坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

実は集団的自衛権を容認していた希望の党

今年の初め、橋下徹氏と長島昭久氏が、希望の党憲法改正についての議論をツイッターで行っていた。



 

これ魚拓。
https://megalodon.jp/2018-0508-1503-55/https://twitter.com:443/nagashima21/status/957181923620569088?s=19
希望の党は護憲に転じたはずでは?



 

これ魚拓。
https://megalodon.jp/2018-0508-1456-51/https://twitter.com:443/hashimoto_lo/status/957192003107700736?s=19
希望の党憲法改正案は、突き詰めれば九条二項の削除を目指す維新と同じだと言っているのである。なぜこれほどまでに見解が違うのか?
長島氏が自衛権について触れているのに注目しよう。
「議論することが確認された」とあるので、これはまだ議論の途中という意味である。やはり玉木代表の主張とはかなりズレがある。
どうすればこのズレが埋るのか考えてみよう。希望の党は、その内幕をばらしていないと考えればいい。
希望の党は、集団的自衛権違憲としない決定をしたのである。
その理由は、長島氏が砂川判決を盾にとったからだろう。砂川判決から見て、集団的自衛権違憲とする方が違憲な解釈である。
政治家は、あまり砂川判決について触れない。このシナリオを描いたのは橋下氏の可能性が高い。

こうして、長島氏と橋下氏は、希望の党が護憲に流れるのを防いでいた。
今回、民進党と合流してできる国民民主党は、やはり集団的自衛権違憲とする党になるだろう。護憲派は何も議論できないくせに、実にしぶとい。

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セクハラ発言の内容を語らない者達

財務省の福田事務次官のセクハラ疑惑で、財務省が「被害者に名乗り出ろ」と述べた時、私は「これはあまり問題じゃないんじゃないか?」と思った。 その後に「被害者の個人情報の保護に最大限努力する」と言ったからである。しかし多くリベラルは、財務省に反発した。

 ここに保守とリベラルの根本的な違いがあり、保守とリベラルの違いは気質にある。 リベラルとは法概念自体が感情と同一化したような気質の人々のことであり、私などはこのようにはいかない。 

 

福田次官のセクハラ疑惑をネットで調べていた時、妙なことに気付いた。

どのようなセクハラ発言、行為があったかがごっそり抜けているのである。 私はテレビを見ていないので、ネットを中心に情報収集をすると、よくこういうことがある。

 どのようなセクハラ発言、行為かは重要な情報で、それなしには福田次官をクロとするわけにはいかない。

 やむを得ず、重要な情報抜きで情報収集するはめになった。 その中で参考になったのがこれ。

福田財務次官の問題に橋下徹氏が持論「セクハラと認めないって凄い」 - ライブドアニュース

要するに記者クラブのような体質が原因ではないかと言っている。

 

 他の記事を見ていくと、福田次官に批判的な記事が多い。

www.yomu-kokkai.com

引っかかったのは、「財務省にセクハラを認めさせるための#metoo」だということである。 判定は証拠を付き合わせてやるもので、集団による圧力は判定の手続きとして不当である。

nyaaat.hatenablog.com

具体的なセクハラ発言について書かれているかと思えばそうではなくて、「肩をもむのはセクハラか」という例え話だった。

立場の上下がセクハラとそうでないものの線引きだとして、それはその通りだが、具体的な話がないだけに賛同しきれない。

 

 大なり小なり、福田次官に肩入れしているものもある。

tyoshiki.hatenadiary.com

ではテレビ朝日の態度に疑念ありとしている。

lullymiura.hatenadiary.jp

では、「被害女性記者は名乗り出るべきだった」としている。 

 

じゃあ具体的なセクハラ発言を書いている記事はなかったのかというと、あった。

f:id:sakamotoakirax:20180506004318j:plain

www.nakajima-it.com

に画像が貼ってあって、「キスする?」という福田次官に 「じゃあキスする記者になんかいい情報あげようとは思わない?」と返している。

てかこれ色仕掛けじゃね!?

