坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生③~鬼退治と平将門と江戸時代の妖怪

①どのようにして日本型ファンタジーは生まれたのか。

 ②日本型ファンタジーはどのように展開、発展するのか

。 と

『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたが、前回②を先に書いたのを言い忘れた。今回は①を語ることにする。

方言と平将門 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

は私が最初に書いた記事で、タイトルをつけ忘れてそのままにしていたものである。 

この記事にあるように、日本の民話では子供が鬼退治をして終わる話が溢れている。しかも鬼退治は一回きりで話が続かない。

 一方俵藤太の物語は、ムカデ退治と平将門討伐という二つの戦いがあり、大人が主人公なことも「小さ子」の物語とは違っている。

それで俵藤太物語とは、真の主人公は平将門であり、将門の強烈な個性が神話化したものだが、逆賊の将門を主人公にできなかったので、将門を討った俵藤太を主人公にしたものであると見た。

英雄の冒険は英雄の成長を表すものであり、「小さ子」を主人公にして、鬼退治を一回するだけで終わる日本のおとぎ話は、成長を阻害する意思が働いている。

 日本のおとぎ話は、室町時代にはほぼ出揃うが、江戸時代になると、日本の妖怪が現在の形に定着する。その姿はどこか愛嬌のあるキャラクターになっていく。

河童なども、江戸中期までは毛むくじゃらの猿のような姿だったらしい。

河童が尻子玉を取るのは、人が溺死すると肛門が開くことから生まれた話だが、それが男色譚に変わったりする。

 その結果、妖怪話で妖怪退治の話は、相対的に少ない。妖怪は妖怪退治の話になりにくい姿や性格を、特に江戸期以降持っていく。

 もっとも江戸時代にはその姿がはっきり描かれないものもあり、水木しげるがデザインした妖怪もいる。油すましなどである。

逆に、デザインが江戸時代に定着していて、どういう妖怪なのか全くわからないものもいる。豆腐小僧などである。

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豆腐小僧に、妖怪としての性格を与えたのも水木しげるである。

 一方、ファンタジー要素のある作品で勧善懲悪を担うのが怪談のようである。殺された人物が霊となり、殺した人物をとり殺す。そのような幽霊復讐譚が、怪談の基本形である。

 怪談は日本の怨霊信仰が、基本的に高貴な人物が怨霊になっていたのを、一般人にまで拡げたものである。

しかし怪談は勧善懲悪というより、人の良心の疚しさの表れと見ている。つまり勧善懲悪が善を勧めることで人を善化する意図があるのに対し、幽霊復讐譚は既に罪を犯した人が、怪談の中の人物に自己を投影してとり殺されることで、自らの良心を癒す働きを持っているようである。

与右衛門が累を殺した時、さらにさかのぼって先代の与右衛門が助を殺した時、村人たちは彼らの行動を知りながら黙止あるいは追認し、その罪を問おうとしなかった。累も助も共同体の総意として排除されたのだ。
だが、徳川幕府の法による支配が安定してくると、それまで共同体の規範で処理されていたような問題も法の網の目に触れるようになってくる。…(中略)…若い菊はその社会の変化に敏感に反応した。それまで村内では周知ゆえに特に口外されることがなかった累殺害の真相が、彼女にとっては抱え続けるにはあまりにも重い秘密になってしまったのだ。
だからこそ、彼女は殺害された累の憑代となってその秘密を暴き、あらためてその罪を問わなければならなかったのだ。
原田実『もののけの正体』

 

明治以降、戦前までを語るのは私には無理だが、おおむね西洋型の近代小説を表面として、裏側で従来の日本の民話が需要されていたというのが私の見解である。

 ということにして、次回戦後に飛ぶ。

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日本型ファンタジーの誕生②~主人公を傷つけるヒロインと距離感のあるヒロインたち

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日本型ファンタジーのヒロインについて考える時、私が思い出すのはこのマンガである。

