ディオクレティアヌスはなぜキリスト教を弾圧したのか
303年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスはローマ史上最後にして最大のキリスト教徒への弾圧を行った。
284年に治世をスタートさせてから、ディオクレティアヌスはキリスト教にいかなる関与もしてこなかった。
トラヤヌス帝以来、キリスト教徒弾圧は政府がキリスト教徒を探し出して迫害するのではなかった。
「かの者はキリスト教徒である」という告訴、それも告訴者の記名での告訴があってはじめて政府が動いたのがキリスト教弾圧だった。それが軍人皇帝時代にいわゆる踏み絵方式に変わる。多神教のローマの神々に参拝し、自分がキリスト教徒でないと宣言するのである。
ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧は、この軍人皇帝時代の方式を継承した上で、弾圧の徹底ぶりが違った。教会は土台から破壊し尽くされ、キリスト教徒の集会の禁止、聖書や十字架などの器物の没収、教会資産の没収、そしてキリスト教徒はローマ市民権の剥奪、ローマ法による保護を受ける権利が剥奪された。
キリスト教徒の捜索も、記名の告訴という生優しいものではなく、キリスト教徒らしいという噂だけで逮捕、拷問、処刑された。
この徹底した弾圧の後、ディオクレティアヌスは帝政史上初めて退位した。
ディオクレティアヌスがいかなる理由でキリスト教弾圧に踏み切ったかについて、塩野七生は『ローマ人の物語』において、「なぜこの時期になって、とは、研究者の多くがいだく疑問である」と述べ、ディオクレティアヌスの真意に迫る証拠はないとしながらも、「ローマ伝統の神を信じなくなるということは、ローマ帝国を信頼しなくなることだという危機意識を持ったからだろう」と、3世紀のキリスト教徒の弾圧した皇帝の心情をもってディオクレティアヌスを理解しようとする。
しかし塩野はもうひとつの可能性について、極力目を瞑ろうとしている。それは「ギリシア人やローマ人の神々は人間を助ける神々だが、ユダヤ人やキリスト教徒の神は、人間に命令する神である」と説明し、専制君主制に舵を切ったディオクレティアヌスの権威の強大化にキリスト教の神が適していることは示唆しながらも、特定の条件を満たせば「ギリシア・ローマ的な神々でも絶対権威になりうる」とディオクレティアヌスは考えたとする。すなわち特定の条件とは「それを邪魔している障害さえとり除くことに成功すれば」、つまりキリスト教さえ排除すれば、ギリシア・ローマの神々でも絶対権威となりうるとディオクレティアヌスは考えたのだと、塩野は推測している。しかしディオクレティアヌスが後のコンスタンティヌス同様、キリスト教こそが専制君主としての皇帝の絶対権威となるのではないかと考えた可能性については、この推測過程で排除されてしまったのである。
コンスタンティヌス帝によりキリスト教が公認されてから後、コンスタンティヌス朝、つまりコンスタンティヌスの一族から「背教者」ユリアヌスが登場する。
ユリアヌスはギリシア哲学に深く傾倒し、キリスト教が隆盛の一途を辿るローマ帝国を逆の方向、多神教のローマに戻そうと奮闘する。
ユリアヌスは国費による教会の建造を禁じ、それまで非課税になっていた、教会や聖職者の資産に課税を行った。当然国費による教会資産の寄進も禁止。またキリスト教徒を教師の職から追放した。
ギリシア・ローマ宗教の再興を目指し、放置された神殿を再建し、神殿が所有していた土地も返還した。そしてキリスト教の司祭が専門職であるように、神殿の祭司も専門職とし、劇場や戦車競走、剣闘士試合の観戦も禁じられた。
多神教では「教理が初めから存在しない」、だから「教理を解釈する必要もない」し、キリスト教のような教理を解釈する司祭もいない。多神教に専門の祭司が存在しないのも、「多神教徒であるローマ人の精神に忠実であったまで」で、「ユリアヌスには、ローマ文明がわかっていたのかと疑ってしまう」と、祭司を専門職にしようとしたユリアヌスを非難する。
