坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生⑥~ドラゴンボールを考える①

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ドラゴンボール』(以下『DB』)は最初は盗賊や世界征服を企む集団などを敵としていくが、長期化するにつれて物足りなさを感じてきたところで、ピッコロ大魔王が登場する。 

ピッコロは世界の王となった後、「犯罪をするのも自由」とする。 世界征服とは税収を目的とするものであり、税を徴収するには秩序を必要とする。ピッコロの論理は矛盾している。

 同様のことがフリーザについてもいえる。 フリーザは宇宙の帝王だが、バブル時代の地上げ屋のイメージを採り入れたという。

 しかし帝王とは支配する者だが、地上げ屋は土地を売る者である。バランスの問題ともいえるが、ナメック星でのフリーザは住民を追い出す地上げ屋そのもので、支配する気がない。

帝王としてのフリーザとの矛盾が著しいが、それでいてフリーザは、今でも最も存在感のある悪役である。

 つまり、ピッコロの悪役としての矛盾は単純な失敗ではなく、作者の鳥山明

日本型ファンタジーの誕生④~戦後の平和主義的正義観を変えたガンダム - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の善悪感の変化の影響をより強く受けたための矛盾であり、この場合鳥山の才能の高さを示すものである。

 ならば『DB』を語るのも、日本型ファンタジーが誕生する経緯を理解する一助となるだろう。


 『DB』は最初と中盤以降では、かなり違うマンガだという印象を受ける。

 『ONE PIECE』は相応に世界観の統一が保たれているが、連載が進むほどにストーリーが複雑化する。『DB』は世界観の統一はまるでないが、常にシンプルである。このシンプルさが『DB』の特徴で、適当に描いているように見えて、『DB』を世界的なヒット作にした鳥山はストーリー力も高い。


 この『DB』のモチーフとなったのが『西遊記』なのは誰もが知るところである。だからここで『西遊記』と比較してみよう。

 『西遊記』といえば、主人公の孫悟空がオリジナルである。

 しかし今では世界的にも『DB』の孫悟空の方が知名度が高いので、ここではあえて『西遊記』悟空と呼ぼう。 

西遊記』では、如意棒を持ち金斗雲に乗る『西遊記』悟空が縦横無尽に活躍する印象があるが、『西遊記』悟空達が自力で困難を解決することは少なく、大抵は観音菩薩の力で解決する。その場合、敵の妖怪は多くが観音菩薩によって善化される。

西遊記』の旅は苦難に満ちているようで、仏達による箱庭世界のようにも見える。 

一方『DB』は、多くのマンガに共通する特徴ともいえるが、敵だった者が味方になる。そのため一部を除いて、非常に安定した世界観となっている。

 『西遊記』悟空、八戒、三蔵など、キャラクターは、どこを切っても性格が一貫しており、成長がない。

 この点について、中野美代子が『西遊記XYZ』で面白い指摘をしている。第五十五回を境にして、物語がシンメトリー構造になっているというのである。つまりA、B、C…と五十五回まで話が続いた後、五十五回から…C’、B’、A’と、似たような話が逆に配置されているというのである。

 こうして、五十五回を頂点にして、『西遊記』のストーリーは下り坂になる。 また中野は、『西遊記』の成立に道教の関与があることを指摘している。特に『西遊記』悟空は闘戦勝仏となり、観音菩薩を超えて仏になるなど、仏教世界を踏襲しているように見せながらも、仏教世界を解体していることを中野は看破した。

 道教老荘思想も源流にしているが、成立時には現世利益を追究する宗教になった。

 かつて阿満利麿が創唱宗教自然宗教という分類を唱えたが、道教は教義を持たない自然宗教に分類される。

封神演義』でもそうだが、道教の仙人達は仏を自分達より上位と見ているようである。 日本でも同様のことが言える。仏教神道より上位に置かれていた。教義のない宗教は、自分達が教義のある宗教に敵わないと思い、教義のある宗教を上位に置く。 そして教義を骨抜きにすることを企む。日本の仏教は大乗の2乗と言われるのがそれである。

 道教のある中国が『西遊記』を生み、日本が『DB』を生んだ。

 『西遊記』と違い、『DB』は悟空達が成長する物語である。そして敵が善化されて仲間になる物語である。 

敵が仲間になる秘訣は、主人公の悟空にある。 

悟空が戦う場合、最初から優勢に戦い、勝負を決めてしまうパターンがほとんどである。

 対ピッコロ戦や対フリーザ戦のようなガチのバトルもあるが、ガチのバトルはどこか面白くなく感じる。本当は面白くないのではなく、『DB』のイメージに合わないのである。悟空が余裕を持って戦う方が『DB』らしい。

 一方修行では、「素直で真面目」と言われるように手を抜いたりしない。しかしベジータのように倒れ込みながらも、悟空を超えたい一心でフラフラと立ち上がるような屈託が悟空にはない。屈託なく余裕を持って敵を倒すのが孫悟空である。 

西遊記』では悟空が戦い、観音菩薩が決着、敵を善化する。しかし『DB』の悟空は、『西遊記』悟空と観音菩薩を合わせたような存在なのである。『DB』の世界観そのものと言ってもいい。

 『DB』の世界観を支えているのは、孫悟空の圧倒的な強さである。よく頑張って戦う姿を見て敵が善化するマンガがあるが、『DB』はそんなに甘くない。

 もう1つ、『DB』は作品時間が長いのが特徴である。悪党が善化するのに必要な時間が与えられている。 それは悟空達の成長を自然なものにしている。

もっとも途中から強さのインフレとなって、多くのマンガが『DB』を真似するようになるのだが。 ただフリーザのような存在感のある悪は仲間にできない。魔人ブウは倒した後、善人に生まれ変わらせるが、悟空の力で善化できなかったあたりが、悟空一人で世界観を支える限界になっている。


 なお、去年から始まった『DB超』だが、破壊神ビルスの登場により、悟空は世界観の中心から外されている。 

放送開始当初は、ベジータのキャラ崩壊などが話題になっていたが、本当にキャラが崩壊しているのは悟空の方である。

原作では、成人してからの悟空はアホではないが、『DB超』ではニート、格闘バカ、アホキャラぶりが強調されている。 

さらにビルスフリーザに命じて、惑星ベジータを破壊した張本人であり、ビルスの元で嬉々として修行する悟空とベジータは道化となっている。 

だから『DB超』は悟空を主人公の座から降ろすために制作されているもので、ビルスに勝つのは悟空より潜在能力が高く、仕事と家庭を大事にする孫悟飯だろうと思っている。


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