小池田マヤ「不思議くんjam」の感想を書いてみた - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

では書いてなかったが、『不思議くんjam』ではヒロインが主人公のライバルと肉体関係を持ったことが最後に明かされる。

 このことがかなりの衝撃で、小池田ファンの間ではかなり話題になったようである。 

『不思議くんjam』は、早咲きながらも時代にシンクロした作品である。 


主人公に非処女の女性を当てる作品としては『アイアムアヒーロー』がある。

 序盤の鈴木の彼女の黒川徹子は、売れっ子漫画家の中田コロリの元カノである。男は非処女をそんなに問題にしないが、それでも元カレを知っているというのはきつい。 鈴木は徹子から中田のネームを見せられたり、中田を通じて他社を編集者を紹介してもらうように言われたりする。

 ヒロインの早狩比呂美も彼氏がいて、比呂美が感染してからも、彼氏の名前を呼んだりする。これでキスも経験なかったとは拍子抜けだが、『アイアムアヒーロー』はこの点、中盤まで主人公をいじめ抜いている。 

しかし他の日本型ファンタジーの作品を見ると、非処女は登場しない。 

日本型ファンタジーの主な特徴は、主人公とヒロインの距離感である。 『進撃』ではミカサが一方的にエレンを想い、エレンがミカサに恋愛感情を見せることがない。 

気になるのは、ミカサの頬の傷である。一時的なものかと思ったが、傷跡が残ってしまった。女性の顔に傷があるのは、見るだけで痛々しい。 

そしてミカサの傷はエレンがつけたものである。表に出さないが、ミカサの傷はエレンにも負い目になっているだろう。とすると主人公に非処女をあてがうのが日本型ファンタジーの目的ではなく、主人公を傷つけるのが目的だと解釈できる。もっとも主人公を傷つける場合、それが非処女として表現するのが一番可能性が高いのだが。


 『亜人』には、今のところ主人公のヒロインに当たる女性が登場していない。

もっとも『亜人』は今まで見た限りでは、ヒロインは主人公の妹である。犯罪者の息子ということで、主人公が差別した海斗に、主人公の妹が想いを寄せており、主人公の妹と海斗が結ばれ、主人公と海斗が和解する結末が容易されている。

 一方、戸崎は永井と同じ性格である。戸崎は下村泉と常に一緒にいるが、この二人にも恋愛関係はない。ちなみに下村泉は非処女である。

 つまり『亜人』では海斗と戸崎が主人公の分身であり、主人公の分身を見る限り、ヒロインは一応いる。この場合、主人公とヒロインが分散している。 


僕だけがいない街』はタイムスリップの話である。 何度もタイムスリップする内に歴史が変わっていく。

その過程で、主人公は元の時間軸にいるヒロインと出会うことを諦める。 

主人公は植物状態になり、回復してからヒロインと偶然出会う。しかしそれでも主人公は、ヒロインと関係を持とうとしない。もっとも最後にヒロインと再び出会ってハッピーエンドになっている。


 ヒロインの分散と言えばラブコメだが、『アイアムアヒーロー』はラブコメ的に見えるが、よく見ると一概にラブコメと言えないところがある。

 鈴木は小田つぐみとセックスをするが、「こんな状況じゃなきゃね」とつぐみに言われており、想いは鈴木の一方的なものになっている。 

つまり日本型ファンタジーでは、主人公とヒロインの間に距離感があり、恋愛が発展しにくい。そして稀に、主人公に非処女があてがわれるなど、主人公を傷つける処置が行われている。


 『まどかの決断は自己犠牲ではない』 で、「『まどかマギカ』男が消費するは魔法少女もの、戦闘美少女ものの最後のヒット作になるだろう」と私は延べたが、魔法少女もの、戦闘美少女ものの縮小は、日本型ファンタジーの発展と連動していると思う。そして結局、それが消費者のニーズである。 


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庵野の警告『シン・ゴジラ』

本当は『帰ってきたヒトラー』を観ようと思っていたが、もう上映が終わっていたので『シン・ゴジラ』を観た。

 観て良かった、と思った。

 巷では、不測の事態に対応出来ない日本の問題を扱った映画として話題になっている。 しかし、はてなブログでの感想は肝心のところが抜けている。


 総理大臣と閣僚がゴジラの光線によって死に、外遊していた里見農林水産大臣が総理臨時代理に就任する。 この見るからに無能そうな首相代行に、熱核攻撃でゴジラを退治するプランが国連安保理から押し付けられる。 

しかしゴジラの血液を凝固させるというヤシオリ作戦の実行の目時がたち、ゴジラを凍結させる。


 問題はその後である。里見臨時内閣は責任を取って総辞職する。しかし一体何の責任なのか? 

