坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

従軍慰安婦問題での右翼の本音は「無謬性の追求」

従軍慰安婦問題は、多くの議論がなされたが、日本のコンセンサスを作るという点では不毛な議論だった。

 右派の議論に納得できる点は多々あった。 

「戦後の価値観で判断するべきではない」という意見はその通りだし、「日韓基本条約で補償は決まったのだから、それ以上の補償は必要ない」という主張には一定の説得力があった。「我々はいつまで謝罪すればいいのか」という主張も、「謝罪が足りていない」と主張する左派に対して、謝罪の限度を想定していない現実を露呈させる効果があった。 

それでいて従軍慰安婦問題の議論は、国民的合意の形成からは遠かったのである。

 その理由は、右派の主張が少しずつ違いながらも、その違いを右派が議論しなかったことにある。

 元々謝罪自体が必要ないとする右派も多かったのに、「謝罪は十分した」「いつまで謝罪すればいいのか」という右派との間の議論は行われなかった。

 このような右派の在り方は、私にある状況を想起させた。 

学校でも会社でも何でもいいが、ある人が被害を受けたとする。 

被害者は周囲を巻き込んで加害者の非を訴える。それに対して周囲は、「あの人は本当はいい人なんだよ」などと庇ったりする。それでも被害者が訴えていくと、「わかった。だがお前にも悪いところがあった」などと言われて、妥協が成立したような状況になる。

 しかしまた加害者が加害行為に及び、被害者が訴えると、今度は「お前が悪いんじゃないか」と言われたりする。

「お前にも悪いところがあった」が「お前が悪い」に替わっているのである。こうして被害者が加害者以上に問題にされ、状況は何も変化していない。

「従軍慰安婦の強制連行は事実無根」は事実無根!! - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた頃と違い、私は日本軍が韓国人女性を従軍慰安婦として強制連行したとは思っていない。(『河野談話の検証報告書』が従軍慰安婦の強制連行を認めた報告書なのを否定したわけではないので注意) 

その理由は朴裕河の『帝国の慰安婦』を読んだからで、(まだ読みかけだが)挺身隊の強制連行を従軍慰安婦の強制連行と誤認されたか、業者が日本軍を装って強制的に連行した可能性を指摘するこの本は、従軍慰安婦の強制連行の点では日本軍を無罪とする。しかし国家としての日本の責任はあるとしている。

この論は私にとって納得のいくものだった。 朴の議論は、多くの点で日本の右派の主張と共通していた。今従軍慰安婦問題の議論が大部鎮静化しているのは、朴のおかげだろう。 

しかし、日本で朴がしたようなアウフヘーベンができなかったのは、先に述べた右派の一見理性的な主張のためなのである。 

「強制連行の証拠がない」「いつまで謝罪すればいいのか」といった理性的な部分に耳を傾けると、いつの間にか「日本に全く罪はない」という議論に発展するから、左派は全く右派の主張を受け付けなかったのである。 

つまりこれらの「理性的」な主張は、「わかったが、お前にも悪いところがあった」という、相手に少しでも理性が働いたところで一気に追い落としにかかる類いの、集団の悪意なのである。 

ここまで「右派」と言ってきたが、「右派」とは本来、穏健な中道右派まで含むものである。しかし従軍慰安婦問題に関して、99.9%は極右であり、議論は多様性があるようで、実質は無個性な集団に過ぎなかった。 

この無個性は、無謬を無限に追求することでできあがり、その心理の裏には強い加害者意識がある。 

加害者意識の極みが、「従軍慰安婦は娼婦」などという発言である。現代でも、風俗嬢が自らの意思のみで風俗に勤めることは少ないと思うが、当時ならなおさらやむを得ない事情があって従軍慰安婦になったのである。それに対し、レッテル貼りをして自らを無謬とする。強制連行の事実がなかったのに、右翼は罪の意識を露呈しているのである。


 弁論部に所属していた学生時代なら、この手の付き合いきれない議論に対し、先輩などから「アウフヘーベンする努力をするんだよ」と言われたりした。 

今私は、この手の議論に対し、アウフヘーベンをすべきではないと思っている。 

無謬性追求の議論は、相手が受け入れる姿勢を取る度に、相手を無限に否定してくるのである。

 だからこの手の議論には、真実があってもそれを受け取らずに徹底拒否し、質の悪い議論が繰り返されるなら人格批判をする必要もある。

 無謬性追求の議論者に必要なのは、今のままでは自分が受け入れられず、人格まで否定される可能性があることを分からせることである。 

無謬性の議論に対する者に必要なのは、議論の選択肢を増やすことである。平行線、泥仕合、それを自らの力不足と思う必要は全くない。議論でのアウフヘーベンは相手がいてできることで、相手に力量がないのにアウフヘーベンは不可能である。

