坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「男のナルシズム」を正しい方向に向けろ

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さすが枝野さん。政府の新型インフルエンザ特措法改正案に私権制限条項が入っていないのを見抜いて政府との折り合いをつけにきた。
新型コロナウイルスの危機の早期の収集を図る枝野氏に比べ、山尾志桜里氏はわかっていない。



 

事態は既にパンデミックの危機回避から、経済的影響を防ぐことにシフトしようとしている。リーマンショック並の不況の懸念が囁かれている中で、山尾氏が言うような私権の制限が継続されるはずがないのである。「民主党政権時代の法律でも正しいとは限らない」など墓穴もいいところである。「何でも反対」の野党精神が剥き出しになると、こんなつまらない同士討ちをやらかす。枝野氏の全面否定でなく賛同した上で異論を言えばずっと穏当なのに、これで立憲のイメージはまた悪くなる。

そのうち宇崎ちゃん問題について書きたいと思っていたが、何か変な方向に行ってしまったので、2年前くらいにはてなで話題になった問題を扱うことにする。

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これね。
この表紙の新刊が出た時、ゾーニングしろという批判があったりしたのだが、私はその騒動を見ながらに少し違うことを考えていた。普通の女性の胸は鎖骨はしたから少しずつ隆起していくが、この画像では鎖骨が見えないくらいの勢いで胸が風船のように膨らんでいる。
それに着衣も、これだけ胸元が開いていれば乳首が見えるが、これでは乳首がかなり下の方についていることになる。
もっともこのような日本のマンガやイラストでは珍しいことではないといえるかもしれない。マンガで全裸なのに乳首が描かれていないのはよくあることである。ただしそのような表現と見た場合、実際には乳首は見えていることになる。
萌え絵はそのほとんどがロリコン精神の発露だと思っているが、このイラストはむしろ大人の女性への性欲を表したものである。
しかし2017年頃の萌え絵というのは、男のコンプレックスが最も強く表れた時期だと思う。
上のイラスト同様、大人の女性への性欲を表したボディコンスーツを着た女性のイラストなどはしばしば見かけたが、それもやはり乳首が下向きについていると思えるような、乳房の半分以上が露出したもので、眼も大抵はタレ目でしかも眼鏡をかけていたりする。
大人の女性の魅力を感じたいなら、眼はつり目の方が私は好みである。
この時期の男は、大人の女性の魅力に浸りたいと思いながらも、気の強そうな女性と真正面から向き合うことができなかった。大人の女性の魅力を感じたいのに、その女性の魅力が自信となって内面から表れる時、顔を可能な限り柔和にしないと向き合えなかったのである。
いつからか、イラストにパンツが描かれなくなったが、そうなると前からのアングルなのに、スカートがめくれてパンツが見えないのに尻が見えるようなイラストが描かれたりするようになった。それだけ表現がいびつになったということである。
そのいびつな表現が、上のイラストにも表れている。「気持ち悪い」という批判には、幾分かこの表現のいびつさへの不快さが混ざっていると思う。

ところで最近、『日替わり内室』とか『王室姫密』とかの宣伝を見たりすることない?
収牢されている女性が美人だと無罪にしてブスだと処刑したりする鬼畜なあれで逆に男が美人秘書に引っ掛かって無一文になるというCMを入れて変なバランスととっていやそんなとこでバランスとんなくていいってって突っ込みたくなるあれねwww。
名前の通り一夫多妻型の立身出世を目指すシミュレーションゲームで、『日替わり内室』は中国のゲームだというのはわかっているが、『王室姫密』が中国産かどうかは確認できていない。ただ清朝を舞台にしているそうだから多分中国産だろう。
このゲームは宣伝回数の多さからブームになっているとまでは言えないと思われるが、宣伝すれば売れるという点では売れ筋なのだと判断できる。そしてこのゲームのの特徴は、萌え絵でなくリアル路線だということである。つまり二次元、ロリコン傾向だった日本の男が、現実の女性に眼を向けるようになった、少なくともその萌芽現象なのだといえる。
このように言うと、警戒する女性もいるだろう。そういう男に性的な眼で見られ、セクハラやレイプの対象にされるのではないかと。
当たりである。警戒という点では、今まで以上に警戒した方がいいのは確かである。
しかし日本のセクハラ、痴漢や強姦の問題は、表面化したものよりも表面化しないものの方がはるかに多いと思っていて、最近になって東日本大震災でのレイプなどが報道されるようになったりして、こんな事件が今まで報道されてなかったのかと驚かされたりする。表面化しない犯罪が表面化した場合を考慮すると、これから男の性的犯罪が増えても、それが劇的といえるかどうかには少々疑問がある。
そして私が一番言いたいことは、女性に警鐘をならすことではないのである。それは犯罪であると同時に現象である。つまり男の自己表現が犯罪という形で表れるのは問題であっても、自己表現そのものは否定してはいけないということである。

