歴史好きとして戦争を見ていて、つくづく思うことがある。
歴史には記録的な快勝というものがある。敵より少ない人数で、敵の犠牲が数万人で味方の犠牲が数百人というのもある。そのような圧倒的勝利に共通するもの、それはすべからく囮がいるということである。
軍事的天才というのはいるもので、その天才は兵士の絶大な信頼を得ている。兵士に信頼されるのは、その名将が味方の犠牲を少なくしてくれるからである。しかしその信頼も、囮の作り方、つまり誰をどう犠牲にすれば敵の犠牲を大きくできるかをうまくやるから信頼されるのである。どれほど犠牲が少なかろうと、兵士が犠牲になるのは前提である。
名将であるほど兵士の犠牲は少ないが、中には犠牲の大きい勝利というものがある。犠牲の大きい戦争で私が興味を惹かれるのは、このブログでも何度か取り上げてきた独ソ戦である。
戦術、戦略的に見るべきものがあると言えない独ソ戦に私が興味を惹かれるのは、その著しい特徴である犠牲者数の多さ、それもソ連軍の犠牲の多さである。
名将は囮を作るために、兵士をうまく騙すのである。
で述べたように、桶狭間の戦いは信長が丸根・鷲津砦を救出する力があったのに、信長がそれをしなかったために拍子抜けし、油断した今川軍が信長に強襲され、その強襲が山上への正面からの攻撃だったのに、今川軍が信長を甘く見てしまったためにそれが奇襲的な効果を生み、今川義元の首を取ることができた。
信長は丸根、鷲津砦には「必ず救援に行く」と言っていたはずである。そう言わない理由はない。
信長の目的はあくまで義元の首であり、義元の首を取るために丸根・鷲津砦の将兵を犠牲にしたのである。
また一番槍というのがあるが、武将は一番槍を激賞する。しかし一番槍を入れた者の勇敢さを褒めているようだが、本当は一番槍が最も犠牲が大きいのである。こうして将軍は犠牲になる人間を作っていく。
独ソ戦は違う。現在のウクライナ戦争でも行われていることだが、独ソ戦のソ連軍は逃げる兵士に機関銃を向けて戦わせたのである。前線の兵士が退却しようものならその兵士に機関銃を掃射した。ソ連軍がこのようにしたのはドイツ軍相手にソ連軍が負けていたからであり、「兵士は消耗品」なのは真実だがそのことを明らかに示した例は、他には日本の特攻隊くらいだろう。
逃げる兵士を後ろから撃った独ソ戦のソ連軍に見応えを感じるのは、こんな戦争でも勝利したからである。特攻隊のように命を的にかけてそれで敗戦したのはなんともやりきれない。
私がこのように感じるのは、将官や兵士を犠牲にするにしても、希望を待たせたうえで騙すか、最初から「お前達は消耗品だ」と示してしまうかの違いである。戦場に出ざるを得ないならば、「兵士は消耗品」を前提の上で兵士を人間として扱ってもらい、犠牲を強いるときには将官にうまく騙して欲しいと思う。
『まどか☆マギカ』の虚淵玄の脚本の『アニメゴジラ三部作』にエリオット・リーランドというキャラがいるが、このキャラは野心家で、中央委員会に代わって権力を手に入れようとする。
中央委員会といってもアラトラム号という恒星移民船のひとつの中にいる人類の(人類の他にエクシフ、ビルサルドという異星人が乗船している)意思決定機関である。少なくとも人類の何割かの長になる気だったといっていい。
そのエリオットが、ゴジラの「非対称性透過フィールド」のノイズ周期を解明するためにゴジラに特攻して死ぬ。
このことを思い出すたびに、未来に大きな意欲を持った人物を特攻のために犠牲にするような社会にはしたくないと思う。
「お前達は消耗品だ」と口にしなくても、扱い、待遇で兵士にそのように示すほど、軍隊、社会の荒廃を表すものはない。それで結果が得られないほどやりきれないことはない。
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