坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ロシア遠征からナポレオンを見る

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1812年、ナポレオンはロシア遠征を起こした。

 ナポレオンが集めた大陸軍は691500人。歴史上、これだけの規模の軍勢を集めた例は他にない。

 ロシアに進攻した大陸軍は、一路モスクワを目指す。

 途中、戦闘はほとんど行われなかった。 8月に入って、両軍はようやくスモレンスクで会戦したが、大陸軍は強行軍とロシアの焦土戦術により、15万まで減っていた。

 勝利したナポレオンはさらに前進し、9月にボロジノで再びロシア軍と会戦。この時の大陸軍は13万程度である。

 この後モスクワに入城したが、この時の兵力は11万である。 

以上、読者もご存じのことで、この後モスクワが焼かれ、退却行でのロシア軍の追撃で、大陸軍が壊滅したことも説明するまでもない。

 私の疑問は、モスクワ入城時に6分の1まで大陸軍が減っているのに、ナポレオンは途中で引き返そうと思わなかったのかという点である。

 疑問といっても若い頃の疑問で、昔はロシア遠征はナポレオンの失策だというのが主流だった。

 今もこれが通説であることに変わりはないが、最近は歴史を語る人が極端に減っており、ナポレオンの話をする人もいないので、通説に対する私の感覚が鈍っている。

そして今では、ロシア遠征を失策だとは思っていない。 


そもそも遠征の目標がなぜモスクワなのかという疑問がある。 

大学受験の経験のある人のために断っておくが、この疑問を呈したのは私ではなく、予備校講師の参考書である。 

それはともかく、ロシアの首都はサンクトペテルブルグであり、サンクトペテルブルグなら行軍距離も短く、大陸軍は物資不足に悩まされることなく、短期決戦で講和という、ナポレオンの得意のパターンに持っていける。

 目標がサンクトペテルブルグでなかった理由はすぐに分かる。

 バルト海に面したサンクトペテルブルグを包囲すれば、イギリス海軍が救援にきて、大陸軍は艦砲射撃を受けることになる。当時世界最強のイギリス海軍に対処する術はナポレオンにはない。だから第一目標を捨てて、第二目標を選んだのであろう。

 問題は、第二目標に目標の意味があるかどうかである。モスクワ陥落が講和、降服、征服に繋がらなければ、第二目標の意味がない。

 この疑問に答えてくれたのが佐藤優氏と亀山郁夫の対談『ロシア闇と魂の国家』である。

(亀山)ロシアはアジアではなく、ヨーロッパだ、というアイデンティティを保証する一種のシンボル都市ですね。ロシアという言葉につよく拘泥したときに往々にして見失われがちなのが、巨大なペテルブルグ文化ですよ。なにしろ、ロシア文化の最良といえる部分を築き上げてきたのは、ペテルブルグが八十パーセントといっても過言ではないからです。

 

(亀山)1917年のロシア革命以来、ロシア第二の首都に甘んじたペテルブルグの心と体は完全に「疲労」にむしばまれていたと思いますね。形式を嫌い、荒々しい欲望に身をゆだねるモスクワの野放図で、由々しいエネルギーを遠目に、つねに背筋を伸ばしてきたのがペテルブルグだと思います。でも、その疲労というのは、大帝(ピョートル1世)の遺言(ヨーロッパへの窓)を果たすため、あえて「ロシア的なもの」に背を向けてきたこの街の宿命でもあったはずです。詩人ブロツキーは、「秩序の理念」とその精神を定義づけてみせたけれども、かりにペテルブルグという「鉄のコルセット」がなければ、現代のロシア文化なんて、それこそ締まりがない体を世界に曝すだけだったと思う。ペテルブルグの理性、ペテルブルグの良心は、もっともっと評価されてしかるべきだと思います。

 

(佐藤)ぼくの付き合う相手は、ほとんどがモスクワのインテリでしたが、彼/彼女らと付き合ううちに、モスクワが閉ざされたひとつの小世界を構成しているということが、皮膚感覚としてわかるようになりました。そうすると外部の世界に出て行くという意欲がなくなるのです。

 

(佐藤)ロシア人の意識では、人工の都ペテルブルグに対してモスクワは古都なのです。この辺の復古主義的心情をうまく利用して、レーニンたちはソ連の首都をペテルブルグではなくモスクワに定めました。「モスクワは第三のローマである」というスラヴ派の主張を密輸入したのです。

 

