坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「合法的な請負」のほとんどは労働者供給事業

偽装請負は日本型経営を殺戮装置に変えた - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、私はウィキペディアでさえ「偽装請負では労働基準法が適用されない」と嘘が書かれているのを指摘した。
それから二年後の現在、この嘘をつく姿勢は全く変わっていない。

偽装請負 - Wikipedia

ところが、民法におけるいわゆる典型契約としては、類似するものとして請負という契約類型が用意されており、請負人にはいわゆる労働法の適用がないのが原則である。

 

こんなことは知っている。しかし偽装請負で働く社員は自らが請負契約をしたのではない。

なお、法令の適用上、特定の契約が雇用契約なのか請負契約なのか、などの契約類型に関する判断は、当事者が用いた用語や名称に拘束されることなく、実質的な内容の判断によりなされる、というのが一般的な解釈である。

 

誰だこんなことを言っているのは。
偽装請負が実質的に派遣かどうかは「実質的な内容の判断」によりなされるが、雇用契約と請負契約が混同されることなどない。どれだけ偽装請負という犯罪を隠したい者がいるのかを示すいい例である。
私が偽装請負で働いたところは会社が請負契約をして、社員とは労働契約を結ぶ。請負会社と社員は使用者と労働者の関係にあり、労働基準法は当然適用される。第一派遣会社が労働者と請負先の請負契約を斡旋したらそれは非弁行為である。弁護士が沈黙していられるような問題ではない。

偽装請負を違法とする根拠はこの告示である。

・労働者派遣事業と請負により行われる事業との区分に関する基準(◆昭和61年04月17日労働省告示第37号)

(1) 自己の責任と負担で準備し、調達する機械、設備若しくは器材(業務上必要な簡易な工具を除く。)又は材料若しくは資材により、業務を処理すること。

 

この第二条二項八の(1)は、今のところそれほど問題になっていない。請負先から機械をリースして合法として終わっている。
弁護士などでたまにこの点を強調する者があるが、大抵の弁護士は、この点にそれほどの関心がないと思っている。今のところは請負先と請負社員の間に指揮命令関係が存在すれば偽装請負であり、あくまで違法だから問題なのである。合法的に労働法が適用されないからではない。これ以上嘘を言うのはやめてもらおう。

そして偽装請負が盛んな時代は終わり、いくつかの会社を見た限りでは、「合法的な請負」を行っている会社もある。つまり指揮命令関係さえ請負会社の中で確立すれば「合法」になるのである。

偽装請負がなぜ違法なのか、その根本のところで実に多くの人がミスリードをしようとしている。一方で本当のことを言う者はほとんどいない。というより私は本当のことを言う人に会ったことがない。
偽装請負が違法なのは、労働者供給事業だからである。
労働者供給事業については、労働者派遣法には書いていない。職業安定法第44条にある。

労働者供給事業 - Wikipedia

労働者供給事業においては、労働者供給事業を行う者の一方的な意思によって、労働者の自由意思を無視して労働させる等のいわゆる強制労働の弊害や支配従属関係を利用して本来労働者に帰属すべき賃金をはねるといういわゆる中間搾取の弊害が生じるおそれがある。

 

つまり中間搾取と労働の民主化のために労働者供給事業は禁止されているのである。
ならば、請負契約をしても請負元が労働者に払った賃金を引いて、請負先が直接業務を行うより利益を出せなければ労働者供給事業と見なすべきであろう。それは中間搾取を防ぐためであり、もちろん労働者を低賃金に抑えて利益を上げるなどはあってはならないことである。そして裁判ならば、判決を得ることで「合法的な請負」という中間搾取を止めさせることができる。

「昭和61年04月17日労働省告示第37号」にある機材を自己の負担で調達するなどは、本来派遣と請負の区分には必要ないかもしれない。
しかしこのように区分された以上、そこには意味が必要である。
昭和61年04月17日労働省告示第37号第二条二項のイ。

業務の処理に要する資金につき、すべて自らの責任の下に調達し、かつ、支弁すること。

 