 

福田次官のセクハラ疑惑は、冤罪の可能性が高い。

 日本人が皆エスパーになったように、揃ってセクハラ発言の内容を語らないのは、被害女性記者が色仕掛けをしている点に触れずに、福田次官を陥れたいからである。

 もっとも私は、色仕掛けが女性記者のキャラだとは思っていない。問題は記者クラブ的な体質にあり、それがテレ朝が財務省への抗議に乗り気でなく、女性記者が週間新潮にリークするいきさつとなっている。 

「とにかく謝れ」というのは、日本ではよくあることで、白黒つける前に謝罪させるのである。私も子供の頃、自分は悪くない(と思う)のに、母親に謝るように諭されて火だるまになったことが何度もある。

 日本人は、謝罪させるとその残虐性の限りを尽くして謝罪した人物を社会的に抹殺する。 むしろ正しさの根拠が相手の謝罪にしかない場合が多いので、謝罪した人物が再び頭をもたげてこないように徹底的に叩く。

 桝添元都知事が辞職する時に謝罪の記者会見を開かなかったことで批判を受けたが、賢明な処置である。桝添氏の態度が、これからの政治家の辞職のスタンダードになるだろう。

 

 「リベラルは法概念自体が感情と同一化したような気質」だが、そこに欺瞞が含まれることが多い。 

リベラルが被害者に名乗り出させようとせずに財務省と福田氏を糾弾したのは、記者クラブ的体質を守るためである。

この記者クラブ的体質に様々な利権が絡んでおり、その利権の頂点に経団連と労組の共犯関係による中間階級の利害がある。 経団連と労組の利権の一番の被害者が派遣社員で、リベラルは派遣に同情的なふりをしながら、おとなしく野垂れ死んでくれないことに苛立っている。 

 

三浦瑠璃氏は今回の#metoo運動の高まりを賞賛したが、三浦氏の事実誤認か社交辞令だろう。

 この件でリベラルは敗北、後退したのである。リベラルが無理な糾弾をしたために、政府が強引に事態を隠蔽する先例を作ったというのが、今回の事件の真相である。福田氏は冤罪の可能性が高いが、今後より加害行為が明確なケースも政府が隠蔽に成功する可能性が高まる。 

リベラル及びフェミニズムは、被害女性記者を援護するふりをして記者クラブ的体質に踏み込もうとせず、被害女性記者を見棄てた。 

麻生財相が「被害者に名乗り出ろ」と述べたのが、名乗り出てきたら記者クラブ的体質にメスを入れる覚悟で言ったのなら、一種の「英断」と言える。今麻生財相は言いたい放題だが、そうなったのはリベラルが悪いのである。 

今回、冤罪の可能性を示唆した者は良し、そうでない者はただの政府との共犯者である。 

 

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善悪の逆転

f:id:sakamotoakirax:20180430114627j:plain ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフは殺害目的のアリョーナ・イワーノヴナに加えて、殺害現場を見られたアリョーナ・イワーノヴナの妹のリザヴェータをも殺してしまう。 

リザヴェータはすっかり姉の言いなりになっており、姉のために昼も夜も働き、家では料理や洗濯もやり、もらった金は全部姉に渡していた。

典型的な人に利用される被害者で、そのことを象徴するのが、リザヴェータが年中妊娠しているという事実である。

 テーマが「罪と罰」である以上、殺人は一人で充分なはずなのにドストエフスキーラスコーリニコフに二人殺させたのである。 

この点について、文学界でも議論があるようで、『謎解き罪と罰』で江川卓は「リザヴェータを殺さなくても、ラスコーリニコフは改心した」と言っていたが、そんなことはない。ラスコーリニコフはリザヴェータを殺さなければ改心できなかったのである。


 ラスコーリニコフの思想は二つあり、一つ目が「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」というものであり、二つ目が「《非凡》な人間はある障害を、それを要求する場合だけ、踏み越える権利がある」というものである。

「権利」といっても公式の権利ではなく、それを自分の良心に許す権利があるとする、いわゆる超人思想である。二つの思想と述べたが、後者が前者を補完することで、ひとつの思想となっている。

 アリョーナ・イワーノヴナを殺害し、アリョーナ・イワーノヴナの金を盗んでその金で事業を起こして社会に善行を施すというのが、ラスコーリニコフの計画だった。

 しかし犯行ののち、ラスコーリニコフはその金に手をつけることなく自首している。

 そもそもラスコーリニコフがアリョーナ・イワーノヴナを殺害相手に選んだ理由は何だろうか?