里見首相代行は、ただひとり残った閣僚だったというだけでなく、非常時に責任を取りたくない者達に押し付けられて首相代行になった背景がある。

 非常時に無能そうな人物に首相をやらせ、危機を過ぎれば辞めさせる。 日本がそういう国なのかと言われれば、根本的にはそうだが、私は今の与党は、もう少し気骨があると思っている。 しかし『シン・ゴジラ』は、従来の日本像を前面に押し出し、さらに主人公が 「政治家の責任は進退にある」 と述べ、従来の日本像を全面的にバックアップする。

 ゴジラが暴れたことについてどんな責任が、里見首相代行にあるというのか?

 この責任の取り方は、ただの感情の処理にすぎない。 何か問題が起これば、原因を究明せずに「責任を取れ!!」と喚き、辞めさせると満足する。そして原因を究明しないため、また同じことを繰り返す。桝添前都知事も同じ精神で辞任させられた。

 『進撃の巨人』『アイアムアヒーロー』『亜人』『僕だけがいない街』などの最近のストーリー作品は、どれも日本の在り方を根本から問い直す作品である。

庵野はこれらの作家達と意識を共有しない、いやむしろ逆行しているのか? と思ったら、違った。 最後の最後で、ゴジラの尻尾がクローズアップされる。

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ネットでは、尻尾が人の顔に見えるだの、歯のようなものができているだの、色々取り沙汰されている。

 映画では、私はよくわからなかった。というより、ゴジラの頭をクローズアップしたと思っていた。


 尻尾からゴジラの子供が生まれるのか? 

しかし本当の問題は、ゴジラではないのである。 熱核攻撃のカウントダウンは、58分46秒で止まっている。 仮にゴジラの子供が生まれても、大きさ次第では自衛隊の火力で駆除できるかもしれないが、そのような事態に対応する準備はできているのだろうか?対応マニュアルがなければ、カウントダウンが再開し、熱核攻撃を止められないかもしれない。


 米軍の爆撃を受けて、ゴジラは口から紫色の光線を出す。

 光線を出す時、ゴジラの顎が二つに割れる。背鰭からも光線を出して米軍機を撃墜し、さらに尻尾からも光線を出す。

 元々、ゴジラは白熱光を出す時に背鰭が光るので、背鰭からの光線はそのアレンジと解釈できる。しかし尻尾からの光線はやりすぎと思わなかったか? 

もちろんそれは過剰攻撃という意味ではなく、ゴジラのコンセプトからずれたという意味である。

これが庵野のアレンジなのは確かだが、無意味なアレンジかどうかは一度考えるべきだろう。

 庵野は顎が割れる化け物が好きな変態ではない。庵野ゴジラは「何をするかわからない奴」なのである。

 そもそも、米軍の爆撃を受けて、なぜゴジラが光線を吐くのだろうか?

 「ゴジラが光線を出すのは当り前」と思うなら間違いである。ゴジラは米軍に攻撃されるまで、光線を出せなかった。ゴジラは進化したのである。

 思えば、伏線は既に張られていた。 上陸出来ないと思われていたゴジラが上陸した。これだけなら両生類だが、両生類は二足歩行出来ない。しかしゴジラは二足歩行をした。

 「まるで進化だ」と矢口は言う。そしてゴジラは一個体で進化し、空を飛ぶ可能性も、無性生殖する可能性もあることが指摘され、それが安保理の熱核攻撃決定に繋がっている。

 ゴジラは環境の変化に対応するために劇的に進化し、その進化は予測出来ない。 ゴジラの凍結で満足することなく、ゴジラの細胞全てが完全に死滅するまで気を抜けないのである。