請負業務には相当の資力が必要であり、資力が必要なのは「労働者供給事業にしない」ためである。そもそも「自己の責任と負担で準備」とあるのに請負先から機材をリースされてはいけないだろう。
また第二条二項八の(1)の「又は材料若しくは資材により、業務を処理すること。」は、単一の事業者からの請負では請負として成立しないと見なすべきである。製造業ならば、単一の事業者が途中まで加工した製品を仕上げることで業務請負とするのは違法だということである。
このような条件をクリアできる事業者がいるだろうか?もしできないというならば、業務請負に関するいくつかの法は実質やってはいけないことの裏付けをしているに過ぎないのである。
大体コロナが収束すればすぐにどの業界も人不足になるというのに、中間搾取がいくつもあるのを放置していること自体が異常なのである。

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日本の二元論

ユーラシア大陸中央アジアより西の地域では、多神教→二元論→一神教という流れで推移している。
多神教の目的は人間を不条理に従わせることにある。不条理に従わせるのが目的だから、道徳は原則説かれない。
世の中は道徳で動いているのではない。不条理によって動いており、不条理こそが真理だと、多神教は人々に教えている。その代り、不条理に翻弄される人々に「完成された人間」になる道を示す。
多神教は、都市国家からバビロニアやエジプトなどの地域国家の範囲に留まる限り存続する。

国家が地域の範囲を超えて、複数の地域を包摂する世界帝国が誕生すると、多神教から二元論に移行する。
二元論でも神は複数おり、二元論も多神教だと言えばその通りだが、二元論の特徴は世界を善と悪に分けることにある。世界で最初の二元論は、世界最初の世界帝国を築いたアッシリアの後に世界帝国となったアケメネス朝ペルシアで興ったゾロアスター教である。

古代ローマも最初は多神教だったが、地中海の覇権を握る世界帝国となり、それが崩壊していく3世紀には、マニ教などの二元論が台頭するようになった。
しかしそれがキリスト教にとって変わられるのは、「完全な善」は理念的には成立しても、現実的にはあり得ないからである。だから

定言命法に達しなかった日本人 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、「完全な善」を実施しようとするなら、人間は定言命法を実践しなければならなくなるからである。それはほとんどの人間にとって不可能である。
二元論を維持するためには、道徳的善と合理的な正しさを不可分にする必要がある。
そしてここに二元論の落とし穴がある。合理的な正しさをもって善と主張し続けるには、結果を出し続けなければならないのである。
3世紀の古代ローマの軍人皇帝時代、ローマ人は蛮族に侵略される中で、皇帝に結果を出すことを求め、結果が出ないと皇帝を殺害して新しい皇帝を立てることを繰り返した。しかしローマの衰退は避けられることではなかったため、何度取り替えられても、皇帝達は結果を出すことができなかった。
古代ローマキリスト教に移行したのはここに原因がある。
一神教では、モーゼの十戒に見るように道徳を定言命法的なものとし、神でさえ完全に道徳的に振る舞うことはできないとした。そのことを表すのが『ヨブ記』である。
「わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。」
と神が不幸に見舞われたヨブに問うのは、神でさえ悪を成すことを表したものである。

日本では、二元論は藤原摂関政治に始まり、朝幕併存体制として江戸時代まで続いた。
日本では権威と権力が分離しているとよく言われるが、天皇制に限り、権威と権力の分離と合わせて二元論で歴史を見る必要がある。
日本の二元論には2つの特徴がある。そのひとつは長い時代に渡って、日本人が二元論に無自覚であることである。
南北朝時代には南朝を正統とする『神皇正統記』が書かれた時代だが、同じ時代に「天皇は木と金で作ればいい」と言う者も現れたりする。そしてこのことが、もう1つの特徴との関連を示す。
江戸時代になると、朝廷を善とし幕府を悪とする尊王攘夷論が生まれる。泰平の時代になると、二元論が明確に打ち出されるのである。
戦乱の時代には現実主義で人々は動く。南北朝時代にこそ、王朝が分裂するという異常事態のため『神皇正統記』が書かれたが、多くの人は現実的に社会を捉えていた。
それが江戸時代には南朝が正統とされ、楠木正成は大忠臣となり、足利尊氏は逆賊となる。
以上のことは水戸学という学問で説かれている。徳川御三家水戸藩が生んだ学問である。井沢元彦は「水戸家が朝廷側に付くように家康に遺言されていた」と『逆説の日本史』で主張するが、私は井沢氏の説を面白いと思いながらも反対する。水戸藩は日本人的な思考により水戸学を作り出したのである。