その理由は、アリョーナ・イワーノヴナが強欲な金貸しだからである。 

アリョーナ・イワーノヴナは期限を一日でも過ぎたら、質をたちまち流してしまうし、値段の4分の1しか貸さないで、利息は月に五分、ひどい時には七分もとるという。 そしてリザヴェータをしょっちゅうひっぱたいたりしている。 それがラスコーリニコフが、アリョーナ・イワーノヴナを殺していいと思った理由である。

しかしアリョーナ・イワーノヴナの悪事は主観的なものでしかない。確かに利息は高いが、それは我々の相場から見てである。我々は19世紀のロシアの相場を知らない。

ひょっとしたら、利息は当時のロシアの標準から大きく離れてはいないかもしれない。大部時代が離れているが、中世のヨーロッパでは、利息が五分というのは当たり前だった。

19世紀といっても、五分の利息を法で規制しないほどには中世寄りなのである。値段の4分の1しか貸さないのも、利息が高いのに多くを取ったら取りっぱぐれるからだろう。質を流すのは、ひょっとしたらそれが一番の狙いかもしれないが、中古品に高い値段がつかないと考えれば、質にそれほどの値打ちがあるわけではなく、ただ合法的に儲けを増やしているだけである。「期限までに返済しない者が悪い」とも反論できるのである。

 アリョーナ・イワーノヴナのような金貸しは、ロシアのそこら中にいたのではないかと思う。

そのような金貸しの多くが生きていて、アリョーナ・イワーノヴナのみが「殺していい」、「死ぬべき人間」とするのは、ラスコーリニコフの主観でしかない。 

主観である以上、その主観は変動する可能性がある。アリョーナ・イワーノヴナより罪の軽い者、しかも合法的な悪事を犯す者を「死んで当然」と思うようになる可能性があるのである。 


ラスコーリニコフの信念は、リザヴェータを殺したことで犯行直後に崩れた。

 ラスコーリニコフマルメラードフが死んだときに、20ルーブルをカテリーナ・イワーノヴナに渡すが、その「善行」によっても信念を立て直しきれない。

ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンが娼婦のソーニャを侮辱したのに、「あなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しない」とルージンに返してやっても、ラスコーリニコフはさらに追い詰められて、ソーニャの家に行ってソーニャを言葉責めにする。義母のカテリーナ・イワーノヴナは肺病を病んで長くない。カテリーナ・イワーノヴナが死ねば、幼い、ソーニャの血のつながらない弟妹達は路頭に迷う。

 ソーニャは抵抗するが、ソーニャの反論は反論になっていない。全てラスコーリニコフの言うことが正しく、ソーニャは完全に論破されたのである。

 しかしラスコーリニコフは、ソーニャを論破した後に、ソーニャの足にキスをする。そしてソーニャに、聖書の「ラザロの復活」を読んでくれるように頼む。 

「ラザロの復活」は、肉体の死と精神の死が別のものであるのを示すものであり、人々に現実に屈してはならないことを説くものである。

 「現実に屈する」とは、ひとつは隷従である。

隷従を象徴するのがラスコーリニコフの妹のドゥーニャで、金のために結婚という名の「召し使い」を求めるピョートル・ペトローヴィチ・ルージンと結婚しようとする。ドゥーニャはラスコーリニコフがルージンを追い返すことで隷従から解放される。

 もうひとつが、「踏み越える」ことである。ラスコーリニコフがアリョーナ・イワーノヴナを殺したように、法を、倫理を踏み越えていく。

「踏み越える」ことは、隷従と対置され、同列に置かれている。「踏み越える」ことは、現実を超えるのではなく、「現実に屈」したことを意味するのである。


 紆余曲折があって、ラスコーリニコフはソーニャに罪を告白する。

 「僕はナポレオンになりたかった」とラスコーリニコフは言う。しかしそう言うラスコーリニコフが、自分がナポレオンでないことをまた感じていた。

ぼくが、権力を持つ資格があるだろうか、と何度となく自問したということは、つまりぼくには権力を持つ資格がないことだ、ということくらいぼくが知らなかった、とでも思うのかい?また、人間がしらみかなんて疑問を持つのはーーつまり、ぼくにとっては人間はしらみではないということで、そんなことは頭に浮かばず、つべこべ言わずに一直線に進む者にとってのみ、人間がしらみなのだということくらい、ぼくが知らなかったと思うのかい?ナポレオンならやっただろうか?なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまり、ぼくがナポレオンじゃないということを、はっきり感じていたからなんだよ……

 

つまり、悪魔のやつあのときぼくをそそのかしておいて、もうすんでしまってから、おまえはみんなと同じようなしらみだから、あそこへ行く資格はなかったのだ、とぼくに説明しやがったということさ!悪魔のやつぼくを嘲笑いやがった、だからぼくは今ここへ来たんだ!お客にさ!もしぼくがしらみでなかったら、ここへ来ただろうか?いいね、あのとき婆さんのところへ行ったのは、ただ試すために行っただけなんだ……それをわかってくれ!