 ラストの尻尾のクローズアップは、完全に解釈自由なものとして、観客に提供されている。

 私の解釈は、「尻尾が頭になる」である。尻尾に頭が生じ、尻尾が胴体になり前足が生える。そして元の胴体が縮小すれば、大きさがほとんど変わらずにゴジラが復活する。その時ゴジラは、血液凝固剤への抗体を持っている。そうなれば、熱核攻撃しかない。 

ゴジラは予測不可能な災害であり、予測の不可能性によって被害が甚大になる危険がある場合、犠牲の大きさを顧みずに、予測不可能な災害を完全に消去することを最後の選択肢として持っていなければならない。

 ヤシオリ作戦は、本来選択肢の中のひとつだった。しかしヤシオリ作戦は、熱核攻撃の選択肢との潜在的な対立を含んでおり、熱核攻撃の選択肢の消去を目指すものだった。

だからゴジラが凍結したことで、熱核攻撃の選択肢が消去されたものとして満足した。 「政治家の責任は進退」というのは、この詰めの甘さを強調、いや象徴する言葉なのだと、私は捉えている。


 表面的なストーリーの裏に何が隠されているかを探るのは、ストーリー作品の楽しみ方のひとつである。

 しかし、ゴジラの排出する放射能半減期が2週間ほどで、3年くらいで影響のないレベルになるとして観客を安心させ、エンディングで歴代ゴジラシリーズの音楽を流して、観客をすっかりレトロな気分にさせて帰らせるのは、庵野も少したちが悪いと思う。

 ラストについての私の解釈が庵野の主張なら、よほど知られたくない本音なのだろう。 


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『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生①

『進撃』16巻で、囚われたエレンは自分の持っている巨人の力「座標」が、レイス王家の者でない自分が持っていても「世界の記憶」を引き継ぐことができないことを知る。
「世界の記憶」を継承した者は、その記憶を人類に広めることができるが、それをした者はいない。初代レイス王の思想を継承したからだ。レイス家が「座標」の力を継承すれば、巨人を滅ぼすこともできる。だからその思想は、人類が巨人に滅ぼされるのが正しいという思想に、結果的になる。
レイス王は、ヒストリアを巨人にし、エレンの「座標」と「世界の記憶」を食わせようとする。
真実の重さに、エレンは愕然とし、ヒストリアに自分を食うように求める。
しかしヒストリアは巨人化する薬品を床に叩きつけ、父であるレイス王を投げ飛ばし、エレンを鎖から解き放とうとする。

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うるさいバカ!!泣き虫!!黙れ!!巨人を駆逐するって!?誰がそんな面倒なことやるもんか!!むしろ人類なんか嫌いだ!!巨人に滅ぼされたらいいんだ!!つまり私は人類の的わかる!?最低最悪の超悪い子!!

 

惚れたぜヒストリア!!

画像と被ったけど、ここは繰り返しても強調したいところ♪

『進撃』のテーマである個人主義は、ヒストリアによって頂点に達する。その勢いは人類を滅ぼしかねない域となり、個人主義者である各人がそれぞれの思惑により行動することで、結果的に人類が救済される構成になっている。
進撃の巨人を考える①』で、ヒストリアを真のヒロインと述べた由縁である。