 そして相手が無謬性を追求していると判断する限りアウフヘーベンは選択肢の順位は下位に置くことである。 

相手が疲弊しなければ受け入れさせることできない議論がある。それを知らないと自分は疲弊する。そのことを知るべきである。 


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日本型ファンタジーの誕生⑬~『東京喰種』:1金木研は神代利世とセックスする

いやーやっと『東京喰種』を書ける。連載の方はもう終わろうとしてるけどwww
『東京喰種』は、日本型ファンタジーの作品群の中で、私の一番お気にの作品である。日本型ファンタジーの中で最も奥が深い。
実写映画で霧島董香役だった清水富美加は、宗教の道に入って女優を引退した。その際「人肉を食べるような役柄」に良心や思想信条との葛藤を覚えたという意味のことを言ったといい、その役柄が『東京喰種』のことだという。
しかし宗教家となった清水がどう思おうと、『東京喰種』はヒューマンな作品である。

進撃の巨人』や『亜人』の女性キャラが物足りないのに比べ『東京喰種』は女性キャラの心理が良く描けている。
『東京喰種』には多くの暗示があるが、その多くは多義的である。
金木研(以下カネキ)が半喰種になるきっかけとなる「大喰い」神代利世(以下リゼ)の存在も多義的だが、第一にはリゼは淫乱の象徴である。
一見清楚な女性に見えながら、若く線の細い人間の男を狙って補食するリゼは、補食を含めて男との関わりは全てセックスの暗示である。
月山習はリゼと美食について語り合うが、リゼと考えが合わない。「おいしいに越したことはないけど、お皿に盛れる量じゃ足りないもの」と言われてしまう。
月山の美食は、リゼとの関係においては二人で高め合うセックスを意味するが、「お皿に盛れる量じゃ足りない」とは、相手が一人じゃ足りないということである。
「あなたも退屈。ああ、でも、そんなにキライじゃなかったわ」
と去り際にリゼに言われる万丈数壱など、正に遊ばれた男が言われるセリフである。

上記の件で、月山を怒らせたセリフ。

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喰種は人間に憧れ、人間を羨み、人間になることを目指す。
カネキの半喰種化や、クインケ、クインクス、オッガイなどばかりではなく、喰種が人間を目指すことで、人間=怪物という、日本型ファンタジーの条件が成立している。そしてリゼは、人間を目指さずに喰種として快楽を追求するキャラである。

初期のカネキは、赫子を使うと女言葉を使い、貪欲に人間を食おうとする。それはカネキの中のリゼが語っているようである。
カネキは赫子を使いたくないという。自分に制御できない力を使ってはならないと。それは清楚な女性と思ってリゼに近づいたカネキが、淫乱女だと知ってリゼから逃げていることを意味している。
しかし暗示の多義性により、上記とは矛盾しないが、女言葉で人間を食おうとするのは、実はカネキ自身である。
後にリゼと再会したカネキが、極度の飢餓状態により、正気を失っているのを見て、「あなたがいないと僕は空っぽだ」と失望するが、それに対して「お前は自分の力で戦ってきた」と四方がいうのは、そうゆう意味である。カネキは自分の中の他人から奪いたいほどの貪欲さや凶暴性に無自覚、または無自覚であろうとし続ける。この状況は『東京喰種:re』で、カネキが有馬貴将と戦う時まで続く。

『東京喰種』7巻で、カネキは「アオギリの樹」に捕らわれ、「アオギリ」の幹部のヤモリに手足の指を切られ、再生してはまた切られるという拷問を受ける。カネキの髪は真っ白になり、爪は赤黒くなる。
精神的に追い詰められたカネキは、妄想の中でリゼと会話をする。
リゼは「ヤモリを許せるか」と尋ね、カネキは「許せない」と答える。
「でも赫子は使いたくないんでしょう?」とリゼが聞くと、「制御できればいい、僕があなたを超えればいい」と答え、妄想の中でリゼを喰う。
それまでカネキは赫子を「僕の中の喰種」と言っていたが、それを否定し、「僕は喰種だ」という。そしてヤモリを倒す。

その後カネキは「反アオギリの樹」を結成し、20区から6区に移動する。目的はリゼの正体を探るためである。
「神代理世という喰種は存在しない」とイトリに教えられ、「アオギリ」に拐われたのも、カネキがリゼの赫子を持っていたからである。
しかしリゼの過去を探るこの絵

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これってリゼの男関係を気にするカネキの姿にしか見えないんだけどww。「神代叉栄!?昔の男か!?」って声が聞こえてきそうwww。お義父さんですよお義父さんwwww。

半年ほど喰種のみを喰う、いわゆる共食いをして、カネキは強くなる。赫子が増大し、顔の半分が赫子で隠れる「半赫者」にまでなる。
要するにパワーアップだが、
共食いは喰種を狂わせる。
CCGの篠原特等と戦った時のカネキ。