 

ラスコーリニコフの思想は、《非凡》な人間は「踏み越える」権利があり、その「権利」とは良心に許すことだった。

しかし《非凡》なナポレオンは、そんなことを考えもしない。 

良心がないのではない。《非凡》な人間は、自らの良心に許さずに、「踏み越える」ことができるのである。だから理論上、ナポレオンもまた「現実に屈した」者である。

 ここに、マキャベリズムとモラリズムの決定的な違いがある。

マキャベリズムとモラリズムは、同じ「生の意思」から出発しながら、その後永久に交わることはないのである。 

もしラスコーリニコフがリザヴェータを殺さなければ、ラスコーリニコフはこのマキャベリズムとモラリズムの違いについて、永遠に理解しようとはしなかっただろう。自分が善人だと思おうとしてアリョーナ・イワーノヴナの非を自分の中で増幅させ、それ以外の人々をも悪とみなし、マキャベリズム、そしてそれと親和的な合理主義を持たない者を非モラル的な人物として批難するようになっただろう。

 ラスコーリニコフがソーニャを言葉責めにするのは、ソーニャに家族を捨てさせて、ソーニャを堕落させるためである。

 未来のない家族を捨てるのが、堕落なのである。

モラルとはそれだけ厳しく、ほとんどの人には実行できない。

その実行できないモラルが大事なのは、モラルが単に実行できないという理由だけで捨てられれば、本当にモラルが無くなってしまい、善悪がほとんど逆転してしまうからである。

 ソーニャもまた「しらみ」である。しかしソーニャには神がいた。ラスコーリニコフはソーニャの中の神に屈し、「ラザロの復活」を読ませたのである。 


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保守とは何か~アメリカの奴隷解放宣言から考える

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保守とは何かを考えてみようと思う。
保守の定義として一般的なのは、「伝統、慣習を重視する立場、傾向、思想」とされるが、伝統、慣習が今ほど壊れている時代はない。
伝統、慣習の危機は昔から言われてきたが、今は伝統、慣習に対する尊敬が全くないのである。
保守は人々を説得する言葉を失い、意見を述べる際の理論を多くリベラルから借りている。
しかしそれが一見人権を唱えているように見せながら、その実他人の人権を奪うために人権を振りかざしていることが多いのだから、保守はそのほとんどがペテンに陥っていると言っていい。

ここでひとつ例を挙げよう。学生時代を通じて人をいじめていた者がいるとする。
この人物が『ネヴァー・エンディングストーリー』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『ベスト・キッド』を何の屈託もなく見ていたら、さすがに奇異に思うだろう。「自分が悪役になっていると思わないのか」と思うからである。
しかし、現実にはそういうことはよく起こっていると思う。それだけ人は自分を客観視できない人間だというのが理由のひとつだが、自分をいじめとは無縁と思わせるものがあるのである。それがアイデンティティである。

ここでもう一度、保守の定義を考えてみよう。私の定義は、保守派にとって抵抗のあるものである。
保守とは人間の感情、それもより多く負の感情に根差した傾向であり、そのために本来、ほとんど理論を形成しない。
一方リベラルは、やはり感情に根ざしながらもそれが従来の感情でなく、多数派を形成しにくいためにリベラル自体が理論形成を必要としており、そのため必然的に正の感情のみでリベラルは形成される。
どの国でも、保守は多数派であることが多く、保守政権の歴史が長いが以上のことを考えれば、保守の歴史の長さとは逆に、保守は歴史的に、常にリベラルの敗北者である。
しかしそれ故にリベラルは社会を分断するのに対し、保守は社会を統合するのである。少なくとも社会を統合する機会は、リベラルより多く保守に与えられる。

ここで、アメリカのリンカーンが行った奴隷解放宣言を考えてみよう。
ここではリンカーン共和党の政治家であり、元来奴隷解放論者でなかったという点で保守とする。どこかでも書いたが、個人が保守かリベラルかを厳密に区分けするのは不毛なことである。
そして奴隷解放宣言を見ると、これが我々の知っているものとは随分違うのである。
奴隷解放の摘要範囲は、「これから制圧する南部連合地域」で、既に制圧した地域と連邦に帰属していた奴隷州は摘要除外とされた。
奴隷解放宣言は、南部の労働力を減らし、また戦費を国際的に調達するため、南部を国として認めさせないために布告された。現実的対応の産物である。
しかしその現実的対応が奴隷解放運動を盛んにし、1865年にはアメリカ合衆国憲法第13修正が承認され、奴隷性が廃止されたのである。