しかし教理以前に道徳、倫理の問題である。祭司が劇場や戦車競走、剣闘士試合の観戦を禁止されるのは道徳というより禁欲の問題でしかないが、宗教に道徳、倫理をユダヤ教・キリスト教は求めるようになった。そのキリスト教にギリシア・ローマの多神教が対抗するには、多神教にもより一層の道徳、倫理が求められたということである。その道徳、倫理が提示できないなら、多神教は一神教に勝てないと、ユリアヌス自身が思っていたからそのようにしたのであって、それが多神教徒のローマ人の精神に忠実であればキリスト教に対抗できたのではないことに、この時代の特徴があったのである。
212年、カラカラ帝は全属州民をローマ市民に昇格させた。
この一事が、ローマ衰退の決定的な一打となったのは疑いの余地がない。それまで属州なら属州民、ローマ市民権所有者。本国イタリアなら奴隷、解放奴隷、ローマ市民、騎士階級、元老院階級という階層があり、この階層は流動的で、人はこの階層を上下できた。しかし属州民がローマ市民となったことで、人々はローマ市民権を得るのに努力しなくなった。しかも奴隷以外皆ローマ市民になっても、階層は自然発生的にできあがる。しかも今度は下層市民と上層市民の間に、階層の流動性はなくなってしまう。
また、属州民がローマ市民権を持ったことで、属州税が入らなくなる。属州税は所得の10%だったが、この属州税が全廃となり、ローマでは税収に乏しくなると臨時の税を徴収し、しかも臨時税が恒常化する。それまで安く公平で、透明性の高い税制が、不安定で不公正で不透明な税制に変化することになる。カラカラ帝の決定が、ローマに大ダメージをもたらしたのは間違いない。
しかしカラカラ帝でなくても、全ての属州民にローマ市民権を与えることは、カラカラ同様に政治的見識の低い皇帝が現れた時に実施された、しかも時代を下るほどに実施された可能性が高いと思う。
古代ローマの基本的な人間関係に、パトローネスとクリエンテスの関係がある。パトローネスがパトロンの語源で、クリエンテスがクライアントの語源である。
親分子分、保護者と被保護者の関係が、ローマ社会に網の目のように張り巡らせられているのが古代ローマ社会である。
五賢帝の1人のハドリアヌスが人に呼び止められた時に、「今は時間がない」と通り過ぎようとしたところ、「ならあなたに統治する資格はない」と言われ、ハドリアヌスは戻って話を聞いたという。
確かにハドリアヌスは話を聞いたのだろうが、この時のハドリアヌスの相手はクリエンテス以外の者だったろうか?ローマの政治家はノーメンクラトゥーラという、クリエンテスの顔を記憶した秘書を連れて歩いていた。
だからハドリアヌスの相手もクリエンテスの可能性が高い。もっともローマ皇帝は、最も多くクリエンテスを持つパトローネスである。
パトローネスとクリエンテスの関係は、程度の低いものなら世界中にある。しかしパトローネスとクリエンテスの関係が重要なのは、これがなければローマ社会で生きていくのが難しいくらい重要な関係であった。例えば西洋の法律の起源となったローマ法よりも、パトローネスとクリエンテスの関係が重視されるからである。
ローマ市民権所有者は、裁判の結果に不服な場合は再審を請求できる。
単純に見れば二審制だが、現在の三審制と同じ感覚で見ると本質を見逃してしまう。
裁判においては、パトローネス、クリエンテス関係の有無が重要視され、パトローネスを持たない者の権利は無視される。
しかし裁判にも「手違い」はある。パトローネス、クリエンテス関係を持つ者が裁判で「不当に」扱われることもある。またふたつ以上のパトローネス、クリエンテス関係の利害が衝突することもある。そのような場合に、諸勢力の利害を調節し、また「不当に」扱われたクリエンテスを救済する手段として二審制になっている。
現代社会は人間関係の有無で法の適用が変化したりはしない。だから単純な二審制と判断してはいけないのである。
そして古代ローマにおいて、パトローネス、クリエンテス関係を持たない集団とはキリスト教団であったのである。
「キリスト教徒狩りのような、罪ある者とはいえその彼らを、強いて追い求めるような行為はしてはならない」としたトラヤヌス帝の中途半端な態度を、塩野七生は「個人的には何を信じようと自由だが、多民族国家であるローマを精神的に統合している『われわれの神々』を祭るときにはそれに参加すること、であったと言ってよい」、「しかし、法律とは、言ってみれば歯車である。ゆえにその少々チャランポランな適用は、多くの歯車が同時に動きつづけるのを助ける潤滑油である」と見た。しかし今、私はこの塩野の見解が半分も当たっていないと思う。この塩野の後者の見解に近いニュアンスを持ちながら、違う感情をローマ人はキリスト教徒に対し持っていた。その感情によるものが、キリスト教徒への中途半端さの半分以上を占める。
