坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生⑤~アイアムアヒーロー①

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アイアムアヒーロー』4巻で、鈴木英雄と早狩比呂美が、ZQN化した比呂美のクラスメイト二人に襲われる。 

ZQNとなった可南子が比呂美と英雄に襲いかかるが、もう一人のZQN、紗衣が可南子に噛みつき、紗衣の意図が不明ながらも、比呂美と英雄を助ける格好になる。

 噛み合う二人を見て、比呂美と英雄はZQNが生きているか死んでいるか問答したり、引きずって病院に連れて行こうとしたりするが、このやり取りは次のアクションのための重要な布石である。やがて比呂美が、

ほんとは死んで欲しかったんだ。迷惑かけないから銃かしてもらえますか?

 

と言い出す。

 ZQNが生きているか死んでいるかは、この場合二つの意味を持つ。

 ひとつは、ZQNが死んでいれば死体に襲われた、あるいは人でないものに襲われたことになり、銃で売っても人殺しにはならないという意味である。 もうひとつは、回復または蘇生の可能性があるなら、人間としてその努力をするべきだという意味である。

 可南子は活動を停止し、比呂美は紗衣の頭にバッグを被せて病院まで引っ張ろうとするが、病院内でZQNの感染が拡大している可能性を英雄が指摘し、紗衣を助けるのが困難であるとわかってくる。

 紗衣は突然「フケ」と言う言葉を口にする。 ZQNは生前よく口にしていた言葉を、脈絡なく口にする。紗衣は比呂美に「フケが多い」と言っていじめていた。

ここで先の比呂美の言葉が出るのである。 比呂美の紗衣を憎んでいたのは事実である。 しかしなぜこの話の流れの中で、比呂美はこのように言うのだろうか。 


正当防衛について考える場合、社会契約論を元に考えるのが一番分かりやすいと思う。

 ホッブスやロックの主張した、社会の成立についての学説である。 人類は、最初は社会を持たず、「万民の万民に対する闘争」の状態である。人が自分が生きるためにどのようなことも行う自由を持っている。身を守るために人を殺す自由も、人の財産を奪う自由もある。自然権という。

 そして人々が自然権の一部を放棄し、契約により「人を殺してはいけない」などの取り決めをして社会が成立する。 

「万民の万民に対する闘争」は、カオスと言い代えてもいい。 

「人を殺してはいけない」と言う道徳は、社会が無ければ実行するのはほぼ不可能である。 

それでは社会があって、それでもなお突然人が刃物を持って襲いかかってきた場合はどうだろう。 その場合、警察が介入して危機が回避される可能性は少ない。社会の中にありながら、そこにカオスが生じており、カオスがあるからこそ正当防衛が成立する。

そしてカオスにおいて道徳が実践できない以上、正当防衛は自然権そのものであり、道徳に基づかない。

 正当防衛が道徳に基づかないことを、もっと掘り下げてみよう。 

人がナイフを持って自分に襲いかかってきたとする。 それで、人は正当防衛の理由ができると判断する。しかし、襲いかかってきた人は、そのナイフを胸に刺す手前で寸止めして、 「なーんちゃって!!」 と言うかもしれない。襲いかかってきた人が100%の殺意があるという判断は、ナイフが自分の胸に深々と刺さらない限り不可能である。

つまり正当防衛の判断基準は多くは主観なのである。 主観である以上、正当防衛によって冤罪で相手が死んでしまう可能性がある。冤罪で人を死なせることは道徳にならないのである。

 『アイアムアヒーロー』のこの状況が、まさに正当防衛の曖昧さを示している。

紗衣は比呂美達を寧ろ助けている。ZQNとなった紗衣が比呂美達に襲いかかる可能性があるだけである。

 正当防衛は、「相手が襲いかかってきた」という主観的判断から、「襲いかかってくるかもしれない」という主観的判断に拡大して解釈できる概念である。この拡大解釈で、多くの人を殺すことができる。しかしより多くの人が冤罪で死ぬ可能性のある概念は、道徳からほど遠い。殺人の言い訳が増えていく概念は、道徳を崩壊させる。

 道徳は人が生きるための重要な規範であり、状況によって「殺してはいけない」→「殺す」という、180度の転換をしてはいけないものである。カオスの中で道徳を実践したければ、殺されても反撃してはいけない。

