坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

我が青春のディベート

私の思考パターンは、大学時代の弁論部でのディベートが基礎になっている。
ディベートは今では小学生でもやっているもので、もう珍しくはなくなっているのかもしれない。
しかし、私が受けたディベートは、結構論理に厳密な方である。

大学1年の、初心者の私がディベートをすると、
「メリット◼️とメリット▲は同じですね?」
と言われて、どんどんメリットがまとめられていって負けてしまう。
それで最初の頃はディベートが嫌いだった。
ところが、後になってわかったことだが、(それも4年生以降)、私がが大学に入る直前までにやっていたディベートは、かなり異質なディベートだったらしい。
そのディベートを、ストック・イシュー・パラダイムという。
やり方は、練習試合では否定側は肯定側の論点を完全に潰さなければ敗北となる。そのため否定側の勝率が7割と言われている。
このようなパラダイムになっているのは刑事裁判をモデルとしているからで、PDFで調べたところ、かなり古いパラダイムとのこと。
否定側は肯定側の論点を全部潰さなければならないから、質疑応答で誘導尋問のテクニックに磨きをかけて、肯定側を罠に落とし込む。
だから詭弁家ばかりになって、議論が混乱して収拾がつかないから、弁論部らしく政策問題で議論するポリシー・メイキング・パラダイムに変えたという。

私が大学に入って1年経つと、メリットをまとめにかかるような質疑応答をする人はいなくなった。
ディベートのルールは、東大の弁論部が作った。
東大弁論部が英語ディベートサークルのルールを翻訳したのだが、そんなに多くのルールがある訳ではない。A3用紙1枚に収まる程度である。
しかし、この用紙1枚に収まる程度のルールに則って、ディベートをするのが難しい。
大学2年までは、自分がわかっていないことがわかっていなかった。

私の恥ずかしい話③ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


で述べたように、3年になって全然ついていけなくなった。ディベート委員会の会議を黙って聞きながら、自分に足りてないものを模索する日々。
タブララーサという概念がある。白紙ということだ。何が正しく何が間違っているかは、ディベートを行う肯定側と否定側の論者二人の議論のみで判断するのであり、審判が論争の内容とディベートのルール以外を判断材料にしてはいけない。
当たり前の話のようである。
しかし対戦相手の反論が的外れでも、主張者が的外れだと指摘しなければその論点は潰れる。
ディベートのジャッジをしながら、そのことがわかっていなかった。
とにかく地獄のような3年生を過ぎて、4年で就職活動からの現実逃避で大学の会活動に顔を出し、ディベート委員会で学んだことを実践した。
ある時、
「『~という理由でこのメリットは極小です』と言うべきところを『このメリットは潰れます』と主張した場合、『その反論は的外れです』と切り返されたら相手の主張が通る」
と後輩達に教えていたら、
「いやそれは」
と後輩達に抵抗された。「そこまで厳密にやりたくない」ということである。
私は考えた。「このメリットは極小です」を「このメリットは潰れます」と言ってしまうと負ける。そんなに難しいことではない。難しくないから、後輩達も抵抗したのだと思う。真面目な後輩達だったから、手抜きをしたかった訳ではないだろう。
そこまで厳密にやるくらいなら、もっと自分の言いたいことが伝わる相手と、細かいことを気にせずに自由に語り合いたい。その気持ちもわかる。
しかし私は、後輩達に無理強いはしなかったが、自分だけは厳密に論理分解して考え、話し、行動してみようと。ここから、「AとA'がどんなに似ているように見えても、違うものなら違うと厳密に区分けする」という信条を持つようになった。
これは信条であり、単に自分に論理思考を課しただけではない。
なぜなら、人は他人と同調したい生き物なのである。自分の主張、自分の嗜好、自分の求めているものに限りなく近いように見えて、やっぱり違うことを言っている人というのはいる。
人と同調できないと、猛烈に寂しくなる。だから違うことを言っている人でも同調したくなるが、同調するとやっぱり違う主張だとわかる。自分の求めていることと違うとわかる。やっぱり相手は自分と違う人間だとわかる。
人間が議論をしたり、自分の行動を決めるのに、大した論理力は必要ない。議論の強さを鼻にかけても、ディベートでも議論でも、三段論法もやって逆・裏・対偶もまず使わない。
逆・裏・対偶を勉強するとうんうんと頭が痛くなる私でも使いこなせる程度の論理力しか使わないのがディベートである。それでもその程度の論理力を単に使いこなすのではなく、自分の主張や行動を律する、そのために有効なのだと、大学を卒業して何年もして気づいた。そして少なくとも、自分らしく生きることはできるようになるということも。

 

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