坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ハイデガーとキリストと夜神ライトと

私は哲学を学んだことがない。
だからハイデガーの『存在と時間』と時間について、哲学的に考えて論じることはできない。
もっとも思想自体は新書で学んだ。もっとも解釈が別れるケースもあるようだが、ここでは一般的な解釈で語ろう。
つまり、人間は生まれてきた場所について、その場所にいることに意味があるという解釈である。
だから国家や共同体に貢献することが、人間の人生を有意義にするというものである。これに対し、「国家や共同体に貢献しても、国家や共同体が個人に充分に報いてくれるとは限らないし、その環境が個人が力量を発揮するのに適しているとも限らない。だから努力に報いてくれて、力量を発揮するのに適した場所に身を置く方がいいのではないか」という反論が出てくる。
この反論を認めれば、人間がひとつの場所に留まる理由が無くなり、自分の利益になる場所に移動していいことになり、『存在と時間』の意味が無くなる。だから多くの人が、その場所に留まることに無形の意味があると説いてきたが、それが成功してきたとは言えない。
この問題に答えを与えてくれるのがキリストである。

当たり前のことだが、恐らく前提になっていないことを述べよう。
それはキリストがユダヤ人であり、キリスト自身には新宗教を創始したつもりはないということである。キリストはユダヤ教の一派として教えを説いたのである。
そしてその教えは、当時のユダヤ社会の問題を背景にしている。
当時のユダヤ人はローマ帝国に支配されていた。
ユダヤ教は、神の教えを守れば聖地カナンに国を持つことができると説く宗教である。
逆に言えば、国を失うのは神の教えを守らなかったからであり、それだけにユダヤ人は神の教えを守り、守った証しとしての独立を求めてきた。
その想いはアッシリア新バビロニアなどに支配される度に強化されてきた。
そしてローマに支配された当時のユダヤ人も、当然のごとく密かに独立を期した。しかしローマはアッシリア新バビロニアよりさらに強大であり、客観的に見ても、独立はほとんど絶望的だった。
独立できないことは、ユダヤ人にとっては耐えられなかった。多民族に支配されるのは神の教えに背いたからで、ユダヤ人は神からの罰が恐ろしかった。

民族の独立は重要であり、多民族の支配を受け入れるように説くのは、本来慎重を要することである。
しかし独立が不可能な場合、支配者がその支配を受け入れるに足る対象かは、時に独立より重要である。チャーチルが「イギリスの歴史はカエサルドーバー海峡を渡った時に始まる」と述べたように、支配を受けることさえ、その民族のアイデンティティになることがある。
キリストは、ローマに支配を受け入れるに足る対象と見なしたのである。
だからキリストは愛を説いた。我々の神は人を罰する神ではないんだ。ローマの支配を受け入れても、神は我々を愛してくれるのだと。
普遍性は、特殊性を無視することではない。
カエサルのものはカエサルに」という政教分離の言葉はもちろん、「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」という言葉にも、この時代の特殊性を考えるべきだろう。犠牲の精神は普遍性に繋がるが、実際には有害な場合の方が多い。頑なに独立を求める人々をたしなめるために、強い言葉を使ったと考えた方がしっくりとする。
「神よ、なぜあなたは私を見捨て給うたか」
という、磔刑に処せられたキリストの言葉を、覚悟の足りなさ示すものとも思わない。
覚悟が人を泰然と死に赴かせるというのを、私は半分しか信じていない。キリストは最後の瞬間まで希望を持っていたのであり、希望による情熱を苦痛が上回った時に、心が折れたのである。だからこの言葉はキリストの生命力の表れであり、何よりキリストが自分のために生きていた証拠である。

キリストによってユダヤ人が変わったかと言えば、ほとんど変わらなかった。
キリストの死後、ユダヤ人は反乱を起こし、ローマの手でエルサレムの大神殿は破壊され、ユダヤ人はディアスポラの歴史を送る。
約2000年の後に、ユダヤ人は聖地カナンに帰り、再び国を起こし、周辺国と戦い、パレスチナ人を弾圧、虐殺している。キリストは共に生きたかった人々に対し、今なお敗北者のままである。

キリストの教えはユダヤ人の小数派で終わるか、消滅するはずだった。
しかし、そこにパウロが現れた。
パウロギリシャ人で、ギリシャ人としてキリストの教えを理解した。パウロによって、キリストの教えは世界宗教になった。

ハイデガーの思想は、今自分のいる場所が自分に利益を与えることを述べたのではない。
利益、不利益に関わらず、その場所に留まることで生まれるエネルギーの大きさを述べたのである。
『Death note』の夜神ライトが、その優れた頭脳のわりに厨二なままなのは、ライトがデスノートにより、世界に直結したからである。世界中がライトの居場所だったのである。
「その場所が利益をもたらす」と説くのは、むしろ不適切である。神に聖地カナンを約束されたユダヤ人こそが、ディアスポラの民だったのだから。


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