坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生(37)~亜人:4 永井圭②

亜人』は永井圭の物語である。
永井は主人公だから当然だが、ここでそのことを強調するのは特別な意味がある。

亜人の存在意義は、「ラザロの復活」と同じである。
人間は不死になれる。問題はそれが「肉体」か「魂」かである。「肉体」の不死を求めたのが『とつくにの少女』の外の者である。食べても味が分からず、暑さも寒さも感じず、やがて木になって生を終える。
亜人の場合は魂の不滅を意味する。「肉体の不死」でないことを強調するために、亜人は単なる不死でなく、絶命することで肉体が再生し、魂も復活する存在となっている。
「魂の不滅」を意味する亜人を、
オグラ・イクヤはこの世に存在するはずのないエネルギーを生み出すことができると看破する。そのエネルギーは人の心である。
オグラ・イクヤは亜人でないのに(少なくとも亜人だと証明されていない)亜人の本質を体現している。戸崎に拷問され、指を二本切られても白状しない精神をオグラ・イクヤは持っている。

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宇宙の原理をオグラ・イクヤは「全て必然」だと言う。現代のカオス理論に反するが、オグラ・イクヤの言いたいことは「運命」である。「運命」は全てを支配し、それに逆らうことは許されない。しかし亜人は宇宙の法則に反して物質を生み出すことで、その存在自体が宇宙=「運命」への反逆者である。
亜人が頭部を失い、失った頭部を回収できずに新しい頭部を再生させた場合、その亜人は失った頭部と同一の人格でないという。「中村慎也事件」の中村慎也は自分が
中村慎也の記憶も性格も共有しながら、失った頭部と別の人格になってしまったことに衝撃を受けてフラッド現象を起こす。その後中村慎也は登場しない。中村慎也は別人格になってしまうことの意味を示すだけのキャラである。

この人格が別になってしまうという問題について、佐藤はこともなげにそれをやってのける。佐藤のグループがフォージ安全ビルを攻撃した時、佐藤は自分の手をビルの中に配達させ、自らは木材の粉砕機で体をバラバラにするという荒業でビル内に侵入した。

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永井は作戦家である。歴史に見るように、優れた作戦家は最少の犠牲で絶大な成果をあげるものである。
永井が優れた作戦家なのは間違いないが、永井の作戦は佐藤の前では全く無力だった。
日本型ファンタジーでは、犠牲を最小限にするのが知略だという考えを大きく覆すようなストーリーが展開されることがある。その理由は読者をさらに高いステージに引き上げるためである。

佐藤の性格を永井は「遊び人」だと言う。
佐藤は人の苦しみへの共感が欠落しており、子供の頃に動物を虐待して父親に殴られたが、佐藤はなぜ怒られたのかさえ理解していなかった。

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そんな佐藤だから日本の中枢を破壊するテロを実行できたのだが、佐藤の性格はストーリーそのものよりも永井にとっての敵役として必要な性格らしい。佐藤は永井と戦うのを楽しみにしている。
入間基地での佐藤との戦いで、永井は高所から転落して一時的に佐藤と戦っている記憶を忘れる。永井が初めて亜人だとわかった夏休み初日まで記憶が退行したのである。
しかし永井は気候から、7月でなく9月~10月だと推測し、銃を持っていたことから、自分が普通なら危険なことに首を突っ込まないこと、それでも首を突っこんだということは何かきっかけがあったのだと推測する。
そして記憶を取り戻すのでなく、自分が亜人だと結論づけて顎の下に銃を当てて自殺する。
入間市は永井の地元である。死ぬことで記憶を取り戻した永井は、土地勘を生かして佐藤に追い付く。
最後に永井と別れた時の頬の傷がないのに気づいた佐藤は、永井が自然に記憶を取り戻したのでなく、自殺して思い出したのだと理解する。
「有史以来、ここまで濃密に戦った亜人二人は存在しない」と、佐藤は永井を称賛する。
不死身の亜人で最強の佐藤に対抗する策は、水に落として気絶させることだった。しかし佐藤が気絶するかどうかは確率論でしかない。
さらに佐藤は日本を出ようとしている。「これ以上国内で犠牲者を出さない」という意味では、佐藤を拘束する理由はなくなっている。それでも永井は佐藤もろとも川に飛び込んだ。
記憶を失った時の永井には、亜人だった時の記憶がない。
格闘術で敵わず、気絶させられる可能性も低く、理由もないかもしれないことに永井は実行した。理屈でなく感情がそうさせたのである。
そして、佐藤を気絶させることに成功する。

佐藤のテロは当然大きな話題となるが、戸崎のデータにより亜人への非人道的な人体実験が行われていたことが明るみとなり、また永井が佐藤との戦いに協力したという憶測も報道される。しかしIBMによる痕跡などは証明できないため、亜人への認知の議論は深まることなく、やがて世間の興味は移ろい、表面的には亜人への認識は変わらなかったようにして月日は過ぎていく。

佐藤は公式に死んだことにされて、アメリカで冷凍常状態にする設備で管理される。その設備は200年保つ。
200年経ったら、佐藤は冷凍状態から覚めてまた暴れ出すかもしれない。そのリスクを負っても、亜人の宇宙の原理に逆らう力は重要なのである。

