「なぜ人を殺してはいけないのか」と大江健三郎に質問し、「その質問自体が間違っている」と回答される。
コンビニの入口付近の縁石に座り込み、事あるごとに既成の概念に対立した世代、つまり90年代の超個人主義者と呼ぶべき者達。私は彼らと学生時代に出会い、彼等に苛立ち、対立した。
議論で戦う論法は、個人主義vs集団主義に持ち込むことである。今では個人主義者になった私も、この時は集団主義だった。この論法は、今でも個人主義を批判する論法として使われている。
彼ら超個人主義者に対してどう思うかは、この記事の目的ではない。
理由は、不毛だからである。 例えば「その質問自体が間違っている」という大江健三郎の回答にしても、殺人が道徳的に正当化されないだけのことであり、不道徳な行為にも何らかの正しさはあることもある。
また集団主義vs個人主義の論法も、集団主義が正しい根拠はないと思っている。
ただ、超個人主義者に肩入れしているかというと、必ずしもそうではない。
その理由は、彼らの言動の不快さである。 超個人主義者は、議論の前提となるものをことごとく破壊しようとする。
議論の前提を破壊してはいけない理由は、本当はひとつもない。この意味でも大江健三郎は間違っている。
しかし不快なのである。よほどの忍耐力と議論の能力がない限り、彼らと四六時中付き合うのは困難である。
だから超個人主義者に対する者の力不足を指摘しながらも、超個人主義者の肩を持ちきれない。だからこの記事は何が正しいのかということではなく、超個人主義者がなんだったのかという視点でしか語れない。
超個人主義者の不快さについて、もう少し考えてみよう。
先に挙げた、コンビニの入口の縁石に座り込んでいた若者達について、もう少し掘り下げていこう。
彼らの何が不快か? 「見た目が悪い」というなら、それはまだ体裁を繕った答えである。
本当は「襲われるかもしれない」と思うからである。
「襲われるかもしれない」というのは、人間の持つ正常な防衛本能である。
一方超個人主義者は「座ってはいけないと書かれていない=ダメでない以上どこに座ってもいい」 という論法に持ち込む。
しかし「どこに座ってもいい」というなら、隅の縁石に座っても良かったのである。少なくともそうしていれば、問題はそれほど大きくはならなかった。
客がすぐ側を通る入口付近の縁石に座る彼らは、客への威嚇を自覚している。
しかしマナーは防衛本能も含めた感情の調整の役にたつものだが、この時期の日本人はマナーの背景にある感情を忘れすぎていた。 すると自分の主張が正しくないという思いが強くなり、弱気になっていく。
一方超個人主義者は、表向き自由を標榜しながらも、真実は相手の感情を否定している。超個人主義者は個人主義者を装いながらも、自分達と異なる者に対する抑圧を行っており、その意味で集団主義的であった。
彼らの目指すところは徹底したカオスだった。それは彼らが徹底して責任を取らない姿勢にも現れていた。カオスに対する責任など取りようがないからである。
しかし先に述べたように、彼らの批判はこの記事の主目的ではない。彼らを徹底したカオスに駆り立てた衝動の原因は、日本の歴史の流れの中にある。それはまた次の機会に語ろう。
ともあれ、彼らは至るところで秩序を破壊しようとしたが、破壊のあるところに創造がないということはない。その程度を語る能力は私にはないが、彼らは確かに日本を変えた。
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