ペテルブルグを陥落してモスクワが首都になれば、ロシアはアジア的、土俗的な精神に回帰してしまうのである。 

ならばモスクワを落とせばどうなるか。モスクワを落とし、周辺、シベリアを征服すれば、中央アジアシベリア少数民族が反乱を起こし、ロシアはアジアから分断される。ロシアにはよりヨーロッパに近い地域が残り、ヨーロッパのみに目を向けた国家になる。 

首都がモスクワから分離されていた、この時代だからこそ立てられる戦略である。

ナポレオンが69万という大軍を集めたのも、ここに理由がある。おそらく遠征は、成功しても2年はかかっただろう。

そして69万の軍勢のほとんどが命を落とすことは、ナポレオンの計算に入っていた。6分の1まで兵力が減りながら、ナポレオンがモスクワまで進めたのは、この計算があったからである。 

これでロシアを分裂させることが本当にできたかといえば、まだ可能性は低いかもしれない。

それでも言えるのは、現代でもヨーロッパの潜在的脅威であり続けるロシアを弱体化させる歴史上最高の戦略を、ナポレオンが立案、実行したことである。


 ロベスピエールにできなくて、ナポレオンにできたことは、革命の輸出である。

 フランス革命により誕生した国民軍が対仏大同盟に勝利しても、他国で革命は起こらなかった。

しかしナポレオンは、各国の王を自分の近親、部下に変えることで、革命を輸出できたのである。

 この点、ナポレオンは皇帝になっても、あくまで革命の側の人間であり、ナポレオンがハプスブルグ家と姻戚関係になっても、各国はナポレオンに対する見方を変えることはなかった。 

革命はナポレオンの政権奪取で終わったのではなく、ナポレオンの没落によって終わったのである。

ナポレオンが皇帝であろうとなかろうと、革命をヨーロッパ各国が認めるはずがなかった。


 ロシア遠征の引き金になった大陸封鎖にしても、無茶なことは確かだが、他に手はなかった。

 当時イギリス海軍が世界中のフランス植民地を手中に納めていた。

イギリスに取られるよりはと、ルイジアナを二束三文でアメリカに売っても、全ての植民地を失う危険は避けられなかった。


 外交においては、勢力均衡派のタレーランの方が実力が上に見られ、あるいはそうかもしれないが、ナポレオンとタレーランでは立場が違う。

ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げられないが、タレーランは革命が終わっても栄達できた。


 エジプト遠征で、ナポレオン軍は艦隊をイギリス海軍に焼き払われ、孤立無縁となっていた。

ナポレオンは全ての兵士を捨ててフランスに帰還し、クーデターを起こして皇帝になった。エジプトに残されたフランス軍は降服した。

 ナポレオンはエジプトで死ぬべきだったと、かつては思っていた。 今でもその気持ちを完全に捨てた訳ではないが、見方が変わってきたのは、ナポレオンが革命の側の人間であることから逃げていないことが分かってきてからである。 

エジプト遠征でペストが流行した時、罹患の危険がありながらも、傷病兵を見舞った。 

思えば、ナポレオンの人生の選択には、リスクとリターンが同じくらいあった。 ナポレオンはわずかに、リターンよりリスクの方が多いと判断して、その選択をし続けた。

そのような生き方を貫いた者への、賞賛の気持ちだけは抑えることができない。 


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イスラム国を考える

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イスラム国は、アメリカやロシアの攻撃により、少しずつその領域を小さくしている。 

一時期、イスラム国は今年中に殲滅できるという予測もあった。もしそうなれば、テロの脅威も薄らぎ、この記事も見向きもされなくなるのではないかと恐れながら書いている。


バングラデシュの人質殺害事件を受けて - 山猫日記

で、イスラム国のことを「悪の思想」と言っていた。 

「悪の思想」をより厳密に定義してほしいとは思うが、直感として正しいとは思っている。

 山猫日記では、「温情主義や迷いがあってはならない」と述べており、私とは考えが違うのかと思った。しかし詳細に見ると、「戦争が唯一の解決策ではない」と言っているあたり、それほど違いはないのかもしれないとも考えた。おそらく現時点で言える限界を考えての、三浦氏の表現だろう。

 私と三浦氏の考えがどれだけ共通、または相違しているかの判断は読者に任せよう。


 イスラム国について、時たま見かけるのが、 「イスラム国のしていることはイスラムの教えに反している」 とネット上で語る人達である。気持ちは分かるが、イスラム教徒でない者がイスラム教徒に「自分達の方がイスラム教を知っている」というような主張をするのは良くないと思う。

