坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

魏晋南北朝の豪族のニヒリズムと道教~『帰去来辞』による 士大夫の均田制への降参

青青子衿    青青たる子(君)の衿(えり)

悠悠我心    悠悠たる我が心

但為君故    但(ただ)君が為(ため)の故(ゆえ)に
沈吟至今    沈吟して今に至る

呦呦鹿鳴    呦呦として鹿は鳴き

食野之苹    野の苹(よもぎ)を食う

我有嘉賓    我に嘉賓有り

鼓瑟吹笙    瑟を鼓(こ)し笙を吹かん

天下に広く人材を求めた曹操の詩である。

曹操



「唯だ才是れを舉げよ」と言い、また「陳平(漢の策士)のように兄嫁に手を出したり、袖の下を取ったりした者でも、才能がある者は気にするな」とも言った。曹操が集めた人材のおかげで、曹操三国時代最大の勢力を築いたと言える。

ただし、曹操の人材登用には裏がある。
曹操が死に、曹丕が皇帝となり魏王朝を開くと、曹丕は九品中正法を施行する。
九品中正法とは何かといえば、身分固定の法である。
郡ごとに中正官という役人を任命し、管内の人物を一品から九品まで評価させる。この評価を郷品といい、この郷品を元に官僚への推薦が行われ、最初は郷品の4段階下から出発する。そして順調に出世すれば郷品と同じところまで行くが、郷品より上への出世はできない。
「力のない寒門からは上位の官僚になることはできず、力のある勢族からは下位の官僚になる者はいない。これにより賄賂が横行した」と、九品中正法について批判がなされている。
なぜ魏がこのような人材登用法を採用したかといえば、その理由は屯田制のためである。
屯田制の多くに、不毛になった豪族の私有地で行われるので、豪族の協力が不可欠だった。
しかし豪族が、自分達の土地を奪われることに自分から協力するはずがない。
この時代、豪族は国家の中枢に人材を送ることができる、社会の要だった。豪族なくては国家は成り立たない。
その豪族に、本来自分達に不利益な屯田制を認めさせていくには、代わりの利益を与えるしかない。それが官職の占有、寡占状況を生み出すことによる、豪族の代わりに貴族層を形成することであった。
曹操は自分一代は人材を集めることに注力して人材をプールし、曹丕の代に九品中正法を施行しても人材不足に陥らないようにしていたのである。
後に司馬懿仲達は、郡の上の州にも中正官を置き、貴族化の傾向に拍車をかけていく。

しかし、貴族としての権益が与えられても、それで豪族達が満足したのではない。
豪族達の多くは、内心不満だった。漢代までは郷挙里選といって、地方の有力者が優れた人材を中央に推薦していた。それは豪族主導の政治になるのは避けられなかったが、それでも豪族は、優秀な人材を輩出することに、自分達の存在意義を見出だしていたのである。
それが九品中正法になっては面白くない。
魏は成立以来45年、司馬氏の西晋は成立51で短命に終わったが、その理由は豪族の存在意義を喪失させてしまったことによる。

老荘思想が社会主義的な均田制を作った - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で「竹林の七賢」を曹操の問題意識の後継者と言ったが、実際はもっと複雑なものである。
本来豪族の存在意義は、官僚を輩出し、戦争の時は自分の土地の農民を徴発して戦うことだった。
しかし、戦争をすればするほど農地は荒廃し不毛の地となる。不毛になった地を、豪族の力では農地に戻せない。
そこで曹操屯田制を始め、時間をかけて荒地を農地に戻していく。豪族は屯田に対しては、むしろ抵抗勢力である。屯田制が豪族の土地を奪うことになりかねないから、抵抗するしかない。
それでも、屯田制が時代の要求に適っていることは認めざるを得ない。こうして、豪族は存在意義を確認できなくなる。
その結果、ニヒリズムに陥るのである。そしてニヒリズムを表現するのに、老荘思想は実に都合が良かった。
老荘思想が広く社会に受け入れられる要因は、春秋戦国時代前漢初期のように、中国が分権的、分裂状況にある時である。
竹林の七賢」は、「清談」をよくした。
「清談」とは、俗世から超越した言動であり、悪意と偽善に満ちた社会に対する憤慨と、その意図の韜晦(めくらまし)である。
つまり屯田制とそれを目的にした九品中正法による不正の批判だが、屯田制による農地の開拓、農村の復興と農民の慰撫は時代の本流であり、道家老荘思想家といえども、この流れを否定できなかった。
そして政治の不正を批判するうちに、自分達が立脚する豪族の存在意義も否定することになっていった。

中国が分裂状況でも、屯田制が均田制への道を歩むようになると、老荘思想も変化する。
老荘思想道教になり、思想が骨抜きになっていくのである。
このようになるのは、老荘思想が「小国寡民」を前提としており、さらに人民に知的な情報を与えないのが、「小国寡民」と共に思想の要となっているからである。
このような思想は、均田制のような「大きな政府」には向かない。

中国の中央集権国家の出現により、道家はその思想を桃源郷に追いやった - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べたように、老荘思想社会主義的体制が融合するとポル=ポトになるからである。道家の人々はそのことがよくわかっていて、老荘思想の「思想」の部分を抜き取り、道教という民間宗教へと変化させていった。
こうなると、政治上の話もあまりしなくなる。政治の話をするよりは隠遁するというようになる。隠遁して農業に従事しようとなる。
その気持ちが表れたのが、陶淵明の『帰去来辞』である。

陶淵明

猶望一稔當斂裳宵逝    猶ほ望むは一稔にして、當に裳を斂さめ宵に逝くべきを


尋程氏妹喪于武昌    尋で程氏の妹武昌に喪せ

 

情在駿奔自免去職     情は駿奔に在りて、自ら免じて職を去る

「猶望一稔當斂裳宵逝」とは、「秋の収穫を得たら、さっさと夜逃げしよう」という意味である。
『帰去来辞』により、陶淵明老荘思想の流れを汲む道教世界、ひいては豪族という土地所有者が、屯田制から均田制への流れに兜を脱いだということである。豪族が自らの存在意義を見出だそうとするなら、官を辞して農業に勤しもうという。
なお、陶淵明東晋から宋にかけての、南朝の人物である。
均田制への移行の過渡期にあたる占田・課田法を実施した、西晋の人物ではなかった。
建康(南京)に都を置く東晋は、西晋の後継国家だが、江南の稲作地帯を支払する東晋は、黄土地帯の西晋とは違い、均田制を目指さなかった。これは六朝と言われた南朝全ての国に共通することだった。
豪族が均田制への道を自ら進むことはできず、彼らは王朝や異民族といった者達に、流されていくことしかできなかった。
均田制は、異民族の侵入により崩壊した華北の、混乱の中から生まれた。陶淵明のいる南朝は、いつか均田制により、民力を回復した北朝が、南朝を併合する日が来るのを待っているかのようだった。

 

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