坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

幕末の群像③〜龍馬の大政奉還の真の狙いとは?

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坂本龍馬は土佐郷士として生まれた。
土佐郷士は旧長宗我部氏の遺臣で、長宗我部氏が改易された後に入部した山内家の元では藩政に携わることができなかった。
だから龍馬は脱藩した。龍馬の友人の武市半平太は、あくまで土佐藩を動かしていこうとして土佐勤王党を結成し、参政の吉田東洋を暗殺して藩の実権を握ったが、禁門の変で長州が朝敵になると、藩主の山内容堂は態度を翻し、吉田東洋暗殺の容疑で半平太を切腹させた。土佐勤王党は壊滅した。
一方龍馬は薩長同盟大政奉還を実現し、歴史に大きな足跡を残した。しかし龍馬は維新を見ることなく暗殺された。
幕末に国事に奔走して明治まで生き残っているのは西郷隆盛木戸孝允など、大抵藩官僚である。脱藩浪士は明治まで生き残ったものは少数で、明治以降に大きな業績を挙げたのは陸奥宗光くらいだろう。幕末に歴史を動かせたのは龍馬と中岡慎太郎、清川八郎くらいしかいない。しかも清川の場合、勤王のために浪士を集めながら、幕府に多大な貢献をする新撰組を結成してしまうという失態を犯している。そしてこの三人は非業に死んでいる。
脱藩浪士というのは、大抵は非業に死ぬ運命だった。
このように見れば、龍馬が正しく武市が間違っていたとは簡単に言えないことにわかる。高杉晋作の行動を見るように、藩の力を背景にした場合の動きは大きいし、脱藩よりずっと安全である。(もっとも高杉は何度か脱藩しているが)土佐藩の場合、危険度は藩を動かそうが脱藩しようが変わらなかったということである。

薩長同盟は龍馬が仲介者になったから締結されたと言われている。
同盟の締結書というのはなかった。木戸孝允が龍馬に確認を求めた覚え書があるだけである。
内容は六ヵ条からなるが、それも長州側が「〜の場合、薩摩は〜するか」と尋ねて西郷がイエスと答えたもので、いわば口約束である。薩摩が反故にしようと思えばいくらでもできた。今残っている文書はその時のメモではなく、木戸が後に内容を思い出して龍馬に内容を確認したものである。その時に誰もメモをとっていなかったとしたら、長州側も相当迂闊というしかない。

同盟締結後、龍馬は寺田屋に帰り、そこで幕吏の襲撃を受ける。
龍馬は左手の親指が切り落とされそうになりながらもその場を逃れ、材木置場に隠れた。薩摩藩邸では寺田屋襲撃の方を受けて、西郷が龍馬救出の兵を出す。薩摩藩の手で龍馬は救出され、薩摩藩邸に匿われる。こうして、脱藩浪人にすぎない龍馬の存在感がにわかに大きくなる。
当然だろう。龍馬は恐らく薩長同盟のメモを持っていたのだから。
実は昔何かの本で同盟締結時に長州側でメモをとっていたと書いてあるのを見たことがあるのだが、その本が今はなく、メモを誰がとっていたかも、それが龍馬だったかも覚えていない。しかし木戸が覚え書を龍馬に確認したくらいだから、メモをとった長州藩士はいないと考えるしかない。
たかが脱藩浪人のメモでも、幕府の手に渡ってはならない重要な資料である。だから西郷は軍勢を差し向けても龍馬を救出したのである。
こうして口約束の薩長同盟は真の同盟になった。このように見ると、龍馬は寺田屋でわざと襲撃を受けたのではないかと邪推さえしたくなる。
藩邸で暮らすのを嫌い、寺田屋など商家に止まるのは龍馬の性分としか言いようがない。わざと襲撃を受けたのではないにしても、同盟締結後に幕吏に襲撃されて生き残れば、自分の名声は高まるという考えはあっただろう。龍馬が襲撃を受けて西郷が軍勢を出すとまでは考えてなかったはずである。相当豪胆なのは間違いない。長州側が三好慎蔵を護衛につけていることからも、情報の漏洩により薩摩に同盟に本腰を入れさせるための策というのは十分考えられる。
こうして、龍馬は薩長同盟の真の立役者となった。いや、立役者という虚構となったのである。

