坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

老荘思想的な人物ばかりの前漢時代

秦の始皇帝の死後から漢王朝の前半までは、道家、つまり老荘思想の人々が活躍した時代だった。
老荘思想でないにしろ、老荘的、現実的なものの見方をし、いかなる時も無理をしないような、そういう人物が多かったのである。
そのことを示す、ちょうど良い話がある。
酈食其という儒者がいた。
劉邦項羽と争っている時、酈食其が劉邦に、天下を取るための献策をした。
酈食其の主張は、戦国時代(中国の戦国時代)の各国の王族を王に封じれば天下を取れるということである。
劉邦はこれを喜び、各国の王の印を作らせた。
それを聞いた張良劉邦の前に進み出て、「大王(漢王劉邦のこと)の天下はこれで終わりでございます」
と言った。
張良は、既に各地で群雄が王として封じられている。それなのに王族を王に封じたりしたら、この群雄達が劉邦に協力しなくなるだろうと劉邦を説得した。

当たり前と言えば当たり前すぎる。
「帷幕にあって謀を巡らし、千里の先に勝利を決す」と言われた、劉邦の参謀の張良だが、言っていることは当たり前すぎるほどに当たり前なことばかりである。それだけに骨太な戦略眼を感じる。
そして張良老荘思想の徒だった。

劉邦にも似たような話がたくさんある。
劉邦が皇帝に即位した時、洛陽を都にしようと言ったことがある。
しかしそれに反対する者がいた。「洛陽は文によって治める都ですが、漢は武により興った国ですので、守りが堅固な関中に都を定めるべきでしょう」とその者は言い、劉邦はこれに従った。
これも当然のことで、劉邦項羽と戦っている間、丞相の蕭何が関中から兵と兵糧を送ってきたから、劉邦は戦えたのである。

劉邦はバカを装っているとしか思えないが、こんな話がある。
ある時劉邦が、武将達が大声で騒いでいるのを見て、「何を騒いでいるのか」と聞くと、「謀反の相談をしているのです」と答えが帰ってきた。
諸将は皆劉邦を裏切った経験があり、劉邦に粛清されるのを恐れていた。
そこで劉邦は、雍歯という者をまず賞することにした。
雍歯は劉邦の挙兵以来の仲間だが、一時劉邦の実家のある豊の邑を占拠して謀反を起こしたことがあった。劉邦は豊を攻めたがいくさが下手な劉邦は、豊を落とせなかった。以来、劉邦は豊を憎んでいた。
そのことを知っている諸将は、「雍歯が賞されるなら」と、謀反の相談をやめた。

劉邦と蕭何の話も面白い。
蕭何は未王宮という宮殿を新しく造営したが、「戦乱で民が疲弊している時に、豪華な宮殿など造営するべきか?」と劉邦が苦情を言うと(蕭何が勝手に宮殿を造営しているのを、劉邦が知らないふりをしているのが面白い)、「陛下が立派な宮殿に住まうからこそ、民は休んずるのでございます」と蕭何は言った。
蕭何は張良韓信と共に漢の三大功臣と言われているが、漢の初代相国(宰相のこと)になってからは劉邦の猜疑心を避けるために、職権で田畑を安く買い上げるなどしてわざと不評を買い、劉邦の粛清を逃れた。
蕭何の死後、曹参が二代目の相国となった。
曹参は昼も夜も酒を飲み、政務にも熱心でなかった。
曹参は人が小さな過失を犯すと、それを表沙汰にしないようにした。
二代皇帝の恵帝は職務怠慢だと思って、曹参の息子に諌めさせた。
恵帝の名前を出さずに、息子が父を諌めたところ、曹参は怒って息子を200回鞭打ちにした。
「自分がそう言わせたのだ」と恵帝は言って訳を尋ねると、「陛下は聖明英武の点で、高祖(劉邦)とどちらが上でしょうか」と尋ねた。「自分は高祖に及ばない」と恵帝が言うと、「陛下は私と蕭何のどちらが優れていると思いますか」と尋ねた。
「あなたは及ばないだろう」と恵帝が言うと、「その通りでございます。高祖は蕭何と共に天下を平定なされ、法令は明白です。我々はそれを遵守すれば良いのです」と曹参は言った。

