坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

アガペー、仁、慈悲心

地球環境問題では、「解決すべき」という意見と「温暖化しても、それ以上に科学が発達して温室効果のマイナスを上回る成果を出す」という2つの意見がある。後者の意見には原発推進派の根拠としている者もいる。
私は今は後者の立場にいるが、科学的な論争なので専門外の者が首を突っ込むのは限度がある。
それでも地球環境問題は多くの専門外の人!議論しているので、私も議論に参加しているのだが、つくづく思うのは、科学的な議論よりもその人の気質が地球環境問題でどちらの立場につくのかを決定しているということである。
温室効果ガスを減らすべきという人はリベラルな人が多い。リベラルな社会を目指し、大きな問題に取り組んでいくという姿勢を持っている。
それに対し、科学の発展により温室効果以上のプラスを出すとする人は保守的な人が多い。
ならば地球温暖化問題を解決しようとする人達が人に優しいのかといえばそういうこともない。
リベラルはしばしば、本当に困っている人から目を背けるためにより大きな問題を掲げることがある。『テラフォーマーズ』ではそういうリベラルな人達を「コスモポリタン」と呼んでいる。
そういうリベラルの都合のいい道具として地球環境問題があると見るのは、邪推と言われるほどのものではないだろう。
ならば地球環境問題よりも科学の発達を重視する人達は、本当に困っている人に目を向けているだろうか?

キリスト教アガペーというのがある。隣人愛というものである。
儒教にも仁がある。他人に対する優しさのことである。
仏教にも慈悲心がある。世界の4大聖人のうち三人が同じことを言っている。
ソクラテスには「悪法も法なり」という言葉がある。
ソクラテスは「若者を堕落させた罪」として死刑を宣告された。
ソクラテスの弟子はソクラテスに国外に逃げるように言ったが、ソクラテスは「悪法も法なり」と言って毒杯を飲んだ。悪法があってもそれは秩序を成しており、悪法も破ることは秩序を混乱させ、その弊害が多くの人を不幸に陥れることを恐れて自らが犠牲になったのである。
こんなことを述べながら、私がソクラテスだったら逃げる気満々なのだがwww、要はアガペーにしろ仁にしろ慈悲心にしろ、隣人は選べないということである。
隣人が自分を攻撃する人であっても優しくしなければならない。それがあって初めて社会は成り立ち、社会的に見捨てられる人はいなくなる。
それではもし隣人を見捨てる人があれば、そういう人はどうなるのかという問題がある。アガペー、仁、慈悲心と個人主義の関係はどうなるのか?
仏教では仏性といい、その人が生まれながらにして持っているものを大事にする。また「犀の角の如く進め」と言う。個人主義は中世の西洋で始まったものだが、隣人を見捨てるかどうかは個人の問題であって、その周囲の人の問題ではないと考えればいいと思う。
そうでなければ、アガペー、仁、慈悲心は単なる共同体理論、集団主義になり、個人主義と真っ向から対立する理論になる。そうなれば個人主義は完全に否定され、個性は社会に適応すると認められない限り排除される。個人の自由より犠牲が強要される社会となる。
仮に個人主義が最も繁栄している西洋が人間にとって最も幸福な社会だとするなら、その理由は個人主義を絶対的に支えられるまで、アガペーが行き届いているからだろう。アガペーが福祉などの公共サービスや、NPOの活動という形に変わっていっているからだろう。
人間の本能は非常に強く、犠牲を要求してもそれに激しく抵抗する。自己犠牲とは勇気のいる行為なのである。
自らを抑えてでも、他者を思いやる優しさを、人間の自由を束縛し犠牲を強要するものに転換されることはあってはならない。

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