 よく言われるジハードにしても、クルアーンに異教徒との戦争の意味で使われている箇所もあり、テロをジハードとするのは間違いだという主張も完全に正しいとは言えない。

 要するにイスラム国のしていることはイスラムの主流でなく、また若干教義がねじ曲げられていても、イスラムの教えから完全に外れてはいないのである。

 問題は、我々非イスラム教徒が、イスラム国を「イスラムでない」と完全に否定できるかなのである。

それはイスラム教徒に非イスラム教徒が実質的に改宗を迫っているのであり、我々がイスラム教を知っているかのように語って、テロリストを否定するのを私が批判する理由である。


 イスラム国との戦いの難しさがここにある。

 イスラム国は、本来穏健的と言われていた東南アジアのイスラム教徒もイスラム国の兵士、またはテロリストに変えた。 

ジャカルタアンカラのテロは、「なぜお前達は戦わないのか」という、恐怖を込めたメッセージであり、ニースやミュンヘンのテロは、単独のテロが可能なことを示した。これではイスラム教徒が歩いているだけで警戒されるようになるだろう。

イスラム国が狙っているのは文明圏とイスラム圏の分離であり、この状態が長く続けば、イスラム圏の人達が文明圏に近づくのに絶望感を持つようになるかもしれない。

 今の事態を生み出したのが、イスラム国のカリフであるのは明らかだろう。 

イスラム教徒の大半がイスラム国のカリフを認めていないが、テロリスト達はカリフと認めているのだろう。

 ならば我々非イスラム教徒はどうだろう?

我々にはイスラム国のカリフを認める権利も、認めない権利もないのである。

 そもそもイスラム国をISILと呼ぶのも私は反対で、世界中が認めなくても、イスラム国は国である。 その国を殲滅し、カリフを殺せばどうなるか。

 イスラム圏の他の地域で、カリフを名乗る者が現れるのではないかというのが、私の危惧である。

そしてカリフを殺すたびに、カリフを名乗る者が現れれば、千年経ってもテロは終わらない。


 私は、穏健化するのを条件に、イスラム国を国として認めるのがいいと思っている。

それはもちろん、テロも侵略戦争も、性奴隷も強制改宗も全て止めさせたうえである。イスラム国とは戦うが、殲滅という選択肢を外し、一定の領域をイスラム国に残すようにする。


 これはけっして甘い考えではない。 かつてチャーチルは、ナチスを早めに潰すべきだと言った。その判断は正しいと思っている。しかしイスラム国は殲滅すべきではないのだ。

 これは殲滅をむしろ安易とし、長く苦しい戦いを続ける決意である。

 そもそもイスラム圏は十字軍の頃から西洋と戦い続け、帝国主義の時代に植民地となり、以来ずっと西洋の支配を受けてきた。

 イスラム教という、戦闘性の高い宗教を支配し続けた末に、イスラム国は誕生した。イスラム国を考えるにあたり、この歴史の流れを忘れてはならない。

 イスラム国との戦いは、単なる悪との戦いではなく、過去の歴史の精算、イスラム圏との融和をめざすべきである。 

それ以外の方法は、イスラム教徒が団結してイスラム国のカリフを否定する戦争をすることだが、イスラム教徒の団結に我々はいかなる関与もできない。


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まどかの決断は自己犠牲ではない

アニメは見ずに、マンガですませた。ただ動画を見る限り、アニメとマンガはほぼ同じ内容なので、その点気にしないで書いていく。

 マンガを読んだことで、ひとつ発見があった。それは アニメのキャラの顔横に長すぎ ということである。

マンガの方は顔の形が均整がとれていて、みんなそれなりに美少女だが、アニメはみんな下膨れになり、つり目でないとたれ目になる。

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5人の少女が並ぶと、主人公のまどかが必然的にセンターにくる。

ピンクの髪でツインテールのまどかは、他の少女達より幼く見える。

そのため全体にロリコンの印象があり、一見二次元美少女オタクの喜びそうなアニメだが、これを見て、 これでオタク達は抜けるのだろうか? と思ってしまうのである。 

かつて、二次元美少女オタクのはてなブロガーが 「自分は二次元美少女に萌えている自分が好きなのである」 と言っていて、異様な説得力があったが、その通りなのは彼ら二次元オタクが勃起していないからである。

二次元オタクは禁欲的で、去勢的である。 マンガでは顔の均整をとって多少ロリコン性を排除したが、アニメという動く絵でロリコン性を求めると、性的対象から外れた絵になっていく。