sakamotoakirax.hatenablog.com

で「統合型」フェミニストは男を去勢すると述べたが、男の自己表現の否定は去勢なのである。
男にナルシズムは必要である。
そして男女同権の社会を実現するために最も有効なのは、男の「悪性のナルシズム」を「正しいナルシズム」に転換することである。別に男は痴漢やレイプができなければただ不快になる生き物ではない。女性を助けたり、男女同権に貢献したりしても、その行為に満足することは可能なのである。その行為に直接的な見返りがなくてもである。
ならばどうすれば男のナルシズムを正しいものにできるかという点だが、基本的なところを今までと変える必要はない。セクハラや痴漢は訴えればいい。その行為自体は根本的に変えてはいけないものである。ただその行為の及ぼす影響を、今までより少し広い視点で見ることである。男の性犯罪によりミソジニーに陥る女性も多いと思う。その場合は人間不信のひとつの在り方で、それも私は根本的に否定はしない。しかし女性一人一人がミソジニーに陥るべきかどうかは、そうなりそうになる度に一度は自問すればいい。私が言いたいのはそういうことである。
なお、宇崎ちゃん問題には社会性がなかったとは私は思っていない。フェミニストにそれを社会的な問題として定置させる力がなかったのである。フェミニストには柔軟さもなければ、貫徹する意思力もなかった。そういう主張は擁護できない。
原因は、フェミニストは自分達で思っているよりも保守的であること、フェミニズムが一部の者達の「利権」でしかないことだろう。一部の者が報われて、絶対に報われない者を放置する思想は、最後には奴隷根性に陥る。

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「反論しないで別のことを言う」人達



 

立憲民主党が「新型コロナウイルス検査拡充法案」を衆議院に提出した。新型インフルエンザ特別措置法の改正にも協力すると表明。
「桜」の話を収めて目の前にある危機に前向きに対処していく姿勢。さすがは枝野さん、機を見るに敏である。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

実のところ、自分の意見を否定するような情報を提供されると、私たちはまったく新しい反論を思いつき、さらに頑なになることもある。これを「ブーメラン効果」という

 

このようなことは、多くの人が経験していることだと思う。
この記事に書いてあることは、紹介している本の内容の35%くらいだと言っているが、私が書くことがこの本に書いてあることかはわからない。
私が問題にしたいのは、「反論しないで別のことを言う」人達のことである。
世の中には「反論が反論になっていない」人達がいて、反論ではなく相手の人格批判で返す人などもこのカテゴリーに含まれる。その場合、論理の上では「反論していない」ことになるのだが、本人の脳内では「反論した」こととして処理されている。だからこういう性格はなかなか治らない。
「反論しないで別のことを言う」人達は、精神構造は「反論が反論になっていない」人達に近いが、若干の違いは「反論できない」と脳内処理された上で「別のこと」を言うことで自尊心を維持していることである。このように言えばわかると思うが、「反論しないで別のことを言う」人達は「反論が反論になっていない」人達よりもプライドが傷つき安い。個人差はあるだろうが、全体的に「反論が反論になっていない」人達よりも傷つき安いのは明らかである。
理由はもちろん、「反論しないで別のことを言う」人達は「反論できない」ことをいちいち認めているからで、その分脳内が論理的に整理されている。そして論理的である分、「反論できない」論点の脳内で淘汰されるスピードが「反論が反論になっていない」人達より速い。「反論できない」論点の換わりに別のもので自己を補完しないと自我が崩壊する危険性が高いのである。
ここまで言わなくてもわかる人はわかると思うが、「反論が反論になっていない」人達というのは日本では大抵右翼である。そして「反論しないで別のことを言う」人達とは左派のことである。
右翼が非論理的なのは、元々プライドが低いからである。そして性格がなかなか治らないといっても少しずつ変化している。いつの間にか自主憲法を表立って唱える右翼はほとんどいなくなっているように、彼らの主張も変わってきている。右翼には「気分」としか表現できないようなものが未だに色濃く残っているが、これも時間をかけて

日本型ファンタジーの誕生(32)~『夢で見たあの子のために』が見せる「近未来像」の姿とは? - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、多くはヤンキーに変質していくと思う。それでも右翼は残るが、それも

保守とは何か~アメリカの奴隷解放宣言から考える - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように本人達は反動的でありながらも、ずるくも革新が行う「善行」を自らのアイデンティティに取り込んで、見せかけよりも軟化した者がほとんどになると思う。
問題は左派である。右翼のプライドが低いのは、大抵の右翼は社会において何らかの不遇感を抱えているからである。右翼がしばしば貧困層を本人達の「努力不足」と批判するのは、自分達の不遇感の裏返しである。つまり右翼はステータスは様々でも、自分達こそが恵まれていないと感じている。
左派はそうはいかない。
左派もステータスは様々だが、彼らの社会での満足度や自己肯定感は右翼よりも高い。その理由は彼らが今まで「理性的」だと評価されてきたからである。

定言命法に達しなかった日本人 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、フェミニストを核とするリベラルは偽装請負からのミスリードを狙ったものだが、また護憲派の装飾であり、隠れ蓑でもあるという一面もあった。つまりそれだけ、護憲派は衰えていたのである。それが