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何喋ってんのかわかんねえwwww
「これまで会った喰種の中で、一番イカれてやがるね君…!!」
と篠原に呆れられる始末。
この後亜門鋼太郎と戦ってやや正気に戻る。「ただの喰種でいいんだな!!」という亜門に、「もう食べたくない」とカネキが答えるのが印象的。そしてカネキは逃走するが、完全に正気には返らない。カネキは合流した万丈を傷つけてしまう。

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「助けにきたよ」と言いながら、万丈の腹を貫く。
戦闘能力の低い万丈を稽古する時、カネキは万丈を徹底的に言葉責めにする。

何が“盾”だ。その程度の力で一体何が守れる?大事な人、愛する者、守りたい存在、弱ければこぼれ落ちる

 

「この世の全ての不利益は当人の能力不足」というヤモリの言葉に感化され、カネキはトレーニングに励み、共食いをして強くなった。
より強い敵が現れればもっと強くなり、敵の勢力が大きければ自分も勢力を増やす。あるいは部下を強くする。
そうして自分、部下に強さを求めていく。強さを求めるのに際限がない。
部下が弱ければ非難する。それが「助けにきたよ」と言いながら、万丈を貫いた意味であり、鯱(神代叉栄)が「それでは貫くか折れるしか道は無し」と言う理由である。

カネキは自分の道が正しいのかわからなくなり、リゼに会いにいくが、上記の理由で愕然とする。

僕が見たリゼさんは…僕が聞いたリゼさんは…余裕があって…奔放で…強くて…凶悪で…

 

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犯行現場写真ですwwww

その後カネキは芳村と話し、「君が捨てようとしているものは、君の半分を占めている部分なんだよ」と諭される。リゼは人間の要素のない喰種なのである。
芳村の説得により、カネキは「あんていく」に戻る決意をする。

霧島董香(以下トーカ)は、ツンデレのようでツンデレでないキャラである。
ツンしかない時期は、デレが全くない。
そのトーカがカネキを恋愛対象として意識するのは、「アオギリ」と戦った時である。
弟のアヤトが「アオギリ」の幹部で、アヤトと戦い、傷つき、仲が良かった過去を想い、「一人にしないで…」と呟く。そこに「(一人に)しないよ」と言って、カネキが助けに入る。この時である。
カネキが「反アオギリ」を結成する時、トーカもついて行こうとするが、カネキは拒絶する。
後にトーカと再会した時に、「みんなを守るために戦っている」と言うが、「みんなはあんたのものじゃない」と、トーカに否定される。
「それでもいいよ。君が一人にならないために…」
とカネキは言うが、永近英良にカネキが嘘をつく時の癖を教えられていたトーカは騙されず、カネキをボコにする。本当はカネキはリゼを追っているのである。

そのトーカが『東京喰種:re』で、

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と尋ねる。

童貞ですよ、カネキくんはwww

セックスしたと言っても妄想の中だし。

人間は無制限に、自分にも他人にも強さを求める時はあるし、男は淫乱女のフェロモンにやられる時期があるしwww

トーカがこんなことを聞くのは、リゼとのことが気になるからである。

まー「君を一人にしないために」なんて嘘つくってことは、二股かけようとした自覚はあるんじゃないの?

こうして、カネキは真の伴侶と結ばれる。(こーゆーオチかよ!!)

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立憲民主は選挙で落とすべし

衆院選挙が終わった。

 自民は4議席減らしただけ、公明との連立では議席数は代わらず、与党が三分の二を占めた。

 ある記事で与党は三分の二を割るだろうと述べたが、その予想は外れた。しかも消費増税を訴えての勝利である。 

今回、保守本流とは何かが分かったような感じがする。

 保守本流の役目は、各階層への利益配分である。 この役目は本来、野党からの突き上げによって実践されるが、それだけに突き上げが無いと、「これは違う」と感じるものらしい。

その感覚は長く政権を担ってきたことで培われたものである。


 もっとも、安倍政権が下層への配慮をしたと言えるかどうかだが、教育無償化に世論が流れている中で、安倍政権は消費増税分を子育て支援に充てるとしたのは、教育無償化論への反発である。 

増税見送りによって年金が減額されたのだから、増税分は年金額を戻すのに充てるべきである。ここに私は、安倍首相の考えの分裂を見る。

安倍首相は先に年金を減額することで、今回国民に増税を飲ませるのに成功した。

 しかし年金減額を決めたのが安倍首相である以上、年金額を戻すのは、先の決定が失政だとすることになり、安倍首相の不名誉である。この点、安倍首相も闇に食われた。 

しかし盛り上った教育無償化論に流されなかった点、安倍首相の保守本流の精神はまだ生きていると言えるだろう。


 しかし与党以外の結果は、全て中途半端である。

 立憲民主が57議席を取り、立憲民主を抜くと見られた希望の党は及ばなかった。

 注目すべきは、共産、維新が議席を減らしたことである。 共産が議席を減らしたのは、共産の平和主義が票を集められなかったからである。そして注目が集まった希望に対し、新味に欠ける維新が議席を減らした。

