坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

承認を求めるな!

世の中承認承認と言っているが、承認を求めるのが一番良くないのである。

むしろ非承認こそが自分を作る。世界を見るがいい。一体どの国どの民族が承認など求めているというのだ?

ディベートなどを見るように、世界では徹底的に議論をする。

議論が徹底的だということは徹底的に相手を非承認するということで、承認などという甘い構造の中にはいない。

承認とは、「あなたは正しく生きている」ということである。迷惑系Youtuberのように、正しいことをして人に認められることができなくて、逆に人に迷惑をかけることで注目を集める承認欲求もある。しかし基本は「あなたは正しく生きている」というのが承認である。

しかし、一体誰が正しく生きているというのだ?

人に迷惑をかけない、傷つけない。嘘をつかない。そんな生き方を誰がどれだけできているというのだろう?

外国を旅行する時は、よく「スリに気をつけろ」と言われる。

なぜ外国でスリが多いか?良くも悪くも、海外の人は自分の判断で行動できるからだ。

日本はどうか?私は時々鍵をかけ忘れて家を出ても全然平気である。治安が悪くなど全然なっていない。しかしそれは、日本人がどこまでいっても、一人では何もできないからだ。

去年の統一教会騒ぎを見ればいい。あの騒ぎのどこが正しかったか?

宗教の問題など本気で解決する気などないのに、統一教会の問題で騒ぎ出すとみんながその尻馬に乗る。それで自分が「正しく生きている」と思うためだけに。

コロナ騒ぎもようやく収まったが、ここまでくるのに3年かかった。しかし店舗に客としてマスクをせずに入るのが認められただけだ。医療機関ではまだ全員がマスク着用を義務付けられ、店舗の入る客は、もう義務がないのにまだマスクを着用している。

コロナ騒ぎで、海外では「絶対にマスクをしない」という人がいた。私も「それはやり過ぎだろう」と思うことが多かった。コロナの死者は海外の方が圧倒的に多かったのである。

しかし今になって、そういう人がいることの重要さがわかる。日本に「絶対にマスクをしない」という人がいれば、コロナ騒ぎはもっと早く収まっただろうし、今でもマスクをしている人もずっと少なかっただろう。

信念を貫く人は時に命がけである。そして自分で決断をすることを重ねていくと、機会を見て、瞬間的に判断することが可能になる。だから海外でスリなども起こるわけだ。

日本人はほとんどそういう訓練ができていない。右見て左見て、みんなと仲良くGO!一人になると何もできない。それが日本人である。

大波に乗ってみんなと仲良くなって、ちょっと個性を発揮できるようになったと思ったら、また次の大波が来て右見て左見て。いつまで経っても発揮できる個性はほんのちょっと。だからいつまで経っても、日本でやりたいことができるのは少しだけ。

 

相手を認めないということではない。

悪いことをした者にも優しくしてあげる。相手の存在を認める。

それで人は一人じゃない、孤立してない、つながりがあると感じ、人によっては更生への道となる。

しかし「あなたは正しく生きている」という承認は違う。

その人に間違った部分があっても、「あなたは正しく生きている」と承認してしまえば、その人の間違いは修正されず、反省を促されることもなく、間違えたままで人生を送ることになる。

間違えたままでいることよりも、その人の本当にやりたいことが見つからなくなることがより大きな問題である。

間違いをそのままにすると、間違いを認めないための行動を積み重ねていくことになる。そして自分の間違いに直面しないことがその人の行動原理になる。

その行動原理で四六時中行動することによって、その人が興味関心を持つ機会やその人の持っている素質が埋もれてしまうのである。

人間は最初に存在を認められなければならない。誰かと繋がっていると感じられなければならない。

しかしその人の本当に興味があること、その人の本当の能力が開花するのは、しばしば非承認によってである。非承認とそれへの抵抗が、その人の本当にやりたいことを発見させたりする。また非承認は、単に承認のオンパレードよりもさらにその人の才能を大きく花開かせることになったりもする。

人間は皆平等である。どんな人にだって可能性がある。

「そんなこと言っても、全ての人が能力が開花する訳じゃないじゃないか」

その通りである。しかし誰の能力がいつ開花するかは誰にもわからない。逆に言えば、誰の能力が絶対に開花しないかなど誰にも決められない。

パラダイムというものがある。才能の評価はパラダイムの変化によっても変わる。アレクサンダー大王が騎兵による包囲殲滅戦術により、それまでの戦争観を一変させたように、パラダイムが変われば、能力評価も変わる。そしてパラダイムシフトの激しい社会は、人間の能力が認められやすい社会である。

能力主義というのはその時の評価に過ぎず、人間の評価は永遠に勝負がつかないのである。だから確実に認められるのは、その人の存在だけである。人間の存在を認められるのが本当の平等である。

「そんなこと言っても、死ぬまでに評価されなければ意味ないじゃん」

と言うか?『白鯨』のメルヴィルはどうだ?死んでから認められたじゃないか?

私も若い頃は、死ぬまでに認められたいと思っていた。しかし齢をとっても認められなくて、自分の可能性がどんどん消えていくのが自分でわかって、それで認められたいという思いが消えていった。人に認められるより、どれだけ自分のやりたいことをやれるかに人生の価値基準をシフトしていった。

承認による社会構造は、承認された者と承認されてない者に世の中をただ分けて、多くの人の可能性を切り捨てていくだけである。

 

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