 『アイアムアヒーロー』は、人を殺してはならないと言っているのか? そうではない。生きるために人を殺すのは否定しないが、それは道徳ではないと言っているのである。

 比呂美が紗衣に「死んで欲しかった」と言うことで、道徳的に正当化しない、道徳を忘れない意志表示となる。 

『進撃』がマキャベリズム的に生き残りを模索することを、そのまま生の在り方として賞揚するのに対して、『アイアムアヒーロー』のテーマのひとつは道徳である。

しかし『進撃』と『アイアムアヒーロー』のベクトルは真逆のように見えて、生きることの肯定という点で同じ地点から出発している。

『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、私がこの二作品が相互補完的だと言った所以である。 


「道徳を忘れない」意志表示により、比呂美はこの作品の中で、世界の運命を決めた。

 御殿場アウトレットモールのコミュニティは、現実そのものである。強い者が弱い者を虐げる、我々が容易に想像できる光景である。

 しかしストーリーの途中に御殿場アウトレットモールの話があることで、我々はその後のファンタジックな世界を、現実の延長として捉えている。

 英雄達は家屋や宿泊施設で物品を拝借するたびに自分達の連絡先を添えて「弁償します」と書き置きし、小田つぐみがZQN化したのを殺せば「警察に通報してください」と貼り紙し、ついにはダメヒーローの英雄が、ZQN化した元カノを「殺したくて殺した」というようになる。

これこそファンタジーであり、現実の旅ではなく心の旅である。 


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ヒューマニズムと社会性

最近思っていて、書きたいと思いながらどう書けばいいかわからなかったことを書こうと思うきっかけになったのは、この記事である。

blog.kuroihikari.net

この記事はきっかけであり、本筋についてどうこういうつもりはない。ただ気になったのがこの一文である。

たまには、新着エントリーから、真剣に探して、日々文章を打っている目立たない人を拾い上げてはどうか。すべてのブロガーにチャンスを与える、えこひいきをしない。それが敷いては、ブログサービスの延命へと繋がる。

 

この本筋から遠い部分についての疑問が、私の書きたいことにつながる。つまり株式会社はてなは全てのブロガーにチャンスを与えるのが延命どころか、衰退につながると考えているのではないかというのが私の考えである。


 違和感は、今年の夏頃からあった。

 それ以前のはてなブログでは、時々人間くさい記事がよくランキング上位に登っていた。

 探すのが面倒だからリンクは貼らないが、ろくでなしが登山に賭ける話とか、引きこもり、いやオタク?の母親が自殺した話とか、父親が自殺した話などである。 

こういった記事はよく人間のどうしようもない弱さを描きながら、それでも読まずにはいられない力強さがあった。

 そういった記事が、夏頃から見かけなくなった。

 いや、あることはある。 以前書いたのでやはりリンクは貼らないが、トイアンナさんの記事などである。

しかしトイアンナさんははてなのランキング入りの常連で、しかもこの時は炎上記事を引き合いに出していた。

 またはてこも差別についての記事(これもリンクは以下同文)をランキング入りさせていたが、はてこもランキング入りの常連で、しかも記事に熱が籠っていても形式は論文である。 

貧困女子校生の話はNHK絡みである。

 つまり、今はランキング入りの常連か、炎上への便乗がないとランキング入りしなくなっているのである。


 はしごたん氏は子育てブログが常にランキング入りすることについて批判していたが、私は子育てブログを見ている。

 結構楽しんで読んでいる。さすがに自分の子供の顔をゲス顔とか書くなとは思ったけど。

 しかしやはり違和感は感じていて、人間くさい記事が浮上しなくなった代わりに子育てブログが浮上したのではないかと思っている。 

また、社会派の記事が浮上しなくなった。

 以前はカテゴリーの欄に考え方、社会などの記事があった。 システムはよくわからないが、それぞれのカテゴリーの上位の記事で、PVの多い記事が人気エントリーとしてランキング入りすると単純に理解している。

 しかしやはり夏頃から、社会派の記事がカテゴリーから人気エントリーに登らなくなった。

北斗の文句は俺に言え - 男の魂に火をつけろ!

これなどもいい記事である。 (この記事だけどうしても埋め込みにできんかった…) こういった記事がランキングの上位に浮上しない。しかもカテゴリーの欄から消えるのが速い。 

そう思っていたら、はてなのシステムが変わった。考え方、社会などのカテゴリーが無くなり、技術、写真・カメラ、文房具になった。 


人間くさい記事が浮上しなくなったのと、社会派の記事が浮上しなくなったのは関連がある。 つまりヒューマニズムの問題である。

この夏くらいから、日本人のヒューマニズムが衰退したと私は考えている。

 ヒューマニズムと言えば、子育てブログもヒューマンである。しかし多くの人が傷つかないヒューマニズムである。

 人間くさい記事や社会派の記事は、既に多くの人にとって、傷つきやすい、人に見られたくないものになったのではないか?