死んだ戸崎は、永井達亜人のためにそれぞれ別の名前を用意していた。
永井と別れる時、中野はこれからどうすると聞くと、「医者を目指すに決まってるだろ」と永井は答える。しかし、

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交通事故で亜人とバレて永井の夢はおしまいwww。

しかしこれは悲劇ではないのである。
夢破れたら不幸かといえばそんなことはない。
「自分はこうあるべき」と思うから、それが叶わなかった時に不幸だと感じるのであって、そう思わなければ何をしていても不幸ではないのである。ただしそう思うようになるには自分で道を選んで納得する必要があり、人に強要されて得られる心境ではない。そして人に強要されては得られないが、その境地に達するには多くの苦悩を必要とする。その苦悩の過程で多くの選択をすることでその心境を手に入れられる。

それに、永井の医者の夢が断たれたと考えるのは早合点かもしれない。
永井を牽いたトラックの運転手が「(飛び出したのは)誰だ」と言うと、中野は「永井だよ」と言う。言うんじゃねーよwww。しかし運ちゃんは

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永井、亜人への認識は着実に変わってきているのである。

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できない作業をさせられた時にどうすればいいか?

不作為の行為は加害行為である - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた工場以外にも、人が潰れるまで働かせる工場があった。

忙しい部署に立場の弱い者を置くと仕事が集中する。 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた工場がそれで、そこであった仕事に端数処理というのがある。
その会社では一箱に製品を六個入れるので、六個に満たない製品が出てくることがある。その製品を端数棚に置き、その後の端数処理で六個以上になったら出庫する。トレーサビリティのため同じ製品でもロットNoごとに管理しなければならないため、書類作業がめんどくさい。
ところがある日、
「お前何で先入れ先出ししねえんだ!」
と言ってくる奴がいた。
(は?)
そいつは元管理職で、年齢制限によって管理職から外れた奴である。
(ど素人が何言ってんだ)
ある製品の端数が1だったとする。それに4を足すと5になり、6に満たないので出庫はされない。
先入れ先出しとは、この出庫されないものを処理するたびに出庫することである。先ほどの計算なら
1に5足せば6になり、さら5を足して合わせて10を入庫し、6を出庫したことにすれば先入れ先出しになる。
(面倒なことになった)
それまでは端数=入庫数で良かったが、先入れ先出しだと出庫に使った分+端数+在庫=入庫数となるので、計算が大変である。いや計算自体は簡単だが、計算する時間があまり無いのである。電卓はあったが、結局暗算でやった。すると
「出庫は0と書け」
と、さっきの先輩もどきの後輩が言ってきた。
(は?)
つまり先入れ先出ししない場合と同じように書類に記入しろということである。
(やる気あんの?)
バカバカしくなって先入れ先出しを止めた。すると今度は
「ロットNo.をひとつにしろ」
と他の班(三班二交代制なので同じ部署の人)からクレームがきた。
(は?)
ロットNo.とは、前々工程でつけられるNo.である。端数処理のたびに入庫数などとともに書く。だから端数ロットNo.がひとつでないことが多い。
(なぜ先入れ先出しをしないというクレームじゃない?)
私は他の班が先入れ先出しをしていないと思ったのである。
(これじゃトレーサビリティができねえじゃねえか)
それで私は先入れ先出しで端数処理をすることにした。
上司を動かして「出庫を0と書け」と言ってきたり先入れ先出しで出庫するわけねえぺ」とわけのわからないことを言ってくる平社員共を撃退し、私は先入れ先出しで処理を続けた多分一年近く続けただろう。
(もういいか)
と思った私は先入れ先出しを止めた。もう誰も文句は言ってこなかった。

またある時、現品票という書類の最終工程の記入で揉めた。
私は最終工程のひとつ前にいたので、最終工程の記入は私がするべきじゃないと言ったが、「端数処理をしてるのはお前だろ」と言われて、
「もう端数処理そっちにやってもらうじゃ」
と言った。
売り言葉に買い言葉だったが、この言葉がきっかけだったのだろう。最終工程が先入れ先出しをすることになった。

またある時のこと。
その工場では生産増の計画がそれまで何度か実施されていたが、その時も生産増の計画の話が持ち上がっていた。平社員共が不平そうな表情の中で、
「それはいいですね。やりましょう」
と私は言った。平社員共を忙しくして、パワハラをしないようにしようと考えたのである。
私自身の失敗は考えなかった。同じ仕事を7、8年やっていたので、私は多分失敗しないと思っていたのである。
ところが今回は勝手が違った。
他の人達が次々とクレームになりそうな失敗をするようになったのである。
(肉体労働で人の仕事量を増やすのはおすすめはしないが可能だ。仕事を可能な限り単純にすれば体が動く限界まで働かせることができる)
問題は作業量が増えているのに仕事を複雑にすることで、書類を書いたりする事務的な仕事を作業量が多い人にさせるのは基本NGである。日報はその時の作業内容を把握するのに都合がいいので私は自分で書くようにしていたが、他の書類作業はしない方がいい。
しかし私ははそれまでに端数処理などの手前のかかる作業を一度に二回行うなどの無茶なことを結構やらされていて、さすがに書類の書き間違えや異品混入(ある製品に違う製品を混ぜること)などをやっていた。結局処理に必要な時間が与えられていないからで、そうすると自分で見てるつもりでも見ていなかったりする。この見ない癖をつけられていたために一度だけ失敗した。
しかしその後、ピタリとミスはなくなった。
(まずいことになった)
と私は思った。端数処理を最終工程に押しつけたりして、なんだかんだで作業量が適正化されていたのである。だから作業に慣れてしまえばみんなミスをしなくなる。(しかし新人はどうだ)
人事異動で新人が入ればやはりミスをする。
私は新人のミスは許されるべきだと思うが、しかしそこは最終工程で、その後は取引先に行く。取引先には「新人だから失敗した」という言い訳は通用しないのである。
「これは新人は失敗しますよ。元の生産量に戻すべきです」
と私は前と逆のことを言ったが、会社は私の主張を認めなかった。