 ロリコンオタクもずいぶん市民権を得たが、ロリコンオタクは本来、差別する必要がない。ロリコンに効く一番の薬は放置である。


 『まどかマギカ』は、男が消費する戦闘美少女、魔法少女ものの最後のヒット作になりそうである。

 『プリキュア』は女子が消費する作品であり、今でも戦闘美少女、魔法少女ものは作られているが、それがヒット作となるほどの勢いを持たない。 ロリコンオタクの人数が減ったとも思えないが、ロリコンオタクの発信力が衰え、ロリコンオタク以外を巻き込むだけの力を持たなくなったのだろう。 

「女子が戦っているのを見て、男子は萌える」という意味のことを、久美薫が『宮崎駿の時代』で言っていたが、私は萌えない。

 男が戦っている方がのめり込める。なぜ女に戦わせるのかと思ってしまう。

 しかしその私も、ラストはやはり感動した。文化というものは不健全なものを飲み込みながら、時に不健全なものから消費者を高次元に導いていく。そのひとつがこの作品である。


 しかしそれだけに、まどかを不幸で、救われないと思う意見には違和感を感じる。

神様でもなんでもいい。これまで希望を信じてきたみんなを泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。だからそれを邪魔するルールなんて…壊してやる!変えてやる!それがわたしの願い!さあ…叶えてよ!インキュベーター!!

 

私にはこれが、自己犠牲精神による言葉だとは思えなかった。 

より重い決断をする時に、自己犠牲精神とそれ以外を区別する基準は、怒りの有無である。

 不条理への怒りは、その怒りが本人の望みが実現されていないことからくる。 

そして不条理への怒りからくる決断は、一見どんなに不幸な決断に見えても本当は明るく、他の者が気の毒に思うほどには不幸ではないのである。

 まどかは、『風の谷のナウシカ』の原作マンガのナウシカの、直系の子孫である。

 ナウシカの世界では、人類は腐海のほとりにしか生きられず、腐海が大地を浄化した後の世界には生きられない。

 それまで人類を操ってきた墓所の主なら、人類を浄化後の世界で生きられるようにできる可能性があるが、ナウシカ墓所の主の支配を拒絶し、墓所を破壊する。

 残された人類には、絶滅の道しかない。

 これを人は暗い話だと言うが、私には充分明るい話だった。なぜなら隷従の拒絶は、命よりも大事だからである。

ちがう、いのちは闇の中のまたたく光だ!!すべては闇から生まれ闇に帰る。お前達も闇に帰るが良い!!

 

自らを闇の中にあると規定しても隷従を受け入れない、ナウシカの意思は非常に明るい。

 『叛逆の物語』では、確かにまどかは、円環の理としても自分に迷いを感じている。

そこでほむらは悪魔となって、まどかを円環の理から引き剥がす。

 しかしまどかは、円環の理だった自分を思い出そうとする。それは円環の理であることが、まどかの本当の望みだからである。

ほむらは再びまどかの円環の理としての記憶を忘れさせるが、まどかが記憶を取り戻すのを避けられないと悟り、インキュベーターに八つ当たりする。 

意思ある者にとって、迷いは一時的なものなのである。

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『進撃の巨人』を考える③~世界観を知りたい強迫観念が世界観を生み出す

普通のファンタジー作品は、ドラゴンや魔法などの我々に馴染み深い、特に西洋のファンタジーの世界観を導入して、読者をその世界観に入り込ませる。

 『進撃』の世界観の作り方は、そうではない。

 読者は世界観を把握していないために、『進撃』の世界観を知りたいと思う。「壁」には何の意味があるのか。巨人とは何なのか。『進撃』の世界観がわからなければ、読者が没入できなくなるという強迫観念が生じている。

 そこに、世界観を知る鍵が渡される。エレンである。

どうすればいいんですかヤツは!?通常種でも…奇行種でもありません…ヤツは!「知性」がある。「超大型巨人」や「鎧の巨人」とか…エレンと同じです!

 

女型の巨人に遭遇したアルミンがそう推測するが、必ずしもアルミンのように考える必要はない。 読者がアルミンの推測に飛びつくのは、『進撃』の世界観を知りたいからである。

その後もアルミン、ハンジ、エルヴィンが巨人の正体を推測する。『進撃』に没頭する読者が彼らの推測を支え、世界観を明確にしていく。

その世界観は、普通の西洋のファンタジーを導入した作品よりも強固で、輪郭がくっきりしている。早く世界観を知らなければ、没入しきれない強迫観念が、世界観を強固にしているのである。

 ここで注目すべきは、「知性」の有無である。近年若干の作品で、モンスターに極端に知性を感じられず、相互理解不能な作品が増えており、『進撃』もその系列にある。「知性」がモンスターと人間の厳密な区別となっている。