ヒストリアは、

まどかの決断は自己犠牲ではない - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた、まどかやナウシカと同型のキャラである。
この三人は、世界の重要な運命を決める役割を担う点で共通する。「世界の運命を決めるヒロイン」である。
ならば、ヒストリアに対するエレンは何か。
エレンは、『アイアムアヒーロー』の鈴木英雄と同じダメヒーローである。
日本のアニメ、マンガは、『ナウシカ』『まどか』と、男のヒーローに比べて決断の困難な問題をヒロインに委ねる作品を二つも輩出した。そして『進撃』だけでなく、『アイアムアヒーロー』の早狩比呂美もまた、「世界の運命を決めるヒロイン」である。『アイアムアヒーロー』のZQNは、やがて融合して「巣」になる。「巣」には意思決定を行う「女王蜂」を必要とする。比呂美もまた「女王蜂」であり、英雄が重要な決断を比呂美に押し付けた結果、比呂美は「巣」に連れ去られる。男が決断を女性に押し付けたために、ダメヒーローが生まれたのである。
エレンがダメヒーローというのは、ひどいと思うだろうか?
確かににエレンは、鈴木英雄のように臆病だったり優柔不断だったりはしない。
しかし命令違反をしなくなったエレンは、その意思力で人を引っ張ったりしないし、自分に自信のない発言もしている。
「俺を食ってくれ!!」
と、泣いてヒストリアに頼んだ後のエレンは、自分が「死に急ぎ野郎」であることを否定する。
「死に急ぎ野郎」のエレンは、人を導いたが、それを否定したエレンは、人の後についていく。
やはりエレンはキャラが変わったのであり、潜在的にダメヒーローの要素を持っていると言える。少なくとも20巻まではそうである。
アイアムアヒーロー』は、決断をヒロインに押し付けたダメヒーローが、ヒロインを救い、男が決断の役割を担い、「ダメ」でないヒーローになる物語である。だからエレンも、ヒロインに変わって決断を担っていくのだろう。

ヒーローがヒロインに変わって決断を担うと言っても、男女同権の時代に、男尊女卑を説いているわけではない。
あくまでストーリー作品の思考、神話的思考であり、現実のそのままの反映ではない。
現実は、男が女に決断を押し付けているという単純なものではなく、様々な形体があるだろう。
しかし神話的思考が日本人の無意識である限り、決断という形でなくとも、男が女性を不当に扱っているという意識があるのだろう。この問題については、別の機会にしよう。

『進撃』と『アイアムアヒーロー』は同じ2009年に連載がスタートし、相互補完的な関係にある。
『進撃』『アイアムアヒーロー』『まどか』にはいくつかの共通点がある。怪物が一種類なこと。怪物が醜く、頭が悪そうで、基本的に相互理解不能なこと。活動範囲が狭いことなどである。
怪物が一種類なのはどういう意味か?
神話学者ジョセフ・キャンベル『神話の力』の中でこう述べている。


神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、という可能性を人に気づかせるんです。自分は完全で、十分に強く、太陽の光を世界にもたらす力を持っているのかもしれない。怪物を退治することは、暗闇のものを倒すことです。神話はあなたの心の奥のどこかであなたをとらえるのです。

 


心理学的には、龍は自分を自我に縛りつけているという事実そのものです。私たちは自分の龍という檻に囚われている。精神病医の課題は、その龍を破壊して、あなたがより広い諸関係の場へと出ていくことができるようにすることです。究極的には、龍はあなたの内面にいる。あなたを抑えつけているあなたの自我がそれなんです。」

 

龍が自分を抑えつける自我で、怪物が暗闇のものだということは、怪物が自分以外の他者である以前に、自分の中の闇を指すと考えるべきなのだろう。
次に、香山リカは『ぷちナショナリズム症候群』で、日本人の精神の「分離」を問題としている。
「分離」の例として、香山リカは昼は女子大生、夜は風俗で働く女性を挙げている。「風俗で働くことをどう思うか」と尋ねた時、その女性は「自分とは関係ないから」と答えていた。
この「分離」を、「日本バンザイ」という軽い「ぷちナショナリズム」と絡めて、香山リカは問題にしたのだが、
魔女、巨人。ZQNといった一種類の怪物は、「分離」に対して」「統合」が始まっている暗示である。つまり一種類の怪物は自分の闇であり、怪物が頭が悪そうで、相互理解不能なのは、その闇が理解すべき対象ではなく、打倒すべき対象だからである。私はかねてから、西洋のファンタジーを模倣した日本のファンタジーで、怪物が普通に人間と話し、しばしば相互理解をするのが不満だった。それはファンタジーの善悪の戦いという重要なテーマを低めるものだからである。
主人公たちの行動範囲の狭さも同様である。
『進撃』の狭さは説明するまでもない。
『まどか』は、美滝原という街だけが舞台である。
アイアムアヒーロー』は、ZQNのパニックが世界規模で起こっていながら、主人公達は安全な場所を探すとか、人を集めるという現実的な選択肢を採らず、ZQNが大量にいると想定される、自分達が住んでいた東京方面に向かう。
行動範囲の狭さは、セカイ系の影響、またはループもののような出口の無さともとれるが、私はここに「統合」を感じている。つまりファンタジー自体が心の旅であり、ファンタジーの世界の広さ自体が、「分離」の要素を含んでいるのである。
エレンの「座標」や、早狩比呂美の「半感染」による能力は、闇の力である。つまり善と悪の戦いではなく、闇と闇の戦いであり、自らのまた闇とするところが、これらの作品の凄みである。そしてこれらの作品は、人間=怪物という図式を持ち、闇と闇の戦いであるだけ、戦いがリアルで凄惨である。