リベラルの「先祖返り」、「ツイッター化」と政党の「多極化」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように護憲派へ先祖返りして、リベラルは衰退気味となる。
しかし元々弱っていた護憲派に戻って何になるだろう?
リベラル全盛の時代は、多くの人がヒューマンな発言をすることで、社会の闇に次々と光を当てていった。その光輝く輪の中にいる人々は、自分達にこそ正義があり、社会を変える原動力だと思っていたはずである。
右翼はこうはいかない。彼らは声高に正義を主張しながらも、心のどこかで拗ねている。その拗ねがいつまでも続くからこそ、右翼は同じことを繰り返すことができる。
しかし左派は、正義を主張するほどにその正義が「真実」を多く含んでいるからこそ、自分達の正しさに疑いを挟む余地がなくなっていく。その意識は思い出として記憶に残るようになっていく。
その思い出は自分が最も輝いていた時期の少なくともひとつであり、そういう思い出は、辛い時期にしばしば自分を支えてくれるものである。
しかしそれだけに、左派の人々は思い出に逆行する行為ができないでいる。リベラル全盛時代の自分達がヒューマンだからこそ、アンチヒューマンな行為はできないということだ。それをしたら、現在が悪夢に変わる。
現在の左派の先祖返りは、護憲に何か新しい正しさを見出だしたからではなく、リベラリズムを維持できなくなったからである。それだけ左派は、本来隠蔽していた多くの反動を抱えていた。
だから本当は、その反動を全面に出す必要が生じているのだが、それができない。その反動を自分の精神の中心に据えて生きていくには、相当の「意識改革」が必要で、その「意識改革」の行き着く先は著しい知性の劣化である。

このように、左派は袋小路に嵌まっているが、はてなの「反論しないで別のことを言う」人達がしばしばやるのが、批判された人をランキング上位に押し上げることである。
もちろんそんなことには何の意味もない。批判された人を神輿に担いでも、その人は永遠に「反論しない」。ここに矛盾があり、「反論しないで別のことを言う」人達にとって神輿はその人達のアイデンティティのために重要な存在だが、その神輿はやはり「反論しない」ため、最終的に神輿を担いだ人達のアイデンティティに傷をつける結果に終わる。
ここにボトムアップトップダウンの二つの意思決定手段のうち、日本の意思決定手段がほとんどボトムアップであることが明らかになる。ボトムアップ一辺倒は、神輿を担いだ人達に最終的に負担を強いてしまうということである。
神輿はただの神輿であるべきではなく、「あなた達は間違っている」と状況に応じて言えるリーダーであるべきだった。
私はリベラル全盛の時代の問題点を指摘したが、同時に日本の良き時代のひとつと捉え、その遺産を失わないように働きかけていくつもりである。
またこうも言える。偽装請負という戦後日本の最大の集団犯罪をリベラリズムによって隠蔽したのは、日本が法治国家としての道を歩むための素地を本来持っていないことを意味している。
法治国家として未成熟なら、それなりのライフスタイルや思想を持たなければならないのだが、偽装請負リベラリズムで隠蔽するというのは悪手の中の悪手である。進むだけ進んでもうこれ以上先に行けないのに、引き返すこともできないようになってしまっている。神輿達の先見性のないことよ。

ところで俺、池田信夫にブロックされてたwww。

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野党支持者でも安倍政権擁護者でもない者達の登場

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公明が衆院選を五輪以後にするように要求。枝野さんが「衆院選は4月26日を想定」と言ったから、確定的な情報だと思ったんだけど、公明の要請があったら延ばさざるを得ないだろうね。

安倍首相が立憲民主党辻元清美氏の質問に「意味の無い質問だよ」とヤジるとまた国会は空転、新型肺炎に関する法整備など、必要な審議が進まない状況が続いている。
新型肺炎については、安倍政権が外国人の入国に対して超法規的な措置を行ったが、それが超法規的であるために、事後的であっても法整備を行って、超法規的措置の合法性を高めなければならない。安倍政権の措置に法的な裏付けが無いままにしておけば、法治主義が崩壊してしまう。だから新型肺炎に関する法整備は喫緊の問題である。

世間は「桜」やヤジなどの、安倍政権の不祥事を批判する野党を応援する者と、野党が必要な審議の時間を無駄遣いしていると見ている者に二分されている。
ところが、かつては野党支持者と安倍政権擁護者の、二つの勢力の対立だったのである。「野党が必要な審議の時間を無駄遣いしている」と見ている者達は、決して安倍政権を擁護している訳ではない。どうしてこうなったのか?

野党は安倍政権を悪だと言っているが、本当は安倍首相は野党に「餌」を与えているのである。
安倍首相は「不正」を行うことで野党に「正義」を与える。野党は「正義」を遂行することで有権者の支持を得る。
一方、安倍政権を擁護する者もまた現れる。「安倍首相に間違いはない」とする者達である。森友、加計事件の時などはまさに野党と安倍政権擁護者の対立構図だった。今は露骨な安倍政権擁護者は影を潜めている。

野党支持者でも安倍政権擁護者でもない者達、それはかつては野党支持者だったかもしれないし、あるいは安倍政権の擁護者だったかもしれない。私は印象としては元安倍政権擁護者が多いような気がしている。なぜなら彼らは野党を批判するが、安倍政権には批判でも擁護でもなく距離を置いている感じがするからである。
野党支持者も安倍政権擁護者も、突き詰めれば同じ日本社会の住人である。それはどちらも権威を重視するということである。しかし彼らは権威と距離を置き、そのことにより権威より大事なものに気付き始めている。