 しかしそれは一時的なもので、推測を重ねることで、ひとつの結論に向かっていく。すなわち、巨人=人間という真実にである。 

しかしこの巨人=人間との推測による世界観の形成には重苦しさもある。 その重苦しさは、仲間を疑うことである。

 仲間を疑い、時に正体を見極める前に仲間を拘束しようとする。その有り様は全体主義的でさえある。

 その有り様に抵抗しているのが、エレンである。 エレンは巨人になれるという以外には、一兵卒にすぎない。

 エレンは兵団への反逆にならない範囲で、可能な限り流れに抵抗しようとする。 エレンは仲間の力を信じたいし、仲間を死なせたくないし、仲間が裏切っていると思いたくない。

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 エレンは組織の歯車にすぎない。組織の歯車にすぎないエレンは、全てを求めすぎ、そして組織の中で敗者になる宿命にある。しかしエレンの中にこそ、読者の求める全てがある。

自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…結果は誰にもわからなかった…だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ。

 

というリヴァイの存在により、エレンと冷酷な思考と行動を続けるエルヴィン、アルミンの間にかろうじて均衡が生まれる。この均衡を途中まで保って、ストーリーが続く。

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エマニュエル・トッド

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エマニュエル・トッドの本を私は一冊も読んだことはないが、Wikipediaを見ると、どれだけすごい人物かわかる。

エマニュエル・トッド - Wikipedia

トッドは家族制度が社会の価値観を決定すると主張し、この価値観から、各国の有り様を説明した。なぜ共産主義が資本主義先進国でなくロシアや中国で実現したのか、なぜ遠く離れた日本とドイツの社会制度が似ているのか、なぜアメリカ人は自由と独立を重視するのか、などである。また1976年にソ連の崩壊を予言し、予言者のように見られた。

 私がトッドに興味を持つもう1つの理由は、イランについてのトッドの見方である。

 イランの核問題は、将来イランが核保有国になる可能性を残しながらも、期限付きの核開発停止で合意した。

 米大頭領候補のトランプ氏は、現在、このような合意をしたオバマ大頭領を批判している、私はもしトランプ氏が大頭領になれば、勢力均衡派のトランプ氏はウクライナの紛争でロシアに有利な条件を呈示してでもロシアと和解し、ロシアと共同でイランに核開発の永久的な停止を迫るのではないかと考えている。

 私の考えが当たっているかは、トランプ氏が大頭領にならなければわからないが、実は私は、トランプ氏のイラン核問題に対する姿勢には賛成しないのである。イランが核を持つことがあってもいいと、私は考えている。 

イラン・イスラム革命以来、イランはサルマン・ラシュディ事件などで、危険なテロ国家と見なされてきた。 しかし現在、イランがそれほど危険な国だとは思っていない。

 親米国だったイラクフセインは、アメリカがイラククウェート領有を認めると読み違えて湾岸戦争を起こし、9.11テロ後にアメリカはイラク大量破壊兵器があると難癖をつけてイラク戦争を引き起こし、結果イスラム国が誕生した。

 親米と反米かを基準とするアメリカの覇権のあり方は、イラクにおいて最も失敗している。 中東のような紛争地帯には、より多様性を認める姿勢で臨む必要があるのだが、アメリカのさじ加減に期待することはできない。

 かといってアメリカを牽制するほどの力は核しかないのだが、これも転覆の危険性のある軍事政権に持たせるわけにはいかない。その点宗教指導者が政権を握るイランは、政権転覆の心配がない。イスラム国との戦いは必要だが、イランならイラク情勢に適度な距離間を持って、アメリカを牽制できる。

 ここは意見が別れるところだろうが、現在の覇権国体制による世界秩序は、親米と反米の区別による多様性の軽視と、核保有国に核を放棄させるのが不可能なために核拡散を止められないことから、いずれ崩壊する運命にある。多様性軽視と核拡散の危険を計りにかけた場合、イランが核を持った方が中東はまだしも安定するというのが、私の見解である。

 そしてトッドは、おそらく少数派であろう私の見解を裏付けてくれている。トッドはイスラム圏の識字率が上がり、出生率が下がっていることから、イスラム圏が欧米に近づいていると指摘し、「近代化の先頭にいるのはトルコではなくイランであることを示し、イスラム脅威論を否定し、イランを正しく見るべき」だと主張している。