リンカーンは、アメリカ大統領の評価ではトップ3に入り、一位になることも多い。
対立した南部でも、リンカーンの評価は高い。
私はここに、南部人の欺瞞を感じている。
南部はしばしば「南部の大義」を唱え、また黒人差別の強い地域である。
しかし「黒人を奴隷に戻せ」というレイシストはいるだろうか?私はアメリカ人ではないので断言はできないが、今までに聞いたことがない。
「南部の大義」とは、リー将軍銅像を建てたり、黒人を差別するのが精々なのである。
南部人がアメリカ連合にアイデンティティを持つことはない。南部人のアイデンティティは、奴隷を解放したアメリカ合衆国にある。
南部人が黒人を奴隷に戻したいと思い、アメリカ連合にアイデンティティを持っていたら、アメリカは常に分裂の危険にさらされているだろう。
そうならないのは、南部人のアイデンティティアメリカ合衆国にあるからで、「南部の大義」などは、「負けた腹いせ」程度のものにすぎない。
歴史は、あまりに強烈に革新的な道を辿ると、もう後へは引き返せなくなる。その後は反動化も差別主義者も、その革新的な時代を自らのアイデンティティにするしかなくなるのである。

南北戦争前史で「ミズーリ協定」や「カンザスネブラスカ法」などというのを、大学受験で習ったのを覚えている人もいるだろう。そしてほとんどの人は、内容はちんぷんかんぷんだったと思う。
「いや、内容を覚えている」という人は偉いが、ここで言いたいのはなぜこのような法律ができたかである。
ミズーリ協定」は新規の州が奴隷州になるのを制限する法律であり、「カンザスネブラスカ法」は「ミズーリ協定」を破棄して、奴隷州になるかはその州の判断に委ねるという内容である。なぜ「ミズーリ協定」は奴隷州を制限しようとしたのだろうか?
南部では農業中心のため奴隷が必要であり、工業中心の北部では奴隷が必要でなかったというのは、南北戦争史の常識である。
その奴隷の必要の有無が、北部の人々の意識を変えたのである。それは戦争前に、連邦制の前提を揺るがせかねないほどのものだった。エマニュエル・トッドアングロ・サクソンの人種主義が進化の可能性を持ち、「1850年以降は、この人種主義がひとつの変容プロセスの中に突入し、普遍主義的価値の発見に辿り着いた」と指摘している。

よく「差別は無くならない」と、不条理が無くならないことで全てのリベラル的な意見を否定しようとする人がいるが、その人は根本的な間違いをしている。
多くの不条理を支えているのは、しばしばリベラルな見解を含めた、多くの「善行」にある。「善行」は、不条理を促進しようとする人々のアイデンティティを形成し、それによって自らを善人と見なし、善人である自分に安堵して、迷いなく不条理を促進しようとする。そしてそのような善行が行われないと、負の感情を持つ人は、そのため迷いが増え、「自分らしく」生きられなくなるのである。


憲法9条は犯罪と差別の根源

日本維新の会の政策には「法の支配」が述べられている。

日本維新の会 (2016-) - Wikipedia

このようなことは、他のどの政党も言っていない。

法の支配、あるいは法治主義は日本において既に前提となっているのだろう。 維新だけがこのように政策に盛り込んでいるのは、日本には法の支配も法治主義もないという認識があるからだろう。

 そして維新の政策の決定には、引退前の橋下徹氏が関与しており、法律家として政策に盛り込んだのだろうとは容易に想像できることである。 

私が橋下氏を法律家と呼び、弁護士を詐欺師と呼ぶのはこういうところにある。日本には法の支配も法治主義もないのである。


 去年の終わりごろから、ツイッターのハイライトのが送られてこなくなった。

 それまでは毎日ハイライトが送られてきて、正直見るのが大変だったのだが、ハイライトも世情を知る上で必要だと思ってハイライトの通知を非表示にはしなかった。

 ハイライトが送られてこなくなった原因はよくわからないが、何となく、大勢の人がハイライトの通知を非表示にしているのではないかと思っていた。私も見たくないツイートは一杯あったから。