 人間くささや、不条理に対する怒り無くして、社会派の記事への共感はないのだろう。

 私は今派遣で働いているが、派遣社員はよく、「歳をとったらのたれ死にする」と言っている。 こんなことを書いてランキング入りするとは思わないが、やはり少しも影響は与えないのだろう。


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日本型ファンタジーの誕生④~戦後の平和主義的正義観を変えたガンダム

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戦後のストーリー作品で勧善懲悪をテーマとした作品で、『ウルトラマン』などに登場する怪獣の多くは、猛獣をイメージさせるキャラクターと思われる。

 猛獣は本能に従って行動しているだけだが、人間にとって有害なので駆除する。怪獣達も本能で行動しているだけである。 

そして一度の放送で怪獣を一匹倒して終了。このパターンの繰り返しは、

日本型ファンタジーの誕生③~鬼退治と平将門と江戸時代の妖怪 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の鬼を一匹倒して終わる小さ子の物語を踏襲しているように見える。

 怪獣が敵でないストーリー作品の場合、敵の目的は世界征服、地球侵略である。

「侵略=絶対悪」の図式が露骨で、何度も繰り返される。この「侵略=絶対悪」の図式の中では、チンギス・ハンは間違いなく大魔王だろう。


 この「侵略=絶対悪」の図式の繰り返しは、もちろん戦後の平和主義の影響である。

 そしてこの時期、ファンタジーはほとんどない。 もちろん『ゲゲゲの鬼太郎』などはあるが、私がこれをファンタジーに分類しないのは、旅をしていないからである。終わりに向けた旅をしていないから、毎回同じような話に感じる。

 例外的にファンタジーとして挙げられるのは、手塚治虫の『どろろ』である。

どろろ』は日本を舞台にしながら、妖怪達との相互理解のない、善と悪の戦いを描いた見事なファンタジー作品である。

 ファンタジー作品の極端に少ない理由のひとつに、科学技術の礼讚がある。 

科学をテーマとした作品は、日本だけではなくアメリカにも多かった。 しかし日本では、科学をテーマにしたストーリー作品が「ロボットアニメ」という方向に収斂されていく。 

ロボットアニメは『鉄人28号』『鉄腕アトム』を先駆として、『マジンガーZ』により定着する。

 このマジンガーZも、毎回一体の敵を倒すアニメである。 しかしロボットアニメは、これまでと違うベクトルを持つようになる。

72年に連載、放送がスタートした『マジンガーZ』から7年の後、『ガンダム』が始まる。

 『ガンダム』は戦争もののロボットアニメである。

戦艦にモビルスーツと呼ばれるロボットがわらわらと群がって撃沈するシーンは、歩兵が戦艦を破壊するようで説得力がない。そこをミノフスキー粒子という架空の粒子で納得させたのは、ロボットアニメが何であるかを考える重要なファクターである。 

なぜ人型ロボットが生まれたのか?それは人型ロボットでないと視聴者が自分を投影できないからである。

それではなぜ人型ロボットに自己投影する必要があるのか?それはロボットは成長しないからである。

 そして成長しないロボットアニメだからこそ、『ガンダム』は生まれた。久美薫は『宮崎駿の時代』で、ニュータイプを成長をめんどくさがっている若者が楽に成長したがっていると批判していたが、元々ロボットアニメは主人公が成長しない物語なのである。登場当初はヘタレだったアムロは、それなりに成長している。


 『ガンダム』の注目すべき点はもうひとつある。 

ガンダム』の世界観は人口が増えすぎた未来の地球で、スペースコロニーを造ってそれに増えすぎた人間を移民させていた。

 スペースコロニーの住民は「棄民」と呼ばれ、コロニーのひとつがジオン公国として独立する。

ジオンと地球連邦軍の戦いで、視聴者は地球連邦軍サイドから見ていく。 これは、日本と旧植民地の対立の焼き直しなのである。

 ジオン軍スペースコロニーを落とされ、「反撃やむなし」として戦う『ガンダム』は、日本の平和主義に正面からケンカを売ったとは言えない。 私はファーストガンダムしか知らないが、ガンダムシリーズでは、初代が地球視点、『Z』『ZZ』が宇宙視点、『逆襲のシャア』が地球視点のようである。日本側、植民地側と視点に一貫性がない。

宮崎駿の時代』にも、「ゆえに戦争はいけないんだと締めくくれば全てOK」と書いてあったが、ガンダム以降「侵略=悪」から「戦争=悪」の作品が増えていく。「戦争=悪」としながら戦争をする矛盾がこれらの作品に表れるのだが、「平和主義に反対しているわけじゃないんだ」という叫びが、これらの作品から聞こえてきそうである。