明治から敗戦までは、日本は二元論ではない。天皇制による一元的な社会である。
敗戦後、平和憲法により日本は二元論に戻った。つまり護憲を善、改憲を悪とする二元構造である。
朝幕併存体制以来の二元体制が平和憲法により復活したのである。
これで、日本の二元論のもうひとつの特徴がわかる。二元の二元論の善とは体制であり、しかも基本実現不可能な体制である。そして現実的な社会を悪とする。
定言命法も基本的に実現不可能だが、定言命法は人間の規範である。しかし日本の二元論は規範を作らない。
もっとも二元論の良さは、歴史を一貫したものとして見れることにある。その歴史が正しいかどうかは別にして。
何度も述べたように、右翼が自主憲法を主張するのは、護憲の70年の歴史を無かったことにするためである。右翼の歴史観はしばしばアクロバティックだが、その理由は二元論から一元論に転じたことにより、日本社会内に悪を作ることができず、結果一切を無謬にしようという強い衝動が生まれるからである。
結局我々は、規範を作る以外の道はない。

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新「脱亜入欧」論

natgeo.nikkeibp.co.jp

この記事は今では会員登録しないと全文を読めなくなったが、内容は興味深かった。
一見文章の長さの割には中味が薄く感じられるが、行間を読むようにして読めばその深みが分かる。政府は国民としっかりコミュニケーションを取り、信用できる情報を流し、何より政治利用しないことである。アメリカを見れば、やはりトランプ大統領でコロナの冬を乗り切るのは厳しいと思う。
春に話題になった自粛警察も、政府が止めるように働きかければ、よりストレスを少なくして冬を過ごすことができる。この記事を見て、そんなことを思った。

中国が香港への圧力を強めていく中で、台湾がどのような動きをしているかについてまとめたのがこの記事である。

gendai.ismedia.jp

台湾が国際的に中国とは別の国家として認められるべきだと私は思っているが、台湾自体はそのような動きはしていない。台湾が独立すれば中国が黙っていないからだろう。
台湾の外交はとにかく欧米寄り、そして日本寄りである。外交の内容も正式な国家でないため、フランスから兵器を購入する以外は経済のことばかりである。
しかし台湾の外交は、日本の取るべき道に大きな示唆を与える。
日本は独立国家として正式に認められているので、憲法の問題を除けば軍事面で外交を進めるのに問題はない。
各国との経済関係を深化させるのは、必要なのは一応理解できても、私のような素人にはかゆいところに手が届かないような印象がある。欧州との関係は、どこまで進んでも軍事的な関係に発展することはなく、極東のパワーゲームに直接に影響することはない。
しかしそれでも、日本がどの方向に進みたいのかを示すことは重要である。
台湾の外交は、明治以来の日本の「脱亜入欧」の路線と大きく重なるものである。つまり日本が海洋に進出しようとする中国を牽制する最良の道は「脱亜入欧」路線なのである。

この点で、最近の日本は方向性を明確に打ち出せずにいる。
日本では近年右翼が増加し、経済政策でもケインズ主義による主張が盛んである。左派ではれいわ新選組がそうで、れいわの政策は非常に鎖国的である。
そして右翼を中心に、尖閣諸島の防衛について盛んに論じられている。
尖閣諸島も日本の生命線であるシーレーンの維持には不可欠である。
ならば右翼がシーレーンの維持に関心を持っているのかというとそうではない。
彼らの関心は尖閣諸島止まりで、尖閣防衛論をもってシーレーン維持に偽装しているのである。れいわに至っては国土防衛の発想すらない。
経済思想と外交、安全保障の視野は大きくリンクしており、ケインズ主義的、鎖国的な経済思想になると本土防衛以上の発想をしなくなってしまう。
中国の海洋進出を阻むには東南アジア諸国をどれだけこちらの陣営につけられるかが重要だが、極東の日本と韓国が軍事関係を深めただけで東南アジア諸国を味方につけるのは難しい。しかしオーストラリア、ニュージーランドと同盟を結べれば、東南アジア諸国が中国の傘下に入るのを切り崩すことができる。そのためには欧米との経済関係をより深化させることが重要なのである。