「世界の運命を決めるヒロイン」「ダメヒーロー」「一種類の怪物」「怪物との相互理解不能」「怪物=人間」「行動範囲の狭さ」
これらの要素のある作品を、私は西洋型のファンタジーと比較して、日本型ファンタジーと規定している。
知る限りでは、これらの要素を全て持っているのは、『進撃』と『アイアムアヒーロー』のみである。『まどか』は「ダメヒーロー」の要素がないだけだが、日本型ファンタジーが、男が本来の力を取り戻す物語である以上、魔法少女ものに分類すべきだろう。
もちろんこれらの要素を全て含む必要はない。『亜人』は「世界の運命を決めるヒロイン」がいないが、私は日本型ファンタジーに分類している。つまり頭脳明晰な永井圭もダメヒーローである。
日本型ファンタジーは、以上3つだが、亜流もある。高野苺の『orange』、三部けいの『僕だけがいない街』である。
日本型ファンタジーの主人公がダメヒーローなのは、入り口がどこかの問題にすぎない。
日本型ファンタジーとその亜流の作品は、読者を世界型ファンタジーと同等、あるいはそれ以上の高みに連れていく。

今後、「『進撃の巨人』を考える」シリーズは、「日本型ファンタジーの誕生」に統合する。今後の展開としては、

①どのようにして日本型ファンタジーが生まれたか。

②日本型ファンタジーはどのように展開、発展するのか。

の二つである。①からやるとまどろっこしいので、両方交互に進めるつもりである。もっとも他に書きたいこともあるので、終わるのに何年かかるかわからないが。

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『NANA』は日本人の人間関係を変えた。

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私はこのマンガを見た時、「現実にこんな頭のいい奴らはいない」と思った。
別にタクミやヤスのような、格別に頭のいいキャラだけではなく、ハチやノブといったアホキャラさえ、私の知ってる人よりずっと頭がいいと思ったのだ。
もちろんそれは連載当時、単行本を買って読んでいた時のことであり、今もそう思っているわけではない。

NANA』の欠点は、ストーリーが見えづらいことである。
その理由のひとつはタイトルのせいで、二人のナナの物語で、二人のナナが早期に同居することから、ストーリー無用の同居生活が続くと読者に思わせている。
その印象が強烈なのは、二人の主人公が同じ名前だからである。
それが中盤、ハチの妊娠、タクミとの婚約で、二人の同居生活が終わると、読者としては裏切られた感じになる。
ここで二人のナナの気持ちが徐々にすれ違って行くのだが、ラストが大崎ナナの失踪(未完のため、失踪するところまでは描かれていない)、そして二人のナナの再会であるのが随分と遠く、表面的に良好な二人のナナの関係、またカタストロフィに向かうまでの伏線が複雑過ぎるため、話が見えづらいのである。
これが私の読解力の問題かと言われれば、あるいはそうかもしれない。複雑なストーリーから直感で構成を読み取り、感動した読者もいて、それが大ヒットに繋がったのかもしれないが、私の見る限り、『NANA』のヒットの理由はもうひとつある。