 ハイライトが送られてこない時期は、一ヶ月から二ヶ月くらいあったと思う。

 その後「人気ツイート」として、フォローしているアカウントのツイートにハイライトのようなツイートが混ざって通知されるようになった。

ややこしいのでこれも「ハイライト」と呼ぶが、その通知も何日かごとに送られてこない時があった。

 やがて「ハイライト」には、希望の党玉木雄一郎代表のツイートが入るようになった。 

玉木代表のツイートが「ハイライト」に入る頻度は次第に多くなっていった。 

それと共にひとつの顕著な特徴が表れた。玉木代表のツイートが「ハイライト」に載るのと、「ハイライト」の通知が送られてこなくなる日が連動するようになっていった。


 一方、世間では森友問題が再び話題になってきた。 

財務省の忖度が明らかになってきて、安倍政権の支持率が低下してきた。

 しかし私には安倍政権の支持率がそんなに低下しているようには見えなかった。去年の中頃には26%まで下がることもあったが、今回の下がり方は微妙で、安倍政権を支えたいという意思が強く働いているような下がり方だった。

 実際、右翼は安倍政権を擁護していた。

 

何の人権だろうか? 名誉棄損の法理論では、昭恵夫人は公人であり、社会的な批判にさらされ得る人物である。 

もうひとつ、森友問題とは別なツイートを紹介しよう。

 

山尾氏は公人だが、不倫はプライベートである。 

このツイートの目的は、人の言論の自由を奪うことにある。 

右翼もよくリベラルの理論を使った批判をするようになったが、リベラルとの決定的な違いは、右翼は人の人権を奪うために人権を振りかざす。

 人権は奪えないものだということを根本的に理解しないのが右翼である。

はあちゅう氏の事件でもそのことは明るみになった。右翼に限らず、人権を奪うために人権を振りかざす人々が現れている。

森友問題では首相夫妻の関与の証拠が見つからず、安倍政権の支持率は40%台に戻った。

 そして森友問題で、財務省森友学園が口裏合わせをしていたことが明らかになった。

toyokeizai.net

注意しなければならないのは、口裏合わせをしたのは財務省森友学園で、安倍首相の関係の可能性は濃厚だが証拠はまだないということだ。

 「疑わしきは罰せず」の論理に従えば、安倍夫妻は未だに有罪ではない。 

しかし「疑わしきは罰せず」は裁判の論理であり、裁判以外の論理ではない。日本のあらゆる言論では、しばしば「疑わしきは罰せず」の論理が裁判以外で摘要されている。 

安倍首相の政権運営、そして信用の面で、安倍政権は既に終わっている。

しかし安倍政権を支持しようという人々が、未だに安倍政権を支えている 右翼の真意は、二人の自殺者を出した森友問題の関係者を追求せず、全て無罪にすることである。

そして消費税を増税できない、憲法を改正できない停滞した政権を右翼は求めている。

「正論が通る時代」と共謀罪法案 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

というのを去年私は書いたが、「正論が通る」ようになった結果、我々は悪を追求する力を失ったのである。

これが最近のリベラルの停滞にも繋がっている。やがて児童虐待を受けている子供やいじめで自殺をしようとしている子供まで救わなくなるのではないかと私は危惧している。

 そして、ツイッターではまた何日か、「ハイライト」がこなくなった。 

今度は「ハイライト」は、フォローしているアカウントのツイートの通知に混ざってくるようになった。

 この「ハイライト」の顕著な特徴は、玉木代表はもちろん、右翼勢のツイートもほぼ一層されていることである。

 右翼勢のリツイートがなくなったのではない。右翼勢のリツイートはしばしば2000件、ツイートによっては5000件以上ある。5000件以上のリツイートを叩けるのは、今の日本では右翼勢くらいのものである。 

そのリツイートが空回りしている。「ハイライト」のツイートには100件程度のリツイートしかないものが多い。ツイッターの利用者はフォローのツイートに目もくれず、自分で見たいツイートを探しているのである。 

このフォローとフォロワーの繋がりによるツイッターの拡散形式の崩れ、右翼離れは、まだ新しい流れを生み出すには至らないが、今後次第に形になってくると思う。 


希望の党企業献金の受け取りを批判されてから護憲に転向した。 

民進党も批判が強まってくると、共産党と連携して護憲色を強めた。 

日弁連も体質が批判されるほどに、集団的自衛権違憲とする見解に走った。 


憲法9条は犯罪の温床であり、差別の源泉である。

 9条が軍隊を禁止しているのに、自衛隊がある。憲法が字義通りに解釈されていないことで、日本は犯罪、不公正を容認していけるのである。

 「右翼は関係ないじゃないか」と思う人は、右翼を改憲派と見誤っている。 

彼らは潜在的な自主憲法派であり、安倍首相の9条一項二項を削除しない改憲案は、護憲派より自主憲法派の取り込みになっている。自主憲法派は9条による「悪事」をリセットし、無罪にするために存在、機能しているのである。 


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「戦争と平和を考えるマンガ」

拡散希望をしなかったのにこんなことを言うのは気が引けるのだが、

弁護士が無能すぐるww④ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

にブクマのひとつもないのはおかしくないか?