なぜ野党が審議自体を遅らせる必要があるのか?
その理由は、思考停止のためである。
安倍政権の超法規的措置は、法治国家を揺るがせかねない。そういう事態を放置するのは、この異常事態を常態にしたいからである。
正義にも序列がある。
法治国家にとって必要なのは法治主義の確立であり、何より最高法規である憲法違憲状態を無くすことである。
ところが、九条に反する自衛隊があるように、日本は違憲状態が常態なのである。それどころか、今では野党は砂川判決に反する個別的自衛権を合憲と主張するようになった。憲法をより一層ねじ曲げたのである。
違憲状態が常態となっているのは正義の根本が失われているということで、そのために正義が序列化できないでいる。どの正義がより重要なのか判断できないのである。だから野党は国会審議をいくらでも停止させられる。
国会審議だけではない。
野党は政府の不正を批判するが、野党に不正をする者はいなかったのか?批判することで何をどれだけ変えられたのか?不正は政治にしかないのか?
未だに日本は老後の年金生活すらままならない者が多いのに、野党は何をしていた?年金の拡充のために何をした?
年金のために努力したのは政府である。「一人当たり老後の生活費用が2000万足りないという報告書を政府が隠していた」と報道された時、誰がどう反応した?
正義も価値判断も、序列化も優先順位もつけられることなく、様々なものが棚上げになり放置され、野党は政府を批判することで社会を秩序立てようとしているが、実際はカオスであるのを隠蔽しようとしている。
隠蔽するためには、安倍政権から「餌」を与え続けられる必要がある。こうして二つの勢力が均衡し、政局に一定の安定をもたらしている。二つの勢力が対立すればするほど二つの勢力は共に強くなる。安倍政権はそういう共犯関係を作り出している。

そんな中で、日本維新の会足立康史氏が国会で安倍首相に「なぜ共産党破防法の捜査対象なのか」と質問し、「昭和26年~28年に共産党が暴力行為を行ったため」と答弁する場面があった。
野党からも安倍政権擁護者からも距離を置いた者達は、共産党が昭和26年の例を引いて暴力主義と見做されても、痛快にしか思わない。しかし同時にまた、彼らは冷めてもいるのである。
彼らの冷めた空気は、野党のエネルギーの熱をも奪い取っていく。そして野党の熱が冷めた頃には、彼らのベクトルは安倍政権批判に向かうだろう。
彼らは、権威に距離を置いたが、まだ権威に反抗するほどではない。しかし彼らはやがて、自分達の求めるものの根本が、違憲状態を無くすという、立憲主義としての改憲論に目覚めていくだろう。

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日本型ファンタジーの誕生(32)~『夢で見たあの子のために』が見せる「近未来像」の姿とは?

僕だけがいない街』の三部けいの次回作『夢で見たあの子のために』の主人公、中條千里の初登場シーン、

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決めすぎwww。
いやカッコつけてるんじゃなくて、理由があってのポーズなんだけど、この初登場シーンの印象が悪いせいか、『僕街』と違って、最初はこの作品に入り込めなかった。
次に2巻のラスト、

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いくら何でももっと笑ったことがあるだろうwww。高校生にもなってそんなに笑ったことがなかったら、廃人をなってるってwww。
いや俺も小説で似たようなことを書いたことあるんだけど、主人公は読者がもっとも自己投影する存在なので、これじゃ作品の世界観に入り込めないのである。

中條千里は、『僕街』の主人公の藤沼悟よりも判断力と行動力を高い。
おかげで話がサクサク進む。廃屋に灯油缶があってそれを被ったら中身は灯油じゃなく水だったなんていうご都合主義は、アクション映画ではよくあることである。そういうご都合主義はあまり気にならない。それよりも千里を中心としたアクションや駆け引きの方が気になる。
しかしそういうアクションメインで話が進むと、「これは一体いつの時代なんだろう」という疑問が湧いてくるのである。
『僕街』も時代感覚があまりない作品だったが、「夢で見たあの子のために』はもっと時代感覚がなく、現代のように見えて、近未来を描いているのではないかと思わせてくるのである。

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ヤクザに拉致されボコられて、400万の金を盗られ、眼鏡が無事だというだけで「何てツイてる日だ」と言う。日常が幸福でないため、眼鏡が無事というだけでそこに幸運を見いださなければならない、そんな生活を送っている者の胸中が伝わってくる一コマである。
今の日本で、未来が明るいと思っている者はほとんどいない。
作家達もまた、その明るくない未来を何とか予測して描こうとしているが、作家達もまた、充分に未来を予測しきれていない。
小池田マヤの新連載『鮮烈通貨』に、ドブ川で金色のウナギを釣るシーンがある。

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ドブ川という、60年代の公害の時代を思わせる光景は、「ヘドロの下は金でいっぱい」という作品のテーマに通じるものだが、本当に近未来がドブ川がそこら中にある風景なのかといえば疑問である。このように、作家達は近未来を描くのに苦慮している。
どちらの作品も最初に読んだ時、私はリアリティを感じなかった。しかしそこに描かれた風景は、少しずつ現実になっていると今は感じている。「何てツイてる日だ」と言う『夢で見たあの子のために』の一コマのように、日常が辛い事で満ち溢れていて、ほんのちょっとしたことに幸運、時には幸福を感じなければ生きていけない者が、少しずつ増えてきているのである。