他に老荘の匂いがするのは、陳平だろう。
陳平は若い頃に、嫂(あによめ)を盗んだ逸話で有名である。
張良が骨太で正統派の戦略家なら、陳平は奇策の士である。
劉邦が滎陽の街に籠り、項羽に包囲された時、陳平は紀信という者を劉邦の替え玉にし、偽って降伏して、楚軍が油断したところで劉邦を逃がす計略を立てた。陳平の計略のおかげで、劉邦は虎口を脱することができた。
相国曹参の死後、王陵が右丞相に、陳平が左丞相に任じられた(中国では日本と逆で、右が上席なので王陵の方が地位は上)。
劉邦の死後、皇后の呂后の天下をなり、劉邦の側室の威夫人の手足を斬り、目を抉り、鼓膜を破り喉を潰して聾唖にし、便所を落として人豚にするなど残忍な行為を行い、専横を極めた。無残な威夫人の姿を見た恵帝は、酒に溺れてまもなく死んだ。
呂后は呂氏一族を王にしようと王陵に尋ねたが、王陵は反対した。
呂氏が陳平に尋ねたところ、「今は呂后が天下を治めているのですから、呂氏を王にしても何も問題ありません」と答えた。
呂后は王陵を太傅にして実権を奪い、陳平を右丞相にした。
左丞相には呂氏一派の審食其が就き、呂后の妹の呂嬃が「陳平は酒と女に溺れている」と讒言すると、陳平は本当に酒と女に溺れるふりをして、呂后の警戒心を解いた。そして呂后ができた死ぬと、陳平は周勃と共にクーデターを起こして呂氏一族を皆殺しにした。

劉邦は死ぬ間際に、呂后に「これからどうすればいいか」と尋ねられ、「蕭何に任せよ。蕭何の次は曹参が良い」と答えた。
「その次は?」と呂后が尋ねるので、「王陵が良い。しかし王陵は愚直すぎるので、陳平に補佐をさせると良い。陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んずるのは必ずや周勃であろう」と答えた。
「その後は?」と呂后が聞くと、「その先は、汝の知るところにあらざるなり」と劉邦は答えた。
曹参の相国就任は蕭何の指名によるもので、また丞相にするのでなくいきなり周勃の名を挙げていることから、周勃が主導して呂氏の乱を鎮圧したことからくる後世の仮託だとわかる話である。
しかし、これほど劉邦の本質を表した逸話はない。
劉邦は、今よりほんの少し先しか見ていないのである。
そうだろう。始皇帝の実験的な帝国は短期に潰え、劉邦は農民の身から皇帝となった。始皇帝への反省から、各地に王を置く郡国制を採用し、秦末に群がり出た群雄達を全て粛清して劉氏を王にしても、先例のない国家作りをしているのは変わらなかったのである。

この後呉楚七国の乱が起こり、武帝の時代に、漢は中央集権国家となる。
老荘思想は「無為自然」への道を説く。ここに紹介した人物達は、確かに無理をせず、流れに任せて事を為す人物達である。全員が道家の徒ではないが、その行動からは老荘の匂いがする。
しかし老荘思想は「小国寡民」を思想の土台としており、漢が中央集権の道を歩むと、老荘思想は流行らなくなった。
武帝の外征で漢は国力が衰え、10代宣帝が現れる。
宣帝は武帝の巫蠱の乱により、赤ん坊の時に投獄され、一時民間に預けられて育った。
そのような経緯から、庶民感覚がわかる名君となったが、皇太子の元帝には「漢は儒家と法家をもって国の本とする」と諭し、道家を本とはしなかった。

 

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