 トッドはEUについては、イギリス、フランス、ドイツの移民に対する態度が全く異なることから、心性としての欧州統合は失敗すると予測している。

これは『移民の運命』という本に書いてある。 イギリスのEU離脱を見ると、トッドの主張は当たっているようである。 

はてな村でもイギリスEU離脱を巡って、時代の流れへの逆行だの、また逆にEU崩壊の序曲だのと、様々に取り沙汰されてきた。

 実際のところは、どうなのだろう。 まずトッドは、「心性としてのEU統合は失敗する」と述べている。つまり実質としてのEU崩壊はないということである。

 また一部に、イギリスのナショナリズムな反動と見る向きもあったが、私はこれに賛同していない。 

なぜならイギリスのEU離脱が決定してから数日後に、スコットランド独立の住民投票が決まったからである。つまりイギリスEU離脱の運動と、スコットランド独立の運動は、ほとんど同時進行だったのである。 イギリスのEU離脱後にスコットランドが独立の住民投票を決めた背景も、ある程度察することができる。 2年前のスコットランド住民投票では、スコットランド残留を選んだ。その理由は経済の問題で、残留した方が助成金をもらえるからだった。 

今回の住民投票は、イギリスがEUを離脱した以上、スコットランドはEUに直接加盟できる。そしてEUに加盟すれば、EUから助成金をもらえる。そのようなドイツが悲鳴を挙げそうな理由で、住民投票に踏み切ったのであろう。

 ナショナリズム民族自決は、根本は同じものである。 しかし多数民族のナショナリズムは、少数民族民族自決を抑制しようとするのが基本である。

 現代のイギリスでは軍隊での鎮圧ともいかないので、スコットランドを留める方法は、EUへの残留しかない。

 スコットランドが独立しても、イギリスはEUから離脱したかったのなら、これはナショナリズムの発露とは言い難い。やはり移民の問題なのだろうと思う。

 『移民の運命』は、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの移民の受け入れ方を論じたものである。 トッドはあくまで移民の問題で、欧州統合は「心性として失敗する」と述べたのである。移民以外の人々の統合を問題としていない。 

それでは移民以外のヨーロッパ人は「心性として」統合されるのか、されないのか。

 私はやはり国民投票後の、400万票の投票やり直しの誓願に注目したい。 

この誓願については誰かのブログに、アンケート調査ではやり直しを求める人が少ないという記事があり、イギリス人はEUに戻りたくないのだと、そのブログでは結論づけていた。(ブクマをつけていないので、もう誰の記事かわからない) しかし投票で決まったことで、やり直しを求めることが異例なのである。 例えば投票に不正があったなど、妥当な理由があれば、やり直しを求めやすいだろう。しかし妥当な理由がなければ、僅差とはいえ、結果に従うべきだと考えるのが普通だろう。 投票やり直しの誓願の注目すべきところは、数ではなく想いの強さである。

アンケート調査では、残留派の三割がやり直しべきだと答えたとのことである。イギリスの人口が6000万人だから、投票やり直しの誓願をした人と、アンケートで「投票をやり直すべきだ」と答えた人の比率は5分の2である。残留を求めながらも、結果に従うべきだと考えた人のEUへの想いがどれだけ強いかは、アンケート調査からは出てこない。

 これはイギリスがふたたびEUに戻るということではない。イギリスがEUに戻る可能性は四割もないだろう。 しかし離脱したイギリスでこれなら、他のEU諸国はどうだろう。

 EUだって理想的ではなく、経済的には不便もある。私は経済面よりも、EUの安全保障の面を重視している。 しかしそれでもEUは、確かにヨーロッパ人の意識を変えているのである。


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トランプ氏から見る世界情勢

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米大頭領候補のトランプ氏は在日米軍の駐留費を日本が全額負担せよと主張している。 ならばそれを受け入れて、アメリカに地位協定の改善を求めればいいと思っていたが、額を見て驚いた。5兆円である。情報はこちらからである。