『東京喰種』と『テラフォーマーズ』という、同時期に同じ雑誌で連載された二つの作品は、日本人の行くべき道に大きな示唆を与えている。
『東京喰種』の主人公カネキが結成した「黒山羊」は「あんていく」のメンバーと「アオギリの樹」の残党が合流してできた組織である。
アオギリの樹」は自衛隊の諜報期間青桐グループから名前を取ったもので、要するに右翼を指す。そして「アオギリの樹」は設立者のエト、王としての有馬貴将、参謀のタタラのトロイカ体制だが、実際に組織を動かすタタラは中国系喰種である。

日本型ファンタジーの誕生(26)~『アイアムアヒーロー』4:孤独になって人は自立する。 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で殻と中心の話をしたが、『テラフォーマーズ』の場合、殻は火星であり、中心は不時着したアネックス一号である。そしてアネックス一号には中国の第4班が待ち構えている。
右翼は変革の重要な要素だが、そのままでは中国と同じになると、この二つの作品は示しているのである。

ここで、中国の覇権を押さえきれずに日本が中国の傘下に入ってしまったと仮定して考えてみるのもいいだろう。
傘下に入ったからといって、体制を大きく変換させられることはないが、中国の影響は受ける。覇権国は思想を支配するか、支配しなくても思想的な優越感を持つものだが、中国が覇権国になれば、初めて思想を支配できず、思想的な優越感を持てない覇権国となるだろう。その場合、中国は「不機嫌な覇権国」となる。その場合日本に対して最も厳しい対応をとることになるだろう。
この仮想はモンゴル帝国を想像すればわかりやすいかもしれない。モンゴルが支配した文明国に劣等感を持っていたか否かは劣等感をどう定義するかによるがモンゴルが南宋の人民を「南人」として最下位に置いたのはモンゴルの思想的な優越感に貢献したのは間違いない。
そして中国が日本に不機嫌な対応をとるなら、日本も中国に対して反発することができる。しかし日本の右傾化が進んで中国と同質になれば、中国はむしろ日本に寛容な姿勢をとればよくなる。それで日本が中国に親近感を持つと思われてしまうからである。そうなれば日本でも口先ではともかく、内心では次第に反抗の牙を抜かれていくことになる。

どのような経済体制を作るか、どの国と同盟を結ぶか、そして我々がどう生きたいかは究極的にひとつになる。
AI化により人間が働かなくてもいい時代が見えてきた現代において、日本人はより幸福になれる社会を目指すべきである。そのために国際競争力を高め、欧米との関係を深めて中国の覇権を阻むのが新しい「脱亜入欧」である。

しかし

東京は単純にコロナ予防に失敗している - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

都知事選後に小池都知事が感染対策を本格的にやると言ったけど、小池さん行政能力低っ!!
「夜の街に行くな」とか「県外への移動を自粛しろ」ということばかりで他に打つ手が無いのが丸わかり。
仕方がないから政府は緊急事態宣言を出して外出自粛を要請できるようにするしか無いのだが、下手に批判すると政府が秋に衆院を解散しようとしているのを見越して、わざと外出自粛の解除の時期を早めて感染を拡大させて衆院を解散できなくしかねない。豊洲移転の時も大騒ぎのうえに空回りだったことを考えると小池さんならやりかねないよねwww。
それでも8月終わりまでに感染者数を1日平均20人以下にしてくれれば平穏に秋を迎えられると思うけど、今度は秋の小池百合子発コロナ第2波を警戒しなきゃならなくなってきたwww。

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日本型ファンタジーの誕生(34)~男女が結ばれて世界が崩壊する「セカイ系」と「天気の子」の誕生

セカイ系は男女が世界によって引き裂かれていく物語で、その引き裂かれる様をそのまま受け止めるのが本来の姿である。
その引き裂かれた男女が再び結ばれた場合、その世界が崩壊するのはストーリー構成上の必然といっていい。