千里の祖父は、千里には「わしには将来お前が幸せになる姿しか見えん」と言うが、恵南には「将来千里が幸せになる姿が見えない」と言う。恵南に言った方が祖父の本音である。
千里は5歳で父母と双子の兄を殺され(殺されたと思っていた)、その復讐のために「火の男」を見つけて殺そうと思っている。そういう境遇の男が、幸福になる姿が見えないのはある程度はやむを得ないことである。
ヤクザの加東が千里に話があってきた時には、「スカウトじゃないでしょうね」と恵南が疑うが、

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と言っているが、ヤクザの業界でも使い物になるのはしばしば「こんな奴」である。千里がヤクザになれる人間だと思わせないための、明らかなミスリードである。また千里は、不良にカツアゲさせてその金を取り返して被害者に返し、被害者からその金を半分貰うというアコギな商売をしていたが、半面「真面目」の肩書きが欲しいとも言う。「火の男」を探すのに、「真面目」の肩書きが必要不可欠だとは思えない。
一体、中條千里とは何者なのか?
それを解く鍵となるのが、同時期に連載が始まった『来世は他人がいい』である。
深山霧島は学校では普通の成績上位の高校生だが、夜は街を徘徊してケンカに明け暮れ、女を風俗に沈めようとするろくでなしである。
霧島はヤクザの大伯父の所に12歳で押し掛けて、以来表向き「ヤクザの孫」で通している。そんな霧島に染井吉乃が「ヤクザになりたいの?」と聞くと「まさか」と否定し、

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と言う。
霧島は、自分がヤクザになるしかなくなっていることへの自覚がないのである。
千里も同様である。彼らは自分がヤクザになろうとしていると自覚していない「普通の人々」なのである。

『春の呪い』の「近親婚的なもの」と「罪の時代」の終わり - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の「罪の時代」の後の姿がここにある。
『夢で見たあの子のために』は、本当にヤクザになる前に更正するように呼びかける作品である。
もっともその逆に、「ヤクザよ増えろ」と呼びかけている作品もある。
『来世は他人がいい』もそういう雰囲気があるが、一番わかりやすいのが『テラフォーマーズ』である。

--“彼ら”は確かに勉強が苦手な者が大半ですが…知能が低いからああなったという訳ではありません。彼ら自身が単純である事を選択したんです。彼らの持つ一見“根拠の無い自信”は、そもそも知識や収入などの実力が根拠なのではない。彼らの自信は彼らの“行動の速さ”と“立ち回りの早さ”に対するものだ。精神医学界ではこう言っていた者さえいます。もしも日本全土が焼け野原になった時…最初に立ち上がって瓦礫を片付け始めるのは--

 

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「人間全員がこれだったら社会が崩壊しますが、こと緊急時においては手続きよりも勝率よりも“今走り出せる人間”が必要になります」と『テラフォーマーズ』では言う。
この「ヤンキー」を多く作り出すのが右翼である。
『東京喰種』でカネキが結成する「黒山羊」は、あんていくのメンバーと「アオギリの樹」の残党で構成される。「アオギリ」とは自衛隊の情報機関「アオギリグループ」のことで、右翼を指している。右翼は変革に必要なのである。だから私は

今や左派より右翼の方が優れている - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で右翼を評価した。
別に右翼に同調する必要はない。現象として不可逆的であり、有益でもある以上受け入れるべきだと言っているだけである。

『夢で見たあの子のために』の結末は既に見えている。
「火の男」は千里の父親の双子の兄弟であることが5巻で判明している。「火の男」は父の仇のようで、実は父親そのものである。
千里の双子の兄一登は、「父親」に従ったもう一人の自分の姿であり、千里が「火の男」を殺そうと思うのは、仇のようでいて、実は「父親」への恐怖が憎悪に変わったものである。そして「父親」を殺すことで、「父親」と同一化しようとしている。その「父親」と同一化した姿が一登である。
だから千里は、一登と違う自分の姿を見出だし、「父親」を殺すのでない形で否定して「父殺し」を為し遂げるのがこれからのストーリーの流れだろう。

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ケンカ師枝野の「連立政権」発言の真意

2月5日の記事。

mainichi.jp

立憲民主党枝野幸男代表は5日のラジオ日本の番組で、合流協議が事実上破談になった国民民主党との関係について「別々の政党で、連立政権を目指す」と語った。両党間のしこりが次期衆院選での共闘に影響しかねず、枝野氏は新たな目標を示して連携を維持したい考え。

 

とこのように。これに対し国民民主党玉木雄一郎代表は、

headlines.yahoo.co.jp

国民民主党玉木雄一郎代表は5日の記者会見で、れいわ新選組山本太郎代表)が活動方針で、次期衆院選での野党共闘の条件として消費税率5%への減税を掲げたことに関し、「私は消費減税は排除せずに議論すべきだと言ってきた。山本氏と腹を割って話してみたい」と述べ、連携に意欲を示した。

 

とこのように、合流協議はご破算になりそうな気配である。
相手がケンカに強いかどうかを見極める方法は、私にとってはひとつである。
難しいことではない。『孫子』に書いてある。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」。これである。よく「敵に敬意を持て」とも言われるが全くその通りである。
私にとって、相手がケンカに強いかどうかを見極める方法がこれだけなのもまさに「百戦危うからず」だからである。
しかし私にとって特殊な事情もある。私は日本人とだけ争って外国人と争ったことはないのだが、日本人はとにかく「敵も己も知らない」のである。
争いが始まった時、私は敵が最初の攻撃をしてくるまでは絶対に相手への敬意を保ち続けている。しかし相手の最初の攻撃を見て、大抵は相手を軽蔑してしまう。その後は何回やり合っても同じだとわかってしまう。それだけやり合った相手は「敵と己」の認識がおかしいのである。

