坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「火計」はなかった?赤壁の戦い

赤壁の戦いとはどんなものだったのだろうかとWikipediaを見てみたら、『三国志』は紀伝体で書かれており、つまり赤壁の戦いに関係した人の数だけ赤壁についての記述がある。
三国志』魏書武帝紀には「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので撤退した」とある。
三国志演義』だと、曹操軍は80万もおり、それを100万と号していたが、実際には20~30万だったと推定されている。この大軍で劉備と戦って不利だということはないだろう。何か奥歯に物が挟まったような記述である。
三国志』魏書武帝紀に裴松之が付注した『山陽公載記』には、「公は軍船を劉備に焼かれ、華容道を陸路撤退したが、泥道で、倒れた歩兵を踏み越えて騎行したので、死者が多数出た」とある。ここで火計の話が出てくる。
三国志』呉書周瑜伝には、「(周瑜は)赤壁において遭遇した曹公の軍を劉備の軍と共に逆撃した。この際、軍には疫病が流行っていたため、一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げた」とあり、さらに黄蓋の建策による火計と偽降を仕掛け、「油断した曹操兵船に魚油を浸した薪を密かに搭載した小船を乗り付けて同時に発火させたので、強風に煽られて岸辺の陣まで悉く炎上し、焼死、溺死者が広がって曹操軍は敗退した」とある。火計を用いたのは劉備ではなかったのか?
三国志』蜀書先主伝には、「先主(劉備)は孫権の派遣した周瑜、呈普らの水軍数万と力を合わせ、赤壁で曹公を大いに破り、その船を焼いた。先主は、呉軍と共に水陸並進、追撃して南郡に至り、曹公は、疾病による死者も多いため帰還した」とあり、やはり劉備が火計を行ったとしている。
三国志』呉書呉主伝には、「周瑜と呈普を左右の督とし、各1万の兵を領させ、劉備と共に進軍し赤壁で曹公を大いに破った」とあり、火計については触れていない。また「曹公軍の大半が飢えと病で亡くなった」とある。
笵曄の『後漢書』考献帝紀には、「曹操は水軍で孫権を討伐したが、烏林・赤壁孫権の将周瑜に敗れた」とあり、敗因については書かれていない。
袁宏の『後漢紀』考献皇帝紀には、「曹操周瑜赤壁で戦い、曹操は大敗した」とあるだけである。

三国志演義』では、流浪の人生を送っていた劉備が、「三顧の礼」で天才軍師、というより魔術師の諸葛孔明を迎えて運気が急上昇し、そこに袁紹を破って天下統一を目指す曹操が、華北から大軍を率いて南下、荊州支配下に置く。
劉備は曹軍100万を相手に呉と連携し、東南の風が1日だけ吹くことを知っていた孔明が火計を提案し、黄蓋が偽降して火計により曹操は大敗する。こうして劉備は蜀に勢力を築き、魏、呉、蜀と三国が鼎立する三国時代になるという、『三国志』の中のハイライトとなる場面である。
しかし『演義』ではなく、正史『三国志』のあまりに簡潔な記述を見ると、はたして火計が本当にあったのか疑わしくなる。
後漢書』『後漢紀』は共に、三国時代の後に天下を統一した東晋の時代に成立した書である。つまり『三国志』とほぼ同時期に成立した書である。
赤壁の戦いは、時代区分としては三国時代でなく、あくまで後漢の時代の出来事である。だから後漢の時代を描くこれらの書物が、赤壁の詳細に無関心なのは理解できなくもない。それにしても「火計」の二文字くらいはあってもいいと思うが……。
そもそも『三国志』魏書武帝紀に「火計」について書かれていないのはなぜなのか?実質的な魏の創始者だから遠慮したのか?劉備黄蓋どちらにも火計の記述があるのは、どちらが火計を行ったのかわからないから両論併記したのか?

ここで視点を変えてみよう。火計があったかではなく、曹操がなぜ敗北したのかの敗因を追究するのである。すると「疫病が蔓延した」という記述が目立つ。
三国志演義』では、船での暮らしに不慣れな華北の兵が、船の中ですし詰めになって生活していたから疫病が蔓延したと書かれている。その船酔い対策のために徐庶が「連環の計」で船同士を繋ぎ止め、そのために火計の被害が大きくなったというおまけつきである。
では、多士済々の曹操の参謀達が、赤壁の戦いでどのような献策をしたのかを見てみよう。
戦略においては曹操以上の才の持ち主だった荀彧は、曹操荊州攻略について尋ねられて、「公然と宛・葉(しょう)に出兵する一方、間道伝いに軽装の兵を進め、敵の不意を衝くのが良いでしょう」と答えた。
はたして荀彧の読み通りになったが、これなら20~30万の大軍はいらない。そしてこれは呉を攻める策ではない。
早くも尻尾を見せた感がある。
曹操の参謀としてより、張繡の軍師として曹操と戦った方が有名な賈詡は、呉に降服を勧めるよう進言している。
呈昱は「孫権は謀略があり、もう劉備を殺すのは不可能だろう」とにべもない言い方で曹操の敗北を読んでいる。
実は、Wikipediaを見る限り、積極策で呉を下す献策をした者は、多士済々の曹操軍の参謀の中で一人もいないのである。
なぜか?曹操軍が兵力的に劣勢だったのではない。兵力的には圧倒的に優勢だった。

