坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

『NANA』は日本人の人間関係を変えた。

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私はこのマンガを見た時、「現実にこんな頭のいい奴らはいない」と思った。
別にタクミやヤスのような、格別に頭のいいキャラだけではなく、ハチやノブといったアホキャラさえ、私の知ってる人よりずっと頭がいいと思ったのだ。
もちろんそれは連載当時、単行本を買って読んでいた時のことであり、今もそう思っているわけではない。

NANA』の欠点は、ストーリーが見えづらいことである。
その理由のひとつはタイトルのせいで、二人のナナの物語で、二人のナナが早期に同居することから、ストーリー無用の同居生活が続くと読者に思わせている。
その印象が強烈なのは、二人の主人公が同じ名前だからである。
それが中盤、ハチの妊娠、タクミとの婚約で、二人の同居生活が終わると、読者としては裏切られた感じになる。
ここで二人のナナの気持ちが徐々にすれ違って行くのだが、ラストが大崎ナナの失踪(未完のため、失踪するところまでは描かれていない)、そして二人のナナの再会であるのが随分と遠く、表面的に良好な二人のナナの関係、またカタストロフィに向かうまでの伏線が複雑過ぎるため、話が見えづらいのである。
これが私の読解力の問題かと言われれば、あるいはそうかもしれない。複雑なストーリーから直感で構成を読み取り、感動した読者もいて、それが大ヒットに繋がったのかもしれないが、私の見る限り、『NANA』のヒットの理由はもうひとつある。

NANA』のキャラがみんな頭がいいと冒頭で言ったのは、全てのキャラが相手のことを考えて行動しているところである。


信じてた人に裏切られたショックってそー簡単に消せるものじゃないし……だからもしかしたらノブも新しい彼女が出来たとしても、同じように辛い想いを引きずるんじゃないかな

 


あたしはタクミを選んだけど、ノブを本気で好きだった事も嘘じゃなかったって……ちゃんと話して分かってもらう事があたしにできる唯一のつぐないかもしれないよ……でもそれって結局自己満足?よけい傷つける?どう思う?淳ちゃん…

 

ハチのノブへの心配は杞憂、というよりほとんど話にならなくて終わるのだが、成功、不成功は問題ではない。相手にとって何が一番幸せなのかをひたすら考えていく、その姿勢が現実の人間よりも頭が良く見えたのだ。
人と衝突する時もそうで、登場人物達は人をからかう時もあるが、相手が怒ると「ごめん」と頭を下げる。

NANA』を『めぞん一刻』と比較してみるといい。
一刻館の住人は、試験勉強で追い込みをかけている五代の部屋に上がり込んで宴会を始める。
「気が散って勉強できん!!」
と五代が言えば、「人のせいにして」と言い返す、なんとも迷惑な住人達である。
彼らの迷惑の基準は、自分達にある。人が「迷惑」と言っても、自分達が「大したことない」と判断すれば、その基準を相手に押し付ける。
五代は音無響子と結婚した後も、一刻館に住み続ける。「変人揃い」と言われた一刻館の住人達は、結局は平均的な日本人像だった。
NANA』の価値基準は自分にあり、冗談も相手への干渉であり、相手が受け入れなければ引き下がる。
そして『NANA』以降、『めぞん一刻』のような自分の価値基準を押し付けるキャラは消えたか、あるいはなんらかの悪人として描かれるようになった。
NANA』連載当時、日本人がそのような人達だったということはないが、若干でも『NANA』の登場人物達のように振る舞い、また『NANA』の登場人物達を多くの人が理想型にしていたのである。この点、『NANA』は日本人の人付き合いを根本的に変えたのである。

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二個だけ

kutabirehateko.hateblo.jp

に対して。
コメント載せろと言ったのは、そっちが質問したのに載せなかったから。そういうのは印象操作と思われても仕方ない。
承認制は否定しないが、注意しないと印象操作と思われるし、いちいち言い訳するくらいならコメント欄をなくした方がいい。そして印象操作したと思っている。
俺が陥れられているとは少しも思っていない。あんたも分かってるはず。時間稼ぎやめて。

くたびれはてこはたちが悪い。

ある記事についてブクマとコメント欄で議論していたが、「そっちのブログで書いて」と言われたので、遠慮なく。 

まず引っ掛かったのはコレ

kutabirehateko.hateblo.jp

はてこはここで、元エントリーと後続エントリーの内容について語っているが、問題は、

わたしが驚いたのは後続のエントリーがその価値観を追認し、自分たちの世界での理想に達することができない人たちに理解をしめすべきだとしたこと、そこに共感の声が集まったことだ。

 

と述べたことである。


こっちが驚くわ!!