 ここから読み取れるもの、それはリベラルの崩壊に危機を感じた国民が、立憲民主に票を入れたということである。

リベラル崩壊の危機に、平和主義は見捨てられた。リベラルは土俵際で踏み留まった。 

しかしリベラルが生き残ったという明るさが感じられない。

はてなでも、選挙結果の記事がランキング入りしていない。これから書くかもしれないが、山猫日記さえ、現時点で書いていない。 

そもそも、リベラルは民進党を支えていたのかという疑問が湧いてくる。 

リベラルが自由にその発言ができるのも、旧民主党以来の流れがあるからである。 

ならば平和主義がリベラルの勢力を弱めているのは自明であり、リベラルが力を増すように、リベラルに平和主義を捨てるように唱えることもできたのに、それをしていない。 

はてなのランキングを見て、リベラルは発言が減ってきているように感じられる。 


リベラルはリベラルな政党を支えていないし、リベラルな議論は、今後減っていくと思われる。

 リベラルが立憲民主を支えたのは、今回僅かに得票率が上がったことからも明らかである。

しかし今後得票率が右肩上がりになるとはほとんど期待できない。むしろまた下がっていくだろう。


 それは、リベラルが真に社会的弱者の立場に立っていないからである。 真の社会的弱者は非正規労働者である。

今の日本社会は、非正規労働者に絶対に報いない、利益配分しないことで成立している。 

声を挙げない非正規も問題だが、中間層が非正規を無視することで、非正規は右翼的言動と生活保護受給者や障害者二級の人逹を差別することにアイデンティティを見出だすようになった。リベラルが右翼を増やしているようなものである。


 今後の政局として、短期的には希望と維新で票を食い合う展開などはあるが、中長期的にはリベラルが勢力を減らしていくだろう。

 リベラルが勢力を減らしても、ポピュリズムがリベラルの代用をする可能性があるが、共謀罪法案の時に見るように、橋下氏のいない維新は保守反動となる。希望も恐らくそうなるだろう。 


そもそも2015の労働者派遣法改正の時に、全面的に改正に反対した野党こそが、非正規労働者の敵である。

 リベラルの復権に、まず立憲民主を守るという考えに、私は全面的に反対する。

非正規労働者を見ない立憲民主は選挙で落とすべきである。 

猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちればただの人である。ただの人が増えれば、その中から非正規労働者と同じ視線で語る者も生まれてくるだろう。 


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ハイデガーとキリストと夜神ライトと

私は哲学を学んだことがない。
だからハイデガーの『存在と時間』と時間について、哲学的に考えて論じることはできない。
もっとも思想自体は新書で学んだ。もっとも解釈が別れるケースもあるようだが、ここでは一般的な解釈で語ろう。
つまり、人間は生まれてきた場所について、その場所にいることに意味があるという解釈である。
だから国家や共同体に貢献することが、人間の人生を有意義にするというものである。これに対し、「国家や共同体に貢献しても、国家や共同体が個人に充分に報いてくれるとは限らないし、その環境が個人が力量を発揮するのに適しているとも限らない。だから努力に報いてくれて、力量を発揮するのに適した場所に身を置く方がいいのではないか」という反論が出てくる。
この反論を認めれば、人間がひとつの場所に留まる理由が無くなり、自分の利益になる場所に移動していいことになり、『存在と時間』の意味が無くなる。だから多くの人が、その場所に留まることに無形の意味があると説いてきたが、それが成功してきたとは言えない。
この問題に答えを与えてくれるのがキリストである。

当たり前のことだが、恐らく前提になっていないことを述べよう。
それはキリストがユダヤ人であり、キリスト自身には新宗教を創始したつもりはないということである。キリストはユダヤ教の一派として教えを説いたのである。
そしてその教えは、当時のユダヤ社会の問題を背景にしている。
当時のユダヤ人はローマ帝国に支配されていた。
ユダヤ教は、神の教えを守れば聖地カナンに国を持つことができると説く宗教である。
逆に言えば、国を失うのは神の教えを守らなかったからであり、それだけにユダヤ人は神の教えを守り、守った証しとしての独立を求めてきた。
その想いはアッシリア新バビロニアなどに支配される度に強化されてきた。
そしてローマに支配された当時のユダヤ人も、当然のごとく密かに独立を期した。しかしローマはアッシリア新バビロニアよりさらに強大であり、客観的に見ても、独立はほとんど絶望的だった。
独立できないことは、ユダヤ人にとっては耐えられなかった。多民族に支配されるのは神の教えに背いたからで、ユダヤ人は神からの罰が恐ろしかった。