このような生産増計画が起こるのは、日本の国際競争力が低下する中で必然的に起こることである。終身雇用制の日本では人を減らせないので、生産量を上げて人を機械と同じスピードで働かせるようになる。
そしてまたこれは、全社会のAI化という「人が働かなくていい社会」という大きな流れの中で起こっていることである。その流れの先にはベーシックインカムで働かなくても人が給付を受けられる社会がある。今はその過渡期なのである。
私はそこでは派遣だったが、この流れの中で、大変な仕事を押しつけられるのは非正規が先である。そのような状況に陥った場合は、とっとと辞めてしまうのが一番である。非正規が大変な仕事を避ければ正社員がその役割をする。日本の国際競争力の低下はまだ歯止めがかからないので、さらに会社は生産増を行う。やがて正社員も耐えられない作業になる。やがて終身雇用制の崩壊という事態に至るだろう。その役割は正社員が担えばいい。

さて、端数処理はしなくてよくなったが、「ロットNo.をひとつにする」という悪習は残ってしまった。
日本の会社では、上の言うことに逆らって現場で勝手なことをして問題を生み出していく。そのようなことは記録に残らないので、誰がいつそのような問題を作ったのかわからず、会社も問題が起こってからしか対処できない。
(まあいい、もう俺の責任じゃねえ。今度クレームが起こったら元に戻すだろう)


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派遣社員の待遇が一歩前進した!

労働者派遣法第四十条の六。

労働者派遣の役務の提供を受ける者(国(行政執行法人(独立行政法人通則法(平成十一年法律第百三号)第二条第四項に規定する行政執行法人をいう。)を含む。次条において同じ。)及び地方公共団体特定地方独立行政法人地方独立行政法人法(平成十五年法律第百十八号)第二条第二項に規定する特定地方独立行政法人をいう。)を含む。次条において同じ。)の機関を除く。以下この条において同じ。)が次の各号のいずれかに該当する行為を行つた場合には、その時点において、当該労働者派遣の役務の提供を受ける者から当該労働者派遣に係る派遣労働者に対し、その時点における当該派遣労働者に係る労働条件と同一の労働条件を内容とする労働契約の申込みをしたものとみなす。ただし、労働者派遣の役務の提供を受ける者が、その行つた行為が次の各号のいずれかの行為に該当することを知らず、かつ、知らなかつたことにつき過失がなかつたときは、この限りでない。

 

四十条の六の三。

第一項の規定により労働契約の申込みをしたものとみなされた労働者派遣の役務の提供を受ける者が、当該申込みに対して前項に規定する期間内に承諾する旨又は承諾しない旨の意思表示を受けなかつたときは、当該申込みは、その効力を失う。

 

つい最近労働者派遣法が変わったらしい。去年の7月に仙台高裁での裁判で準備書面を書いたが、その時四十条の六の三も引用しているがこのような文章ではなかった。いつ変わったのだろう?
四十条の六の第二項。

前項の規定により労働契約の申込みをしたものとみなされた労働者派遣の役務の提供を受ける者は、当該労働契約の申込みに係る同項に規定する行為が終了した日から一年を経過する日までの間は、当該申込みを撤回することができない。

 

ということで、四十条の六の一項に違反する者が派遣労働者に直接雇用の申し込みしたと見なされるとするこの条文に、一年時効が成立することになった。
めでたいことである。なぜなら2015年の改正前の派遣法では、派遣労働者がいつまでに直接雇用の申し込みをすればいいかについての規程がなかったのである。
改正前派遣法四十条の四。

派遣先は、第三十五条の二第二項の規程による通知を受けた場合において、当該労働者派遣の役務の提供を受けた第四十条の二第一項の規程に抵触することとなる最初の日以降継続して第三十五条の二第二項の規程による通知を受けた派遣労働者を使用しようとするときは、当該抵触することとなる最初の日の前日までに、当該派遣労働者であって当該派遣先に雇用されることを希望するものに対し、労働契約の申込みをしなければならない。

 

第三十五条の二第二項とは派遣労働者の派遣可能期限が近づいた時に、該当する派遣労働者の派遣可能期限の日を派遣元が派遣先に通知して、派遣可能期限を越えて派遣労働者直接雇用することなく同一業務に従事させることがないための規程である。こんなものは派遣元の通知など必要なく、派遣先が責任をもって管理すればいいだけの話なのだが、「派遣元から通知を受けなかった」などと派遣先が主張して、さらに「派遣労働者からの直接雇用の申し込みがなかった」と言われて直接雇用を求めた裁判をしても負けてしまうということがあり、私もそう言われて敗訴した。私は「四十条の四は派遣労働者と派遣先の相互権利義務規程」だと主張したが、裁判所はこの点に言及せずに相手方の主張を認めた。
四十条の六の第二項は直接雇用した雇用を撤回できるとも解釈できる。派遣法第四十条の二第一項の三。