「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という話だとしたら、わたしはこれにとても同意できない。

 

と書いているが、「後続のエントリーがその価値観を追認」「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という解釈はいったいどこからきたのか。

 そこでこんなブクマをつけた。

sakamotoakirax 元エントリーと後続エントリーのリンクを貼るべき。見る限り、後続エントリーはけっして上流の価値観を追認していない。

 

するとはてこからIDコールがあった。

kutabirehateko id:sakamotoakirax 階層とか高い低いって何?収入?育ち?社会的ステイタス?そういうものを雑に括って人間性と紐づけたり、脱するべきだという見解には到底共感できないわ、ってお話よ。

 

そこで今度はコメント欄に書いた。

坂本晶 (id:sakamotoakirax) コメントありがとうございます。はてこさんの趣旨に、後続エントリーは反しておらず、むしろ合致しているというのが私の意見です。

 

はてこのコメント欄は承認制になっている。これはすぐに承認された。 続いてはてこのコメント。

くたびれ はてこ (id:kutabirehateko) id:sakamotoakirax 残念だけど、それは趣旨が伝わってないってことだわ。 わたしは彼女達がいうところの底辺の人生を、必ずしも抜け出すべき悲劇だとは思わないから、抜け出せたら幸運で抜け出せなかった人は努力が足りないとか不運だとか思わないの。 あなたは?

 

確かに後続エントリーは趣旨が明確に伝わるとは限らない内容である。そこで、

坂本晶 (id:sakamotoakirax) 底辺を抜け出す必要がないというのは同感です。しかしいじめ、差別は良くない。後続エントリーの主張がそれだと私は思うのですが、趣旨が伝わらなかったのは仕方がないでしょう。

 

と書いた。しかし一日経っても、コメントは載らなかった。そこで、

あとお前ふざけんな三個目のコメントもちゃんと載せろ。

 

とブクマに書き足した。当然である。向こうが質問してきたからコメントを書いたのだから。

 しかしはてこはさらに新たな記事で後続エントリーに言及してきた。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

私立中学へ進学することで周囲と自分を差別化し、自分を囲む無理解な子供らを、それを擁護する教師を、自分があとにした故郷の人々を、ひとくくりに底辺と断定し、そこにとどまることを「抜け出られない」と気の毒がるのはおかしい。「底辺!底辺!自分はその階層を上がった!」と連呼する大人の女性には大丈夫ですかといいたい。

 


はあ…

そこでこんなブクマを。

しつこいね。俺のコメントを載せずにまたこの話を繰り返すのか。

 

すると、

kutabirehateko id:sakamotoakirax 気になる話題をそのまま1ヶ月くらい書くのはいつものこと。カーストすごいなと思ったわ。まだ書くかも。で、コメント?なんのこと? 64 clicks1 RT

 

IDコールが。 しかも本日19時の時点で64クリック!?


なにコレwww

で、私はブクマの文を変えた。

sakamotoakirax これであんたが故意に人を陥れていることがはっきりした。ならこっちにも考えがある。

 

で、今書いてるわけ。 この後やっと、『弱者、下流、底辺…』の方に載らなかったコメントが載った。

くたびれ はてこ (id:kutabirehateko) id:sakamotoakirax いま気がついたわ。コメント承認のタイミングはプロフィールにある通りなので、書きたいことはご自分のブログにどうぞ。 あのエントリー自体が差別の再生産だと書いてるの。伝わらないのね。

 