民族の独立は重要であり、多民族の支配を受け入れるように説くのは、本来慎重を要することである。
しかし独立が不可能な場合、支配者がその支配を受け入れるに足る対象かは、時に独立より重要である。チャーチルが「イギリスの歴史はカエサルドーバー海峡を渡った時に始まる」と述べたように、支配を受けることさえ、その民族のアイデンティティになることがある。
キリストは、ローマに支配を受け入れるに足る対象と見なしたのである。
だからキリストは愛を説いた。我々の神は人を罰する神ではないんだ。ローマの支配を受け入れても、神は我々を愛してくれるのだと。
普遍性は、特殊性を無視することではない。
カエサルのものはカエサルに」という政教分離の言葉はもちろん、「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」という言葉にも、この時代の特殊性を考えるべきだろう。犠牲の精神は普遍性に繋がるが、実際には有害な場合の方が多い。頑なに独立を求める人々をたしなめるために、強い言葉を使ったと考えた方がしっくりとする。
「神よ、なぜあなたは私を見捨て給うたか」
という、磔刑に処せられたキリストの言葉を、覚悟の足りなさ示すものとも思わない。
覚悟が人を泰然と死に赴かせるというのを、私は半分しか信じていない。キリストは最後の瞬間まで希望を持っていたのであり、希望による情熱を苦痛が上回った時に、心が折れたのである。だからこの言葉はキリストの生命力の表れであり、何よりキリストが自分のために生きていた証拠である。

キリストによってユダヤ人が変わったかと言えば、ほとんど変わらなかった。
キリストの死後、ユダヤ人は反乱を起こし、ローマの手でエルサレムの大神殿は破壊され、ユダヤ人はディアスポラの歴史を送る。
約2000年の後に、ユダヤ人は聖地カナンに帰り、再び国を起こし、周辺国と戦い、パレスチナ人を弾圧、虐殺している。キリストは共に生きたかった人々に対し、今なお敗北者のままである。

キリストの教えはユダヤ人の小数派で終わるか、消滅するはずだった。
しかし、そこにパウロが現れた。
パウロギリシャ人で、ギリシャ人としてキリストの教えを理解した。パウロによって、キリストの教えは世界宗教になった。

ハイデガーの思想は、今自分のいる場所が自分に利益を与えることを述べたのではない。
利益、不利益に関わらず、その場所に留まることで生まれるエネルギーの大きさを述べたのである。
『Death note』の夜神ライトが、その優れた頭脳のわりに厨二なままなのは、ライトがデスノートにより、世界に直結したからである。世界中がライトの居場所だったのである。
「その場所が利益をもたらす」と説くのは、むしろ不適切である。神に聖地カナンを約束されたユダヤ人こそが、ディアスポラの民だったのだから。


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今回の衆院選についての一週遅れの議論

今年の半ば頃に、橋下徹氏が教育の無償化には憲法25条の改正が必要だと述べた。

 小泉進次郎氏との議論の中で出たことで、教育無償化論を言い出したのは小泉氏が最初かと思われる。

 なぜ25条の改正が必要なのかについて、橋下氏は明確に論証しなかったようである。「憲法26条じゃないか」 という意見にも、「勉強不足」というような発言に終始していたようである。

 法律家である橋下氏に逆らうようだが、素人目に見て、25条を改正する必要はなさそうである。もちろん26条もである。

 これには意味がある。

 安倍政権は年金の支給額を減額したが、年金額を戻さずに教育の無償化をするなら、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする憲法25条を削除しろという意味である。

「アジアの人々に申し訳ない」
と戦後の日本人が口々に言ったのは、「自分は良い人だ」と言うアピールである。このような人はよく見かけるが、「良い人」と「良い人アピール」をする人の違いは、そのアピールが、自分が本当に危害を加えた人に向かないことである。

 

と、

日本が憲法を改正しない本当の理由 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたがまさにその通りで、この手の良い人アピールは本当の被害者である非正規労働者に向かない。


 今回、一週遅れの議論をしよう。まずはこれ。

nyaaat.hatenablog.com

2015年9月に労働者派遣法が改正され、派遣社員が同一の組織単位で3年以上働くことはできなくなった。

 

とさらっと述べているが、正しくは「派遣社員過半数を占める労働組合がない派遣会社は同一の組織単位で3年以上働くことができない」である。

 派遣社員過半数を占める労働組合のある会社では、派遣先が通達すれば派遣期間を延長できる。

これは派遣社員の組合組織化を促進する法律である。 

もっとも、このような法律ができても派遣の組合はほとんどできていない。 

ニャートがこのように言うのも、自己救済をしない派遣社員と一緒に野垂れ死にはできないというのならわかるが、だからといって派遣社員に自己救済の手段がないように喧伝するのはいかがなものかと思う。


