坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

困っていて、見捨てられようとしている人を助けよう

日本は宝の山 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で「爆弾」作戦を実行したことと世界に派遣の権利を認めない日本企業を格付けするように呼びかけた。
日本人の大半が、この国では多くの不正が行われている、それも汚職などではなく、あからさまな実害のある不正が恣意的に見逃され、報道されることなく、政治家だけでなく弁護士や裁判官まで不正に加担している実態に人々は気づき始めている。
気づいてはいるが、人の動きは鈍い。
メディアで取り上げられるのは汚職やセクハラなどの従来の不正ばかりで、今まで注目されなかった分野での不正を糾弾する大きな動きは起こっていない。

少々気になる動きがある。

毛利元就 - Wikipedia

元就が大飛躍を遂げた厳島の戦いについての記述が少なくなっている。二年前くらいには厳島の戦いについて通説に対する異説も書かれていたのだが、それが削除されている。
リンク先の厳島の戦いには異説が記載されている。

厳島の戦い - Wikipedia

簡単に言えば、通説は元就が陶晴賢を謀略で厳島に誘き寄せて奇襲をかけたというものだが、異説は元就は戦っておらず、陶と村上水軍の戦いだったというのである。
吉田郡山城の戦いも尼子軍30000に毛利軍3000というのが通説だったが、そんなに兵力差はなかったという異説が削除されている。

吉田郡山城の戦い - Wikipedia

弘治元年(1555年)、これにまたもや激怒した陶晴賢は今度は自身が大軍を率いて山口を出発した。交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。

 

先の毛利元就のサイトの厳島の戦いについての記述だが、奥歯に物が挟まったような書き方である。この後に(厳島の戦い)と書かれていなければならないのにそうなっていない。この文の前は厳島の戦いの経緯が書いてあるが尼子との対応も記述されていて、うっかりするとどこに厳島の戦いの記述があるのか見落としそうである。
厳島の戦いで元就が戦っていなくても、元就が名将なのは間違いない。しかし批判的な見方をする思考が身に付かないようにしようという意図がここに働いている。

児童虐待件数は年々増え続けている。
児童虐待に対する批判は相変わらず高いが、注意しなければならないのは、児童虐待が大人の不正を見抜かない子供を育てるのをひとつの目的として行われていることである。
一方、それを批判する人は様々な不正を隠蔽、またはそれに加担し、さらにそんな自分を正しいと思うためにしていることである。つまり自分が正しく生きていると思えなくなったら、不正を隠蔽する方に傾いて児童虐待を許容、または自らも虐待に手を染めるようになっていく。
それだけではない。コロナで海外に出ることも少なくなり、海外に留学、または赴任した人が、派遣の権利をメディアが報じない、国民のほとんど全てが語らないこと踏みにじっているという現実を世界中が知ってしまった今、海外に住んでいる者は肩身の狭い思いをするようになり、子供の海外留学を望まない親が将来出てくるようになる。
その時に海外の大学より日本の大学を持ち上げる気運が生じ、そのために受験勉強に親は子供を縛りつけるようになる。いじめは見て見ぬふりをするようになり、不登校は非難される。
不登校が非難されるならフリースクールや通信教育を受ければいいのだが、そのような者を差別しようとする動きが今度は生まれてくる。この流れはMMT論の高まりとほぼ連動する。内向きの志向になるほどそのようになる。

派遣の権利を踏みにじりながら児童虐待を非難したりする行動を全く無意味だとは思っていない。少なくとも現状は相当に維持される。
しかし「相当に維持される」だけで発展は見込めず、むしろ徐々に衰退していくのは、自ら作った壁を自らの運動の発展のために壊して横に繋がろうとしないからである。
リベラルは不正とヒエラルキー社会の隠蔽のための思想ではなくそれを壊すためのものである。不正を全ての人が見逃す社会などリベラルな社会ではない。
またリベラルは自由主義経済とより強く連動し、社会民主主義は若干遠く、国家社会主義、国家資本主義は最も遠い。
社会民主主義がリベラルと連動する場合、それは「公正」でリンクできた特である。いじめが絶対に悪いと言う場合、それは「公正」の概念に基づいている。いじめがある場合とない場合では学問の成績や仕事の評価が変わってくるのは十分あり得ることで、だからいじめは絶対悪とされる。
クォーター制も女性の社会進出が遅れるのは女性が十分に評価されないから、まずは平等性を高めることで女性が公正な評価を受けるようにするという面があり、「公正」は社会民主主義ともリベラルともリンクしやすい。「公正」の概念がないネオリベラリズムは、しばしば保守反動の隠れ蓑として機能する。ネオリベラリズムで正当化できないとMMTなどの非競争へと反転する。「公正」がない競争は本当の競争ではない。
保守反動には本当は競争する気がなく、競争する意志のないリベラルは成立しない。私自身は社会民主主義的な平等社会は悪くないと思っているが、先に平等を優先すると紙幣が紙切れになるまでMMTに依存する羽目になる。
リベラルと自由主義経済が「競争」と「公正」で繋がり、「公正」に扱われていない全ての人と結びつこうとしない限り、MMT、内向き志向、終身雇用、ヒエラルキー社会固定化の流れは止まらない。

みんな困っている人がいたら助けなきゃダメだ。人目が気になるなら人目につかないところででも。
自分が救われない人間だと思っている者は少ない。一時的に助けても助けきれずに見捨てなければならない羽目になった場合、その人はかつて助けた人を非難するかもしれない。
そのような経験を繰り返して、助けるべき人を助ける自分を育て、そういう人が増えていかないと、人は横に繋がれない。

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