龍馬は亀山社中を設立し、交易事業により自立を保とうとした。最初の出資者は薩摩である。
しかし、亀山社中の船はよく沈む。龍馬は勝海舟から神戸海軍操練所で操船技術を習得した。社中の浪士達の多くも龍馬と共に操船を習った。
しかし龍馬の操船技術がどの程度だったかはともかく、社中全体の操船技術は非常に低かったと言わざるを得ない。
薩長同盟後、薩摩は龍馬に船を提供しなくなった。それ以上龍馬に出資する気が元々なかったのか、元々口約束で長州を捨て駒にする気だったのに、龍馬のために本気で長州を援護しなければならなくなったのが不愉快だったのか、恐らく後者だろう。
幕末を通じ、脱藩浪人を藩官僚が表向き浪人に冷淡だったことはないようである。
浪人は鉄砲玉として使えたからである。だから浪人の言説には鄭重に耳を傾けた。
しかしそれでも浪人に藩の意向を変えさせられるのは望むところではなく、西郷としては船がよく沈む亀山社中と共に、龍馬が自滅してくれるのを望んでいたのかもしれない。
龍馬は長州から帆船を貰い、それが沈むと長崎の商人から出資を受け、最終的に仇といっていい土佐藩と手を結び融資を受ける。社中も名を海援隊と改め、土佐藩と対等の関係としての盟約である。龍馬の自由への矜持が感じられる。もっとも頑迷な土佐藩も、郷士の龍馬を対等に扱うメリットはあった。薩長同盟の立役者として、いや虚構として、龍馬の名声はそこまで膨れ上がっていたのである。

そして龍馬は船中八策後藤象二郎に献策する。大政奉還への道ので始まりである。
日本人は龍馬の死によりこの平和路線が閉ざされたのを惜しむ。しかし実際はどうか?
1869年 版籍奉還
1871年 廃藩置県
1872年 学制布告 新橋、横浜間鉄道開業 冨岡製糸場開業
1873年 徴兵令 地租改正
この急激な近代化は中央集権、それも龍馬のいうデモクラシーではなく、有司専制(官僚による独裁)でなければ不可能である。
大政奉還で徳川家の領地をそのまま残し、徳川慶喜を実質的な首相にしてしまっては、近代化は我々が知るようなものではなく、紆余曲折があっただろう。あるいは外国からの植民地化も免れなかったかもしれない。植民地化を免れても、朝鮮半島がロシアに支配されて日本が圧迫を受けた可能性もある。
それでも龍馬が大政奉還への道を走ったのは、革命が実現すれば新政府から海援隊ごと捨てられたからだろう。
岩崎弥太郎海援隊を引き継いで三菱を作ったのは確かだが、龍馬と弥太郎は不仲である。当然だろう。弥太郎は土佐藩からの経営のお目付け役なのである。土佐藩は龍馬の名声を利用したいが、経営の面では全く龍馬を信用していない。経営でコケたら土佐藩はさらに出費をしなければならなくなる。
近藤長次郎は仲間に無断でイギリス留学を企て、留学できずに社中に戻り切腹した。近藤の性格にも問題、というより角があったと思うが、んが、亀山社中海援隊は商才のある者にとって居心地が悪い。
そんな海援隊が明治を迎えても、龍馬は政治の面で活躍の場がなくなり、従って出資者を得ることもできずに破産せざるを得なくなる。だから新政府ができても、薩長と徳川家の間で活躍し、海援隊を半官半民の会社にできるようにしようとしたというのが龍馬の本音だろう。
そんな龍馬にもひとつだけ正しさがある。それは郷士として生まれた龍馬には最初から活躍の場がなく、徒手空拳で自分を土俵にねじ込んでもさらにその後わずかな隙により転落してしまう。
そういう運命を抱えた龍馬には、決して日本のためでなく、自分が活躍できるように日本を改変しようと思ってもいいと考えたことである。それが日本の国際的な不利益、極端に考えれば破滅だったとしても、龍馬に活躍の機会を与えないそれまでの体制の方に問題があったのだから。
まさに龍馬は「土佐にあだたぬ者」だったのである。

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