派遣先は、当該派遣先の事業所その他派遣就業の場所ごとの業務について、派遣元事業主から三年を超える期間継続して労働者派遣(第一項各号のいずれかに該当するものを除く。以下この項において同じ。)の役務の提供を受けようとするときは、当該派遣先の事業所その他派遣就業の場所ごとの業務に係る労働者派遣の役務の提供が開始された日(この項の規定により派遣可能期間を延長した場合にあつては、当該延長前の派遣可能期間が経過した日)以後当該事業所その他派遣就業の場所ごとの業務について第一項の規定に抵触することとなる最初の日の一月前の日までの間(次項において「意見聴取期間」という。)に、厚生労働省令で定めるところにより、三年を限り、派遣可能期間を延長することができる。当該延長に係る期間が経過した場合において、これを更に延長しようとするときも、同様とする。

 

厚生労働省令で定めるところにより」というところに注意しよう。「厚生労働省令」には労働者派遣法や職業安定法も含まれるが、これはこの条文に限っては厚生労働省令以外の法律は適用されないということである。四十条の六の第二項には「厚生労働省令で定めるところにより」とは書いていない。
民法93条。

意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方がその意思表示が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。

 

意思表示は取り消せない。派遣法四十条の六は「その時点における当該派遣労働者に係る労働条件と同一の労働条件を内容とする労働契約の申込みをしたものとみなす」とし、意思表示と見なされる。
しかし「表意者の真意ではない」とした時にはどうなるか。
その時は職業安定法第44条が適用される。職業安定法第44条違反の罰則は一年以下の懲役又は百万円以下の罰金である。
また民法95条「意思表示に対応する意思を欠く錯誤」を用いても職業安定法第44条違反になる。
しかし

派遣社員の権利は裁判で勝ち取れ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、裁判で権利を勝ち取ることができないではないかと思うだろう。
それも心配無用である。「厚生労働省令」の範囲において、派遣可能期限の延長に合理性があるかを争う余地はある。
正社員と派遣社員の間に能力的な差はない。それなのに派遣社員が使われているのは安く使えるからである。一時的な不況によって安い労働力を使わなければならないというならともかく、派遣社員に回すべき賃金を正社員に回している状況が常態化しているようでは「合理的」とはみなされない。


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沖縄県民は自立精神を持つべし

何このデータ?

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コロナは大体去年の年末から1月の半ばくらいにもっとも感染者数が増えて、それから緊急事態宣言によりブラックマンデーのチャートのような下がり方をしたはずなんだけど、その山がごっそり削れて、緊急事態宣言が解除された頃に感染者数がピークに達して、それから減少傾向に入ってるのにわざわざまた緊急事態宣言を出したことになっている。

travel.watch.impress.co.jp

 

以来ずっと減少傾向だが、ほんとは増えてますよ。もうそろそろ頭打ちかもしれないけどね。


沖縄をリベラルの中心に - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた沖縄の事情について少しわかったことがある。
普天間基地那覇市に近く、基地返還は那覇市と合わせた大都市圏の形成に不可欠なこと。そしてアメリカは嘉手納飛行場の現状維持を望んでいることである。
嘉手納基地は対中国の最大の抑止力となっているので移設等は望ましくないということである。この問題はもう少し踏み込んで考えてみる必要がある。
嘉手納基地の現状維持を望むアメリカの意向は、県外移転論を踏まえてのことなのか?
沖縄米軍基地問題は日本の問題であり、県外に移転するべきかどうかについてはアメリカとしては口を挟むことではないと思っているだろう。それでもアメリカは県外移転について、日本国内でコンセンサスを形成するのは難しいと考えていると思われる。つまり嘉手納基地の県外移転については、アメリカは日本でコンセンサスができれば受け入れる余地はあるということである。
しかしもっと大きな問題がある。それは軍事の専門家にとって、嘉手納基地は対中国の抑止力として大きな役割を担っているということである。現在、中国の緊張関係が続いている中で、故翁長前知事が唱えていた中継基地論を踏まえてなお嘉手納基地を動かすことができるのか?
中国の力が日に日に強くなる現状において、日本にアメリカ以外の同盟国ができるなどの大きなパワーバランスの変化がない限り、私も嘉手納基地から大きく兵力を動かすのは難しいと思う。

