坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

秀吉が天守閣の築造を認めた大名達~秀吉は関ヶ原を予見していた!

信長が安土城にいた頃は、天守閣のある城は安土城しかなかった。
信長が安土に築城を始めた頃には、松永久秀信貴山城という、やはり天守閣を持つ城があったが、松永は信長に謀反を起こし、敗れて信貴山城もろとも爆死した。
天守閣は天下人の象徴であり、
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日本の歴史を変えた、マウンティングによる「政権」システム - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べたように、天皇を上から見下ろすためのものだった。だから原則として、天守閣のある城は大坂城など、天下人の建てた城しかないはずである。
しかし秀吉の時代になると、大坂城伏見城以外に、天守閣のある城ができるようになる。
会津若松城松本城金沢城佐和山城岡山城広島城などである。
秀吉の時代、秀吉が大名に天守閣の建造を禁止していたという資料はない。
また秀吉が、大名に天守閣の建造を許可したという資料もない。だから多くの大名は、天守閣の建造を自粛したのであり、また天守閣建造の許可は、文書ではなく口頭で行われたと推測できる。
このようにして見ると、天守閣のある城には共通点があることがわかる。
共通点のひとつは、6つの城のうち4つは石高の大きい、有力な大名の城だということ。会津若松城蒲生氏郷(氏郷の死後は上杉景勝)、岡山城宇喜多秀家金沢城前田利家広島城毛利輝元と、4つの城の持ち主は皆大大名である。
しかし佐和山城石田三成は19万石、松本城石川数正に至っては、わずか10万石しかなかった。
ふたつ目の共通点は、このうち4つの城の大名
上杉景勝石田三成宇喜多秀家毛利輝元は、関ヶ原で西軍についたことである。
前田利家石川数正はどうかというと、利家、数正自身は関ヶ原の前に死んでおり、それぞれの子が東軍に味方している。
前田利家は生きていれば家康の好きにはさせなかっただろう。
それでは石川数正とは何者かといえば、元徳川家の重臣である。
家康の信頼も厚く、外交面に手腕を発揮したが、数正自身は閉鎖的な三河武士が体質に合わなかったようで、家康が秀吉に臣従する前に秀吉に鞍替えした。
以上の経緯から、徳川家臣団は数正に対する不快感を強く持っており、秀吉の死後も、数正は徳川家に戻れるような状況ではなかった。
その数正を、秀吉は中山道の松本に封じた。言うまでもなく、秀吉による家康の関東封じ込め政策の一環であり、数正は秀吉の期待に応えるために松本城を構築した。
水堀に映える松本城の雄壮な天守は、反徳川の象徴なのである。
秀吉の親族である加藤清正福島正則でさえ、関ヶ原以前に天守のある城は持っていない。
そう思って調べてみると、加藤清正関ヶ原の時に戦った小西行長宇土城、長宗我部元親の浦戸城には三重の天守がある。
さらに関ヶ原で西軍から東軍に寝返った小早川秀秋筑前名島城にも天守がある。この名島城は秀秋の養父の小早川隆景が築城したものである。
秀吉の慧眼、恐るべし。
ならば徳川秀忠を翻弄した真田昌幸上田城はどうかというと、上田城天守はなかった。真田氏は長男の信幸を東軍につかせて家の存続を図っており、そういうところまで秀吉に見抜かれている。
豊臣政権は、表向きの石高や役職とは別に、親豊臣かどうか基準があり、それが天守閣の有無なのである。豊臣家最大の大名で五大老筆頭の徳川家康江戸城天守を築いたのは関ヶ原の後で、本当は完全な豊臣政権の仮想敵である。

秀吉の死後、徳川家康五大老筆頭として大坂城に入り、西の丸に天守を築いた。
この豊臣家に対する不敬は諸大名に対し「天守閣を建てていい」というサインだった。
征夷大将軍になって幕府を開く家康の方針では、信長、秀吉のように、天皇を見下ろすために天守閣を建てる必要はなかった。
だから大名が天守閣を建てても良く、これは家康の、諸大名へのサービスだった。もっとも信長の安土城天守は居住空間であり、大坂城伏見城天守も居住空間であった可能性が高いが、大名達(あるいは徳川将軍家も含めて)の天守は櫓または倉庫で、居住空間ではなかった。あくまで天下を狙う意志を示すものではないという、けじめは保たれていた。
こうして関ヶ原の後、大名達は争って天守閣のある城を建てるようになる。
一方、伊達政宗関ヶ原で和賀一揆への関与を疑われたとして(実際関与していたのだが)、仙台城天守の建造を遠慮した。
しかしそれは表向きの理由で、
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コンスタンティヌスになろうとした伊達政宗 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べたように、仙台城の表書院に帝座の間をもうけ、一方で堺の豪商今井宗薫に「秀頼を大坂城から離し、関東で2、3か国をあてがうように」と言わせておいて、その真意は「秀頼を関東に連れてきたら仙台に迎え入れるぞ」という、家康に対する脅迫だった。
仙台城天守を築かなかったのも、豊臣政権では親豊臣でない大名は天守を持たないのが正しいのである。このようにして、政宗は豊臣家に媚びていた。そして以上の政宗の行為により、家康は豊臣家を滅ぼさざるを得なかった。

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