坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「表現の不自由展・その後」で示すべきだった「行政の寛容」とは?

長らく放置していた「表現の不自由展・その後」について。
まず、根本的な間違いがひとつある。それは「行政の中立性」を維持するのは政治家や行政官僚であって、キュレーターに過ぎない津田大介氏に「行政の中立性」についての責任はないということである。
この点に私は最初から気付いていたが、維新支持者ということでダブルスタンダードを使わせて頂いた。
左派の敗因のひとつは、津田氏に「行政の中立性」についての責任はない点について、十分に擁護しなかったことにある。
この点に、左派と右派の共犯関係を見ることができる。津田氏はスケープゴートにされた訳だが、左派もまた、スケープゴートが存在することを望んだ。それが津田氏を擁護する声の弱さになった。
もっとも左派にすれば「表現の自由の問題だから、津田氏の『行政の中立性』を問う必要はない」と思うだろう。しかし本当にそうか?

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 

この憲法第二十一条を以て左派は自らの主張の根拠とするが、「表現の不自由展・その後」は行政が展示を中止しただけで、行政が関与しないところでの展示は認めているので、検閲には当たらない。
この点、左派はまともに答えていない。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

などは百田尚樹氏の講演会がノーチェックなのを批判しているが、だから「表現の不自由展・その後」もいいというのではない。何が「行政の中立性」にかからない「表現の自由」で、何が「政治的表現」なのかである。

president.jp

によれば、大阪市は何がヘイトかを事前に認定することはできず、事後的に対応するしかないとして、区民ホールなどでの政治集会を禁止していないという。その代わり事後的に対応するそうである。
「ヘイト」と「政治的表現」では若干のずれがあるが、この点は右派の主張が二重になっているせいでもある。しかしこの記事では、「ヘイト」と「政治的表現」の区別をせずに述べていく。区別しなくても、結論には辿り着ける。

こういう維新の対応を、近代的でないと言うことはできない。
それでも違和感を持つのは、「行政ってもっと寛容であるべきじゃね?」と思うからである。
この感情が果して近代的なのか前近代的なのか。
元々行政と芸術の関係は、貴族が芸術家のパトロンだったことに始まる。近代以降は革命により貴族から没収した美術品を市民のために展示したのが行政の美術への関わりの始まりで、貴族の役割を行政が単に引き継いだと言えなくもない。真に文化、芸術に寛容で、「行政の中立性」が守られるための思想を、我々は全く持っていない。白紙状態である。

それでは「行政の中立性」についての法的根拠は何かと思い、憲法を見ていくと、


第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

これしか思い当たらない。この「公共の福祉のため」が「行政の中立性」の根拠である。
これは憲法の問題である。「表現の自由」が何かという問題と、「公共の福祉のため」が何故「行政の中立性」に通じるのかが全て曖昧なままになっている。

そもそも、「全く政治的、社会的意味のない芸術、文化的表現」が存在し得るのか?あるいは「これは政治的意味が20%しかないから問題ない」、「半分以上は文化的表現だから問題ない」という議論が可能なのか?
否である。芸術、文化作品として呈示されたもの全ては「100%政治、社会的」であり、「100%芸術、文化的」である。
芸術、文化的と見なせないのは、演説や講演、散文などである。散文ももちろん小説は例外であり、芸術、文化作品に言及した講演や評論も部分的に芸術、文化表現と見なし得る。この基準をクリアすれば、「政治的」、「ヘイト」とどれだけ批判されようと、「行政の中立性」を持ち出して展示を中止したりはしない。これが新しい「行政の寛容」である。

しかし、「表現の不自由展・その後」は、「行政の寛容」に一足飛びに飛び着けないことを明らかにしたのである。
そもそも「慰安婦像」のどこが「表現の不自由」なのか?
どこででも表現できるじゃないか。「あいちトリエンナーレ」では1ヶ月半ほど展示中止になり、その後再展示され、補助金が出なくなり、右翼が座り込みで抗議しただけである。
従軍慰安婦も戦争でレイプされた女性も、戦前の遊女も皆犠牲者である。現代の風俗嬢やAV女優だって、必ずしも本人の意思でそうなったとは言えない。そういう者は皆同じ犠牲者である。
ただ炎上を嫌っただけか?そうでないとしたら、左派の真意は従軍慰安婦を、戦争でレイプされた女性や戦前の遊女、風俗嬢やAV女優と一線を画したいと思っているからである。

私の従軍慰安婦についての立場は、『帝国の慰安婦』と同じである。旧日本軍による慰安婦の強制連行はなかった。しかし国家的責任は免れないとする立場である。
国家が関わる以上、戦前の遊女やAV女優を従軍慰安婦と同列にするには議論を必要とする。しかし日本のように慰安婦制度がなかった国の軍隊では、戦争中のレイプの割合が高かったことは歴史が証明している。その戦争でレイプされた女性とも一線を画したいのだとすれば、それは「旧日本軍が朝鮮で慰安婦を強制連行した」としたいから、それが「不自由」だと言う原因ではないか?