次はこれ。

www.yomu-kokkai.com

参考になる部分もあるのだが、こういう話は小数でやった方がいい。

 なぜなら当時の民進党も、「安倍政権はいかん」という点で、ほぼ同じ論調であり、それは宿題を貯めることになるからだ。

 特定秘密保護法、安保法制など、野党は問題としながら解決できず、宿題が貯まっていく。

 国民は過去に通った法案を問題とせず、野党への信頼を失っていく。

 宿題が貯まるのは、自分達の正しさの根拠を相手の間違いに求め、自分を正そうとしないからだ。

www.from-estonia-with-love.net

では社会民主主義の重要性が述べられているが、日本で社会民主主義が育つには、非正規が労働組合によって組織化される必要がある。

 現状では正社員で組織された労組が会社と協調して非正規の権利を阻害しているが、非正規が充分に組織化され、労組が非正規と対立するより協調した方がいいと思わせ、正社員と非正規が協調して企業、ひいては経団連と対立するようにならなければ、社会民主主義は定着しない。

 だから「非正規が権利を獲得するのは簡単だ」くらい、リベラルな政治家は言えばいいのである。何しろ派遣の組合は法律で促進されているのだから。

plagmaticjam.hatenablog.com

は読む国会への反論だが、ビジョンを人間の理想像とし、人間の理想像がない=ビジョンがないとするのはいかがなものか? 

「不倫をしないことだけ」が理想像というが、昔の男の理想像は一夫多妻だよ。80年代の本宮ひろ志のマンガの主人公のような、すぐ女をレイプするようなね。

少なくともひとつの理想像で、貞節と対立して存在していた。

 だから不倫はダメというのは現代の風潮で一夫多妻の理想像が消えてできたのであって、多様化の時代でも理想像は育っている。

 社会民主主義の形成の意見も、別に人間の理想像を提示してないけど、ビジョンになってると思うんだけど? 


選挙についてだが、野党が増税延期を唱える以上、私は自民に投票しようと思う。

 今回の増税は、年金額の増額には当てられない。 しかし増税すれば、他の社会保障増税分が当てられる。ならば年金だけこのまま据え置きにする理由は無くなるからだ。 


今日はここまで。 じゃあね、ニャート。

これから何するのか知らないし、成功して欲しいとも思わないけど頑張ってね。


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『娚の一生』『姉の結婚』

いつの時代も、文化は若者のものでなければならないと思う。

 しかし高齢化の時代には、若者が文化の中心でありながらも、中高年の文化に占めるシェアが大きくなる。この点、『娚の一生』と『姉の結婚』は成功した作品と言える。


 しかし、成功したこれらの作品にも、不安の残るところがある。 『娚の一生』の堂園つぐみ30半ばである。しかし、

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これでは若すぎる。

 もっともこれは田舎の葬式での顔で、この後「風呂に入るのが面倒」とお湯で体を拭き、「布団敷くのが面倒」と椅子を三つ並べて横になるなど、懸命に色気のない中年女を演出してくれるが、これを見て、中高年を主役にした作品を生み出すだけでなく、世に送り出し続けるのは若者向けの作品をヒットさせるよりはるかに難しいのではないかと思ったのである。 


娚の一生』で、堂園つぐみと海江田醇はつぐみの祖母の母屋と離れの家の鍵をそれぞれ持っていて、同居生活を始める。

 この設定はラブコメによくある「無理矢理同居」のパターンである。 

「無理矢理同居」の例は、最近では『ゆらぎ荘の幽奈さん』だろうが、この「無理矢理同居」のパターンは、ラブコメによくある割には記憶が薄い。 

あまり展開が不自然だと(というか男の願望が全開過ぎると)、人気が出なくてすぐ打ち切りになるようである。

 しかし『娚の一生』では、ラブコメがよく使う手であるだけあって、その後の展開はスムーズである。 

一方、『姉の結婚』では、「無理矢理同居」の手は使っていないが、『娚の一生』に比べて展開が非常に不自然である。

 真木誠は、図書館の本を盗んだと誤解した岩谷ヨリの弱みにつけこんでセックスを強要し、その後付きまとい行為をする。 

この真木の行為は印象が悪く、そのためこの作品は一部の読者には不評である。

 それはわかる。 しかしだからこそ問題なのである。 


作者の西炯子氏は、問題の本質をしっかりつかんでいる。

 二作品とも、ヒロインは男に疲れて一人で生きようとしている。

 このような女性は、そのまま放置しておけば、一生独身のままである。

 こういう女性の心を開こうと思って、気遣いながら心の扉を開けようとしても、女性は心を開いてはくれないのである。

 こういうメンドクサイ女性の心を開く場合、大抵は強引にこじ開けなければならない。

どんな方法でも、その女性の心を開かなければ、その女性は幸せになれない。 


こういう主体性を放棄した女性の存在が、口には出さずとも、男性優位の主張のひとつの根拠となっているのは確かである。

 ならばフェミニズムはダメなのか?