こうなると、私としても普天間基地の県外移転以外に大きく言えることはなくなる。
たまに沖縄が米軍基地によって二分され、経済発展の妨げになっているという意見を聞くが、それは嘉手納基地のことを指している。私自身も地図を見てみたが、発展を妨げるほどかどうかはともかく、沖縄本島の西側に道路が少ないというのは感じていた。
しかし今は人口が減少する時代で、均衡発展を考えるべきではない。ならば那覇市を中心に発展させていくのが沖縄の発展につながることで、そのためにも普天間基地の返還は欠かせない。ただしそれが沖縄県内でのたらい回しにならないように県外移転するべきである。
ここで沖縄経済の問題が出た。
沖縄は国内の米軍基地の70%を占め、県の18%を米軍基地が占めている。
明らかに本土と比較して米軍基地の割合が多い。しかしそのため、米軍が借りている土地の所有者には軍用地料が支払われている。嘉手納基地で言えば地主一人当たり
平均で208万円である(米軍基地の借地料だが、払っているのは日本政府である)。少なくない金額である。
沖縄経済が発展するとすればやはり観光である。
沖縄を観光で発展させるためにはIR(統合型リゾート)は欠かせないだろう。那覇市を中心リゾートを開発して海岸沿いに経済を発展させていき、沖縄の発展に伴って米軍基地を県外移転、または地位協定とは無縁の米軍を自衛隊に置き換えていくというのが沖縄米軍基地問題を前進させていく正しい筋道だと思う。
オバマ政権の時、沖縄独立論が盛んになり、その時は私も共鳴したが、トランプ政権になってからは私は沖縄独立は無理だと方針転換した。
その私が言うのも何だが、沖縄県民は一層の自立精神を持つべきだと思う。
米軍基地によって軍用地料が入る。米軍基地により米兵が金を落としていく。そのようにしてできる経済システムによって、沖縄県民が現状に甘んじなければならない時期があったのは確かである。しかしそれで未来の大きな利益や人間としての尊厳をいつまでも手放すべきではない。沖縄独立が不可能なら一層経済的な自立を志し、米軍基地問題においては本土に理解者を得る努力をするべきである。
コロナで沖縄の観光業も大部打撃を受けているはずである。今の政府ではこの状況がこれからも続くのは明らかである。ならば誰に理解を求めていけばいいかもわかるだろう。


コロナ予備費の5千億円支出決定 事業者支援を後押し(共同通信) - Yahoo!ニュース

余計なことをする。ゾンビ企業を生かしても仕方がないだろう。今は一番負担がかかっている飲食、旅行業界を支えるべきだ。

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最近読めなくなったマンガ②

古いマンガがどんどん読めなくなっていく。
その受け取り方に個人差はあっても、マンガの洗練度というものは確かにあると思う。
例えばスピード感である。
マンガのスピード感を格段上げたのは、やはり鳥山明の『ドラゴンボール』だろう。
ドラゴンボール』以前と以降のマンガでどうスピード感が変わったかといえば、『ドラゴンボール』以前は速い動きも遅い動きも同じ大きさで描いていたのである。

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このように遅い動きを頻繁に大きく描くと、スピード感のある場面を描いてもそれを感じ取れなくなる。
鳥山は遅い動きを減らし、どうしても遅い動きを描く場合は小さく描くようにした。歩く場面を片足が前に出ているだけで表現する方法を定着させたのはおそらく鳥山である。
他にも鳥山は、バトルでの一コマ1アクションを徹底することで『ドラゴンボール』のスピード感を極限まで高めた。もっとも今『ドラゴンボール超』を書いているとよたろうは一コマ1アクションの原則を必ずしも守っていないのだが、『ドラゴンボール超』はあくまでバトルよりストーリー重視のマンガなのだろう。
なお、

『進撃の巨人』を考える① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

でキャラの動きがわからないのを画力の問題だと描いたが間違いだった。鳥山が開発したのは人間と同じ体格のキャラの気功波と肉弾戦の描き方であって、巨大なものや人間でない体格のもの、魔法その他の肉弾戦でないバトルの、迫力があって見やすい描き方はまだ開発されていないのである。もっともそれを逆手にとって、敢えて分かりにくい描き方をして読者を作品の世界観に引き込むということは行われているようである。
また鳥山を真似て、スピード感を必要としないマンガでもスローな動きを小さく描くようになる。

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こういう作品を我々は「洗練された」と感じるのである。
もっとも、中にはスローな動きを大きく描く作家もいる。

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この場合は敢えて野暮ったさを出しているのである。『3月のライオン』は絵の可愛さが売りなので、キャラが少々どんくさい方がいいという判断がある。もっとも相当画力に自信がないとできない芸当である。

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まあウミノ先生は絵だけで読者を大爆笑させられるお方ですからwww。

マンガの洗練度はこれだけではない。
非論理性が高いとマンガの洗練度は下がってしまう。

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ここで二人が別れるからその説明をしているのだが、ローザンヌコンクールの間二人の生徒に付きっきりだった先生がどこで出場者が別れるか把握していない訳がないだろうとここで思ってしまう。完全に非論理的ではないが、非論理性が高い。
2000年代のマンガでさえ、ひとつ問題があると受け付けにくくなってしまう。