旧日本軍が慰安婦を強制連行したという事実は一件もない。証言は全て否定された。
それでも「強制連行」に固執するのは、旧日本軍がそれだけ「悪」であり、対する国民は無実でむしろ被害者で、罪のない「善人」としたいからである。
敗戦により、日本人は戦争の罪を認めざるを得なかった。
その時、実は日本人は、自分達にも戦争に加担した罪があると思っていた。
大政翼賛会治安維持法が国民を縛っていたという見方は、「罪の意識」から見た場合、必ずしも正しくない。
総力戦という極限状態で、どうするのが正しいのかを考えた日本人は、戦争を批判する者を「非国民」と攻撃したのである。それは次第に過激になり、「物資がない」という当たり前の批判でも「非国民」というようになった。そして戦争を止められなくなった。批判が出来なかろうが、批判して聞いてくれるところが無かろうが、その閉鎖空間は自分達のせいだとわかっていたのである。だから全て軍隊、そして天皇のせいにしたいのである。
戦時中に生きていた者が多く死んだ今、なお旧日本軍、天皇のせいにしたいのは、左派が戦前の日本人の精神を見事に引き継いでいるからで、そんな自分を変えたくないからである。だから「表現の不自由展・その後」を擁護すれば、転じて日の丸、君が代を批判するということをやらかす。日の丸、君が代は国家、国旗であり、文化表現である。これでは「100%政治的」で、「100%文化的」という見方などできる訳がない。その結果、津田大介氏をスケープゴートに差し出さざるを得なかった。
そして、「軍隊。天皇が悪い」から、「旧日本軍も国も全て悪くない」までの距離は非常に近いのである。だから左派と右派は、180度反転したように見えて、実は近距離を移動したに過ぎない。つまり左派こそは右翼を育てていたことになる。
現状では、右翼が日本を制圧して、慰安婦像を「ヘイト」扱いするだけである。だから憲法十二条は「公共の福祉のため」ではなく、「公共の福祉、または文化の発展のため」と改正して、日本人の無謬性の追及を根絶するための土台にするべきである。

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定言命法に達しなかった日本人

2000年代は9.11テロ以降、日本では一神教が批判され、「一神教より多神教」と叫ばれた。この流れの中で『ローマ人の物語』はヒットしたし、ニーチェブームもまたこういう風潮の中にあった。
しかしこの流れに対抗するように起こったのが、ドストエフスキーブームである。ドストエフスキーブーム以後、キリスト教や仏教などの宗教ブームが起こる。
宗教ブームには、二つの側面がある。ひとつは、「一神教より多神教」と謳われたことで一神教世界に対して優位性を感じた日本人が、一神教の啓示宗教としての道徳性を見る余裕ができたこと、もうひとつは、日本人は元来、自らの道徳性の弱さに劣等感を抱いており、「一神教より多神教」と唱えたことで優位性を感じた日本人が道徳性の弱さを補いたいという願望を持ったことである。
この流れは、第二次安倍政権の成立により消滅した。ある記事で私は、安倍政権が宗教ブームを消したかのように書いたが、正確には宗教ブームに耐えられなくなった日本人が反動的に安倍政権を成立させ、宗教ブームの流れを止めたと思っている。
しかし宗教ブームは底流化し、2010年代前半から2017年くらいまでのリベラルの潮流に合流したと私は考えている。リベラルの台頭は、基本的には擬装請負の被害者への負い目を感じた多くの日本人が、パワハラ長時間労働発達障害などの問題を取り上げ、擬装請負の被害者である派遣社員の苦しみを緩和しながらも、擬装請負そのものからはミスリードするという形で、主にリベラルの中核を成すフェミニストと、フェミニストが親和性を感じるLGBT発達障害者を中心に進められた。もう1つ宗教ブームには底流化したもう1つの流れがあり、それは私が「日本型ファンタジー」と呼んでいるサブカル作品群に吸収された。

2000年代の新書ブームの本の中で、たまに定言命法が論じられることがあった。
定言命法は、哲学者カントが主張した倫理学の根本原理である。

定言命法 - Wikipedia

定言命法は、無条件に「~せよ」とする絶対的命法である。
カントによれば、カント以外の倫理学に「~ならば、~せよ」という仮言命法だという。
例えば「人を殺してはならない」という倫理の場合、自分が殺されそうになった場合、つまり正当防衛を考慮すれば、「自分を殺そうとする者がいない限り、人を殺してはならない」となり、仮言命法になる。
しかし定言命法ならば、「自分を殺そうとする者がいても、その人を殺してはならない」となる。それはほとんどの人は実践できないだろう。しかしその実践できないことを、むしろ実践できないことを前提に要求するのが定言命法なのである。

カントは仮言命法を経験論的なものとして、定言命法仮言命法の上位に置く。
状況においては仮言命法の法が定言命法の上位にくるのではないかと考えると、様々な問題が生じる。
先の「人を殺してはならない」を仮言命法を上位とすると、「盗んではならない」を定言命法にすることに問題が生じてくる。
例えば「自分から盗もうとする人がいない限り盗んではならない」という仮言命法は成立しない。裁判などで盗まれたものを取り返すのが法的にも道徳的にも正しい手続きとされ、盗み返すのは道徳にならない。「盗んではならない」は定言命法でしか成立しない。しかし窃盗より重要な倫理的問題である殺人が、定言命法で命じられないことになり、殺人が窃盗より軽んじられることになるのである。

新書ブームの時代は、定言命法は論の大筋の中での派生的な議論として、大澤真幸中島義道などが定言命法を論じたが、それには日本に定言命法を定置させたいという試みがあったのだと思う。
リベラリズムは、多くは定言命法的である。「パワハラは駄目」という場合、パワハラは無条件に駄目なのである。こうして日本人は、いくつかの定言命法的な生き方を身に付けた。
しかしこれらの試みや結果は、定言命法に集約されることはなかった。日本人は、今なお定言命法自体は否定しているのである。