lullymiura.hatenadiary.jp

今年の日本の歳入は58兆円、国債の発行額は38兆円、その内防衛費は1兆円程度である。
日本が5兆円の米軍駐留費を出し続けることは、ほぼ不可能と思われる。
ならばアメリカがなぜこれだけの出費を出し続けることができたのかといえば、ドルが基軸通貨だからである。
世界中の国際取引の決済手段として使われるドルは、通貨供給量を大幅に増やしても、低インフレでやっていける。このドルを使って、アメリカは世界の警察をやってきたのである。
これがわかると、今世界で起こっていることが分かるようになる。 例えばTPPである。日本は95%で合意、ナショナリストにして見れば情けない結果と思いそうだが、実は日本以外の国は95%以上で合意していた。TPPに関しては日本が一番ナショナリスティックだったが、その日本にしてこの結果である。
基軸通貨ドルにも限界があり、打出の小槌とはならない。ドルをもってしても、アメリカの世界の警察としての軍事費を維持できない。その分を補填するのがTPPであり、グローバリズムである。グローバリズムは、我々の金をアメリカに流し込むシステムである。
ギリシャ債務危機についても、同様のことがいえる。 ギリシャ債務危機では、あらゆるデータがユーロから離脱して、ドラクマを採用すべきという数字を示していた。純経済的には全くその通りで、ギリシャにとっては不幸というしかない。
しかしだからこそ、ギリシャ残留は経済的な理由ではない。ギリシャ残留は中東やロシアが引き起こす紛争に巻き込まれないためである。
問題は今回EUを離脱したイギリスだが、イギリスの場合は地理的にEUが盾になってくれるため、離脱しやすいという背景がある。

そのうち、アメリカも世界の警察をやれなくなる時がくるかもしれない。 それでもどこかの国が、世界の警察をやることになるだろう。
その国がどの国かは、もう決まっている。中国である。その時には人民元基軸通貨となる。最近中国が設立したアジア・インフラ投資銀行は、人民元基軸通貨にするための布石である。
そして必要だからとはいえ、世界の警察もただではやってくれない。
アメリカは中南米を裏庭としたが、中国にとって東シナ海南シナ海は「表庭」である。
中国は南沙、西沙諸島を手に入れ、さらに尖閣諸島に手を伸ばす。日本はシーレーンを中国に握られ、中国の下風に立つ。
それは避けなければならない。

だから我々が中国に対処するために一番考えなければならないのは、アメリカを覇権国として維持することである。
現在論壇を見る限り、ナショナリストケインズ経済学との親和性が高い。 確かに債務危機に陥った時に通貨を大量に発行し、国内で超インフレ、対外的に通貨を暴落させ、それで輸出競争力をつけて急速に経済を回復させるケインズ理論は理想的である。
しかしケインズ理論では、防衛費を捻出することができない。ケインズ理論は理想的だが、ケインズ理論は戦争の可能性を極少化しない限り、完全な形では実行できないと思うべきである。

もしトランプ氏が大頭領になった場合どうするかだが、経済的には、グローバリズムの中休みになると思えばいい。 そういう反動は必ずある。
トランプ氏は関税障壁を設けようとしているようだが、ならばこちらも関税障壁を設ければいい。ただし、トランプ氏が大頭領になっても、任期は4年である。それ以上はトランプがグローバリズムに転向しない限り、「アメリカ」が許さないだろう。
米軍駐留費の負担についてだが、これはのらりくらりとかわすべきだろう。「負担しなければ撤退」はブラフで、トランプ氏の安全保障への意識は高い。おそらく負担を負わせられることなく、トランプ氏と渡り合えると思う。
また地位協定については、残念ながらトランプ氏相手では話ができそうにない。だから東南アジアに同盟国を探すなどをして、アメリカの軍事力の重要性を相対的に低下させる努力をするべきだろう。

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ケネディ神話の実像に迫る

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進撃の巨人を考える』のシリーズを更新しようと思ったが、イギリスのEU離脱であちこち話が盛り上がっているので、国際政治の記事を書くことにした。 しかし今まで国際政治の記事を書いていないので、下準備ができていない。そこで今回はイギリスともEUとも関係のなさそうなケネディのことから書く。今回とあわせて、国際政治関連の記事を三回に分けてやる予定である。


 「神話」とまで言われたケネディの軌跡。一体ケネディの何が神話なのか? アメリカの政治であることもあり、私には歴代大頭領とケネディの比較は難しい。 ただ私は、ケネディはアジテーターだと思っている。アジテーターだというのは、セオドア・ソレンセンが書いた演説の草稿のことでも、ケネディがそれに手を加えたことでもない。ケネディの本質がアジテーターなのである。

 周知のように、1960年の大統領選時は、公民権運動の真っ只中だった。 「今日も人種隔離を!明日も人種隔離を!永久に人種隔離を!」と言ったのは、1963年にアラバマ州知事に就任したジョージ・ウォレスだが、ウォレスの言葉はアメリカの差別の根強さとして人に受け止められている。 しかし私は逆に、ウォレスの言葉を焦りと見る。1960年当時、多くの白人からの同情が黒人に、そして公民権運動によりしばしば逮捕、投獄されるキング牧師に向けられていた。