話が脱線した。まずこちらの記事。

headlines.yahoo.co.jp

国民民主党榛葉賀津也参院幹事長は4日の記者会見で、2019年度補正予算の採決で国民民主の一部が造反して賛成に回り、共同会派を組む立憲民主党枝野幸男代表が「けじめ」を求めたことについて「他党からどうこう言われる問題ではないのが筋論だ。発言は慎重にした方がいい」と不快感を示した。

 

これはいい。まだ合流していないのだから、国民の内情への干渉は突っぱねてもいい。しかし枝野氏は「けじめをつけないと共に戦うのは難しい」と既に言っているのである。その答えが「別々の政党で連立政権を目指す」である。合流協議を望むなら、国民は造反した議員の処分と合流協議は別だと示さねばならない。
それが玉木氏のように、れいわと協議するとなったら決裂の意思表示と受け取られても仕方がない。原口一博国対委員長が「合流協議阻害要因はわが党にあった」と述べた意味もなくなってしまうのである。
国民民主党は、最近「提案型の野党」を目指している。

www.sankei.com

国民の姿勢は少しずつ認知されてきているがまだまだ不十分で、れいわや維新のようにトップダウン型でなく、マイルドさが売りの国民では地道に「提案」を続けていくしかない。
衆院選があれば、国民は議席を減らす結果に終わるだろう。まさに枝野氏は「敵を知っている」のである。

それでは枝野氏は「己」を知っているのだろうか?
枝野氏が「連立政権」に言及している点に着目しよう。
世間では、立憲は「万年与党」に戻ったというのが大方の認識である。
去年の参院選までは、野党は安倍政権の強力さに圧されて、維新以外は政権交代を唱える党さえなかった。
その維新でさえ順調に議席を伸ばすことさえできないでいたのである。「連立政権」と言われても一笑に付されるのがオチである。
何より立憲の議員に覇気が感じられない。「桜」を追及している時点で政権交代など眼中にないのが丸わかりである。現状に不満がある振りをしながら、現状に満足している腹が見え透いているのである。
野党は政権交代に向けた予備選挙さえ行っていない。また無所属新人の野党統一候補を当てにするのか?れいわの「百人候補」に対抗できるのか?
できるのである。ケンカ師の行動には必ずどこかに「実」がある。

www.jiji.com



 立憲民主党枝野幸男代表は5日のラジオ日本の番組で、次期衆院選について「一番早いケースを常に想定し続けなければならない。(投開票日は)4月26日だと思って準備している」と述べた。

 

これは想定ではない。枝野氏は4月26日に衆院選が行われると確信しているから「連立政権」発言をしたのである。つまり確定的な情報をもっているということだ。
れいわの「百人候補」を考える場合、選挙制度を考慮する必要がある。
小選挙区制度は各選挙区から一人しか議員が選出されないため、低所得者層しか支持層にできないれいわにはかなり不利である。どの選挙区でも、低所得者層の票はは一定の割合しかないはずでだからである。
つまりれいわは、小選挙区では議席をほとんど取れない。しかし衆院選小選挙区比例代表並立制のため、重複立候補した者が惜敗率の高い順から当選していくことになる。れいわの狙いはこの復活当選にある。
しかし「百人候補」は、4月26日までに充分な人選を行うのは不可能である。それでも「百人候補」のインパクトでれいわには比例ではかなりの票が入るが、無理の多い「百人候補」には選挙スキャンダルが起こりやすい。
衆院選が4月26日なら、れいわが「百人候補」でこける、または自滅する可能性が高い。
しかしれいわの自滅を待つだけでは消極的過ぎるし、「百人候補」は他党の議員を萎縮させてしまう。だから枝野氏は「連立政権」で政権交代の含みを持たせ、党員の士気を高めた。衆院選が4月26日なら無所属新人の野党統一候補戦術もまだ効果を発揮するし、立憲の集票力を考えれば、政権交代をスローガンが議席を増やすことも可能である。
枝野氏がこれだけ強気に出た以上、合流協議再開のために自分から折れることはない。国民は合流協議のために、元の低姿勢に戻るべきである。

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合流協議での立憲の危険な独走

www.yutorism.jp

についてだが、らくからちゃ氏には文句は一切ない。
どんな記事を書こうと本人の自由で、記事自体は人畜無害というしかない。問題はそれを読んだ者がどう受け止め、その受け止めた者達の集団がさらにその外側からどう見えるかである。ちょうど

misoyorishioha.hatenablog.com

がランキング入りしていた時と重なっており、私もブコメで読者達を批判したが、それが影響したのかどうか、らくからちゃ氏の無意味としか思えない記事が3日連続でランキングトップ入りするという馬鹿騒ぎになった。そんなことをするものではない。
今のはてな民に、正論を無視するために神輿として担いでいるブロガーの無意味な記事を3日も担ぎ続けるほどの余力はないはずである。そんなことを繰り返したら、自分で自分の精神を破壊してしまう。
らくからちゃ氏も取り繕うように社会保険料の記事などを挙げていたがそんなことをする必要は全くない。あくまで読者が自分の責任として捉えなければならない問題である。

