坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

世界帝国唐はハリボテの社会主義国家

中国の中央集権国家の出現により、道家はその思想を桃源郷に追いやった - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べたように、曹操が始めた屯田制が後の均田制へと発展する。
屯田制だけでなく、曹操袁紹の旧領地で布帛、つまり布での徴税を行っている。
一方、曹操董卓が廃止した五銖銭を復活させ、魏が成立した221年と227年にも五銖銭が鋳造されているが、すぐに鋳造は停止している。
つまり農地の荒廃で農業生産力が激減したために、市場で食料が買えなくなり、貨幣経済が衰えたのである。
そして貨幣の代わりに通貨の役割を果たしたのが、衣食住のひとつの衣となる布だった。布ならば、なんとか食料を買うことができたのだろう。
布帛で税を徴収する制度は、租庸調として律令制度の一環となり、租庸調の制度は我が国にも導入された。

日本が古代の豪族連合国家だった頃の581年、中国に隋、そして618年に唐が成立した。
隋、唐は南北朝の戦乱の後の、久しぶりの中国の統一国家であるだけでなく、均田制という社会主義的な制度を作った。
隋、唐の成立は周辺諸国を震撼させ、また実際に周辺諸国の脅威であることを実例をもって示していった。
隋の煬帝黄河と長江を繋ぐ大運河を建設し、唐の太宗は北方遊牧民突厥を撃破し、遊牧民の族長達から天可汗の称号を贈られた。太宗の子の高宗の時に、唐は朝鮮半島高句麗百済を滅ぼした。
朝鮮半島の残りの一国新羅は唐と同盟し唐と共に高句麗百済を滅ぼした。その際新羅人は名を中国風に改め、中国化することで難を逃れた。
我が国も「日出処の天子」と中国と対等の意識を持ちながらも、隋、唐の制度を取り入れ、豪族連合国家から公地公民の中央集権国家へと移行した。

唐においては、商業は統制されるべきものだった。
唐の都市はその中で市としての区画があり、そこでしか商売はできなかった。商人は市署で市籍を登録して管理され、市は朝4時に開けられ日没と共に閉められ、夜間の商売はできなかった。
貨幣は開元通宝が発行されたが、民間では私鋳銭が横行した。私鋳銭とは今でいう偽金のことである。
中国の歴代王朝では、最後の清を除き、最大で人口5000万にまで達するが、均田制では農民の耕作意欲を保てず、農民の多くが逃散したため、人口を正確に把握できなかったのである。均田制がうまく機能しないことは、通貨に対する信用を失わせ、私鋳銭が横行した。
唐は国際色豊かな国で、西域の人も首都長安に多く住んでいた。長安には紅毛碧眼の女性が酒を出すショットバーのような居酒屋もあったという。
そのような国際色豊かな文化も、それまでの中国になかった大帝国を築いたことによる、広大な版図があったからである。しかしそれも、後の宋以降の、例えばモンゴルのような民族意識に目覚めた遊牧民相手ではなく、容易に漢化されやすい、文明に屈しやすい遊牧民相手の勝利であり、功績であった。やがて府兵制は募兵制に代わり、均田制は崩壊し租庸調の代わりに両税法が施行され、商業への統制はなくなっていった。
要するに、唐とはハリボテの大帝国だったのである。
均田制や租庸調は、中国の黄土地帯という、農業に適さない訳ではないにしろ扱いの難しい土地で発展した制度である。
そして唐の後、歴代王朝は王安石の新法や明の軍戸、民戸制など黄土の農業事情に配慮は行ってきた。しかし均田制のような社会主義的な制度は、毛沢東中華人民共和国成立まで施行されなかった。

社会科学のない古代に、日本では唐がハリボテの大帝国だということまではわからない。しかし当時の日本人は、唐を脅威に思い、脅威が転じて憧れとなり、唐の国家制度や思想、文化、仏教などを学んだ。
しかしその唐の勢力も衰えてくると、日本は中央集権国家としての律令国家をバラバラに解体していった。
日本人は長らく、自らの手で律令国家を破壊したことに強い負い目を感じていた。天皇制が古代から現代まで残ったのもまさにそれが理由であり、天皇律令制度の残滓であり、象徴だった。
そのことは、日本人の官位に対する態度からもわかる。
武家政治に移行して、時と共に諸国に対する国司が派遣されなくなり、官職も統治の実態から離れて次第に形骸化していった。
それでもなお、武士は土地の直接の支配者でありながら、領地や幕府の役職の他に官職を求めた。
官職を得てもそこに実権はない。実権どころか金にもならない。
それでも武士は、時に猟官運動をして官職を得た。その理由は、かつて律令制度を破壊して土地を手に入れた負い目を、官職によって正当化したかったからである。
歴史的な経験の積み重ねにより、時に元寇などはあっても、中国に統一国家ができたからといって、海を越えて日本を攻めることは容易にはできないとわかったとしても、日本が国家をバラバラに解体したのは事実である。
それでも律令制は、中国の特殊事情から生まれたもので、日本の実情に合ったものではない。
それでいてなお、唐でも充分に機能しなかった律令制に負い目を感じるのは不健全なことで、中世以降の日本人がそのことに考えが至らなかったのは残念なことである。

しかし、江戸時代までの日本人だけでなく、現代の日本人もまだ、唐の引け目を感じているのである。
古代、富本銭や和同開珎などの通貨が発行されたが、流通しなかった。
その理由を、教科書は語らない。まるで自給自足の経済から脱することがなかったようである。
それでいて、古代の日本人が憧れをもって遣唐使を派遣し、しきりに学問をしたことについては語る。まるで学問以外のこと、貿易などはしなかったかのように。
しかしもちろん、唐とは貿易している。貿易をして、唐の通貨が日本にも流入して流通していた。
和同開珎や富本銭が流通しなかったのは、唐で私鋳銭が多く作られたのと同じ理由である。そういう海外事情を知らない者達が、単に外貨をありがたがっただけで、それ以上の理由はない。
ハリボテの大帝国に、現代まで引け目を感じる理由はないのである。

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