「いま気がついたわ」 って嘘つけ。自分から質問したんだから、謝罪のひとつもあってしかるべきだ。

 さて、知らない人は後続エントリーとは何なのかと思うだろう。

toianna.hatenablog.com

知る限り、この記事以外には思い当たらない。異論があるならどーぞ。 内容は説明しない。読んで欲しい。

かくして生存者バイアスに乗っ取られた私を救ってくれたのは、皮肉にも数年後にやってきた自分の精神疾患だった。当時の私は男へ貢いだ挙句5股をかけられ、精神がミンチ肉のように千切れていた。

 

当時の自分はまるで、あの時のいじめっ子そのものだった。思いやる力も、現状分析も愛情とお金がなくては無理だった。精神的に追い詰められすぎると誰しもこうなるのか。そう気づいてから、同級生への恨みが減っていた。

 

これのどこが差別に繋がるのか?

 トイアンナ氏は、差別する者も差別しない者も変わらないと言っているのだ。ここには上からの見下しなどない。

 見下しているのは、差別を捨てきれなかった自分の祖母とトイアンナ氏をだぶらせて憐れんだふりをしようとしたはてこの方である。本当は自分が下なのに。

 はてこはトイアンナ氏の趣旨がわからないほどバカではない。だからはてこの二つの記事は、純粋な悪意である。

 そろそろトイアンナ氏の記事のリンク貼ったら?

 あとはてこ、あんたの読者辞めたけど、ときどき見に行くからよろしくな。


 はてこから何かきてたけど、取り敢えず後回しにする。

ロシア遠征からナポレオンを見る

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1812年、ナポレオンはロシア遠征を起こした。

 ナポレオンが集めた大陸軍は691500人。歴史上、これだけの規模の軍勢を集めた例は他にない。

 ロシアに進攻した大陸軍は、一路モスクワを目指す。

 途中、戦闘はほとんど行われなかった。 8月に入って、両軍はようやくスモレンスクで会戦したが、大陸軍は強行軍とロシアの焦土戦術により、15万まで減っていた。

 勝利したナポレオンはさらに前進し、9月にボロジノで再びロシア軍と会戦。この時の大陸軍は13万程度である。

 この後モスクワに入城したが、この時の兵力は11万である。 

以上、読者もご存じのことで、この後モスクワが焼かれ、退却行でのロシア軍の追撃で、大陸軍が壊滅したことも説明するまでもない。

 私の疑問は、モスクワ入城時に6分の1まで大陸軍が減っているのに、ナポレオンは途中で引き返そうと思わなかったのかという点である。

 疑問といっても若い頃の疑問で、昔はロシア遠征はナポレオンの失策だというのが主流だった。

 今もこれが通説であることに変わりはないが、最近は歴史を語る人が極端に減っており、ナポレオンの話をする人もいないので、通説に対する私の感覚が鈍っている。

そして今では、ロシア遠征を失策だとは思っていない。 


そもそも遠征の目標がなぜモスクワなのかという疑問がある。 

大学受験の経験のある人のために断っておくが、この疑問を呈したのは私ではなく、予備校講師の参考書である。 

それはともかく、ロシアの首都はサンクトペテルブルグであり、サンクトペテルブルグなら行軍距離も短く、大陸軍は物資不足に悩まされることなく、短期決戦で講和という、ナポレオンの得意のパターンに持っていける。

 目標がサンクトペテルブルグでなかった理由はすぐに分かる。

 バルト海に面したサンクトペテルブルグを包囲すれば、イギリス海軍が救援にきて、大陸軍は艦砲射撃を受けることになる。当時世界最強のイギリス海軍に対処する術はナポレオンにはない。だから第一目標を捨てて、第二目標を選んだのであろう。

 問題は、第二目標に目標の意味があるかどうかである。モスクワ陥落が講和、降服、征服に繋がらなければ、第二目標の意味がない。

 この疑問に答えてくれたのが佐藤優氏と亀山郁夫の対談『ロシア闇と魂の国家』である。

(亀山)ロシアはアジアではなく、ヨーロッパだ、というアイデンティティを保証する一種のシンボル都市ですね。ロシアという言葉につよく拘泥したときに往々にして見失われがちなのが、巨大なペテルブルグ文化ですよ。なにしろ、ロシア文化の最良といえる部分を築き上げてきたのは、ペテルブルグが八十パーセントといっても過言ではないからです。