ローマ人は、できればキリスト教徒について見ないふり、知らないふりをしていたかったのである。聖パウロのように、ローマ市民権のある無しによらず、ローマ法の適用、保護がない人々が存在するという現実に蓋をしていたかった。
このような問題は、民族の興隆期には問題にならない。成長する経済、拡張する領土に目を向けていれば、蓋をした問題を顧みることもない。
安定成長期になって、多少顧みるようになる。
もう領土は広がらない。しかし既に広大な領土に、ローマ街道、水道と整備されたインフラがあり、経済的にはまだまだ発展の目がある。しかし人は、上だけ見て生きるのではなくなってくる。
文明が成熟してくると、それまで考えなかったことを考えるようになる。個人主義的な生き方も出てくるようになる。全体的なライフスタイルの変化が、それまでの生き方に対する反省を促すようになる。
衰退期になると、「成果」によって正しさを実感できないようになる。それでいて文明の高さと、全体的な知性の高さは維持されている。そのことは道徳によって自分の人生の正しさを実感しようという動機になり、キリスト教のような宗教が発展する下地になる。
カラカラ帝の、全属州民にローマ市民権を与える施策は、人々がより道徳的に生きようとする端緒である。だからこの流れに、キリスト教公認後の「背教者」ユリアヌスも逆らえなかった。
カラカラに政治的見識は乏しい。しかしカラカラも当時のローマ人であり、単に浮ついた考えではなく、真剣な思いがあってしたことである。
しかしカラカラも含め、当時のローマ人にはまだまだ本質と向き合う力というものは足りていなかった。
フランス革命が起こった時に、イギリス人のエドマンド・バークは『フランス革命についての詳察』で王政を擁護し、保守主義を打ち立てた。しかしカラカラが全属州民にローマ市民権を与えた時、カシウス・ディオは「税収を増やすのが狙いだった」と、本質から外れた議論をするのが、保守主義者のせいぜいの反論だった。そして問題がパトローネス、クリエンテスの関係にある以上、帝国内の人民全てをローマ市民権所有者にしても、問題は解決しなかったのである。
セウェルス朝最後の皇帝アレクサンデル・セウェルスの時に、皇帝と元老院にあった司法上の最終決定権が、各属州の総督に移譲された。こうしてローマ市民は控訴権を失い、二審制は一審制になった。
軍人皇帝時代にキリスト教徒への弾圧が強まるが、相次ぐ蛮族の侵入により、帝国はキリスト教弾圧に充分に注力する余裕もなかった。そしてローマ帝国は、ディオクレティアヌスの治世を迎える。
ディオクレティアヌスは、キリスト教が皇帝の権威の強化につながることをわかっていた。だから治世の最後まで、キリスト教を公認するか弾圧するか、自分の中で計りにかけていた。
ディオクレティアヌスは価格統制を実施し、市場経済は破壊された。職業の世襲化により、製品やサービスの質は極度に低下した。
パトローネス、クリエンテス関係では、朝、パトローネスはクリエンテスに会って陳情を聞くことから始まる。
クリエンテスはパトローネスにいつでも会うことができたが、ディオクレティアヌスは謁見者を近臣に選別させ、パトローネス、クリエンテス関係を解消して専制君主制に移行した。
ディオクレティアヌスが自分の率いる軍と、官僚との間に、新たにパトローネス、クリエンテス関係を築いたといえないこともない。しかしこのような関係は、古今東西を問わず権力に付随する関係であり、古代ローマのパトローネス、クリエンテス関係と同列に論ずることはできない。ディオクレティアヌスのクリエンテスはほとんど見捨てられた。
そのうえで、ディオクレティアヌスはキリスト教と多神教徒としての自分の生き方を計りにかけて、多神教徒としてキリスト教の最後の弾圧に踏み切ったのである。
ディオクレティアヌスの死後2年で、ミラノ勅令によりキリスト教は公認された。
古代史、神話中心のブログhttp://sakamotoakiraf.hateblo.jp/もよろしくお願いします。