山本七平が『空気の研究』でユダヤ教について触れたが、ユダヤ教十戒こそは「汝人を殺すなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝盗むなかれ」と定言命法的である。
また『空気の研究』では、状況倫理の話を紹介し、明治の時代に西洋人が来日して日本人に状況倫理を伝えたところ、ある者が「それは日本では害になるだけだ」と批判したという。
『空気の研究』は、日本人の有り様を伝えている。日本では「空気」がほとんど唯一の「倫理」で、その「空気」を破る定言命法的なものは受け付けないのである。だから今でも日本のクリスチャンは人口の1%である。
この「空気」によってなされるのは、悪事を働いた者を「善人」に逆転させることと、スケープゴート作り、そして被害者に報いない「善人アピール」である。
罪と罰』でラスコーリニコフは、ひとつの罪悪が百の善行によって償われるという思想に基づいて殺人を犯した。そのラスコーリニコフが善行でひとつの罪悪を償うことができないと気付いた時、多くの日本人が感動した、
しかしその日本人が、『いぬやしき』の獅子神浩こそが「反省しなかったラスコーリニコフ」であることに全く気付いていない。ラスコーリニコフの場合は「ひとつの罪悪に百の善行だが、獅子神の中では1人を殺すのと1人を救うのは足し引き0で、理想も公共心も無い。しかし獅子神は明らかに「堕落したラスコーリニコフ」である。悪事と善行で足し引き0にするという考えは、すぐに悪事の正当化となり、善行によって足し引き0にできると信じて無限に悪事を犯し続けることになる。日本人が擬装請負の犠牲者である派遣社員を教育無償化で見殺しにしようとし、今なお「非正規」「就職氷河期」という言葉でごまかし続けるのはこの心理による。これは「善行」の結果に関わらず、「悪人」の行為である。
なぜこうなるかというと、日本人は元々多重人格的だからである。例えれば

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こんな感じwww。
日本人は多重人格障害者が極端に少ないが、それは日本人が多重人格的に生きているからである。だから元明石市長のパワハラでも「普段人権派として頑張ってるから」などと擁護したりする。
それでいて2010年代のリベラリズムの爆発的な普及は、

「成長体験」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、都合の悪いことを全て他人のせいにして、「多重人格的」な自分のひとつの人格を「本当の自分」だと思った者が成し遂げたものである。
この時期のリベラルの記事の精度の高さは、リベラルの本場である西洋に肉薄するものだった。しかしリベラルの何人かは、自分で自分を攻撃することになったと思う。「自分も加害者と同じ」という境地に至った者が、その後更新が止まったり反動的な言動を取ったりする。そして今でも、その混乱を克服できたと思う者は見当たらない。

もっとも、山口真帆の事件のように、「空気」で解決できない問題が増えている。それも加速度的に増えている。
私はリベラルを多く批判してきたが、それでもリベラリズムの思想は多くの日本人に内面化されてきたと思っている。それがリベラルが反動に転じようとして失敗している原因で、また日本人の人格が「統合」されてきている証拠である。だから今まで少なかった多重人格障害者が今後は増え、今までの多重人格的な生き方を考えれば、海外よりも多重人格障害者が増えると思っている。
そして人格の「統合」の過程で、自分の生き方を見つけられない者が増えるだろう。
定言命法は、全ての人が必ず実践しなければならない。しかしそれは不可能である。
不可能だから、人は「自分が定言命法的に生きられない」と感じ、少しでも定言命法的に生きる努力をしなければならないと思うようになる。善人アピールをしようが、反動的に生きようが、定言命法は今後、全ての日本人にのしかかってくる。

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ディートリヒ・ボンヘッファーとガンジー

トルストイの小説は、読んだことがない。
トルストイは無抵抗主義の元祖で、ガンジーなどに影響を与えたことで知られているが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャはトルストイの無抵抗主義に通じるものがある。ところが我々は、トルストイドストエフスキーを仲の悪い同時代人というくらいの認識しかしていない。

カラマーゾフの兄弟』には続編の構想があったことが知られており、その続編構想は、アリョーシャが皇帝を暗殺しようとするストーリーだという。
ここで私が思い出すのが、ディートリヒ・ボンヘッファーである。
ボンヘッファーはその思想も興味深いものであり、2000年代の一神教への批判が展開された時にもボンヘッファーが取り上げられることがあった。「我々の神は、機械仕掛けの神である」とボンヘッファーは言ったという。一神教の持つ頑迷さの面を批判するために、ボンヘッファーが取りあげられたのである。

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そしてボンヘッファーは、ガンジーの影響を受けた非暴力主義者だった。さらに興味深いことに、ボンヘッファーは『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャと同じ運命を辿るのである。
ナチスが台頭するドイツで、ボンヘッファーアメリカに亡命しようとするが、1939年7月、滞在1ヶ月でドイツへの帰国を決意する。
1943年4月、ユダヤ人亡命援助の容疑でボンヘッファーは逮捕される。1945年4月に、前年のヒトラー暗殺未遂計画への関与が発覚し、4月9日に絞首刑となった。まさにアリョーシャの如き生き様である。

同時代に生きたガンジーは、ナチスユダヤ人虐殺について、このように述べている。

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ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに。

 

ガンジーはあくまで、ユダヤ人が「自らを屠殺人のナイフの下に差しだした」のを問題にしているのであって、崖から海に身投げするという「英雄的な行為」をしても、死ぬことに変わりはなかった。
主戦場でなかったとはいえ、ガンジー第二次世界大戦の時代を生きている。そのガンジーの言葉には重みがある。
ガンジーは非暴力主義を徹底する点で、誰よりも「冷酷」だった。武器を捨て、非暴力に徹すれば敵は自分達を殺さないという甘い考えは、ガンジー微塵も持っていなかった。非暴力主義はガンジーの後にキング牧師ネルソン・マンデラを輩出したが、ガンジーほどの「冷酷」な認識は最後まで持たなかったのではないか?