 と言いながら私はフェミニズムを明確に定義できる自信はないのだが、専門的に語れなくとも、私は男女同権派である。

 なぜなら、女性を不幸にしたのもまた男だからである。

 堂園つぐみが妻子持ちの男とばかり付き合う理由について、「仕事ができる分、男で不幸になってバランスを取っている」と説明されて、私は納得しなかった。

 この説明は本質を隠すためのカムフラージュである。

なぜなら不幸になる女性の原風景には父親がいるからである。


 不幸になる女性は、父親に見棄てられている。 

姉の結婚』で、そのことは明確になっている。

 しかし『娚の一生』より一層、メンドクサイ女性の心の開き方を描こうとした『姉の結婚』では、父親の罪を全面的に押し出すことはできなかった。

そこで妹が母親の不倫でできた子供にし、余裕のなかった父親が実の娘に辛く当たったことにした。

それが「一番尊敬する人は父親」とする風潮の中での、描ける限界だったのである。

 しかし「女性の心を無理矢理こじ開けなければならないなら、やはり男性優位の方がいいのでは?」 と思う人もいるだろう。

 しかしまた、無理矢理心をこじ開けた男がまた、女性を利用するのである。

男性優位は、女性を不幸にする原因でもある。 となるとセクハラやストーカーなどの問題があり、女性の心をこじ開けようとする行為は、せいぜい自己責任論に落ち着く。

女性が男を受け入れればOK、受け入れなければその責任を被るしかない。 


私も女性問題では痛い目にあっていて、そのこともブログに書いている。 そのリンクを貼ったりはしないが、だから私も、女性に無理矢理関わろうとはしないし、人に推奨したりもしない。

 ならばどうすればいいかと言えば、見守るしかないのである。リスクを犯せない男は。 

リスクを犯せない男は、見守る中で自分にできることを探すしかない。

それが女性を幸福にしなくとも、できることをするしかないのである。 


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パワハラ上司は無能である①

よく、仕事中に「何やってんの」と言ってくる上司がいる。 

その時、私は「ああ、こいつはパワハラ上司だな」と思う。


 パワハラ上司はよく、「なぜそのようなことをするのかわからない」という意味のことを言う。

 このパワハラ上司の言葉は、部下の否定のように見えて、実は管理能力不足の告白である。

 パワハラ上司は部下を批判することで自分を正しいとする。

そして部下への批判が増えるほど、部下が間違っていて、自分が正しいという主張をしているつもりになっているが、本当は「わからん、わからん」と繰り返すことで、自分の無能をさらけ出しているのである。


 パワハラ上司には、以下の論に当てはまらない者もいるが、差異はあっても、パワハラ上司は根本的に同じ性格である。 

また、私は十年以上工場で働いているので、基本工場労働限定で述べていく。 

工場労働に限定して述べることには特別に意味があると思う。 工場は機械を多く使っており、機械のスピードが、人間の作業量の多くを決めている。 

人間に割り振られた作業量は、適正であることもあれば、不適正なこともある。

前者の場合で作業員が過剰労働に陥っていれば、上司が適正な作業配分をしていないということであり、後者なら会社自体がパワハラ上司化している。ブラック企業と言ってもいい。 


「人間は間違えるものだ」と言って、それに異を唱えるものはいないだろう。

 また「人間は機械のようには動けない」と言って、反論する者も私は想像できない。

 しかし工場勤務でのパワハラ上司は、まさに人間が「間違えずに、機械のように」動くと信じている者のようである。


 おそらく全ての業界のパワハラ上司がそうなのだろうが、工場勤務でのパワハラ上司を特徴づけているのは、馬鹿馬鹿しいほどのスピード至上主義である。

 パワハラ上司はとにかく急がせる。 

新人の場合、仕事をどのスピードでやればいいかを理解する上で、急がせることにはそれなりに意味がある。

 問題は、スピードを上げる点で限界がないことである。

パワハラ上司の中にも、体感で人間の身体能力の限界を知っている者がいるが、パワハラ上司が人間の限界を知っているかどうかは関係ない。人間の限界を知っているかどうかに関わらず、パワハラ上司は限界を超えて働かせるのである。


 パワハラ上司には、優先順位がない。

 私は、有能、無能は優先順位がつけられるか否かが大きく占めると思っている。 

例えば仕事をする場合、自分の仕事を優先して、手が空いたら他の仕事を手伝ったりするのが、基本的な能率の上げ型である。

 しかしパワハラ上司は、部下に割り当てられた仕事が中途半端なうちに、他の仕事を手伝わせたりする。

少しでも手が止まると、「何やってんの」と言われる。

 こうして、部下の仕事が停滞すると、部下は急いで仕事を片付ける。 このようにしてパワハラ上司はスピードアップを図る。しかしパワハラ上司は気づいていないが、このように育てられた部下は、仕事が粗くなっている。 

