坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本の二元論

ユーラシア大陸中央アジアより西の地域では、多神教→二元論→一神教という流れで推移している。
多神教の目的は人間を不条理に従わせることにある。不条理に従わせるのが目的だから、道徳は原則説かれない。
世の中は道徳で動いているのではない。不条理によって動いており、不条理こそが真理だと、多神教は人々に教えている。その代り、不条理に翻弄される人々に「完成された人間」になる道を示す。
多神教は、都市国家からバビロニアやエジプトなどの地域国家の範囲に留まる限り存続する。

国家が地域の範囲を超えて、複数の地域を包摂する世界帝国が誕生すると、多神教から二元論に移行する。
二元論でも神は複数おり、二元論も多神教だと言えばその通りだが、二元論の特徴は世界を善と悪に分けることにある。世界で最初の二元論は、世界最初の世界帝国を築いたアッシリアの後に世界帝国となったアケメネス朝ペルシアで興ったゾロアスター教である。

古代ローマも最初は多神教だったが、地中海の覇権を握る世界帝国となり、それが崩壊していく3世紀には、マニ教などの二元論が台頭するようになった。
しかしそれがキリスト教にとって変わられるのは、「完全な善」は理念的には成立しても、現実的にはあり得ないからである。だから

定言命法に達しなかった日本人 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、「完全な善」を実施しようとするなら、人間は定言命法を実践しなければならなくなるからである。それはほとんどの人間にとって不可能である。
二元論を維持するためには、道徳的善と合理的な正しさを不可分にする必要がある。
そしてここに二元論の落とし穴がある。合理的な正しさをもって善と主張し続けるには、結果を出し続けなければならないのである。
3世紀の古代ローマの軍人皇帝時代、ローマ人は蛮族に侵略される中で、皇帝に結果を出すことを求め、結果が出ないと皇帝を殺害して新しい皇帝を立てることを繰り返した。しかしローマの衰退は避けられることではなかったため、何度取り替えられても、皇帝達は結果を出すことができなかった。
古代ローマキリスト教に移行したのはここに原因がある。
一神教では、モーゼの十戒に見るように道徳を定言命法的なものとし、神でさえ完全に道徳的に振る舞うことはできないとした。そのことを表すのが『ヨブ記』である。
「わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。」
と神が不幸に見舞われたヨブに問うのは、神でさえ悪を成すことを表したものである。

日本では、二元論は藤原摂関政治に始まり、朝幕併存体制として江戸時代まで続いた。
日本では権威と権力が分離しているとよく言われるが、天皇制に限り、権威と権力の分離と合わせて二元論で歴史を見る必要がある。
日本の二元論には2つの特徴がある。そのひとつは長い時代に渡って、日本人が二元論に無自覚であることである。
南北朝時代には南朝を正統とする『神皇正統記』が書かれた時代だが、同じ時代に「天皇は木と金で作ればいい」と言う者も現れたりする。そしてこのことが、もう1つの特徴との関連を示す。
江戸時代になると、朝廷を善とし幕府を悪とする尊王攘夷論が生まれる。泰平の時代になると、二元論が明確に打ち出されるのである。
戦乱の時代には現実主義で人々は動く。南北朝時代にこそ、王朝が分裂するという異常事態のため『神皇正統記』が書かれたが、多くの人は現実的に社会を捉えていた。
それが江戸時代には南朝が正統とされ、楠木正成は大忠臣となり、足利尊氏は逆賊となる。
以上のことは水戸学という学問で説かれている。徳川御三家水戸藩が生んだ学問である。井沢元彦は「水戸家が朝廷側に付くように家康に遺言されていた」と『逆説の日本史』で主張するが、私は井沢氏の説を面白いと思いながらも反対する。水戸藩は日本人的な思考により水戸学を作り出したのである。

明治から敗戦までは、日本は二元論ではない。天皇制による一元的な社会である。
敗戦後、平和憲法により日本は二元論に戻った。つまり護憲を善、改憲を悪とする二元構造である。
朝幕併存体制以来の二元体制が平和憲法により復活したのである。
これで、日本の二元論のもうひとつの特徴がわかる。二元の二元論の善とは体制であり、しかも基本実現不可能な体制である。そして現実的な社会を悪とする。
定言命法も基本的に実現不可能だが、定言命法は人間の規範である。しかし日本の二元論は規範を作らない。
もっとも二元論の良さは、歴史を一貫したものとして見れることにある。その歴史が正しいかどうかは別にして。
何度も述べたように、右翼が自主憲法を主張するのは、護憲の70年の歴史を無かったことにするためである。右翼の歴史観はしばしばアクロバティックだが、その理由は二元論から一元論に転じたことにより、日本社会内に悪を作ることができず、結果一切を無謬にしようという強い衝動が生まれるからである。
結局我々は、規範を作る以外の道はない。

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