 しかし「あの戦争は間違った戦争じゃなかったんだ」とネトウヨのように言う気はないが、ガンダム』の世界観はありだと思っている。

 民族にとっては、救国の英雄も将門のように不条理に立ち向かった人物も、征服者も皆ヒーローで、よほどのことがない限り、思想で悪人にはできない。


 ここでどうしても触れなければならないのがヒトラーである。「ならばヒトラーは英雄なのか?」という疑問がどうしても生じるからである。 

結論から言えば、ヒトラーは悪人である。

 ナチスのアーリア民族至上主義や、ヒトラーの過激な演説などが、侵略行為を正当化したと考えると判断を誤る。

 ナチスは侵略を正当化したように見えて、実は悪人として開き直ったのである。「俺達は悪人だから侵略するんだ」と。だから大戦が終わると、ドイツ人は素直に反省した。

 一次大戦はヨーロッパの諸国民に多大な犠牲者を出し、ロストジェネレーションと言われる世代も生み出した。ヨーロッパ人は戦争を嫌がるようになっており、「戦争=悪」の思想が生まれていた。

その空気をドイツ人も共有していたのであり、侵略戦争に踏み切るには、行為の正当化より開き直ることが必要だった。

 一方、一次大戦の主戦場にならなかった極東では、反戦の思想は希薄だった。だから日本の戦争に対する反省は、「アジアへの謝罪と反省」はより対外関係を意識したもので、本質的には多くの日本人を死なせたことにあるべきだろう。


 『ガンダム』は、有史以来侵略=絶対悪のように唱えながら、大河ドラマでの信長や秀吉の活躍に何の疑問も持たなかった日本人の善悪の観念に一石を投じた。 すると、ストーリー作品の善悪の観念が変質していく。その話はまた後ほど。

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日本型ファンタジーの誕生③~鬼退治と平将門と江戸時代の妖怪

①どのようにして日本型ファンタジーは生まれたのか。

 ②日本型ファンタジーはどのように展開、発展するのか

。 と

『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたが、前回②を先に書いたのを言い忘れた。今回は①を語ることにする。

方言と平将門 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

は私が最初に書いた記事で、タイトルをつけ忘れてそのままにしていたものである。 

この記事にあるように、日本の民話では子供が鬼退治をして終わる話が溢れている。しかも鬼退治は一回きりで話が続かない。

 一方俵藤太の物語は、ムカデ退治と平将門討伐という二つの戦いがあり、大人が主人公なことも「小さ子」の物語とは違っている。

それで俵藤太物語とは、真の主人公は平将門であり、将門の強烈な個性が神話化したものだが、逆賊の将門を主人公にできなかったので、将門を討った俵藤太を主人公にしたものであると見た。

英雄の冒険は英雄の成長を表すものであり、「小さ子」を主人公にして、鬼退治を一回するだけで終わる日本のおとぎ話は、成長を阻害する意思が働いている。

 日本のおとぎ話は、室町時代にはほぼ出揃うが、江戸時代になると、日本の妖怪が現在の形に定着する。その姿はどこか愛嬌のあるキャラクターになっていく。

河童なども、江戸中期までは毛むくじゃらの猿のような姿だったらしい。

河童が尻子玉を取るのは、人が溺死すると肛門が開くことから生まれた話だが、それが男色譚に変わったりする。

 その結果、妖怪話で妖怪退治の話は、相対的に少ない。妖怪は妖怪退治の話になりにくい姿や性格を、特に江戸期以降持っていく。

 もっとも江戸時代にはその姿がはっきり描かれないものもあり、水木しげるがデザインした妖怪もいる。油すましなどである。

逆に、デザインが江戸時代に定着していて、どういう妖怪なのか全くわからないものもいる。豆腐小僧などである。

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豆腐小僧に、妖怪としての性格を与えたのも水木しげるである。

 一方、ファンタジー要素のある作品で勧善懲悪を担うのが怪談のようである。殺された人物が霊となり、殺した人物をとり殺す。そのような幽霊復讐譚が、怪談の基本形である。

 怪談は日本の怨霊信仰が、基本的に高貴な人物が怨霊になっていたのを、一般人にまで拡げたものである。

しかし怪談は勧善懲悪というより、人の良心の疚しさの表れと見ている。つまり勧善懲悪が善を勧めることで人を善化する意図があるのに対し、幽霊復讐譚は既に罪を犯した人が、怪談の中の人物に自己を投影してとり殺されることで、自らの良心を癒す働きを持っているようである。

与右衛門が累を殺した時、さらにさかのぼって先代の与右衛門が助を殺した時、村人たちは彼らの行動を知りながら黙止あるいは追認し、その罪を問おうとしなかった。累も助も共同体の総意として排除されたのだ。
だが、徳川幕府の法による支配が安定してくると、それまで共同体の規範で処理されていたような問題も法の網の目に触れるようになってくる。…(中略)…若い菊はその社会の変化に敏感に反応した。それまで村内では周知ゆえに特に口外されることがなかった累殺害の真相が、彼女にとっては抱え続けるにはあまりにも重い秘密になってしまったのだ。
だからこそ、彼女は殺害された累の憑代となってその秘密を暴き、あらためてその罪を問わなければならなかったのだ。
原田実『もののけの正体』

 