ディートリヒ・ボンヘッファー - Wikipedia

によれば、

ボンヘッファーは、ある一定の状況においては殺人が善でありうると主張したのではない。殺人は悪であり、神の審きの対象であることに変わりはなく、マタイによる福音書26章52節にあるように、「剣を取る者は皆剣によって滅びる」のである。しかし、隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が彼の時代には必要であるとボンヘッファーは考えた。そのようにして神の律法を一時的にでも超えて行くことは、彼によれば、将来における真の意味での律法の成就に不可欠であった。逆に、善を選ぶことが不可能な状況下において、より大きな悪を避けるためにより小さな悪を選ばないことは逃避であるとされ、批判の対象となった。

 

とあり、ガンジーの理論を理解せずにヒトラー暗殺に関与したという様子はない。
しかし、たった一人でも殺してしまえば、それはもはや非暴力主義ではない。それがヒトラー一人であったとしても。
そして暴力に訴えた者は、非暴力主義を人に伝える資格を失う。だからガンジーは、虐殺されるユダヤ人にさえ「身投げ」するように訴えたのである。

確かに、ヒトラー一人を殺せば、事態は大きく好転する。
しかしノルマンディー上陸作戦成功後の、ナチスの衰退期のこととはとはいえ、暗殺はハイリスクな計画である。
一度はアメリカに亡命しようとしたのだから、ヨーロッパのどこにでも飛んでレジスタンスに身を投じた方が、暗殺計画に加担するよりも「安全」な気はする。命を的にするのに変わりはないが、一人でも敵を殺せる可能性はその方が高い。暗殺は、失敗すれば成果0である。
この点、非暴力主義者の思考は自由ではないのである。
ボンヘッファーはなぜアメリカに亡命せずにドイツに戻ったのか?
それは非暴力を人に説いたからである。非暴力を暴力より少しでも「安全」と思った、または人に「安全」な方法だと思わせてしまった場合、それが自責の念となり、より自らを危険に晒す選択をしてしまうのである。その選択は事態が悪化するほどに破滅的なものとなり、自殺に近い選択を採るようになっていく。
非暴力主義でなければ、ボンヘッファーアメリカへの亡命をためらわなかっただろう。ガンジーなら、死のうとも亡命など考えなかったかもしれない。非暴力主義は甘い思想ではない。そして非暴力主義を確実に後世に伝えられる人間になるためには、「ガンジーくらい冷酷」にならなければならない。

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日本そのものになった安倍政権

またも山口真帆の件。

www.tokyo-sports.co.jp

「まさに一進一退の攻防だ」って笑わせてくれる。

ヘイトスピーチはマジョリティにも適用される。 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

ではってニフティの記事が削除されてるー!!
さすがにこれは魚拓とってなかった。と思ったらもう1つの記事に同様の文面があったwww。
山口が犯人と繋がってたかのように言っていながら、形勢不利となると山口のために裁判しているような振りをする。
しかも検察に「文書送付嘱託申し立て」をしたって弁護士法二十三条の二を使えよwww。

弁護士は、受任している事件について、所属弁護士会に対し、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることを申し出ることができる。申出があつた場合において、当該弁護士会は、その申出が適当でないと認めるときは、これを拒絶することができる。

 

弁護士会が拒絶するかもしれないし、拒絶する基準がどうなってるかは知らないけど、自分たちに権限があるのを隠してるのが丸わかりwww。結局公開する気がないんだよね。
それでいて「自分たちはこんなに頑張ってるのに山口は何してるんだ」って論調になってて、「山口は加害者と私的交流のあるメンバーがいると言ってるが名前を明かさないためファンから不満が出ている」ってなってる。
そういうファンがいるのかどうか知らないが、そういう意見を抑えるためにファンクラブがあるのだろう。もっともファンクラブ自体は山口の非公開ブログのようなので、それを基にファンが組織を作って発信していけばいい。

まずはこの記事。

www.yutorism.jp

確かに変だね。住民税非課税者で3才未満の子供が居る家庭って言ったら専業主婦のいる家庭しか無いんだけど、非扶養者、生活保護者を除くとなると二世帯住宅で子や孫と暮らす年金生活者ってところに落ち着くのかね。
次にこの記事。

vergil.hateblo.jp

確かに法の下の平等に反するね。
なるほど、これでわかった。
これらの政策は、派遣などの非正規労働者生活保護者を差別するためのものである。
非正規等の年金を増やしたくないために教育無償化を叫んでいた中間層以上が年金2000万問題で逆転されたため、その不満を吸収するためにバランスを取ったと言えなくもないけど、この調子じゃ派遣などの非正規は、今まで失ってきたものを取り戻すんじゃなくて、生かさず殺さずってところに落ち着くことになりそうだね。その仕上げが議員年金の復活だろう。

このようなやり方に、れいわ新選組は対抗できない。なぜなられいわの表向きの看板は「利権を壊す改革はしない」だからである。それだから維新のような改革についていけない者がれいわを支持している。これが盲点となって、れいわは干されている。
参院選までは、安倍首相は秋に衆議院を解散して、時間差のダブル選挙にしようと考えていたらしいが、れいわ新選組の台頭で考えを変えたらしい。れいわが失策を犯すのを待とうと。
そして今やその通りになっている。
野党は消費税を8%に戻すことを政策に掲げ、れいわの政策を部分的に取り入れた挙げ句、れいわの消費税5%での共闘には応じなかった。
そこでれいわに食らいついたのが共産党で、共産党は消費税廃止に応じる一方、改憲反対をれいわに飲ませた。

リベラルの「先祖返り」、「ツイッター化」と政党の「多極化」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、共産に近づいて反共産に転じるのがれいわの戦略だが、れいわにとって脅威なのは共産党がれいわに近づいてくることで、今まさにれいわはその術中に嵌まっている。山本太郎氏は全国遊説をして党勢を挽回しようとしているが、参院選直後まで勢いを盛り返すのは厳しいだろう。