最終兵器彼女』は2000年代初期の作品で、この時期の作品は暗示が非常に読み取りにくい。
ちせの胸の傷をを見た時、誰もがこの傷を取り除きたいと思う。しかしそれは違って、傷の方が人間の部分である。

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この傷がなくなった時、ちせは人間ではなく兵器になる。
実はここに分岐点がある。シュウジが人間としてのちせを愛するか、兵器としてのちせを愛するかという分岐点である。シュウジの浮気によりカムフラージュされているが、シュウジは兵器としてのちせを最初選べなかった。

この作品は、ちせが何とどう戦っているのかが明確に描かれない。

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随分とフェイクをかけている。
作戦のことを語っているのではないのである。少女を兵器に仕立てて楽しんでいた者が、少女を持て余し、声も掛けられない存在になるのを防ぐ方法、それが「女の子と思う」ことであり、それを「一番頭の悪い作戦」だというのである。
なぜ「女の子と思って」は駄目なのか?少女は戦いたくないのではないか?女の子と見られたいのではないか?
それが間違いで、ちせには兵器としての人格がある。その人格が「兵器に仕立てた責任を取れ」と言っているのである。兵器に仕立てておいて、「女の子」と思って見れば喜ばれると思うのは男の身勝手である。
シュウジとちせがそれぞれ浮気をするテツとふゆみの夫婦は、またそれぞれのダミーである。シュウジは人間の女性を求めてふゆみと浮気をし、テツは「女の子と思って」ちせと関係しながら、今際の際にちせの名前を呼ばずに死んでちせを傷つける。
敵の「補給ルートと一緒に退却ルートまで」消したとちせは言う。こうして少女が戦うのを楽しんでいた物語が、それを楽しんでいた男達と戦う少女との戦争へと変容する。
多くの作品で世界を相手に戦う場合、その世界はフェイクで、本質は日本との戦いである。
日本はボロボロになり、人々は社会インフラが崩壊した中で生きる道を探す。
シュウジもまたちせと二人で暮らすために漁業の手伝いをする。
ちせに与えられた薬は、人間としてのちせを保つための薬である。シュウジは生きるために様々な模索をする中で逞しくなるが、選択を誤る。
シュウジの選択は、「ちせが暴走したならばちせを殺す」だった。しかしここで初めてシュウジは兵器としてのちせと向き合った。
そして戻った故郷の街で、シュウジとちせはセックスをする。シュウジが兵器としてのちせを受け入れたのである。しかしその時、ちせは世界を滅ぼす決断をしていた。
シュウジは人類が滅びた世界を後にして、ちせと二人で旅立つ。

この時、世界を滅ぼしたのはちせである。
この「世界を滅ぼす役割」を男が請け負ったのが『天気の子』である。
こうして、「世界の運命を決めるヒロイン」でも「見棄てられたヒロイン」でもない、「天気の子」という第三の類型のヒロインが誕生する。天野陽菜以外の「天気の子」は、『とつくにの少女』のシーヴァとミッシェル・K・デイヴスである。
「天気の子」は「世界の運命を決めるヒロイン」のように高い資質を持つが世界の運命を決めず、むしろ世界の犠牲となる運命を負っている点で「見棄てられたヒロイン」との共通点を持つ。

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つまり「天気の子」は、セカイ系を触媒にして「世界の運命を決めるヒロイン」と「見棄てられたヒロイン」が融合したものと見ることができる。そしてその救済が世界を大きく変容させていくのである。