 

(亀山)1917年のロシア革命以来、ロシア第二の首都に甘んじたペテルブルグの心と体は完全に「疲労」にむしばまれていたと思いますね。形式を嫌い、荒々しい欲望に身をゆだねるモスクワの野放図で、由々しいエネルギーを遠目に、つねに背筋を伸ばしてきたのがペテルブルグだと思います。でも、その疲労というのは、大帝(ピョートル1世)の遺言(ヨーロッパへの窓)を果たすため、あえて「ロシア的なもの」に背を向けてきたこの街の宿命でもあったはずです。詩人ブロツキーは、「秩序の理念」とその精神を定義づけてみせたけれども、かりにペテルブルグという「鉄のコルセット」がなければ、現代のロシア文化なんて、それこそ締まりがない体を世界に曝すだけだったと思う。ペテルブルグの理性、ペテルブルグの良心は、もっともっと評価されてしかるべきだと思います。

 

(佐藤)ぼくの付き合う相手は、ほとんどがモスクワのインテリでしたが、彼/彼女らと付き合ううちに、モスクワが閉ざされたひとつの小世界を構成しているということが、皮膚感覚としてわかるようになりました。そうすると外部の世界に出て行くという意欲がなくなるのです。

 

(佐藤)ロシア人の意識では、人工の都ペテルブルグに対してモスクワは古都なのです。この辺の復古主義的心情をうまく利用して、レーニンたちはソ連の首都をペテルブルグではなくモスクワに定めました。「モスクワは第三のローマである」というスラヴ派の主張を密輸入したのです。

 

ペテルブルグを陥落してモスクワが首都になれば、ロシアはアジア的、土俗的な精神に回帰してしまうのである。 

ならばモスクワを落とせばどうなるか。モスクワを落とし、周辺、シベリアを征服すれば、中央アジアシベリア少数民族が反乱を起こし、ロシアはアジアから分断される。ロシアにはよりヨーロッパに近い地域が残り、ヨーロッパのみに目を向けた国家になる。 

首都がモスクワから分離されていた、この時代だからこそ立てられる戦略である。

ナポレオンが69万という大軍を集めたのも、ここに理由がある。おそらく遠征は、成功しても2年はかかっただろう。

そして69万の軍勢のほとんどが命を落とすことは、ナポレオンの計算に入っていた。6分の1まで兵力が減りながら、ナポレオンがモスクワまで進めたのは、この計算があったからである。 

これでロシアを分裂させることが本当にできたかといえば、まだ可能性は低いかもしれない。

それでも言えるのは、現代でもヨーロッパの潜在的脅威であり続けるロシアを弱体化させる歴史上最高の戦略を、ナポレオンが立案、実行したことである。


 ロベスピエールにできなくて、ナポレオンにできたことは、革命の輸出である。

 フランス革命により誕生した国民軍が対仏大同盟に勝利しても、他国で革命は起こらなかった。

しかしナポレオンは、各国の王を自分の近親、部下に変えることで、革命を輸出できたのである。

 この点、ナポレオンは皇帝になっても、あくまで革命の側の人間であり、ナポレオンがハプスブルグ家と姻戚関係になっても、各国はナポレオンに対する見方を変えることはなかった。 

革命はナポレオンの政権奪取で終わったのではなく、ナポレオンの没落によって終わったのである。

ナポレオンが皇帝であろうとなかろうと、革命をヨーロッパ各国が認めるはずがなかった。


 ロシア遠征の引き金になった大陸封鎖にしても、無茶なことは確かだが、他に手はなかった。

 当時イギリス海軍が世界中のフランス植民地を手中に納めていた。

イギリスに取られるよりはと、ルイジアナを二束三文でアメリカに売っても、全ての植民地を失う危険は避けられなかった。


 外交においては、勢力均衡派のタレーランの方が実力が上に見られ、あるいはそうかもしれないが、ナポレオンとタレーランでは立場が違う。

ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げられないが、タレーランは革命が終わっても栄達できた。


 エジプト遠征で、ナポレオン軍は艦隊をイギリス海軍に焼き払われ、孤立無縁となっていた。

ナポレオンは全ての兵士を捨ててフランスに帰還し、クーデターを起こして皇帝になった。エジプトに残されたフランス軍は降服した。

 ナポレオンはエジプトで死ぬべきだったと、かつては思っていた。 今でもその気持ちを完全に捨てた訳ではないが、見方が変わってきたのは、ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げていないことが分かってきてからである。 