「速く、正確に」仕事をこなしているように見えても、その仕事はパワハラ上司でない上司に育てられた部下よりも粗く、ミスをしがちである。 

パワハラ上司に従順に従う部下は、以下のように考えるようになる。つまり、 「仕事を速くすることと正確にすることの間に、理想的な均衡点があるのだろう」と。 

現在、パワハラ上司の被害に見舞われることなく仕事をしている私から見れば、このような考え方は間違いである。

 仕事は自分が正確にできるペースを見つけ、正確に作業をする習慣をつけて、その上で少しずつ作業スピードを上げていくのが基本である。

 しかしスピードと正確さの中間を取るような仕事をさせられた作業員は、あると思っていた均衡点を見つけられず、集中力を上げて問題を克服しようとする。 

工場労働には、トラブルがつきものである。

 機械はよく故障する。故障した時に、簡単な故障は自分達で直すことが多いが、その際他の機械は止めずに、作業効率を落とさずに修理を行うことが多い。

 それで問題なく回していけるのならそれでいいのだが、状況が厳しくても、パワハラ上司は機械を止めずに対応しようとする。

こうして、「機械を止めないのはわるいこと」という観念が生まれる。

 パワハラ上司の部下は、どんな状況でも機械を止めずに、生産を続けながら対応しようとし、そのために知恵を絞り続ける。 

このような対応を続けると、それなりに適応できる人もいる。

 しかし常に目一杯体を動かしている上で、状況対応のために考え続けるのは強いストレスになり、大抵長くは続けられない。

不作為の行為は加害行為である - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

のIや、

『水瓶座の女』成立の背景 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の肩こりになった私のように、ひどいストレスに悩まされるようになる。 

肩こりは大分小さくなったが、まだ残っている。 

肩こりが小さくなってわかったことがある。すでに肩こりではなく、全身に凝りが回っていた。

 胸、腹、手足まで凝っていた。私の腹は固かったが、腹筋が鍛えられているからだと思っていた。しかし腹の凝りが減って、腹筋のために固いのではないと気づいた。

 手足の凝りも減って、筋肉はこんなに柔らかいんだと気づかされたww。もっとも完治したのではなく、未だに全身が凝っており、背中も異様な形で出っ張っている。 

今の私は健常者と同じように体が動くと思っているし、集中力も戻って事故を起こすこともないが、頻尿や他にも鼻水が止まらなかったりする症状があったりしたので、これから肩こりが小さくなることで、より体調もよくなると思う。

 そしてもちろん私やIのようになるまで働く例は稀で、大抵はその前に人は辞めている。 

パワハラ上司は、日本語がしゃべれない。 

普段から「何やってんの」で対応しているため、いざという時に適宜な指示が出せない。 これは、部下が「何やってんの」と言われることで有能になっていくが、パワハラ上司は「何やってんの」を繰り返すことで無能になっていくことを意味する。

 そしてこれはホワイトな企業に特に言えることだが、パワハラ上司は会社が求めていることを理解していない。 

会社が求めているのは、クレームを出さないことで、部下に失敗を繰り返させることで質と量をこなす人材を作ることではない。部下に失敗をさせるような余裕は、元々パワハラ上司にはないのである。


 またパワハラ上司は、根本的に組織論を理解していない。というより、おかしな組織論を持っている。

 工場の各部署において、上司が比較的手の空く作業を担当して、部下が作業量の多い仕事をするのは妥当である。

 しかし各員の作業量配分は不動ではない。各員の作業量配分が変動する可能性は常にある。

 しかしパワハラ上司は、各員の作業量配分はどんな状況でも不動なのである。


 問題は、各部署の生産量を決めているのがパワハラ上司ではないことである。

 先に述べたように、工場での作業スピードは機械のスピードによって決まるのである。機械がより多くの生産をできるようになれば、各員の作業量も増える。そして機械の生産量を変更するのは管理職以上の者である。

 管理職以上が機械のスピードを変更するのは、ホワイトな企業の場合、作業員にきつい仕事をさせようと思ってするのではない。

各員の作業配分を調整して、変更可能なことを検証してからそれを行う。 

しかしパワハラ上司にとって、各員の作業配分は不動である。するとパワハラ上司の部下は、人間の限界を越えた作業をすることになる。

こうしてパワハラ上司の指導に耐えた部下も潰れる。


 最近お目にかからないが、去年くらいまでは、パワハラ上司と無能な上司の記事がはてなで頻繁にランキング入りしていた。 しかし私は、それらの記事に欺瞞を感じていた。

パワハラ上司と無能な上司は異なるカテゴリーではなく、同じカテゴリーである。

 そしてパワハラ上司の信念は、その成功体験ではなく、失敗によって支えられている。

部下が次々と辞めるたびに、「もっといい奴を寄越せ」といい、一人でも対応できる部下がいれば、自分が正しかったと思えるのである。

 

パワハラ上司にとって、きつい指導は部下への愛情ではない。 

パワハラ上司にとって、部下は自己正当化の手段にすぎない。パワハラ上司は無能である。 


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