 そこでケネディが大統領選に出馬した。 「お若いの、どう見たって早すぎるわ」と、彼の若さを咎める老婦人に、 「いいえ、今年こそ私の年なのです。私の最高の年が今なのです」 と答えるケネディ。 42歳という若さ、アイルランド系、カトリック。全てがケネディに不利な材料だった。その不利さが、同情を受ける黒人、キング牧師と被ったのである。

 自らを公民権運動に邁進する黒人達と被らせたうえで、ケネディはニュー・フロンティア政策を打ち出す。戦争、差別、貧困の克服を目指すこの政策は抽象的で、際限のない課題の大きさを思わせる。

人々はケネディを、無限の高みに挑戦し続ける若者のように見る。無謀たが、背中を押してやりたくなる。 マイナスをプラスに変え、さらなる無謀な挑戦を演じたのが、ケネディの大頭領当選に果たした部分は大きい。そして大頭領に当選した後、

国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え。

 

と、ケネディは言う。この言葉でアメリカ人はケネディになる。「神話」の始まりである。


 それではケネディの大頭領としての力量がどのくらいかと言うのは、先に述べたように、外国のことでもあり判断が難しいが、なんとなく私が思っていることは、暗殺されなければ、ケネディの評価は今ほど高くなかっただろうということである。

 例えば、カーターと比較して見るといい。カーターはCIAの予算の削減により、イラン革命テヘラン大使館人質事件などを起こし、「弱腰外交」と批判されたが、元々CIAの力を弱めようとしたのはケネディである。

 またケネディは、ベトナムから撤退しようとした。逆にベトナムへの介入を強めようとしたという意見があるが、ここでは通説に従う。 ケネディは、大国アメリカがその力で世界の国々を思うように動かそうとするのに否定的で、それぞれの国々の成り行きに任せるのが正しいと思っていた。それをやったのがカーターである。落合信彦はカーターを批判したが、その落合はケネディの信奉者だった。

 それではなぜカーターが批判されてケネディが評価されるかと言えば、カーターの外交がアメリカに不利に働いたのと、ベトナム戦争が悲惨だったからだが、それだけではないと思う。 ケネディソ連と部分的核実験禁止条約を締結した。 これは核軍縮交渉の始まりであると同時に、核拡散防止の起源でもある。実際ケネディが暗殺されて5年後に、NPT条約が締結される。

 ならばケネディが生きていれば核軍縮、核拡散防止に多大な成果をあげるだろうと考える者がいるのは当然である。 そしてベトナムからの撤退を考えていたケネディは、それぞれの国の有り様をそれぞれの国々に任せようとした。それは世界の多様性を認めるということであり、ならばケネディが生きていれば、世界中の国々がその多様性を認められていたと考える者がいるのも当然である。 しかし、核不拡散と多様性が認められる世界像は、基本的に両立しないのである。

 今ではほとんど不可能だが、アメリカの世界戦略は、各地に親米国を作り、その親米国に反米国を叩かせるか、各地の親米国と共同して反米国を叩くかである。そのようにして、各地で覇権を維持しなければならない。なぜならそれは、核不拡散が最大の目的だからである。

世界の多様性を認めて、反米的な地域を形成すれば、核拡散に歯止めがかからなくなる恐れがある。 良くも悪くも、我々はそのような世界に生きているのである。

よくナショナリストで、 「世界中の国々が核を持てば、核抑止力によって世界は平和になる」 と言う者がいるが、私はその意見に絶対に与しない。 そのような世界で生きられるとは少しも思わないが、そのように言うナショナリストは誠実さも持っている。そのナショナリストは日本が完全な主権を持っているという前提で、主張を一貫させようとしているのである。

 アメリカに世界の警察をしてもらうということは、潜在的に諸国が主権をアメリカに譲り渡すことであり、我々にできる第一の選択は、親米か反米である。 このように考えて見ると、ケネディ暗殺の秘密が隠蔽されている理由も見えてくる気がする。 ケネディベトナムから撤退しようとした。 

「やっぱりそうか」と思うだけだろう。 ケネディ軍産複合体に殺された。 

「やっぱり」と思うだろう。しかし我々が予測する以上の真実は、もう出てこないのではないかと、私は思い始めている。

 ケネディ暗殺に大きな秘密があると我々が思うほど、ケネディが核不拡散と世界の多様性を両立させる人物として崇拝し、ケネディと同じことをやろうとする人物が登場しても「弱腰」と批判し、その矛盾に気付かず、気付かないだけ現状の体制が支持される。

 もしそうなら、我々はケネディ神話を虚構と見なし、「神話」のない世界の体制を模索しなければならないのである。


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