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東京は単純にコロナ予防に失敗している

新型コロナウイルスの感染者が再び増加し、現在東京では一日50~60人の陽性者が確認されている。6月初めには10人を割っていたはずなので、1ヶ月足らずで急増したように見えるが、これに日本の感染拡大のピークが諸外国に比べて極端に低いからである。はっきり言って諸外国とは感染者数の桁が違う。
日本の感染拡大のピークは3月で、東京で一日の感染者数が200人を超えた程度である。当時は欧米の状況が悲惨で、日本も同じようになるという危機感が強く、新型コロナが季節の影響をどれだけ受けるかということもわかっていなかった。
実際には4月7日の緊急事態宣言より前に感染拡大はピークを向かえており、緊急事態宣言の効果が疑問視されている。

news.yahoo.co.jp

日本では一日の感染者数の約半分が東京での感染者である。
東京は日本の中心であり、1400万人の人口がいる。
しかし東京は、他と比べて感染が拡大し過ぎている。
日本第二の都市は大阪と思われがちだが、実は横浜市である。
横浜市は人口376万人、神奈川県で922万人である。横浜で今日は28人の感染者が出たが、それ以前は5人10人である。
大阪では今日は5人で、連日0人だった頃に比べてじわりと増えているが全く危険水域外である。
人口密度でいえば東京都は6383人/平方km、23区で15451人/平方kmである。
しかし横浜市の人口密度は8594人/平方km、大阪市は12215人/平方kmである。東京の感染拡大は過密人口が原因だが、感染拡大を止められないほど過密している訳ではない。東京が感染対策に失敗しているのである。
大都市で感染症が広がれば、影響を受けるのは衛星都市、次に大都市との往来が多い他の大都市である。
大阪もまだ感染者数が少ないながらも東京の感染拡大と関係があると私は思っているし、横浜も夜の街からの感染者が半分を占めているが、東京と横浜を往来した者が夜の街で感染を拡げたと見るべきである。仙台でも感染者が出ているが、それも東京との関係が強いと見ている。

現在都知事選の最中で、現職の小池百合子氏が再選されるのはほぼ確実である。
都知事選で感染拡大が話題にならないし、感染対策も特になされていないが、別に無策なのではない。
選挙期間中に慌てて感染対策をやると、小池氏が感染対策に失敗したように見えるから、敢えて無策を装っているのである。いわば都知事選のために感染症対策が遅れているのであり、小池氏が再選されれば、夜の街を中心にした感染対策が為され、それに伴い東京発のコロナの感染拡大は下り坂へと向かい、この夏場を乗り切ることができる。

秋以降に懸念されているコロナの第2波だが、日本に限らず、アジアでの感染者が少ないのはよく指摘されていることである。
これについてはBBC接種による自然免疫、別種のコロナウイルスに感染した経験による交差免疫などが指摘されている。これらにより基本再生産数も最低で1.4に見積もられている。合わせて致死率も0.2~0.6%と見られている。
また感染予防についても、接触確認アプリや下水からウイルスを検知する方法などが開発されて、早期に感染者を隔離できる体制が整いつつある。
治療薬もレムデシビルや重症患者に効果のあるデキサメタゾンなどが開発されている。第2波といっても、私などは11月までは平穏に過ごせると予想している。

news.yahoo.co.jp

それ以降についても、阪大発の創薬ベンチャーアンジェス」が早期承認を目指してワクチンの治験に入っている。

www.jiji.com

第2波は回避される可能性が高いのである。

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幕末の群像②~河井継之助が目指したのは「大政奉還」

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司馬遼太郎は短編『英雄児』で自らの力を過信した結果として、『峠』で武士の世が終わることを予見しながらも、武士道の完結として河井継之助北越戦争に至ったと描いた。
しかし私は、何度も読むうちにどれも継之助の本心にまで入り込んでいないと思うようになった。特に『峠』は長編なだけに、継之助の心情に踏み込んでいないためにストーリーが上滑りしている感がある。

幕末の動乱期、武市瑞山は一藩勤王を目指して土佐勤王党を結成し、坂本龍馬は土佐郷士による政権奪取を危険と見て脱藩浪人となった。
歴史は龍馬に先見の明があると見るが、これは誤りと言っていい。
幕末に脱藩浪士として大きく名を成したのは清河八郎坂本龍馬中岡慎太郎の3人しかいない。
他の脱藩浪士は多くが明治まで生き残れずに非業に倒れている。
そして幕末に名を成してもやはり死ぬのである。それが脱藩浪士の運命である。
幕末を生き抜き、明治に活躍できたのは薩長の藩官僚である。
藩官僚として活躍するのが幕末期にどれほど有利だったか。
脱藩浪士には死ぬ運命しかない。浪士がこの壁を突き抜けて歴史に名を残す活躍ができたとしても、やはり死ぬのである。
河井継之助が脱藩して勤王派にならなかったのを、武士道倫理のみで理解しようとするのは誤りである。
藩官僚にならなければ事を成すことはできないというのは、時代の常識的な考えである。そして継之助が仕える長岡藩牧野家は譜代藩である。勤王倒幕という選択肢は、最初から継之助にはなかった。

