吉田松陰は杉百合之助の次男として生まれ、叔父の吉田大助の養子となった。
吉田家は山鹿流兵学の家で、養父の元助が松陰が幼いうちに死んだので、元助の弟子達が松陰に山鹿流兵学を教えることになった。その一人が同じく松陰の叔父の玉木文之進だった。
文之進だった教育は凄まじい。
屋外で文之進が農作業をしながら、松陰が田んぼのあぜ道で素読をするのだが、ちょっとしたことですぐ松陰を殴った。ある時は夏の暑さで蝿が頬について、松陰が頬を搔いただけで文之進は松陰を死ぬほど殴りつけた。この調子で、文之進は後に乃木希典を教育することになる。
かといって文之進は異常者などではなく、後に民政家として貧しい人々のために尽くすという一面もあった。
成人した松陰に対し、文之進は暴力を振るうようなことはしていない。
世の中には、ある特定の条件を持った人だけに極端に横暴にふるまう人間が存在する。
松陰は文之進に対し、生涯恨みがましいことは言っていない。師としてずっと尊敬していたようである。
後に有名になる松下村塾も、文之進が開いた塾の名前である。
確実なことは、幼少の松陰に最も大きな影響を与えたのは玉木文之進だということである。
しかし、松下村塾での松陰の教育は文之進のようではない。
弟子に対し優しく、常に人の長所を見るというやり方で松陰は一貫していた。
また「福堂論」というのも唱えた。囚人に読書や習字、諸芸を学ばせる教育刑で、刑期は全て3年とし、獄中は囚人の自治に任せる。
冨永有隣という、人の悪口ばかり言う嫌われ者がいたが、松陰は野山獄で冨永に習字を習い、松下村塾を開いた時も冨永を教授として迎えたりした。
松陰は、自分の中で文之進を批判しているのに生涯気づかないようだった。
松陰は友人との旅行に藩の手続きが不十分なまま同行するという形で脱藩し、家禄を召し上げられた。
ついでペリーの黒船が来ると、長崎にロシアのプチャーチンがきているというのでロシアに密航しようとして果たせず、それならばとペリーのアメリカ艦隊に乗ってアメリカに渡ろうとしたがやはり果たせなかった。
伝馬町の牢屋敷に投獄され、ついで萩の野山獄に投獄された。
安政の大獄の時に、梅田雲浜という、幕政を批判したことで捕縛された攘夷論者に会ったという些細な理由で処刑された。享年29。
松陰の思想の核となるのが「狂」であった。
人間は自分の殻を破る時、その精神の根元から破壊しなければいけない。
脱藩したり、ロシアやアメリカに渡ろうとしたのも、松陰が自分の殻を破ろうと思ってしたことである。その殻を破る行為が「狂」である。
「地下よりナポレオンを起こしてフレーヘードを唱えん」
と松陰は述べた。「狂」が精神の自由に繋がることに、松陰は気づいていたのである。
松陰は温雅で、本人は江戸時代の教養文化の中にそのままいるようである。その松陰が行動するとなると、不器用この上ない。アメリカに密航しようとした時は、櫓杭のない小舟に翻弄され、やっと黒船に辿り着いてもペリーに拒絶されたりしている。
松陰の「狂」の思想を、高杉晋作が戦略的に実践することによって、長州は革命をなし遂げた。
身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちるとも
松陰の辞世の句である。
死ぬ時までに、松陰は自分の中の文之進を打ち破ることができただろうか。
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