明治以降、戦前までを語るのは私には無理だが、おおむね西洋型の近代小説を表面として、裏側で従来の日本の民話が需要されていたというのが私の見解である。

 ということにして、次回戦後に飛ぶ。

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日本型ファンタジーの誕生②~主人公を傷つけるヒロインと距離感のあるヒロインたち

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日本型ファンタジーのヒロインについて考える時、私が思い出すのはこのマンガである。

小池田マヤ「不思議くんjam」の感想を書いてみた - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

では書いてなかったが、『不思議くんjam』ではヒロインが主人公のライバルと肉体関係を持ったことが最後に明かされる。

 このことがかなりの衝撃で、小池田ファンの間ではかなり話題になったようである。 

『不思議くんjam』は、早咲きながらも時代にシンクロした作品である。 


主人公に非処女の女性を当てる作品としては『アイアムアヒーロー』がある。

 序盤の鈴木の彼女の黒川徹子は、売れっ子漫画家の中田コロリの元カノである。男は非処女をそんなに問題にしないが、それでも元カレを知っているというのはきつい。 鈴木は徹子から中田のネームを見せられたり、中田を通じて他社を編集者を紹介してもらうように言われたりする。

 ヒロインの早狩比呂美も彼氏がいて、比呂美が感染してからも、彼氏の名前を呼んだりする。これでキスも経験なかったとは拍子抜けだが、『アイアムアヒーロー』はこの点、中盤まで主人公をいじめ抜いている。 

しかし他の日本型ファンタジーの作品を見ると、非処女は登場しない。 

日本型ファンタジーの主な特徴は、主人公とヒロインの距離感である。 『進撃』ではミカサが一方的にエレンを想い、エレンがミカサに恋愛感情を見せることがない。 

気になるのは、ミカサの頬の傷である。一時的なものかと思ったが、傷跡が残ってしまった。女性の顔に傷があるのは、見るだけで痛々しい。 

そしてミカサの傷はエレンがつけたものである。表に出さないが、ミカサの傷はエレンにも負い目になっているだろう。とすると主人公に非処女をあてがうのが日本型ファンタジーの目的ではなく、主人公を傷つけるのが目的だと解釈できる。もっとも主人公を傷つける場合、それが非処女として表現するのが一番可能性が高いのだが。


 『亜人』には、今のところ主人公のヒロインに当たる女性が登場していない。

もっとも『亜人』は今まで見た限りでは、ヒロインは主人公の妹である。犯罪者の息子ということで、主人公が差別した海斗に、主人公の妹が想いを寄せており、主人公の妹と海斗が結ばれ、主人公と海斗が和解する結末が容易されている。

 一方、戸崎は永井と同じ性格である。戸崎は下村泉と常に一緒にいるが、この二人にも恋愛関係はない。ちなみに下村泉は非処女である。

 つまり『亜人』では海斗と戸崎が主人公の分身であり、主人公の分身を見る限り、ヒロインは一応いる。この場合、主人公とヒロインが分散している。 


僕だけがいない街』はタイムスリップの話である。 何度もタイムスリップする内に歴史が変わっていく。

その過程で、主人公は元の時間軸にいるヒロインと出会うことを諦める。 

主人公は植物状態になり、回復してからヒロインと偶然出会う。しかしそれでも主人公は、ヒロインと関係を持とうとしない。もっとも最後にヒロインと再び出会ってハッピーエンドになっている。


 ヒロインの分散と言えばラブコメだが、『アイアムアヒーロー』はラブコメ的に見えるが、よく見ると一概にラブコメと言えないところがある。

 鈴木は小田つぐみとセックスをするが、「こんな状況じゃなきゃね」とつぐみに言われており、想いは鈴木の一方的なものになっている。 

つまり日本型ファンタジーでは、主人公とヒロインの間に距離感があり、恋愛が発展しにくい。そして稀に、主人公に非処女があてがわれるなど、主人公を傷つける処置が行われている。


 『まどかの決断は自己犠牲ではない』 で、「『まどかマギカ』男が消費するは魔法少女もの、戦闘美少女ものの最後のヒット作になるだろう」と私は延べたが、魔法少女もの、戦闘美少女ものの縮小は、日本型ファンタジーの発展と連動していると思う。そして結局、それが消費者のニーズである。 


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庵野の警告『シン・ゴジラ』

本当は『帰ってきたヒトラー』を観ようと思っていたが、もう上映が終わっていたので『シン・ゴジラ』を観た。

 観て良かった、と思った。

 巷では、不測の事態に対応出来ない日本の問題を扱った映画として話題になっている。 しかし、はてなブログでの感想は肝心のところが抜けている。


 総理大臣と閣僚がゴジラの光線によって死に、外遊していた里見農林水産大臣が総理臨時代理に就任する。 この見るからに無能そうな首相代行に、熱核攻撃でゴジラを退治するプランが国連安保理から押し付けられる。 

しかしゴジラの血液を凝固させるというヤシオリ作戦の実行の目時がたち、ゴジラを凍結させる。


 問題はその後である。里見臨時内閣は責任を取って総辞職する。しかし一体何の責任なのか? 