火の鳥 鳳凰編』もまた、私が読めなくなったマンガのひとつである。
我王が初めて人を殺すシーンなどは、今でも映画のようだと思うのだが、それでもこの作品が読めなくなっているのは、時代考証が杜撰だからである。
まず、我王が小判を盗むシーンがあるが、この時代に小判はない。小判は秀吉が作ったのが最初で、奈良時代は初めて金が発掘された時代である。その金が大仏鋳造にあたり鍍金に使われたりした。小判を作るほどの金があるはずがない。
そもそもこの時代には貨幣がない。
和同開珎や富本銭などの通貨は作られているが、なぜか通貨として普及していない。社会がある以上経済もあるが、バーター以上のものはなかったはずである。
茜丸は天涯孤独の身だが、この時代は身分制社会で、職業も身分によって決まる。仏師という職業に身分を証明するもののない孤児がつけるとは思えない。
また茜丸は各地で寺を訪ねて仏像を彫って暮らしているが、この時代、有力氏族が多くの寺を建てた畿内を除けば、日本全国では一国につき、寺は二つしかない。国分寺国分尼寺である。稀に地方にも信濃善光寺や浅草の浅草寺など、国が建てたのでない寺がある。山形には慈恩寺という古刹があり、行基和尚の開基というからちょうどこの時代だが、実際には平安時代に造られたという。
そんな事情で、茜丸が仏像を彫って旅をできるとは思えない。
旅といえば、日本には江戸時代まで旅籠がなかった。だから旅人は野宿をしなければならなかった。
旅籠もなく通貨もない。自分で食料を稼いで旅をすることになる。この時代は統一国家があった時代だが、私自身はそれを怪しんでいる。本当に統一国家がなかったのかを証明はできないにしても、治安事情は怪しんでいいだろう。
戦国時代には、腕に覚えがあれば一人旅も可能だった。そうでなければ、行商などは人数を集めて隊商を組んで行われた。
奈良時代はどうか?通貨がない分、戦国時代より不利である。この時代、腕に自信がなければ隣の国に行くのも不可能だったのではないか?一人旅もできないのに、女と二人旅などなおさら無理である。もっとも女に売春をさせれば、一人旅より安全に旅をすることが可能だろう。

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昔のマンガは、よくキャラに旅をさせるが、旅の苦労は描かない。ここまで述べたことも人によっては気にならないかもしれないが、私が気になってしまうのは安易に旅をさせることへの反感からかもしれない。生きる苦しみを描いているのに、学生が自分探しの旅をするように昔の人間に旅をされてはたまらないと思ってしまう。ひとつの共感がなくなってしまうと、時代考証にたちまち辛辣になってしまうリスクが歴史ものにはある。

もっとも洗練度については個人差があると思うし、洗練度によって受け付けない時は「チャンネルを合わせる」こともできる。つまり「この時代はこういう時代だ」と思うことである。
我々の多くはそのマンガが描かれた時代を経験している。その古い時代の価値判断の多くを我々は外しているのだが、「そういうものがあった」と思い出してその時代の感覚に戻れば昔のマンガも読めなくはない。
しかしそういう「チャンネルを合わせて」読む方法が強い感動を生むことはない。
我々は洗練されるたびに価値観と感性がアップグレードされるのである。それは新しい文法が開発されたようなもので、新しい文法が開発されるたびに、古い文法は「間違っている」文法に近いと判断される。作品のテーマ性でさえ文法を持たなければ充分に伝えることができない。
最近のマンガの新たな潮流は海外から起こっている。
それは主に韓国のマンガで、ネットで観れる。縦スクロール型で日本で開発されたコマ割りがないのでその分質が落ちるが、その変わりカラーである。もっとも私はまだ観ていない。
最近でも日本のマンガは、ヒット作はカラーにする傾向があるが、少なくとも単行本化した時点でカラーにしていくようにしないと、日本のマンガもシェアを喰われていくと思う。YouTubeによって映像無しの音楽を聞く機会がほとんどなくなったように、マンガも色無しでは読めなくなるように我々もいつかアップグレードされるのである。そうなればアニメのコンテンツの供給源も細って、アニメも下降線に入る事態になりかねない。

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派遣の職業別労働組合を作ろう!

今の状況では、派遣社員は報われることのないまま殺されてしまう。
今年になってからの自殺者数を見てみよう。

3月に入って、自殺者数が増えている。
私は自殺者の統計と合わせて、ほぼ毎日人身事故の統計を見ているが、コロナ禍になって自殺者数と人身事故件数に解離現象が起こった。自殺者数は増えたのに、人身事故件数は下がったのである。2019年の人身事故件数は1049件だったのに対し、2020年の人身事故件数は989件である。
その理由を、私は派遣に法が正しく適用されていないことがわかったのに、抵抗できない者達の自己主張が弱くなったからだと推測している。
それが3月移行、自殺者数と人身事故件数は増加した。
自殺者数が増えているのに合わせて、人身事故件数も増えている。
今、正社員は派遣が権利に目覚めるのを最も恐れている。だから抑圧し、その結果自殺が増えており、人身事故件数も上昇に転じたのである。今のままでは今年の人身事故件数は1000件を越える。それに伴うストレスも相当なものだろう。