とうとう日本で一番の長期政権になった安倍政権だが、安倍政権への私の見方は

改憲から遠ざかれば自衛隊がクーデターを起こす - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

から変わっていない。それどころか、最近は安倍政権自体が日本そのものになってきたと思っている。安倍政権が日本と同化し、日本から栄養を吸いとって政権が維持されている。だから安倍政権が末期なことは間違いなく、しかも安倍政権が崩壊した時には、日本は国も歴史も従来のものを受け継ぎながらも、日本とは違う国になっていると思う。
桜を見る会のせいで安倍政権の支持率が低下したというが、モリカケで嘘の供述を続けることで支持率がV字回復した安倍政権である。どうせまた支持率が上がる。ジャパンライフの元会長が安倍首相の推薦枠になっていたのが問題になっているようだが、安倍首相が詐欺に加担していたということはないだろう。桜を見る会と政治資金規制法との関係も解決済みで、むしろ政治資金規制法が緩いのが明るみになったというのが問題の本質である。
それなのに見当違いの方向でリベラル勢が活気付いているが、それは野党やリベラルの勢いが強くなっているからではない。
利権に対抗するという表看板を取りながら、真実は自民との共犯関係にある野党、そして護憲派の隠れ蓑であるリベラルが、護憲派が本当に崩壊するという危機感を感じ始めたのが、左派の活況の本質である。安倍政権が日本の養分を吸い、護憲派が安倍政権から養分を吸い取って政権の支持率が下がっている。しかし寄生虫は宿主が死んでは生きられない。

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最近読めなくなったマンガ①

年を取ると、飽きるのが早くなる。
すると、昔は面白いと思って読めたマンガが読めなくなってくる。
その読めなくなってきたマンガのひとつが『日出処の天子』。

書評「日出る処の天子」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた頃には感動できた作品が、今は全く感動できなくなっている。
「書評『日出る処の天子』」(原文ママ)でも書いたように、この作品には超能力=負の感情=同性愛という構図があって、同性愛をひとりで歩む者とし、異性愛を他者と歩む者として同性愛を否定している。
私はこの記事を書いた頃はLGBTに対する知識がほとんど無かったが、リベラルの概念が私の中に浸透するうちに、『日出処の天子』を受け付けなくなっていった。期待しないでこの作品を読むと感動したのは、まだ私の中にLGBTに対する差別心があったということで、それは無自覚にしか発動しなかったからである。期待して読むと、自分の中の差別心に直面してしまう。
この作品をヒューマニズムと見たのも、今は間違いだったと気付いた。例えばこの場面。

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厩戸王子が新たに娶った菩岐々美郎女を蘇我毛人に紹介する場面である。誰かが「恐怖の結婚」と呼んでいたが、昔は私は衝撃は受けても、「恐怖」だとは思っていなかった。
今思うと鈍い話で、これは女性の差別心を刺激しているのである。恋愛感情を抱く男に、女性は特別な存在だと思われたい。その女性を貶めるために「気狂い」、見たところ統合失調症ではなく知的障害者のようだが、大和時代では区別はなかっただろう。
それはともかく、その「気狂い」を妃とすることで女性を貶めるのが「恐怖の結婚」なのである。「恐怖」というが、仮にある女性が「気狂い」に分け隔てなく接していたとしても、想いを寄せる男にこのような仕打ちをされたら、「気狂い」でない女性を娶るよりも何倍も傷付いてしまう。どんなに気持ちを殺しても、その時女性は自分の中の差別心に、己の中の醜さに直面せざるを得なくなる。それがこの結婚が「恐怖」だという理由なのである。

厩戸王子が「天才」というのも、最近は納得いかなくなっている。

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これはコムズカシイ事を言って頭が良さそうに見せているだけである。我々が「天才」を見たいと思う場合、芸術などの分野でない限り、その人の知識ではなく「知性」を見たいと思うのではなかったか?
こういうのも引っ掛かる。

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これは謀略ではないだろう。
阿倍臣人が年内に確実に死ぬというのは、相当の医学の知識が必要だが、いかに博識な厩戸王子でも医学の知識はあったか?それも診察せずに診断できるほどの医学の知識である。
阿倍臣人の病気は将来の可能性のひとつとして謀略に組み込んで置けば良いことで、それは厩戸王子でなくとも蘇我馬子でもできることである。
これが謀略でないことは昔から感じていたことだが、昔はそんなに気にせずに流すことができた。
いつから私は、こういう脇の甘さを見過ごせなくなったのだろう?
それがいつだったのかを、私は確実に言うことができる。それは『進撃の巨人』で、超大型巨人をアルミンの作戦で倒した時である。超大型巨人の登場にアルミンは動揺し、「どうすればいいか僕にはわからない」と言って指揮をジャンに投げ出し、観察を続けてとうとう突破口を見出だしたあの時である。この時我々は、アルミンに本物を、厩戸王子以上の本物を見たのである。
我々は本当は、どんな密室殺人事件も解決する名探偵がいないことを知っているし、密室殺人のトリックも多くが甘いものだと知っている。それでも我々は「名探偵」を求め続けた。「名探偵」は「超人」であり、「超人」を求め続けるのは、その「超人」がそこここに居るのを我々が望んでいたかのようだった。その幻想をアルミンは完全に打ち壊した。

厩戸王子が「超人」だと認められなくなると、こういうのが許せなくなってくる。

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これは続編の『馬屋古女王』の一コマだが、「体の大きさに追い付かない頭脳」を知的障害者が自覚してそれに怒り狂うとは差別にもほどがあるだろう。しかしそう思うのは、単にリベラルの観点からだけではない。厩戸王子の威信の低下と連動しているのである。

かつて『日出処の天子』をヒューマニズムと解釈したのは、絶望した厩戸王子に激しく共感したからで、今は同情しない訳ではないにしろ、もはや激しく共感することはない。
厩戸王子は「天才」ではなく秀才であり、共依存の加害者である。厩戸王子による上宮王家の栄華は「天才」の偉業ではなく、秀才の業績に過ぎない。
作品に感動しないと、厩戸王子=聖徳太子が仏教を興隆させたことから、せめて仏教の思想性にでも触れたいと思うが、「仏は人を救わない」と厩戸王子が言い切っていることからそれも構わない。しかしそれがこの作品の構成をかえって際立たせている。
日出処の天子』は、厩戸王子という秀才=共依存の加害者と、同性愛者=相手を自分と同じにする者をイコールにし、厩戸王子が愛を失うことで孤独になり破滅する物語である。『馬屋古女王』は、孤独に耐えかねた厩戸王子が女になって愛を求め、またそんな自分を嫌悪した厩戸王子が勝手に一族を巻き込んで「自殺」するという、自己愛から逃れられない者の末路を描いたものである。