里見首相代行は、ただひとり残った閣僚だったというだけでなく、非常時に責任を取りたくない者達に押し付けられて首相代行になった背景がある。

 非常時に無能そうな人物に首相をやらせ、危機を過ぎれば辞めさせる。 日本がそういう国なのかと言われれば、根本的にはそうだが、私は今の与党は、もう少し気骨があると思っている。 しかし『シン・ゴジラ』は、従来の日本像を前面に押し出し、さらに主人公が 「政治家の責任は進退にある」 と述べ、従来の日本像を全面的にバックアップする。

 ゴジラが暴れたことについてどんな責任が、里見首相代行にあるというのか?

 この責任の取り方は、ただの感情の処理にすぎない。 何か問題が起これば、原因を究明せずに「責任を取れ!!」と喚き、辞めさせると満足する。そして原因を究明しないため、また同じことを繰り返す。桝添前都知事も同じ精神で辞任させられた。

 『進撃の巨人』『アイアムアヒーロー』『亜人』『僕だけがいない街』などの最近のストーリー作品は、どれも日本の在り方を根本から問い直す作品である。

庵野はこれらの作家達と意識を共有しない、いやむしろ逆行しているのか? と思ったら、違った。 最後の最後で、ゴジラの尻尾がクローズアップされる。

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ネットでは、尻尾が人の顔に見えるだの、歯のようなものができているだの、色々取り沙汰されている。

 映画では、私はよくわからなかった。というより、ゴジラの頭をクローズアップしたと思っていた。


 尻尾からゴジラの子供が生まれるのか? 

しかし本当の問題は、ゴジラではないのである。 熱核攻撃のカウントダウンは、58分46秒で止まっている。 仮にゴジラの子供が生まれても、大きさ次第では自衛隊の火力で駆除できるかもしれないが、そのような事態に対応する準備はできているのだろうか?対応マニュアルがなければ、カウントダウンが再開し、熱核攻撃を止められないかもしれない。


 米軍の爆撃を受けて、ゴジラは口から紫色の光線を出す。

 光線を出す時、ゴジラの顎が二つに割れる。背鰭からも光線を出して米軍機を撃墜し、さらに尻尾からも光線を出す。

 元々、ゴジラは白熱光を出す時に背鰭が光るので、背鰭からの光線はそのアレンジと解釈できる。しかし尻尾からの光線はやりすぎと思わなかったか? 

もちろんそれは過剰攻撃という意味ではなく、ゴジラのコンセプトからずれたという意味である。

これが庵野のアレンジなのは確かだが、無意味なアレンジかどうかは一度考えるべきだろう。

 庵野は顎が割れる化け物が好きな変態ではない。庵野ゴジラは「何をするかわからない奴」なのである。

 そもそも、米軍の爆撃を受けて、なぜゴジラが光線を吐くのだろうか?

 「ゴジラが光線を出すのは当り前」と思うなら間違いである。ゴジラは米軍に攻撃されるまで、光線を出せなかった。ゴジラは進化したのである。

 思えば、伏線は既に張られていた。 上陸出来ないと思われていたゴジラが上陸した。これだけなら両生類だが、両生類は二足歩行出来ない。しかしゴジラは二足歩行をした。

 「まるで進化だ」と矢口は言う。そしてゴジラは一個体で進化し、空を飛ぶ可能性も、無性生殖する可能性もあることが指摘され、それが安保理の熱核攻撃決定に繋がっている。

 ゴジラは環境の変化に対応するために劇的に進化し、その進化は予測出来ない。 ゴジラの凍結で満足することなく、ゴジラの細胞全てが完全に死滅するまで気を抜けないのである。


 ラストの尻尾のクローズアップは、完全に解釈自由なものとして、観客に提供されている。

 私の解釈は、「尻尾が頭になる」である。尻尾に頭が生じ、尻尾が胴体になり前足が生える。そして元の胴体が縮小すれば、大きさがほとんど変わらずにゴジラが復活する。その時ゴジラは、血液凝固剤への抗体を持っている。そうなれば、熱核攻撃しかない。 

ゴジラは予測不可能な災害であり、予測の不可能性によって被害が甚大になる危険がある場合、犠牲の大きさを顧みずに、予測不可能な災害を完全に消去することを最後の選択肢として持っていなければならない。

 ヤシオリ作戦は、本来選択肢の中のひとつだった。しかしヤシオリ作戦は、熱核攻撃の選択肢との潜在的な対立を含んでおり、熱核攻撃の選択肢の消去を目指すものだった。

だからゴジラが凍結したことで、熱核攻撃の選択肢が消去されたものとして満足した。 「政治家の責任は進退」というのは、この詰めの甘さを強調、いや象徴する言葉なのだと、私は捉えている。