派遣社員が団結し、派遣社員を中心に非正規が固まればこの抑圧は止まる。
労働者派遣法では、事業所ごとの過半数の労働者の組合か代表者がいなければ派遣で同一業務に3年以上従事させることはできず、直接雇用しなければならない。
事業所ごとに過半数を占める労働組合が形成されるのは望ましくない。
しかしここで問題がある。労働組合法では差別的な扱いができないとなっており、正社員だからといって組合に加入できないとすることはできない。正社員でも望めば組合に加入させないといけないのである。
ひとつの方法として、経営側に派遣の組合だと認めさせれば労働組合としての条件をクリアしなくてもいいというのがある。しかし経営側に正社員を排した組合を認めさせるのは不可能に近いだろう。
だから最初は、正社員が組合への加入を求めたら受け入れざるを得ず、組合の人数が事業所の労働者の過半数を越えないように調整するようなこともできない。労働者の過半数を越えれば、労働者派遣法に則って派遣社員は派遣可能期限を延長して同一業務に従事させることができるようになる。
そうならないように、できることは三つだ。
ひとつは、社内のデータの改竄についての糾弾を組合が行っていくことである。
製造業で働いた私の経験として述べるが、ある時海外からクレームが来たとする。
そのクレームに対し会社が改善措置を取る。
しばらくしてまた違うクレームがくる。そのたびに考えていたことは、なぜそれまでなかったクレームが発生するのかということだった。
海外の観察力が上がったから、というのが私の推測である。
海外と言ったが、クレームが来たのはタイからである。それ以前からずっと取引はあったようなので、それまではタイでもクレームになるようなことはなかった。それがクレームになったのは海外の検査員の意識が高まり、それまで見ないところを見るようになったからである。
そしてその分、アジアと日本の経済力の差は縮まった。
この2、3年は海外からのクレームはなかったと思う。しかしそれは日本の製造業がクレームにならないくらいの問題解決力を身につけたことを意味しない。
大体、私がやってきた製造業では、取引先が検査しないところでは不正がそのままになっていると思っていい。私がやったことのある仕事でパーカー処理というのがある。

www.npk-japan.com

金属の表面に黒い膜を施す作業である。この作業で一時膜厚測定にゼロ板を使って膜厚測定をした時期があった。
ゼロ板というのは完全に平らな板のことである。膜厚測定は加工製品とパーカー処理後の製品の差をみるのだが、加工品には粗さがあり、それが膜厚に影響するからゼロ板を使ったということだろう。ところがゼロ板を使ってみると、ゼロ板を使わないよりも約3ミクロン膜が厚くなるようになった。しかも膜厚は10ミクロン以内でないといけないのだが、10ミクロンを越えてしまう場合が多かった。私はゼロ板を使うのと使わないのとで、どちらが正しいのかわからなかったが、一年以上経ってからだろうか、ゼロ板は粗さが0になるが、加工品で最初の設定をする時に粗さが柔らかさとなって設定に入っている。その柔らかいところから計測するのが正しく、ゼロ板では加工品の柔らかさも含めて膜厚として測定してしまうと推測した。
私がそのことをある正社員に話そうとすると、
「ゼロ板を使って測定すると決まってるんです」
で話を終わらせられた。人を馬鹿にするにもほどがある。私はゼロ板を使わない頃を知っているのだが、パワハラというものは相手に斟酌しないものである。
結局私が上司に話すと、ゼロ板は廃止され、元の測定方法に戻った。
ここで不正&パワハラの特徴、不確定な基準の絶対化が行われている。
私自身記憶しているが、ゼロ板を使うことになった時も「とりあえずこれでやってみよう」と上司は言っていたのである。
他にもパーカー処理で使われるパルホス液の全酸度というものがあるが、最初私に直に教えた正社員は「全酸度はセンターに近いほどいいんだ」と言っていた。センターとは全酸度の上限と加減の基準からみた中心のことで、その時の中心は45度だった。
ところが、全酸度が何度だと一番望ましいというのは実はわからないのである。
その後、センターは50度になった。
こういう不勉強な社員達は、立場の低い者により多くの負担を負わせるためだけにこんなことを言う。こういうのを何度も見ると、こいつらとことんは文明の利器が使いこなせないと思ってしまう。

私の擬装請負体験② - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

でも、設計図と実際の大きさが違うということを述べた。
このような不正は、正社員より非正規の方が追及しやすい。なぜなら不正とパワハラはセットになっているため、派遣への違法な扱いを隠蔽したい正社員は不正を止めることができない。不正を追及できる非正規は正社員の優位に立てる。
もうひとつは、会社の枠を越えて職業別労働組合を結成することである。
職業別労働組合のメリットは、仕事を辞めて同業の別会社に勤めても給料が下がらないように要求できることである。会社を辞めるたびに給料を下げられるなどバカバカしい。そして賃上げを要求していけば今までよりいい暮らしができる。派遣のために恋愛や結婚ができなかった者もそれができるようになる。
さらに組合を徴収してストライキの時の組合員の生活資金として積み立てれば、事業所の労働者の過半数を越えるために組合に入ろうという正社員はいなくなるだろう。もし過半数を越えても、

派遣社員の権利は裁判で勝ち取れ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように裁判で権利を勝ち取っていけるのでそんなに神経質になることはない。
この日本で派遣社員の価値が他の誰よりも高いのは、単なる格差是正のためだけでなく、派遣社員こそが日本経済の衰退を止め、うまくいけば再生することができるからである。組合活動は非常に価値とやりがいのある活動である。全国の派遣社員よ、組合活動をやってみないか?

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日本型ファンタジーゲームの誕生②~『ドラゴンクエストVIIエデンの戦士達』1:ゼボットとエリーの物語に我々が感動する理由とは?