NANA』のキャラがみんな頭がいいと冒頭で言ったのは、全てのキャラが相手のことを考えて行動しているところである。


信じてた人に裏切られたショックってそー簡単に消せるものじゃないし……だからもしかしたらノブも新しい彼女が出来たとしても、同じように辛い想いを引きずるんじゃないかな

 


あたしはタクミを選んだけど、ノブを本気で好きだった事も嘘じゃなかったって……ちゃんと話して分かってもらう事があたしにできる唯一のつぐないかもしれないよ……でもそれって結局自己満足?よけい傷つける?どう思う?淳ちゃん…

 

ハチのノブへの心配は杞憂、というよりほとんど話にならなくて終わるのだが、成功、不成功は問題ではない。相手にとって何が一番幸せなのかをひたすら考えていく、その姿勢が現実の人間よりも頭が良く見えたのだ。
人と衝突する時もそうで、登場人物達は人をからかう時もあるが、相手が怒ると「ごめん」と頭を下げる。

NANA』を『めぞん一刻』と比較してみるといい。
一刻館の住人は、試験勉強で追い込みをかけている五代の部屋に上がり込んで宴会を始める。
「気が散って勉強できん!!」
と五代が言えば、「人のせいにして」と言い返す、なんとも迷惑な住人達である。
彼らの迷惑の基準は、自分達にある。人が「迷惑」と言っても、自分達が「大したことない」と判断すれば、その基準を相手に押し付ける。
五代は音無響子と結婚した後も、一刻館に住み続ける。「変人揃い」と言われた一刻館の住人達は、結局は平均的な日本人像だった。
NANA』の価値基準は自分にあり、冗談も相手への干渉であり、相手が受け入れなければ引き下がる。
そして『NANA』以降、『めぞん一刻』のような自分の価値基準を押し付けるキャラは消えたか、あるいはなんらかの悪人として描かれるようになった。
NANA』連載当時、日本人がそのような人達だったということはないが、若干でも『NANA』の登場人物達のように振る舞い、また『NANA』の登場人物達を多くの人が理想型にしていたのである。この点、『NANA』は日本人の人付き合いを根本的に変えたのである。

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二個だけ

kutabirehateko.hateblo.jp

に対して。
コメント載せろと言ったのは、そっちが質問したのに載せなかったから。そういうのは印象操作と思われても仕方ない。
承認制は否定しないが、注意しないと印象操作と思われるし、いちいち言い訳するくらいならコメント欄をなくした方がいい。そして印象操作したと思っている。
俺が陥れられているとは少しも思っていない。あんたも分かってるはず。時間稼ぎやめて。

くたびれはてこはたちが悪い。

ある記事についてブクマとコメント欄で議論していたが、「そっちのブログで書いて」と言われたので、遠慮なく。 

まず引っ掛かったのはコレ

kutabirehateko.hateblo.jp

はてこはここで、元エントリーと後続エントリーの内容について語っているが、問題は、

わたしが驚いたのは後続のエントリーがその価値観を追認し、自分たちの世界での理想に達することができない人たちに理解をしめすべきだとしたこと、そこに共感の声が集まったことだ。

 

と述べたことである。


こっちが驚くわ!!

「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という話だとしたら、わたしはこれにとても同意できない。

 

と書いているが、「後続のエントリーがその価値観を追認」「確かにそういう人たちは底辺だけど、不運にも底辺でいる人を見下すのはよくない」という解釈はいったいどこからきたのか。

 そこでこんなブクマをつけた。

sakamotoakirax 元エントリーと後続エントリーのリンクを貼るべき。見る限り、後続エントリーはけっして上流の価値観を追認していない。

 

するとはてこからIDコールがあった。

kutabirehateko id:sakamotoakirax 階層とか高い低いって何?収入?育ち?社会的ステイタス?そういうものを雑に括って人間性と紐づけたり、脱するべきだという見解には到底共感できないわ、ってお話よ。

 

そこで今度はコメント欄に書いた。

坂本晶 (id:sakamotoakirax) コメントありがとうございます。はてこさんの趣旨に、後続エントリーは反しておらず、むしろ合致しているというのが私の意見です。

 

はてこのコメント欄は承認制になっている。これはすぐに承認された。 続いてはてこのコメント。

くたびれ はてこ (id:kutabirehateko) id:sakamotoakirax 残念だけど、それは趣旨が伝わってないってことだわ。 わたしは彼女達がいうところの底辺の人生を、必ずしも抜け出すべき悲劇だとは思わないから、抜け出せたら幸運で抜け出せなかった人は努力が足りないとか不運だとか思わないの。 あなたは?