こうなるとポリコレの問題に行き当たるが、私は作品のポリコレには一切組みしない立場である。『日出処の天子』は私にとって不要になっただけで、まだこの作品によって得るものがある人は多いと思うし、得るものがある人がいなくなれば自然淘汰される。作品が気に入らない人は読まなければいい。
しかしポリコレに走る人の気持ちも少しわかった気がする。娯楽作品はリバタリアニズムで判断するべきだが、それでリベラルの不満は吸収できないのである。理論的には娯楽作品をリバタリアニズムで処理すべきだが、リベラルとの確執を完全に解消することはできない。ポリコレの弊害を意識しながらも、リベラルのポリコレ騒動はガス抜きになればいいくらいに思えばいいのではないか?

年を取ると飽きるのが早くなり、昔読めたマンガが読めなくなる。それは確かである。
しかしそれだけではない。
私の変化が、読めなくなる作品を増やしている。
コーヒーとミルクを混ぜればそれをコーヒーとミルクに戻せないように、この変化は元に戻すことができない。
マンガはひとつの例だが、高齢化社会で、我々は自覚しなければならない。既に変化した精神を、我々は簡単には後退させられないのだと。

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全ての民事裁判で弁護士がつくようにするべき。

山口真帆の事件で話題になっているのは写真の件だが、その少し前に出た記事は、被告のマンションの居住記録が提出されたというものだった。NGTのメンバーは去年の7月に退去し、その部屋に犯人が住んだというのである。メンバーは、犯人とは繋がりがないと原告側の弁護士が強調していた。
それを見た時、私は「弁護士供ついにやったか!」と思った。
しかし詳しく見ると、「ウイークリーマンション」とのことで、なーんだと思った次第。そしてその記事は一日で消えた。

まず話題の写真の件。
熱愛の二人がわざわざ部屋番号を写真に撮る必要はないと思うので、



 

うん、やっぱり山口の主張の方が妥当だと思う。
つーか俺、犯人ってこっちの方だと思ったんだけど。
https://megalodon.jp/2019-0924-2239-52/https://s.newscafe.ne.jp:443/article/2019/09/15/2405406_3.html
予想通り記事が消えてたので魚拓を取っておいて良かったwww。
日付はだいたいこのくらい。



 

Newscafeってとこの記事だね。
そういえば

新味の裏に反動を隠蔽した与野党 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

でもリンクが削除されてたね。
https://megalodon.jp/2019-1010-1407-55/https://news.merumo.ne.jp:443/article/genre/9072343
これね。
犯人が2016年のマラソン大会で山口につきまとったストーカーというのはファンの憶測で、不起訴になった犯人の実名は公表されていないので確実とは言い難い。でも山口を中傷してすぐに記事を消すのは最近のマスコミの傾向で、この記事が削除されたのを見るとかえって事実だった可能性が高い。最近のマスコミの常識の無さはひどいけど忘れてるんじゃない?誤解の訂正は削除じゃなくて謝罪記事の掲載だよ?
ストーカーと言っても女性が気のあるそぶりを見せて男が過剰な行為に出たというパターンもあり、私などはつきまとい行為をしていないのにストーカー扱いされたこともあるので、こういうときの私は一概に女性の味方だとは言えない。
だけどこれは駄目。ラソンでつきまとえば「山口とつながってた」で写真会で部屋番号のポーズをリクエストすれば「熱愛発覚」でその上女性が部屋に上げていないのにドアをこじ開けて暴行?完全に外形が成立してるじゃん。こういう場合は一時的に女性が男に気があったとしても駄目で、そういう時期を女性が忘れてることも多いし、どの時期にどのくらい気があったかなど厳密に検討したらストーカーもレイプもほとんど成立しない事件になってしまう。ストーカーやレイプという犯罪は外形が一番重要で、男が勘違いする要素がどれだけあったかは情状酌量の判断にする程度で無罪になる余地はほとんどないくらいに厳しく見なければならないのである。しかも暴行事件では一人じゃなくて二人の反抗だろ?そこに恋愛感情のこじれを見る余地は全くなく、力ずくで性欲を満たそうとした以外の判断は全く必要ない。
なんでこんなことになってるかわかる?そもそも犯人が不起訴になってるからこんなことになってるの。そんな犯人に損害賠償請求裁判を起こして「あーあなたの気持ちは良くわかりましたゴメンナサイ」とシャンシャンで終わらせて山口を悪者にしようというのがこの裁判の実体。
最近宇崎ちゃん献血ポスターの議論があって、あれ自体は私は好意的に評価していてそのうち記事にするつもりなんだけど、あれで散々議論して山口の件で完全に沈黙するってスゴいよねwww。「女性の体を売り物にする」とか言いながら山口の体が男に言い様にされるのは完全に認めちゃってる。
フェミニズムの範疇でもその恩恵を受ける者と受けない者を完全に分離しちゃおうって判断なんだけど、それが自分の体が男に言い様にされることだと全く気付いてなくて、恩恵を受ける者と受けない者の分離が完全に可能だと本気で信じちゃってる。本来実刑判決を受けるべき男をわざわざ名誉回復させて、自分がそういう男に襲われる可能性があるとは微塵も考えない。ほんとスゴいよねwww。
山口事件での裁判は、被告の正当性を確認しようとしているように見せて、フェミニズムの衰退、男尊女卑、そして無秩序を推進しようとしている。