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私は今まで、ロボットが感情を持つという話に感動したことがなかった。
私のような人間は少数派なのだろう。浦沢直樹の『プルートゥ』など、ロボットが感情を持つ物語がそれなりにヒットはするのだから。
私は『プルートゥ』を観ても感動しなかった。だから私が特別に異常なんだと思っていた。『ドラクエ7』のゼボットとエリーの物語を観るまでは。

今回は『ドラゴンクエストVII エデンの戦士達』、ドラクエシリーズの中でも一際長大なストーリーで、そのあまりに不条理な世界観から絶賛されたり黒歴史扱いされたりしている作品である。

フォロッド地方で遠い昔、ゼボットはかつて恋人のエリーを失った。
エリーの代わりに、ゼボットはからくり人形を作るが、からくり人形はパネルに「こんにちは!わたしはエリーです」とパネルに表示するだけで話すことができない。この人形はゼボットの心を埋めることはなかった。
しかしある時、ゼボットの研究所に魔王軍の故障したからくり兵が迷い込んだ。ゼボットはからくり兵に俄然興味を持ち、からくり兵を修理、さらには改造してからくり兵への妨害電波を出すようになりフォロッド城を救う。ゼボットが作ったからくり人形は顧みられることなく朽ち果て、名前は乱暴に消されていた。
城は救われたが、城下町のフォーリッシュ住民はからくり兵と同じ姿のエリーを嫌悪して罵倒する。気分を害したゼボットは研究所に戻り、人と交わることなくエリーだけを心の支えとして生涯を終える。

ドラクエ7では過去と未来を行き来する。
数百年後の現代、ゼボットの研究所に行くと白骨化したゼボットの死体を見ることになる。元からくり兵のエリーは動いていて、ゼボットのためにスープを作っている。

ぜぼっと キョウモ ウゴカナイ……。ナニモ シャベラナイ……。

 

すーぷ サメタ。 ツクリナオシ……。

 

この後フォロッド王が研究所のエリーを城に持ち帰ってからくり人形研究に使おうとし、研究所に押し寄せるが、ゼボットとエリーの光景に驚愕する。
エリーには死が理解できない。そしてエリーはスープを飲ませればゼボットが元気になると信じて「アタシ、シアワセ…」と言うのである。
ロボットのエリーが感情を持つ。ここで感動が訪れる。ドラクエ7のハイライトのひとつである。

なぜ私は感動したのだろう?そう考えて思い当たった。
死を理解できないエリーを我々は憐れみ、見下したのである。
見下さない限り、我々はエリーに同情心を持つことはなかった。これは差別である。そして差別できたからこそ我々はこの物語に感動することができたのである。

人間とそれ以外の動物だから「差別じゃない」ということはなく、動物と植物の違いが差別を生まない訳でも、有機物と無機物の違いが差別でないのでもない。扱いに差をつけるのは全て差別であり、我々は差別から逃れることはできない。
人間は、差別だと言われてもどうしても受け入れられない時がある。
昔、奇形の動画や写真をいくつも見たことがある。精神的に荒れていた頃の私は、そういう強い刺激を求めていた。
中には人間の原型を留めないグロテスクなものもあったが、そういう者達を私は人間として認められただろうか?と考えた時、答えはノーだった。
ならばその奇形児が自分の子供として生まれてきたら?
口には出さなくても、子供として認められないと思う。そして子供として認められないことに苦悩する。
差別の問題は、時に受け入れ難いものを受け入れるように強く求めてくることがある。同性愛者を差別しないとか、ごく普通にリベラルな思想を持って生きていくだけでは乗り越えるのが難しい差別が存在するのである。
差別は無くならないし、どんなにリベラルに振る舞っても、リベラルに振る舞ったその人の心から差別が完全に消えることもない。我々は差別をなくせない自分に謙虚であるべきだろう。

ゼボットとエリーの物語は、実はダイアラックと共通のテーマを持っている。
ダイアラックの街はあめふらしの灰色の雨によって人々が石化して滅んだが、それ以前に戦争によって滅びかけている。しかし石化した住民がいたということは、戦争の後街は復興したということだ。
石化したダイアラックの住民は石像が風化してしまったため、「天使の涙」でも元に戻らなかった。「天使の涙」と探しに旅に出たために灰色の雨を免れたクレマンと、石化したが地下にいたため風化を免れたヨゼフの二人が生き残った。
しかしクレマンはまだ幼いヨゼフを連れて、灰色の雨の恐怖を人々に伝える旅に出ると言い出す。「この街は我々の心の中にある」と言って街の復興を放棄するのである。
その結果、数百年の時を経て街はその痕跡を留めないほどに朽ち果て、そして移民の街となり主人公の名前がつけられたりする。つまり街は主人公達に征服されてしまうのである。クレマンとヨゼフは灰色の雨の恐怖を各地で伝えるが理解されなかったり迫害されたりという苦しい半生を送ったようである。
ゼボットはからくり兵と戦うフォーリッシュの人々に冷淡だったが、エリーの改造はできても、からくり兵を作ることはできなかった。その理由はそこまで戦争を肯定できなかったからである。戦争を肯定したなら、フォーリッシュの住民に冷たくはならなかっただろう。
現代のフォーリッシュ王はエリーを元にからくり人形を作ろうとするが、一連のイベントの後、自分達でからくり人形を作ることをフォーリッシュ王は決意する。
現代のフォーリッシュでは、からくり兵の詳しい情報が伝わっていない。ゼボットの兄のトラッドがゼボットとエリーのために歴史を封印したのがその理由だが、それは表向きの理由で、決して戦争を肯定しなかったゼボットを歴史的に肯定しないためである。フォーリッシュ王はゼボットの路線を継承せず、戦争を肯定したのである。

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