国民民主党玉木雄一郎代表は、私から見て捉えどころのない人物ではある。国民民主党の結成以来、正直それほど注視していた訳ではないのだが、立憲と比べて改善派もいる国民の中で、護憲の色合いが薄いというのは何となく察せられる。
立憲と国民の合流の話は打ち切られたが、玉木氏は継続を呼び掛け、枝野氏は「無駄」の一点張りである。しかしこの議論、玉木氏の方に分があるのである。

立憲、国民にとっての脅威はれいわ新選組である。
山本太郎氏のMMT論については、支持者でさえ2%のインフレ率に留まるとは思っていないだろう。私もれいわの政策が本気で実施されれば5%~8%になると見ているが、ここにれいわの特徴がある。
「あなたが貧しいのはあなたが努力しなかったからですか?冗談じゃない!」
と山本氏が言った時、貧困層の多くがその言葉に健全性を感じた。一方MMT論には、不健全性を感じながら、人々はれいわを支持している。健全性と不健全性が渾然一体となっているのがれいわの特徴である。
れいわの政策がこのようであるのは、支持者に「静かな革命」を予感させるためである。インフレ率の上昇により国民全体の資産価値を下げ、インフレと所得の上昇を連動させることで所得格差を無くしてくれることを、支持者はれいわに期待しているのである。
そのれいわの山本太郎代表が「衆院選で候補者を百人立てる」と言った時は「嘘も百回言えば真実になる」というヒトラータイプの政治家かと思ったが、ブレーンの齋藤まさしの話やその他の情報によると本気のようで、候補擁立に必要な資金は集まっているし、有象無象でも百人集めることは可能だしwww。いや人選をちゃんとやらないという意味じゃないよ?ただ衆院の解散時期によっては、人選不十分で候補者を立てていくことになるだろう。それでもインパクトは十分。他の政党にとって脅威となる。

玉木氏は、このれいわの動きを警戒しているのだろう。だから立憲と合流して選挙対策を強化したいのである。
そして玉木氏は強固な護憲派とは言い難いが、立憲にとって損な取引ではないことはわかっているのである。
立憲と国民が合流して衆院選に勝利すれば、基本的には党内の護憲派改憲派が同じ割合で議席が増えるはずである。党内の改憲派議席が増えることを護憲派が憂慮しても、それは改憲派議席が増える特別な要因があってそうなるのであり、そのような要因が生じなければ、合流によって護憲派議席が増えることになる。
現在、参院では改憲派は3分の2を割り込んでいるが僅差であり、状況の変化によっては改憲派が3分の2を越える可能性は残っている。衆院では改憲派は3分の2を超えており、参院改憲派が3分の2を超えたら護憲派には後がない。
もっと簡単に護憲派議席を伸ばす方法としてはれいわが議席を伸ばすという手もあるが、私はれいわが長く護憲を貫くことはないと見ている。

投票率が低かった参議院選挙 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたような、無所属新人のみに期待して護憲派議席を伸ばす方法はいずれ限界に達する。
新興勢力でなく、既存の護憲の政党が議席を伸ばすことでしか、改憲発議は止められないのである。

立憲はまだ「桜」をやっているが、あんなものに意味はない。
それより公文書の破棄の方が重要である。重要でない公文書を政府が次々と破棄していくのは、本当に重要な公文書を破棄した時に国民が反応しないように飼い慣らすためである。公文書の破棄を問題にせずに「桜」ばかり追及するのは、政府の罠に嵌まっているのである。

news.yahoo.co.jp

代表質問でも枝野氏と玉木氏では、枝野氏が「桜」に23%の時間を使ったのに対し、玉木は全く「桜」に言及しなかった。玉木のリアリズムを感じさせる場面である。
また国民は原口一博国対委員長が「合流阻害要因はわが党にあった」と低姿勢である。現実を見据えた、国民のリアリズムが感じられる。
一方枝野氏は、予算審議で造反した国民の議員2人の処分を要求。

www.yomiuri.co.jp

この2人の議員は去年の台風の被災地から選出された議員で、正直気持ちはわかる。
この件について国民や他党からの意見はないようで、それもそのはずでこれはいわゆる党議拘束違反なので、咎めはしなくてもおおっぴらに擁護はできない訳である。自分の党でやってもらっちゃ困るからね。それに枝野氏はクレームをつけた。



 

 

俺は「けじめ」より「処分」を要求したと取って貰った方がましだと思うんだけどwww。
「けじめ」というのは「処分の内容を忖度しろ」ということで、処分しても不満な様子を見せて更に忖度させ、それでいて「処分」を要求するよりも穏当だと思われたいというパワハラの常套手段なのね。
また枝野氏は棚橋衆院予算委員長を「首相のポチ」と呼び、棚橋氏が抗議すると「カエルならよかったのか」と反論。
ほう、これは意外、なかなかケンカが上手でいらっしゃる。
少々ダーティでも、ケンカに強いのは悪いことではない。それだけの鼻っ柱の強さを見せとけば、合流協議も頭から突っぱねる必要はないんじゃない?