我々はどうやら、赤壁直前の『演義』の曹操像に、未だに騙されているらしい。
天下統一を目前にし、100万の軍を長江の軍船に浮かべ、江東の二喬大喬小喬の姉妹。大喬孫権の兄の故孫策の妻、小喬周瑜の妻)を手に入れんと意気込む得意満面な曹操像に。

「曹公軍の大半が飢えと病で亡くなった」とあるように、曹操軍は飢えていたのであり、飢えていたから疫病が蔓延したのである。
曹操軍はいつから飢えていたのか?荊州を攻略してから飢えていたのではない。華北にいた時から飢えていたのである。

荀彧が献策したように、荊州を得るためなら、20万もの大軍は必要ない。
そもそも古今東西、征服王となる英雄は、最大で数万程度の軍を率い。その英雄の軍事的天才によって大版図を築く。軍勢が10万を越えると、むしろ敗北することが多い。
その理由は、兵糧を補給できないからである。兵糧を自国から運ばせたら輸送費がかかりすぎる。孫子も「兵糧は敵地で調達せよ」と言っている。数万程度だから、敵地で長期の軍事行動が可能になる。
官渡の戦いで、自分より強大な袁紹を破った曹操だったが、

中国最初の人口大減少の時代を生きた曹操 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べたように、黄土地帯で兵を徴発をすると、それまで耕されていた農地が耕作されなくなり、雨が降って不耕作地の土壌が流出すると、腐葉土を失った黄土は不毛の地になる。
袁紹の徴発により、多くの農地が不毛の地になり、また曹操は、袁紹冀州を手に入れて多くの兵を抱えたが、曹操の政策の屯田制をもってしても、すぐに食糧を賄うことはできなかった。
こういうことは、中国の歴史には往々にしてあることである。
だから中国を統一した皇帝は、兵を食わせるためというよりは、兵を減らすために外征を行う。
また、兵を食わせられないほどの大軍を抱え込んだのは、曹操にとってはこれで二度目の経験になる。一度目は青州兵という、黄巾賊の残党30万を取り込んだ時で、この時も食わせることができず、曹操の父が殺されたことを名目に徐州になだれ込み、食糧を奪うためかそれとも人肉そのものが目当てか、徐州で大量殺戮を引き起こした。

三国志』を見ても、群雄が兵糧の調達に窮していたことはほのかに感じられるが、「食糧がないため外征をした」と露骨に書かれることはない。
三国志』の時代は、豪族、つまり大土地所有者が時代の担い手で、豪族が自分達の土地の小作人を食わせられないとは書けなかった時代なのである。そんなことを書けば、社会の支配階層である自分達の存在意義を覆すことになる。「均田制」という言葉は当時なかっただろうが、曹操が始めた屯田制は、豪族もその必要性を認めながらも、自分達の土地を国家によって奪われるのではないかと警戒していた。
だから赤壁の戦いも、『三国志』魏書武帝紀に火計について書かれていない以上、火計はなかった可能性が高い。赤壁の敗因を飢餓以外のものに求めなければ不自然で、「火計」があったと書かなければ黄土地帯の土地事情がバレてしまう。しかし「火計」で敗れたと「武帝紀」に書くのは失礼だからそれは書かず、「火計」を行ったのが劉備黄蓋かわからないようにしたのではないか?
もし火計があったとしても、それは曹操赤壁での敗北の主要因ではない。
そして今、呉を攻めて兵士の食の問題を解決するという緊急の策においては、誰も責任を取れなかった。
賈詡はまだ良心的な方だが、策がない以上献策のしようもなく、その孤独な責任は曹操一人の肩にのしかかった。そして大敗し、多くの兵を死なせることで、曹操はこの問題を「解決」した。
以後、曹操は軍事においては、食の問題に悩まされることはなくなった。

呉を制覇したとしても、それで天下が統一される訳ではなかった。
赤壁の後、曹操馬超韓遂を相手に戦い涼州を手に入れ、さらに張魯を下して漢中を得る。
漢中を得た時、司馬懿がこの勢いに乗って蜀を攻めるべきだと献策したが、「隴を得て蜀を望む、人の欲の限りないことよ」と曹操は言って、司馬懿の言を容れなかった。
「望蜀」として有名な故事だが、元は後漢の初代皇帝、光武帝劉秀の言葉である。そして劉秀はこの言葉の後に蜀を制覇して天下を統一したが、曹操は蜀に手を伸ばさなかった。
そして漢中は劉備に奪われ、魏の勢力範囲が確定する。

前漢の時、初めて中国の人口は5000万人に達したが、それが中国の人口の上限で、清の時代まで、中国の人口の上限は5000万で推移する。
前漢が王莽への禅譲で滅び、紀元後18年に反乱が起こってから劉秀が天下を統一するのが36年、その間18年である。
184年に黄巾の乱が起こってから、赤壁の208年までで24年、赤壁の時曹操は54歳だった。
曹操は劉秀より時間をかけて天下を統一できなかったが、劉秀は前漢景帝の末裔であり、出自において曹操よりはるかに恵まれていた。
曹操が「望蜀」の言葉で司馬懿の言を退けた時、曹操は自分と劉秀を重ねてみただろう。
魏の人口は戸数で66万戸、443万人だった。
曹操は、天下統一のためにこれ以上の犠牲を求めるべきではないと考えた。
そして曹操は、始皇帝の中国統一以来初めて、華北の支配者でありながら、天下を統一しない路線を歩むことになる。

古代史、神話中心のブログhttp://sakamotoakiraf.hateblo.jp/もよろしくお願いします。