継之助は中年になるまでの間、江戸をはじめ諸国を巡って旅をする。
旅は、師を求めて学問をするためである。しかし継之助は何を求めていたのだろう?
継之助が佐久間象山を折りが合わなかったのは理解できなくもない。
どちらも傲岸な性格だからである。しかし性格が会わなくても、それが象山の教えに満足しない理由にはならない。
その継之助が、備中松山山田方谷に師事したのを最後に旅を終え、長岡に戻って藩政に関わり、家老、そして執政となる。
山田方谷は謙虚な性格で、継之助とはそりが合いそうである。しかしもちろんそんなことで継之助が方谷を最後の師とした訳がない。
もっとも方谷は藩主を幕政に関与させないように説くなどの継之助との共通点があるし、農兵制を敷いたり西洋兵学を学んだりしたが、それ以外は方谷は江戸期の普通の藩政改革者というしかない。第一幕末に多く現れた警世家ではない。
継之助が方谷の何に満足したのかがわからない。

ここで山田方谷備中松山藩というのを考えてみよう。
方谷の主君は板倉勝静である。徳川慶喜の代に老中だった人物である。
継之助が方谷に師事したのは1859年で、幕末の動乱の中期である。継之助は方谷に師事しながら途中長崎に遊学したりして、翌年に方谷の元を去っている。
板倉勝静は当時幕閣だったが、継之助が方谷に師事した時期は丁度安政の大獄で勝静が罷免されていた時期である。
要は、方谷は勝静の家臣として、幕府の内情に詳しかったということである。
当時の幕政では公武合体論が主流だったが、一方で勝海舟などが大政奉還論を主張していた。
大政奉還については、いつ誰が最初に唱えたのかは詳しくはわからないが、ウィキペディアでも1860年頃には主張されていたと推論できるように書かれている。

大政奉還 - Wikipedia

方谷は、継之助に大政奉還を教え、それに満足して継之助は長岡に戻り、藩政改革に着手した。というのが一番妥当な推論だと思う。しかし龍馬に先を越されたのである。
そして継之助の一藩中立官軍と、会津の和解の画策などは、大政奉還後の倒幕運動に対する、大政奉還論の変形である。

継之助の藩政改革は、博打の廃止、芸者の廃止、妾の廃止と、殖産興業など迂遠といわんばかりの直接的な金集め政策である。
越後長岡藩は七万四千石。実高は二十万石と言われているが、表高と実高が違うのはどの藩も同じで、長岡藩が大藩だということにはならない。
その長岡藩を、継之助は西洋の兵装に切り替え、さらに東洋に三門しかないガトリング砲を二門持つまでになる。明らかに長岡藩を幕末の風雲に投じるためである。
そして長岡藩の実情も知らない官軍の岩村精一郎が継之助の提案を一蹴すると、継之助は3ヶ月もの間、長岡藩の軍により官軍を翻弄するのである。

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「敵の敵は味方」「昨日の敵は今日の友」

NGT48が活動を再開した。
NGTの活動再開自体が山口真帆潰しの始まりと私は見ているが、今回は研音について。
ファンは研音が山口を潰そうとしていることを意識しないとファンをやる意味がない。



 

菅原りこや長谷川玲奈のフォローも外させ、未だに研音だけしか山口にフォローさせない研音が山口の味方だと思っている者はひとりもいないだろう。そんな研音が今後どれだけ山口を芸能人として使うつもりがあるというのか?
研音が山口に反論させないので、山口のフォロワーがどんどん減っている。

entamega.com

山口ファンに山口のフォロワーが減るのを止める力はないが、ファンは研音が山口に仕事を持ってこないのを許さず、山口を女優にしないのを許さず、NGTへの山口の反論を妨害するのを許さず、山口が研音しかフォローできないのを許してはならない。
ただしあくまで私見として受け取って欲しいが、ドラマのレギュラーは駄目。
既に山口と研音の信頼関係は壊れていて、演技指導が十分に行える環境にないと私は見ており、レギュラーとして登用するのは山口を潰すためだと見るべきである。2、3年はレギュラーでない仕事を持ってこさせるべき。山口が「嫌だ」と言わない限り。