原爆でない長崎を舞台に~西炯子『姉の結婚』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で「この国の徴税はざるです」と山形県弁護士会が言っているのに何も思わないのか??

 この国を一体どこの後進国だと思っているのか?!

改めて、

弁護士が無能すぐるww④ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

原爆でない長崎を舞台に~西炯子『姉の結婚』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の拡散を希望します。 拡散をしない人は、もうこのブログにはこないでしょう。

 ブクマだけでダメとは言いませんが、ブコメも希望します。 怒りの感情くらいあるでしょう。ひとつや二つでなく、数十、数百のブコメが頂けると思っています。


 かつて「東洋の小さな島国」という言葉が、よく言われていた。

あるいは80年代限定のことかもしれないが、確かめる術がない。

 しかしよく考えればそれはおかしいのである。

 日本の国土面積は、ヨーロッパの国々より大きい。アジアでも中南米でもアフリカでも、日本より大きい国はそうそうない。

 人口でも1奥2千万以上の人口を持つ国はアメリカ、中国、インド、ロシア(当時はソ連)などごくわずかである。 

経済で言えば、日本はまだ中国に抜かれていない世界第二位の経済大国である。 

「東洋の小さな島国」というのは、島国と大陸の比較、またはアメリカなどとの比較でしかなかった錯覚であり、日本は「東洋の小さな島国」と言う必要はどこにも無かったのである。


 当時の日本はことさらに自分達を小さく思おうとした。 それは他の国への見方に表れている。

中国には4千年の歴史があり、シルクロードにはロマンがあり、アフリカや中南米には自然との共生があるといった具合に、日本人は世界のどの国も憧れの対象として見ていた。

 今は違う。中国は中華思想と4千年間同じ歴史を繰り返した国であり、シルクロードはしばしば紛争の巷であり、アメリカは貧富の格差が激しい国で、しばしばキリスト教原理主義に走るといったように、我々の世界の見方は変化した。 

80年代は、世界に対し自らを下げていたが、それはキャッチアップににてそれとは違い、自分達を「まだまだ」としながら、成長や努力を望まない姿勢だった。 

しかし成長、努力を拒否したその社会は、今より安定感が高かった。今は多分に偏見を含みながらも客観化されているが、その分社会には不安定間がある。 


日本は世界を客観視するようになった一番のきっかけは、9.11テロだろう。 

9.11テロの後、テロに対抗したアメリカが難癖をつけてイラク戦争を始め、テロの時代が到来した。 

この時期、多くの日本人は一神教というものを知った。一神教は他の宗教に対して狭隘で、しばしば殺し合いで問題を解決しようとする。

そして「一神教より多神教」というフレーズが流行し、「一神教より多神教」を評価する多くの本が出版された。 その先頭を切ったのは塩野七生の『ローマ人の物語』だった。他の作品は多くは新書で出版された。

