秀吉は奥州の、これまで秀吉に拝謁したこともない大名達に参陣を命じ、日本中の兵が集まって小田原を包囲していた。つまり小田原が落ちれば天下統一はなる、という状況だった。
そしてこれらのことが、秀吉一人の手によって成されていた。関白となった秀吉は統一性の高い国作りを目指し、そのことが権門勢家の世で国家をないがしろにしていた武士達に、正当な国家の担い手になれるという興奮をもたらし、そのため武士達は豊臣政権に争って参加しようとし、秀吉の周囲にすさまじいも上昇気流を生じさせていた。
北条は初代早雲以来五代に渡り、100年もの間関東を支配した。
北条の政治は善政として知られ、領民は北条を慕っており、北条は関東に割拠する限り、自信を失うことはなかった。
その北条が、秀吉の作り上げる天下に取り残されるという寂しさを感じていた。北条は最後は、この寂しさに負けて降服したのである。
もっとも、秀吉という存在に北条方の者が皆呑まれてしまった感は否めない。小田原を包囲されて、その後一度も打って出たことがないのだから。
これが同じ北条でも早雲や氏康なら、秀吉に敵わぬまでもそれなりに勝負できただろうが、100年続く間に北条は、人材が払底してしまっていた。

ならば秀吉にとって、小田原征伐が楽ないくさだったかといえば、そんなことは全くない。
秀吉は、できれば小田原を攻めたくなかったのである。秀吉の自慢の大坂城より大きな城など、普通に攻めれば落とすのに何年かかるかわからない。
別に時間がかかると落とせないというのではない。秀吉は小田原攻めにおいて、東海で米を五万石買い占めており、兵糧は潤沢だった。それでも兵糧が足りなくなれば、抑えの兵を残して自分は大坂に帰ってもいい。
秀吉は家康や北条のような存在を温存することになっても、天下統一を急ぎたかった。秀吉は寛容でスーパーな英雄であってこそ、太閤検地のような大改革が可能になる。統一事業が遅れると、改革に歯止めがかかり、秀吉は温存した大勢力に押し潰されてしまう。
だから当初は、北条氏直を上洛させて秀吉に拝謁させるつもりだった。その際ネックとなったのは、真田昌幸との領土紛争で、北条と真田は沼田領を巡って争っていた。
秀吉は沼田領を北条に与え、真田昌幸には信州箕輪を与えると裁定したが昌幸は名胡桃城とその周辺を「祖先墳墓の地」だと主張したために、秀吉は沼田領の三分の一を真田領とすると裁定を変えた。
沼田領の北条への引き渡しは、氏直の上洛と引き換えの条件だったが、秀吉は氏直の上洛前に沼田領を北条に引き渡した。しかし北条は謀略により名胡桃城を略取したため、小田原征伐が始まった。
秀吉が家康を関東に封じたのは、100年もの間善政を敷いた北条を慕う関東の民達を抑えるには、かつての信長の同盟者で、秀吉に勝った経験のある家康が最も適任だったからである。秀吉にとって仮想敵である家康の領土を増やしてやった秀吉が、北条を潰すことは最初から望んでいなかったと理解できてくるのである。

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