 表面的なストーリーの裏に何が隠されているかを探るのは、ストーリー作品の楽しみ方のひとつである。

 しかし、ゴジラの排出する放射能半減期が2週間ほどで、3年くらいで影響のないレベルになるとして観客を安心させ、エンディングで歴代ゴジラシリーズの音楽を流して、観客をすっかりレトロな気分にさせて帰らせるのは、庵野も少したちが悪いと思う。

 ラストについての私の解釈が庵野の主張なら、よほど知られたくない本音なのだろう。 


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『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生①

『進撃』16巻で、囚われたエレンは自分の持っている巨人の力「座標」が、レイス王家の者でない自分が持っていても「世界の記憶」を引き継ぐことができないことを知る。
「世界の記憶」を継承した者は、その記憶を人類に広めることができるが、それをした者はいない。初代レイス王の思想を継承したからだ。レイス家が「座標」の力を継承すれば、巨人を滅ぼすこともできる。だからその思想は、人類が巨人に滅ぼされるのが正しいという思想に、結果的になる。
レイス王は、ヒストリアを巨人にし、エレンの「座標」と「世界の記憶」を食わせようとする。
真実の重さに、エレンは愕然とし、ヒストリアに自分を食うように求める。
しかしヒストリアは巨人化する薬品を床に叩きつけ、父であるレイス王を投げ飛ばし、エレンを鎖から解き放とうとする。

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うるさいバカ!!泣き虫!!黙れ!!巨人を駆逐するって!?誰がそんな面倒なことやるもんか!!むしろ人類なんか嫌いだ!!巨人に滅ぼされたらいいんだ!!つまり私は人類の的わかる!?最低最悪の超悪い子!!

 

惚れたぜヒストリア!!

画像と被ったけど、ここは繰り返しても強調したいところ♪

『進撃』のテーマである個人主義は、ヒストリアによって頂点に達する。その勢いは人類を滅ぼしかねない域となり、個人主義者である各人がそれぞれの思惑により行動することで、結果的に人類が救済される構成になっている。
進撃の巨人を考える①』で、ヒストリアを真のヒロインと述べた由縁である。

ヒストリアは、

まどかの決断は自己犠牲ではない - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた、まどかやナウシカと同型のキャラである。
この三人は、世界の重要な運命を決める役割を担う点で共通する。「世界の運命を決めるヒロイン」である。
ならば、ヒストリアに対するエレンは何か。
エレンは、『アイアムアヒーロー』の鈴木英雄と同じダメヒーローである。
日本のアニメ、マンガは、『ナウシカ』『まどか』と、男のヒーローに比べて決断の困難な問題をヒロインに委ねる作品を二つも輩出した。そして『進撃』だけでなく、『アイアムアヒーロー』の早狩比呂美もまた、「世界の運命を決めるヒロイン」である。『アイアムアヒーロー』のZQNは、やがて融合して「巣」になる。「巣」には意思決定を行う「女王蜂」を必要とする。比呂美もまた「女王蜂」であり、英雄が重要な決断を比呂美に押し付けた結果、比呂美は「巣」に連れ去られる。男が決断を女性に押し付けたために、ダメヒーローが生まれたのである。
エレンがダメヒーローというのは、ひどいと思うだろうか?
確かににエレンは、鈴木英雄のように臆病だったり優柔不断だったりはしない。
しかし命令違反をしなくなったエレンは、その意思力で人を引っ張ったりしないし、自分に自信のない発言もしている。
「俺を食ってくれ!!」
と、泣いてヒストリアに頼んだ後のエレンは、自分が「死に急ぎ野郎」であることを否定する。
「死に急ぎ野郎」のエレンは、人を導いたが、それを否定したエレンは、人の後についていく。
やはりエレンはキャラが変わったのであり、潜在的にダメヒーローの要素を持っていると言える。少なくとも20巻まではそうである。
アイアムアヒーロー』は、決断をヒロインに押し付けたダメヒーローが、ヒロインを救い、男が決断の役割を担い、「ダメ」でないヒーローになる物語である。だからエレンも、ヒロインに変わって決断を担っていくのだろう。

ヒーローがヒロインに変わって決断を担うと言っても、男女同権の時代に、男尊女卑を説いているわけではない。
あくまでストーリー作品の思考、神話的思考であり、現実のそのままの反映ではない。
現実は、男が女に決断を押し付けているという単純なものではなく、様々な形体があるだろう。
しかし神話的思考が日本人の無意識である限り、決断という形でなくとも、男が女性を不当に扱っているという意識があるのだろう。この問題については、別の機会にしよう。