エジプト遠征でペストが流行した時、罹患の危険がありながらも、傷病兵を見舞った。 

思えば、ナポレオンの人生の選択には、リスクとリターンが同じくらいあった。 ナポレオンはわずかに、リターンよりリスクの方が多いと判断して、その選択をし続けた。

そのような生き方を貫いた者への、賞賛の気持ちだけは抑えることができない。 


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            ネタの多くはコレ↑

 

イスラム国を考える

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イスラム国は、アメリカやロシアの攻撃により、少しずつその領域を小さくしている。 

一時期、イスラム国は今年中に殲滅できるという予測もあった。もしそうなれば、テロの脅威も薄らぎ、この記事も見向きもされなくなるのではないかと恐れながら書いている。


バングラデシュの人質殺害事件を受けて - 山猫日記

で、イスラム国のことを「悪の思想」と言っていた。 

「悪の思想」をより厳密に定義してほしいとは思うが、直感として正しいとは思っている。

 山猫日記では、「温情主義や迷いがあってはならない」と述べており、私とは考えが違うのかと思った。しかし詳細に見ると、「戦争が唯一の解決策ではない」と言っているあたり、それほど違いはないのかもしれないとも考えた。おそらく現時点で言える限界を考えての、三浦氏の表現だろう。

 私と三浦氏の考えがどれだけ共通、または相違しているかの判断は読者に任せよう。


 イスラム国について、時たま見かけるのが、 「イスラム国のしていることはイスラムの教えに反している」 とネット上で語る人達である。気持ちは分かるが、イスラム教徒でない者がイスラム教徒に「自分達の方がイスラム教を知っている」というような主張をするのは良くないと思う。

 よく言われるジハードにしても、クルアーンに異教徒との戦争の意味で使われている箇所もあり、テロをジハードとするのは間違いだという主張も完全に正しいとは言えない。

 要するにイスラム国のしていることはイスラムの主流でなく、また若干教義がねじ曲げられていても、イスラムの教えから完全に外れてはいないのである。

 問題は、我々非イスラム教徒が、イスラム国を「イスラムでない」と完全に否定できるかなのである。

それはイスラム教徒に非イスラム教徒が実質的に改宗を迫っているのであり、我々がイスラム教を知っているかのように語って、テロリストを否定するのを私が批判する理由である。


 イスラム国との戦いの難しさがここにある。

 イスラム国は、本来穏健的と言われていた東南アジアのイスラム教徒もイスラム国の兵士、またはテロリストに変えた。 

ジャカルタアンカラのテロは、「なぜお前達は戦わないのか」という、恐怖を込めたメッセージであり、ニースやミュンヘンのテロは、単独のテロが可能なことを示した。これではイスラム教徒が歩いているだけで警戒されるようになるだろう。

イスラム国が狙っているのは文明圏とイスラム圏の分離であり、この状態が長く続けば、イスラム圏の人達が文明圏に近づくのに絶望感を持つようになるかもしれない。

 今の事態を生み出したのが、イスラム国のカリフであるのは明らかだろう。 

イスラム教徒の大半がイスラム国のカリフを認めていないが、テロリスト達はカリフと認めているのだろう。

 ならば我々非イスラム教徒はどうだろう?