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自己肯定感がない人間は効率的な仕事ができない。

橋下氏のこの記事について。

president.jp

内容は全体的に賛成なのだが、ただ一点、カルロス・ゴーン氏を逃がした件についての批判は厳しすぎる。
検察のゴーン氏の監視は完璧だったのであり、なぜ逃げられたのか、検察にもわかっていないところも多いだろう。法務省が説明責任を果たすのは当然だが、それはすぐにできることではない。

ある工場に勤めていた時のこと。
同僚が指を怪我して、針で縫う手術をしたことがあった。
聞くところによると、彼はゴミを片付けるためにゴミをビニールヒモで結んだ後、ヒモを切るためにカッターを使ったのだが、その姿勢はビニールヒモを手前に持ってきて、自分の方にカッターを向けてヒモを切ろうとしたらしい。
私も工場労働ではキツい目に散々遭っているが、危険を伴う業務ではそれなりに身を処してきたので、大怪我はしたことがない。身体への危険への感覚というのは、虐待的行為によって人間から奪える最後のものだと思っている。
彼が人生でどのような被害を受けてきたかというのはプライバシーに関わるので想像するのは控えるが、幸福な人生ではなかっただろうと言うくらいは書いてもいいだろう。その工場では、怪我した件で彼に始末書を書かせていた。逆効果だろう。

ある工場では、私と同じ仕事をしている他班の同僚がいたが(つまり交替制勤務)、彼の作業に使用する箱が無くなった時に、別の場所から手で箱を運んでいた。
箱はパレットに積んであり、彼以外はリフトでパレットごと運んでいた。手で箱を持ってきても、5、6箱しか持ってこれず、不合理である。注意されても、この癖は治らなかった。
間もなく部署の増産計画が実行され、それからしばらくして彼は工場を辞めた。生産数の増加についていけなかったのではないかと、私は想像するだけだった。
しかし、私は彼の気持ちがわかるのである。
営業の仕事を辞めて製造業の世界に入ったのは小説を書くための取り敢えずの仕事だったからで、それが製造業だったのも「体を動かせば何とかなる」と思ったからである。
体を動かすのが得意だったからではない。30歳になったばかりで、自分の行動の効率の悪さを体力で補おうと思っていたのである。
製造業はキツい所が多かった。
しかしそういう中でも何度か行き過ぎた私への作業の集中を修正されることがあり、慌てて動き回ろうとする癖があった私の行動が修正され、また私に仕事を修正させようとする動きがあってそれに対抗したりするうちに、私の中で見えてくるものがあった。
それは、私に仕事を集中させようとする作業員は、決して効率的な作業をしていない。生産性と安全性、品質異常を出さないための品質保全を総合した「最適解」に達している者はほとんどいない。みんな私に仕事を集中させて、失敗するのは私が「最適解」に達していないからだと思わせようとしているだけだということに徐々に気づいていった。
私が自分が効率の悪い人間だと思うようになったのは、私がそのように育てられたからである。特に母親は、私によく「要領が悪い」と言った。
「要領が悪い」と言って要領が良くならないのは、人格が否定されているからである。何度注意しても、人格を否定しているうちはその人の行動は改善できない。
一例を挙げよう。母親はよく兄と比較して私を批判した。その中で「兄は掃除をさせると見えないところで手を抜く」というのがあった。手を抜かない私は要領が悪いと言ったのである。
もちろんこれは、分別のある大人の私に言ったのではない。子供の頃にそう言ったのである。
私が母親の言う通りにできなかったのは、「手を抜く」のは悪いことであり、その悪いことをしろと言ったからである。
結果私は手を抜かずに、がむしゃらに動き回ることで補おうとした。このしつけの仕方は許し難い悪意的なものである。
私は手で箱を運んでいた同僚を、私のように育てられて、私のように気付かなかった者だと思っている。私と彼の差はそれしかない。

工場の経験で言えば、生産性の向上は会社の生産計画によって行うのがベストで、交替制勤務で突出して高い生産数を出している班がある場合、それは「最適解」を出したからではなく、大抵は一人の人間に仕事を集中させたからである。

不作為の行為は加害行為である - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

のようなブラック企業は除く)
そういう状況が続くと、生産性と安全性と品質保全のために必要なデータや情報が上に上がっていかない。

私の擬装請負体験② - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で見たように、型が設計図と実際の大きさが違うということが気づかれずに何年も放置されているということが起こるのである。そしてそれが

生産性向上のため、管理職は現場を無視していい。 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、「日本の労働生産性は先進国間で50年間最低」と言われる原因になっている。全ての日本人が自己肯定感を持てる社会にならない限り、この負の連鎖は終わらないのである。

AKSがAKBやNGTの運営から撤退して、NGTも活動を再開した。
すっきりしないが、これでいいのだろう。すっきりしないのは正義が遂行されていないからだが、山口擁護派だけでは正義を遂行するのは不可能だし、NGTに犯行に関係したと思われるメンバーが何人かいるといっても、この一年近い活動停止期間はそれなりに彼女達への罰になっているし、山口ファンが時々言いがかりのような形でメンバーを攻撃するのがこれ以上続くのも気の毒である。指原莉乃がプロデュースするアイドルグループのメンバーに付きまとい行為をしたことで山口事件の犯行グループの一人が逮捕されたことで、多少溜飲を下げるとしよう。
それにしても、山口真帆の顔がなんか変わったなと思って写真や動画を見比べてわかったけど、痩せたんだね。そりゃあんなひどい目にあった後だもんな。かわいそうに。

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