2000年代の新書ブームはこうして起こった。

 2000年代は非常に知的好奇心の高い時代だった。その知的好奇心はテロの時代の到来による、多神教一神教への優越感がもたらしたものだった。 


これが2000年代前半の空気だったが、後半には雰囲気が変わってくる。

 それがドストエフスキーブームの到来である。ドストエフスキーは近代の小説家でもキリスト教者として、近代化に警鐘を発し、キリスト教への回帰を啓発した小説家だった。

 『ダヴィンチコード』の流行も相まって、キリスト教、仏教などの宗教ブームが起こった。

一神教は教義を守ることを求める創唱宗教が多く、多神教は教義の無い自然宗教が多い。

日本人は「一神教より多神教」と優越感を感じたことにより、一神教的な教義への関心を持つことができたのである。この流れは安倍政権成立まで続く。


 一方、日本の文化にもうひとつの嗜好が生まれた。

 2005年に『ヴィンランド・サガ』、2006年に『ヨルムンガンド』、『キングダム』 の連載が開始された。

 この三作には共通点がある。 『ヴィンランド・サガ』のドルフィンは、父の敵のアシェラッドの元で戦争をする。 

ヨルムンガンド』のヨナは、孤児仲間を殺した武器を嫌いながらも、武器商人のココ・ヘクマティアルの元で私兵として戦う。

 『キングダム』の信は、やはり孤児仲間の漂を自分の身代わりにした政(後の始皇帝)の元で戦う。

 三作とも、主人公の憎むべき対象に主人公が寄り添い、その憎むべき対象は戦争に繋がっている。

 これらの作品は戦争を憎む主人公が日本であり、戦争を憎みながら戦争に参加していき、平和とは何かを模索していく構図となっている。

 私はこれらの作品を「戦争と平和を考えるマンガ」と位置付けた。

 「戦争と平和を考えるマンガ」は、平和主義が生み出した唯一の成果である。

平和主義に他の成果などひとつもない。 そして「戦争と平和を考えるマンガ」は、2000年代の「一神教より多神教」という優越感があって、日本人が平和を求めながらも戦争、軍事力の必要性を認めなければならないと考え、自分の心の奥を探るようにして生み出されたのである。


 今後、「戦争と平和を考えるマンガ」についてシリーズで書いていくが、他に書くことも多いので、半年ごとの更新となるだろう。


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韓国はなぜ反日なのか?

韓国と日本の関係は改善しそうにない。 

かつては日本の謝罪が足りないように思われていたが、アジアの他の国々は「謝罪はもう充分」と言い、謝罪の不充分さが原因でないことははっきりした。 

韓国のおかしさは、その論理的飛躍にある。 

かつて「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」なるものが、韓国で制定されたが、この法律は植民地時代に日本に協力した者の子孫の財産を没収するもので、遡及立法禁止の原則に反している。 

法をねじ曲げても反日でなければならないのが韓国の狂気で、日韓合意の後でも慰安婦問題を蒸し返してくるところにも表れている。

韓国は反日のためならどんな理屈も踏みにじり、反日を繰り返すのである。 


韓国の反日は、もはや韓国のアイデンティティと言っていい。 

逆に言えば、反日でない韓国は韓国でないとさえ言える。 

なぜ韓国はそれほどに反日なのか? 

私は韓国について詳しいとは言えないが、できるだけこのことを考えてみよう。 

韓国はよく、「この発明は韓国が起源」などと言っているという。 

ネットを見ると信憑性のあるものは少ないが、韓国が自国を誉めちぎっているのは事実らしい。 

本当にそうか?分断国家なのに!? 

韓国は、今や地球上ただひとつの分断国家である。

 ドイツとオーストリアのように、同一の民族で国が違う例はあるが、それは互いに別の国としての歴史を歩んできて、互いの国に対し敬意を持っている。だから統一を求めなくても民族のアイデンティティに支障はない。 

台湾はその根底に中国とは別の国だという意識を持っている。だからアイデンティティの形成に問題がない。

 韓国だけは不本意に国が分断され、しかも統一できないでいる。 いや統一できないのではなく、統一したくないのである。

 北朝鮮とひとつの国になれば、それがどれだけの経済的負担になるかわかっているから、若い世代になるほど南北統一に否定的になっている。

 かつて太陽政策として、韓国は北朝鮮に多額の経済援助を行ったが、結果は北朝鮮を核保有国にして終わった。

 戦争で南北統一はもうできない。南北統一するには北朝鮮の自壊を待つしかない。 

北朝鮮の自壊にどれだけ時間がかかり、統一後にどれだけ経済負担がかかろうと、北朝鮮を統一の対象と見なし、韓国人が必ず南北を統一する決意をもたない限り、韓国人は国民国家としてのアイデンティティを持てない。

そして韓国はアイデンティティを確立しない代償として、日本をスケープゴートにし続ける。


 以上のことを韓国に向けて言うのは政治干渉で、好ましいことではない。 

だから韓国の反日行動のカウンターとしてのみ、以上のことを韓国人に対して言える。 以上は推測だが、この推測が間違っていると証明されない限り、推測で言ってかまわない。


 と盛り上げたところで、話は尻すぼみになるwww。 

それはもちろん北朝鮮がアメリカと朝鮮半島の非核化の交渉を始めたからで、この交渉を韓国が仲介したのは、トランプ大統領が韓国から発表させたのをみても明らかである。

 朝鮮半島の非核化は魅力的だし、この時期に韓国ともめて非核化交渉を頓挫させるのは得策ではない。

 ましてやトランプ大統領を敵に回すようなことは避けねばならない。

 オバマ元大統領にすら、歴史解釈としてはやや乱暴な日韓合意を飲まされたのに、この見解を「何の根拠もない過った言説」などと言わせることになってもつまらない。 

諸君、しばし自重しよう。 


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