我々にはイスラム国のカリフを認める権利も、認めない権利もないのである。

 そもそもイスラム国をISILと呼ぶのも私は反対で、世界中が認めなくても、イスラム国は国である。 その国を殲滅し、カリフを殺せばどうなるか。

 イスラム圏の他の地域で、カリフを名乗る者が現れるのではないかというのが、私の危惧である。

そしてカリフを殺すたびに、カリフを名乗る者が現れれば、千年経ってもテロは終わらない。


 私は、穏健化するのを条件に、イスラム国を国として認めるのがいいと思っている。

それはもちろん、テロも侵略戦争も、性奴隷も強制改宗も全て止めさせたうえである。イスラム国とは戦うが、殲滅という選択肢を外し、一定の領域をイスラム国に残すようにする。


 これはけっして甘い考えではない。 かつてチャーチルは、ナチスを早めに潰すべきだと言った。その判断は正しいと思っている。しかしイスラム国は殲滅すべきではないのだ。

 これは殲滅をむしろ安易とし、長く苦しい戦いを続ける決意である。

 そもそもイスラム圏は十字軍の頃から西洋と戦い続け、帝国主義の時代に植民地となり、以来ずっと西洋の支配を受けてきた。

 イスラム教という、戦闘性の高い宗教を支配し続けた末に、イスラム国は誕生した。イスラム国を考えるにあたり、この歴史の流れを忘れてはならない。

 イスラム国との戦いは、単なる悪との戦いではなく、過去の歴史の精算、イスラム圏との融和をめざすべきである。 

それ以外の方法は、イスラム教徒が団結してイスラム国のカリフを否定する戦争をすることだが、イスラム教徒の団結に我々はいかなる関与もできない。


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まどかの決断は自己犠牲ではない

アニメは見ずに、マンガですませた。ただ動画を見る限り、アニメとマンガはほぼ同じ内容なので、その点気にしないで書いていく。

 マンガを読んだことで、ひとつ発見があった。それは アニメのキャラの顔横に長すぎ ということである。

マンガの方は顔の形が均整がとれていて、みんなそれなりに美少女だが、アニメはみんな下膨れになり、つり目でないとたれ目になる。

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5人の少女が並ぶと、主人公のまどかが必然的にセンターにくる。

ピンクの髪でツインテールのまどかは、他の少女達より幼く見える。

そのため全体にロリコンの印象があり、一見二次元美少女オタクの喜びそうなアニメだが、これを見て、 これでオタク達は抜けるのだろうか? と思ってしまうのである。 

かつて、二次元美少女オタクのはてなブロガーが 「自分は二次元美少女に萌えている自分が好きなのである」 と言っていて、異様な説得力があったが、その通りなのは彼ら二次元オタクが勃起していないからである。

二次元オタクは禁欲的で、去勢的である。 マンガでは顔の均整をとって多少ロリコン性を排除したが、アニメという動く絵でロリコン性を求めると、性的対象から外れた絵になっていく。

 ロリコンオタクもずいぶん市民権を得たが、ロリコンオタクは本来、差別する必要がない。ロリコンに効く一番の薬は放置である。


 『まどかマギカ』は、男が消費する戦闘美少女、魔法少女ものの最後のヒット作になりそうである。

 『プリキュア』は女子が消費する作品であり、今でも戦闘美少女、魔法少女ものは作られているが、それがヒット作となるほどの勢いを持たない。 ロリコンオタクの人数が減ったとも思えないが、ロリコンオタクの発信力が衰え、ロリコンオタク以外を巻き込むだけの力を持たなくなったのだろう。 

「女子が戦っているのを見て、男子は萌える」という意味のことを、久美薫が『宮崎駿の時代』で言っていたが、私は萌えない。

 男が戦っている方がのめり込める。なぜ女に戦わせるのかと思ってしまう。

 しかしその私も、ラストはやはり感動した。文化というものは不健全なものを飲み込みながら、時に不健全なものから消費者を高次元に導いていく。そのひとつがこの作品である。


 しかしそれだけに、まどかを不幸で、救われないと思う意見には違和感を感じる。

神様でもなんでもいい。これまで希望を信じてきたみんなを泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。だからそれを邪魔するルールなんて…壊してやる!変えてやる!それがわたしの願い!さあ…叶えてよ!インキュベーター!!