さて、冒頭で「弁護士供ついにやったか」と思ったと書いた。
何を思ったかといえば、「弁護士供ついに証拠の偽造に手を染めたか!」と思ったのである。しかしウイークリーマンションと読んで、「なーんだ」と思い直した。しかしその記事は一日で消えた。これをどう読むか?
まずAKSがNGTのメンバーをウイークリーマンションに住まわせていた場合、それはNGTを太客との「乱交」を前提に運営していたということである。
かつて山口がNGTの前に所属していた地下アイドルグループのことをスッパ抜いたゴシップ記事があったがNGTこそそれ以下の地下アイドル、いやアイドルなんてものではなく、風営法を改正してでも法律の適用を検討しなければならないほどに問題のあるグループである。
笑わせてくれるのが、同じAKSのグループでメジャーなAKBなどで「恋愛禁止」などにして、発覚したら謝罪などさせたりしていることである。NGTのようなマイナーなグループの「乱交」は目を瞑って、それでいて同じ「清純」のレッテルを貼ろうとしていることである。
ウイークリーマンションでなかったとしても同様、グループの寮として契約しているのだから、ファンが同じマンションの部屋を借りることがないように管理会社か不動産会社と契約を結んでおいて当然である。

山口がツイートで「名誉毀損すぎる」と言っていることで、そろそろみんな気付いてくれて良いだろう。
名誉毀損すぎる」どころか、山口はちゃんと弁護士がついて、司法がまともに機能さえすれば、それほど腕の良くない弁護士でもAKSやマスコミ相手に訴訟をすれば、軽く億を越える損害賠償を取れるほどの被害を受けているのである。弁護士の腕が良ければ100億は取れるかもしれない。
そして100億の損害賠償が取れる可能性がある以上、それを保証するのは社会の義務である。
社会は保証してるって?戯言もいい加減にしてくれ。
いいものをお見せしよう。

www.newsweekjapan.jp

反日種族主義』という、韓国で今年ベストセラーになった本である。この本には「この国は嘘つきの天国です。偽証罪と誣告罪が日本の数百倍になります」と書いてある。
何を越える仰います。韓国は実に立派な国ですよ。韓国は偽証罪と誣告罪の多さを問題にして議論も可能ですが、日本はその必要がないほどの不正を許容した「浅知恵」が横行してて、しかもそれを誰も議論しないじゃないですか。韓国人が韓国の批判をするという、日本人にとって垂涎の出来事が全く話題にならないのは、韓国人と比較しても、韓国人の100分の1の自己批判精神も日本人が持っていないからじゃないですか。
これほど話題になっている山口の事件、しかもこれほどに継続して続いている問題を「たまたま弁護士がつかなかった」で済まそうとしている。いい加減にしろ。これは完全に社会の責任である。
この問題を解決するには、山口に100億の損害賠償請求ができる可能性があることに全く気付かずに済まそうとする弁護士の馬鹿馬鹿しいほどの同質性、不正に流れる性質を見て、弁護士の自由を制限し、全ての民事裁判で原告、被告双方に弁護士がつくようにすることである。それはそれで弁護士のインセンティブを削ぐことになるが、事態はもはやそんなことを言っていられないところまで来ている。とりあえずはある会社と顧問契約を結んでいる弁護士がその会社の所属員と代理人契約を結ばなかった場合には、弁護士は顧問契約を結ぶ権利を失うようにするとか、私自身の経験から提言すれば、法律相談を断った弁護士に罰則を設けるなどの措置をとるべきである。
さて、山口と同じマンションに犯人、しかも向かいの部屋に住んでいたという。
いくら何でもこれはあり得ない。だからこれはガセ情報で、弁護士が証拠の捏造をする前にマスコミが無根拠な情報を流すようになったと考えていた。
しかし文春がやはり犯人が山口の向かいに住んでいたと記事を出してきた。

bunshun.jp

山口の批判記事書くたびに泣き顔の写真載せるのやめれ。
この記事にはウイークリーマンションだったとは書いてない。
何これ?会社公認の仲だったとでも言いたいの?ウイークリーマンションを寮にしてた方がまだ言い訳が通ると思うんだけど。
よく「文春砲」って言われて、何のことかさっぱりわからないんだけど、そんなに威力あるの?威力がないのをごまかすためにそう言ってるんじゃない?
ところがまたも「文春砲」がwww。

bunshun.jp

家賃が約54000円って、何でウイークリーマンションじゃないのに家賃が月定額じゃないの?しかも「つながっていることをAKSのスタッフの前で話してしまえば山口真帆がNGT48のルールを破ったとして不利益な処分を受けてしまうからです」なんて会社公認じゃなかったの?と思うし、そもそもウイークリーマンションじゃルールを守るなんて不可能だって。

状況を考えれば、ストーカー気味の犯人に目をつけた太野彩香が犯人に部屋を譲ったと考える方が自然だが、第三者委員会でメンバーの言質を得ることができず、時間をかけて口裏を合わされ、山口のいない裁判での「証言」という形で正当化された。
私も公判の日をすっかり忘れていた。
NGTが「乱交」を前提としたアイドルグループだというのは、山口の名誉にも関わることで、できればガセ情報として済ませたかったが、そうも言ってられない状況になってきた。
弁護士が証拠の偽造をしなかったのは、少しも安心の材料にならない。あの詐欺師供はその内絶対にやる。今ある危機はそれとは別で、裁判でのメンバーの「証言」を利用して、山口を偽証罪に陥れることである。
もし情報が文春の完全なガセなら、AKSの方で厳重に抗議するべきだろう。

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3年以上同一業務に従事する派遣社員が直接雇用されるのは派遣社員の権利である。