私が批判した人をフォローするという状況が相変わらず続いている。
よくも飽きずにやるものだと思う。
しかしこれもひとつの現象として冷ややかに見ている。

安倍政権は低所得者層の「復讐の代行者」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で一、二年で日本の権威が崩壊すると述べてから今年で2年目である。今その権威の崩壊をひしひしと感じている。
しかしこの権威の崩壊に対する人々の行動が良くない。
権威の元となる同調圧力が弱まると、人々はさらに同調できる何かを求める。
本当に行くべき道は逆である。同調に逆らった先に本当の答えがある。
コロナ禍での自粛要請でも、補償がでないのなら仕事をすればいいのである。自粛警察が問題となったが、みんなが補償がなければ普通に働き始めれば、自粛警察などあんなに幅をきかせたりしなかったはずである。自粛警察も補償のない要請に応じるのも、根っこは同じである。要請に効果が無ければ、国だって補償を出したかもしれない。
要は自分の評価と救済は自分でしろということである。まずはそのようにすべきで、逆に言えば自分で自分の評価と救済をするためなら何をしてもいいということである。
だから「敵の敵は味方」で動いていいし、「昨日の敵は今日の友」で動いていい。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」、「朝令暮改」何でもござれ。実際よく見ればわかると思うが、このブログも結構朝令暮改であるwww。
「人間は首尾一貫しなければ」なんてきれいごとは結構。首尾一貫した奴などほとんどろくでなしである。もっと正確に言えば、首尾一貫してるように見える者は広い意味で首尾一貫していないのである。「法の下の平等」を唱える者が全ての問題で「法の下の平等」を求めているか?どうせみんな首尾一貫していないのだから首尾一貫する必要などない。
日本人はとにかく「敵の敵は味方」で動けない。「利害は一致しているはずだ」と思って今までに何度話を持ちかけても応じない。そういう時は大抵ヒエラルキー感覚で人は動いているのである。
今話題にならないのがLGBT発達障害で、その理由は彼らを引き立ててきたフェミニズムの影響力が弱まったからである。
少なくともフェミニズム護憲派の専売特許ではなくなるし、元の力を取り戻すには相当時間がかかる。
ならばLGBT発達障害はなんでもいいからマイノリティを引っ掻き集めて復権を目指せばいいのだが、それができない。過去のヒエラルキー意識に囚われているのである。既に破滅思考である。特に派遣の問題は全く取り上げることができない。大体ヒエラルキーは罪の意識の裏返しで、派遣の問題は罪の意識が深すぎて差別にさえならない。
沖縄もそうで、最近はコロナの問題で多少は話題になることもあったが、本土の人間は沖縄基地問題を忘れる方に向かっている。
だから沖縄基地問題が再び取り上げられるには、本土のマイノリティとの協力関係の構築が必要なのだが、護憲との関係でそれができない。
そう、護憲との関係でできないのである。護憲派の差別への取り組みはヒエラルキー固定のためのごまかしだから。
そもそも沖縄基地問題は単独で成立する問題ではない。本土のマイノリティと協力関係を結ぶなら、離島問題も含めてあらゆる差別問題に取り組んでいかなければならないのだが、離島問題は自民に逆手に取られて基地問題の障害となる始末である。
護憲と組んでも「辺野古移転反対」までで、いつまで経っても県外移転の話にはならないのだが、護憲離れのタイミングが掴めないのか、もっと根本的な問題があるのか、情報不足でなんとも言えないがとにかく時間のかかることなのだろう。

敵の敵は味方」、「昨日の敵は今日の友」が、根本は脱ヒエラルキーに繋がるものである。
しかし理念から入る必要はない。自分の利害から行動していけばいい。ただ破滅思考からは卒業する必要がある。

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