『進撃』と『アイアムアヒーロー』は同じ2009年に連載がスタートし、相互補完的な関係にある。
『進撃』『アイアムアヒーロー』『まどか』にはいくつかの共通点がある。怪物が一種類なこと。怪物が醜く、頭が悪そうで、基本的に相互理解不能なこと。活動範囲が狭いことなどである。
怪物が一種類なのはどういう意味か?
神話学者ジョセフ・キャンベル『神話の力』の中でこう述べている。


神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、という可能性を人に気づかせるんです。自分は完全で、十分に強く、太陽の光を世界にもたらす力を持っているのかもしれない。怪物を退治することは、暗闇のものを倒すことです。神話はあなたの心の奥のどこかであなたをとらえるのです。

 


心理学的には、龍は自分を自我に縛りつけているという事実そのものです。私たちは自分の龍という檻に囚われている。精神病医の課題は、その龍を破壊して、あなたがより広い諸関係の場へと出ていくことができるようにすることです。究極的には、龍はあなたの内面にいる。あなたを抑えつけているあなたの自我がそれなんです。」

 

龍が自分を抑えつける自我で、怪物が暗闇のものだということは、怪物が自分以外の他者である以前に、自分の中の闇を指すと考えるべきなのだろう。
次に、香山リカは『ぷちナショナリズム症候群』で、日本人の精神の「分離」を問題としている。
「分離」の例として、香山リカは昼は女子大生、夜は風俗で働く女性を挙げている。「風俗で働くことをどう思うか」と尋ねた時、その女性は「自分とは関係ないから」と答えていた。
この「分離」を、「日本バンザイ」という軽い「ぷちナショナリズム」と絡めて、香山リカは問題にしたのだが、
魔女、巨人。ZQNといった一種類の怪物は、「分離」に対して」「統合」が始まっている暗示である。つまり一種類の怪物は自分の闇であり、怪物が頭が悪そうで、相互理解不能なのは、その闇が理解すべき対象ではなく、打倒すべき対象だからである。私はかねてから、西洋のファンタジーを模倣した日本のファンタジーで、怪物が普通に人間と話し、しばしば相互理解をするのが不満だった。それはファンタジーの善悪の戦いという重要なテーマを低めるものだからである。
主人公たちの行動範囲の狭さも同様である。
『進撃』の狭さは説明するまでもない。
『まどか』は、美滝原という街だけが舞台である。
アイアムアヒーロー』は、ZQNのパニックが世界規模で起こっていながら、主人公達は安全な場所を探すとか、人を集めるという現実的な選択肢を採らず、ZQNが大量にいると想定される、自分達が住んでいた東京方面に向かう。
行動範囲の狭さは、セカイ系の影響、またはループもののような出口の無さともとれるが、私はここに「統合」を感じている。つまりファンタジー自体が心の旅であり、ファンタジーの世界の広さ自体が、「分離」の要素を含んでいるのである。
エレンの「座標」や、早狩比呂美の「半感染」による能力は、闇の力である。つまり善と悪の戦いではなく、闇と闇の戦いであり、自らのまた闇とするところが、これらの作品の凄みである。そしてこれらの作品は、人間=怪物という図式を持ち、闇と闇の戦いであるだけ、戦いがリアルで凄惨である。

「世界の運命を決めるヒロイン」「ダメヒーロー」「一種類の怪物」「怪物との相互理解不能」「怪物=人間」「行動範囲の狭さ」
これらの要素のある作品を、私は西洋型のファンタジーと比較して、日本型ファンタジーと規定している。
知る限りでは、これらの要素を全て持っているのは、『進撃』と『アイアムアヒーロー』のみである。『まどか』は「ダメヒーロー」の要素がないだけだが、日本型ファンタジーが、男が本来の力を取り戻す物語である以上、魔法少女ものに分類すべきだろう。
もちろんこれらの要素を全て含む必要はない。『亜人』は「世界の運命を決めるヒロイン」がいないが、私は日本型ファンタジーに分類している。つまり頭脳明晰な永井圭もダメヒーローである。
日本型ファンタジーは、以上3つだが、亜流もある。高野苺の『orange』、三部けいの『僕だけがいない街』である。
日本型ファンタジーの主人公がダメヒーローなのは、入り口がどこかの問題にすぎない。
日本型ファンタジーとその亜流の作品は、読者を世界型ファンタジーと同等、あるいはそれ以上の高みに連れていく。

今後、「『進撃の巨人』を考える」シリーズは、「日本型ファンタジーの誕生」に統合する。今後の展開としては、

①どのようにして日本型ファンタジーが生まれたか。

②日本型ファンタジーはどのように展開、発展するのか。

の二つである。①からやるとまどろっこしいので、両方交互に進めるつもりである。もっとも他に書きたいこともあるので、終わるのに何年かかるかわからないが。

古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。