個人的事情により、サブブログの更新は来月の初めに行います。

一年ほど前、私の友人が別の派遣会社に勤めているのだが、その人は派遣法改正前から同一業務に従事しているのに、直接雇用されないと語っていた。
私は「労働局に相談したら?」と言ったが、「会社に知られるのが怖い」ということで、私がいくことになった。
そこでわかったこと、それは派遣元に無期雇用された場合、「同一業務に3年まで」というルールは適用されないということだった。私の友人は無期雇用されていたので、直接雇用されなかったのである。
これで去年、労働契約法が改正されて5年以上勤務した者が無期雇用できるようになった理由がはっきりした。派遣法改正前に雇用契約した派遣労働者を無期雇用にして永続的に派遣労働をさせるためである。
しかし法的根拠を求めて条文を後日郵送して貰うように頼んで、内容を見たところ40条の2だった。平成27派遣法附則第9条により、法改正以前に雇用契約を結んだ派遣労働者には適用されない。労働局の職員は嘘を言ったのだが、そのことを友人に伝え、友人はどうするか検討中である。

なぜ「2015年の法改正で、派遣社員は同一業務に3年以上従事できなくなった」と嘘をつくものが後を経たないのか、このやり取りでわかってきた。
それに答える前に、

何でみんな「派遣は3年以上同一業務で働けなくなった」って言うの? - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた、「同一業務に3年までというルールを無くしたのも、決して反対ではない」と述べた部分を撤回する。
労働者派遣法の第一条は、
「この法律は、職業安定法(昭和二十二年法律第百四十一号)と相まつて労働力の需給の適正な調整を図るため労働者派遣事業の適正な運営の確保に関する措置を講ずるとともに、派遣労働者の保護等を図り、もつて派遣労働者の雇用の安定その他福祉の増進に資することを目的とする」
とある。3年以上同一業務に従事した者を直接雇用するのは派遣先の義務だが、それが派遣労働者の権利だとはどこにも書かれていない。
当然である。派遣社員は自らの権利を主張したことがほとんどない。だから権利規定されなかった。
しかし3年以上同一業務に従事する派遣社員が直接雇用されるのは、派遣社員の権利である。
私が改正派遣法を支持したのは、私自身も弱気になっていたからである。
その弱気は、偽装請負によって形成された。
辛い労働を強いられ、失敗すればくびになり、「お前達には権利がない」という考えを徹底的に叩き込まれた。それは偽装請負にあれだけ反抗しても、まだ完全に拭えていなかったのだ。
そして私は、「3年経ったから他業務に回された、解雇された」という者を一人も知らないのである。「3年経ったら異動しなければならない」と言った者はいるが、その人が本当に3年で回されたかはわからない。
3年で異動させられるのは辛い。しかし派遣先も辛いのである。自分達の権利のために、派遣先に天秤にかけることはすべきだった。
改めて言おう。3年以上同一業務に従事する派遣社員が直接雇用されるのは、派遣社員の権利である。その権利が、奪われた。派遣社員は、その権利を取り戻し、派遣法に明記させなければならない。

「改正派遣法で、3年以上同一業務に従事できなくなった」と嘘をつく者が後を経たないのは、自分達が派遣社員の権利を喪失させたから、「3年以上同一業務にできた方が幸せだったんだ」と派遣社員に、そして自分に嘘をつくためである。
id:nyaaat 氏は派遣社員だったこともある。出版社を辞めてからは派遣の他はバイトとパート以外の仕事はしていない。
ニャート氏は派遣社員としての自分のアイデンティティやプライドは微塵も持たなかったようだ。笑わせてくれる。もうニャート氏には、派遣の記事を書く資格はない。「非正規」「氷河期世代」という言葉で誤魔化されるのもゴメンだ。

『銀行員の教科書』の二口直土氏は

www.financepensionrealestate.work

でなにやらウニャウニャ言っているが、そもそも根本的な問題を勘違いしている。
絶対的貧困なら問題で相対的貧困なら自分たちの罪が軽くなるとでも思ってるの?微塵も軽くはならないよ?
んでもって貧困層の内訳を分析して、シングルマザーの方が派遣労働者より割合が多いから優先順位がシングルマザーの方にあるような書き方してるけど、まあ割合からしたらそうなるよね。
でも俺はそうは思わない。
目黒区で虐待死があった時には大騒ぎした世間も、鹿児島の虐待死の時はそんなに騒がなかった。
はてなでも鹿児島の虐待死の記事がランキング入りすることはなかった。この時期に虐待死がランキング入りしたのはこの記事。

yuhka-uno.hatenablog.com

ところが、「相手の親に聞こえるように『あんな小さい子に虐待して…』」と言ったから虐待死が起こったとは、鹿児島虐待死事件では言われていない。母親のネグレクトが原因である。
二つの虐待死の共通点は、義父と幼児の間に起こっている、つまりシングルマザーの婚活が根本的な原因である。でもみんなこの問題から逃げてるじゃん。
日本人はもう、虐待を肯定しようとしている。なぜなら自分たちが恥ずかしいから。子供を虐待して自我を奪えば、恥ずかしい自分を見られずに済むと思っているから。
そんな恥ずかしい自分で、年金問題でも教育無償化で先送りして、年金2000万問題で政府のせいにすることでやっと年金問題に少し向き合うことができた日本人にシングルマザー対策ができると思う?できないよね?www。
そもそも、救済に優先順位があるから優先順位の低い問題に目を瞑っていいという考えが間違っているのである。優先順位を設定しても問題は存在し、放置された問題は深刻化する。
偽装請負?知りマセーン」なんていう奴はみんな嘘つき。二口直土も偽装請負を知っているから「3年以上同一業務で働けなくなった」と嘘をついたのである。日本で一番偽装請負について語らなければならないのは二口直土、お前だ。
繰り返す。「3年以上同一業務に従事する派遣社員が直接雇用されるのは派遣社員の権利である。そう主張するのに、もう遠慮などしない。

古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。