 

確かに後続エントリーは趣旨が明確に伝わるとは限らない内容である。そこで、

坂本晶 (id:sakamotoakirax) 底辺を抜け出す必要がないというのは同感です。しかしいじめ、差別は良くない。後続エントリーの主張がそれだと私は思うのですが、趣旨が伝わらなかったのは仕方がないでしょう。

 

と書いた。しかし一日経っても、コメントは載らなかった。そこで、

あとお前ふざけんな三個目のコメントもちゃんと載せろ。

 

とブクマに書き足した。当然である。向こうが質問してきたからコメントを書いたのだから。

 しかしはてこはさらに新たな記事で後続エントリーに言及してきた。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

私立中学へ進学することで周囲と自分を差別化し、自分を囲む無理解な子供らを、それを擁護する教師を、自分があとにした故郷の人々を、ひとくくりに底辺と断定し、そこにとどまることを「抜け出られない」と気の毒がるのはおかしい。「底辺!底辺!自分はその階層を上がった!」と連呼する大人の女性には大丈夫ですかといいたい。

 


はあ…

そこでこんなブクマを。

しつこいね。俺のコメントを載せずにまたこの話を繰り返すのか。

 

すると、

kutabirehateko id:sakamotoakirax 気になる話題をそのまま1ヶ月くらい書くのはいつものこと。カーストすごいなと思ったわ。まだ書くかも。で、コメント?なんのこと? 64 clicks1 RT

 

IDコールが。 しかも本日19時の時点で64クリック!?


なにコレwww

で、私はブクマの文を変えた。

sakamotoakirax これであんたが故意に人を陥れていることがはっきりした。ならこっちにも考えがある。

 

で、今書いてるわけ。 この後やっと、『弱者、下流、底辺…』の方に載らなかったコメントが載った。

くたびれ はてこ (id:kutabirehateko) id:sakamotoakirax いま気がついたわ。コメント承認のタイミングはプロフィールにある通りなので、書きたいことはご自分のブログにどうぞ。 あのエントリー自体が差別の再生産だと書いてるの。伝わらないのね。

 

「いま気がついたわ」 って嘘つけ。自分から質問したんだから、謝罪のひとつもあってしかるべきだ。

 さて、知らない人は後続エントリーとは何なのかと思うだろう。

toianna.hatenablog.com

知る限り、この記事以外には思い当たらない。異論があるならどーぞ。 内容は説明しない。読んで欲しい。

かくして生存者バイアスに乗っ取られた私を救ってくれたのは、皮肉にも数年後にやってきた自分の精神疾患だった。当時の私は男へ貢いだ挙句5股をかけられ、精神がミンチ肉のように千切れていた。

 

当時の自分はまるで、あの時のいじめっ子そのものだった。思いやる力も、現状分析も愛情とお金がなくては無理だった。精神的に追い詰められすぎると誰しもこうなるのか。そう気づいてから、同級生への恨みが減っていた。

 

これのどこが差別に繋がるのか?

 トイアンナ氏は、差別する者も差別しない者も変わらないと言っているのだ。ここには上からの見下しなどない。

 見下しているのは、差別を捨てきれなかった自分の祖母とトイアンナ氏をだぶらせて憐れんだふりをしようとしたはてこの方である。本当は自分が下なのに。

 はてこはトイアンナ氏の趣旨がわからないほどバカではない。だからはてこの二つの記事は、純粋な悪意である。

 そろそろトイアンナ氏の記事のリンク貼ったら?

 あとはてこ、あんたの読者辞めたけど、ときどき見に行くからよろしくな。


 はてこから何かきてたけど、取り敢えず後回しにする。