 

私にはこれが、自己犠牲精神による言葉だとは思えなかった。 

より重い決断をする時に、自己犠牲精神とそれ以外を区別する基準は、怒りの有無である。

 不条理への怒りは、その怒りが本人の望みが実現されていないことからくる。 

そして不条理への怒りからくる決断は、一見どんなに不幸な決断に見えても本当は明るく、他の者が気の毒に思うほどには不幸ではないのである。

 まどかは、『風の谷のナウシカ』の原作マンガのナウシカの、直系の子孫である。

 ナウシカの世界では、人類は腐海のほとりにしか生きられず、腐海が大地を浄化した後の世界には生きられない。

 それまで人類を操ってきた墓所の主なら、人類を浄化後の世界で生きられるようにできる可能性があるが、ナウシカ墓所の主の支配を拒絶し、墓所を破壊する。

 残された人類には、絶滅の道しかない。

 これを人は暗い話だと言うが、私には充分明るい話だった。なぜなら隷従の拒絶は、命よりも大事だからである。

ちがう、いのちは闇の中のまたたく光だ!!すべては闇から生まれ闇に帰る。お前達も闇に帰るが良い!!

 

自らを闇の中にあると規定しても隷従を受け入れない、ナウシカの意思は非常に明るい。

 『叛逆の物語』では、確かにまどかは、円環の理としても自分に迷いを感じている。

そこでほむらは悪魔となって、まどかを円環の理から引き剥がす。

 しかしまどかは、円環の理だった自分を思い出そうとする。それは円環の理であることが、まどかの本当の望みだからである。

ほむらは再びまどかの円環の理としての記憶を忘れさせるが、まどかが記憶を取り戻すのを避けられないと悟り、インキュベーターに八つ当たりする。 

意思ある者にとって、迷いは一時的なものなのである。

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『進撃の巨人』を考える③~世界観を知りたい強迫観念が世界観を生み出す

普通のファンタジー作品は、ドラゴンや魔法などの我々に馴染み深い、特に西洋のファンタジーの世界観を導入して、読者をその世界観に入り込ませる。

 『進撃』の世界観の作り方は、そうではない。

 読者は世界観を把握していないために、『進撃』の世界観を知りたいと思う。「壁」には何の意味があるのか。巨人とは何なのか。『進撃』の世界観がわからなければ、読者が没入できなくなるという強迫観念が生じている。

 そこに、世界観を知る鍵が渡される。エレンである。

どうすればいいんですかヤツは!?通常種でも…奇行種でもありません…ヤツは!「知性」がある。「超大型巨人」や「鎧の巨人」とか…エレンと同じです!

 

女型の巨人に遭遇したアルミンがそう推測するが、必ずしもアルミンのように考える必要はない。 読者がアルミンの推測に飛びつくのは、『進撃』の世界観を知りたいからである。

その後もアルミン、ハンジ、エルヴィンが巨人の正体を推測する。『進撃』に没頭する読者が彼らの推測を支え、世界観を明確にしていく。

その世界観は、普通の西洋のファンタジーを導入した作品よりも強固で、輪郭がくっきりしている。早く世界観を知らなければ、没入しきれない強迫観念が、世界観を強固にしているのである。

 ここで注目すべきは、「知性」の有無である。近年若干の作品で、モンスターに極端に知性を感じられず、相互理解不能な作品が増えており、『進撃』もその系列にある。「知性」がモンスターと人間の厳密な区別となっている。

 しかしそれは一時的なもので、推測を重ねることで、ひとつの結論に向かっていく。すなわち、巨人=人間という真実にである。 

しかしこの巨人=人間との推測による世界観の形成には重苦しさもある。 その重苦しさは、仲間を疑うことである。

 仲間を疑い、時に正体を見極める前に仲間を拘束しようとする。その有り様は全体主義的でさえある。

 その有り様に抵抗しているのが、エレンである。 エレンは巨人になれるという以外には、一兵卒にすぎない。

 エレンは兵団への反逆にならない範囲で、可能な限り流れに抵抗しようとする。 エレンは仲間の力を信じたいし、仲間を死なせたくないし、仲間が裏切っていると思いたくない。

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 エレンは組織の歯車にすぎない。組織の歯車にすぎないエレンは、全てを求めすぎ、そして組織の中で敗者になる宿命にある。しかしエレンの中にこそ、読者の求める全てがある。

自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…結果は誰にもわからなかった…だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ。

 

というリヴァイの存在により、エレンと冷酷な思考と行動を続けるエルヴィン、アルミンの間にかろうじて均衡が生まれる。この均衡を途中まで保って、ストーリーが続く。

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